二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

W・バックハウスと柳田國男

2013年02月11日 | 音楽(クラシック関連)

このところいくらか忙しくなってきて、ストレス指数があがっている。
対人商売なので、いろいろな人がやってくる。ちょっとした不注意や読みをまちがえると、トラブルに発展しかねない。
ところが労働意欲はこの数年下がりっぱなしときている。
「あー、今日は仕事にいくのがいやだな」なんて日がふえた(^^;)
困ったことだが、本音をもらせば、そんなところ。


ところで本日のお題はかなりとっぴな組み合わせとなったけれど、わたしの場合、こういうことはめずらしくない(^^;)
料理人を考えてみればわかるように、一見これといった共通性のない食材を同じまな板の上にあげて、手際よく料理し、意外なおもしろい食感をもった創作料理をつくり出す。
おにぎりにマヨネーズ+かつお節なんかは、そのいちばん素朴な事例だろうし、このあいだ食べたソフトクリーム+そば粉+わさびも、その一種(笑)。

・・・というのは、我田引水のたぐいかしら(~o~)そうだよねぇ。
なぜこんなとっぴな組み合わせになったんだろう(笑)。

<写真左>
■バックハウス・モーツァルト・リサイタル
1.幻想曲 ハ短調 K.477
2.ピアノ・ソナタ第14番ハ短調 K.457
3.ピアノ・ソナタ第10番ハ長調 K.330
4.ロンド イ短調 K.511

「バックハウスはベートーヴェンでしょ」ずっとそう考えていた。
バックハウスは稀代の正統派ベートーヴェン弾きとして勇名をはせたからだ。初心者向けの解説本には、皆そう書かれてある。わたしもその常識を疑わないできた。
ところがこのあいだ吉田秀和さんの「モーツァルト」(講談社学術文庫)を読んでいたら、そこにすばらしいバックハウス論が収録されていて、その論旨にすっかりまいってしまった。
長くなるから引用はさけるけれど、まさに目からうろこといったような感想をいだいた。
(根が単純な人間なので、こういうことはよく起こる)。
なるほど、バックハウスとは、こういうピアニストであったのか!
そこで前橋にある紀伊國屋へ出かけ、このDECCAの廉価盤を買ってきた。
録音は1955年、もちろんモノラル録音。しかし、音質は決して悪くない。わたしがもっているミニコンポやラジカセ程度の再生装置では、まったく苦にならないレベルである。

これまでイングリッド・へブラーやブレンデルやピリスで聴いてきたモーツァルトの演奏とはおもむきのちがうモーツァルトが聴ける。
昨晩からたてつづけに4回耳をすましてみたが、「幻想曲ハ短調 K475」「ロンド イ短調 K.511」が秀逸な仕上がり。
とくに後者には久々に胸がふるえた。
このあたりの曲は若いころから聴いていて、耳がちょっとなんというか、不感症になっていた。「おや、こんなに禁欲的なモーツァルトなんて!」
音楽に浸りこむよろこびと、生きる悲しみやメランコリーが、じつに絶妙にブレンドされている。「ロンド イ短調」を聴いていると、モーツァルトがなにかを懸命にこらえ、口をつぐんだまま大きな悲しみにたえている情景がまぶたに浮かんでくるようではないか。
「そうだ。この曲はまさにそんな曲だったのだな」
わずか9分の小品だけれど、もぎたての果物か、ブリリアントカットされた小さな宝石のように輝いている。

こういった小品は「代表作」の選からもれてしまい、愛好家にも軽く見られがち。
ところが、バックハウスはデリケートな幼いひな鳥でもそっと地面に下ろすときのように、愛情をこめて扱っている。「これは小さいけれど、わたしのいのちのつぎに大切な曲なのです」といわんばかりに。
そうか・・・小品集というジャンルがあったな。わたしは遅ればせながら思い出す。
よくアンコールなどで弾かれる、演奏時間数分の短い曲。
「ロンド イ短調」が終ってしまうと、ほんとうにガッカリする。
え? 
もう終わりですか? わたしはいつまでもこの曲の中にとじこめられて、浸り込んでいたいのである。

ところが、考えてみるがいい。魅惑的な宝石も、ひな鳥も、小さいということを。直径1mもある巨大なダイヤモンドや、親鳥より大きな雛なんているだろうか? 小さいというところが、魅力の源泉となっている。そればかりではむろん、ないけれど。
――というわけで、このさき、こういった小品集を意識的に聴いてみようと考えはじめた。
つぎはどんな曲を、だれの演奏で聴こうか?


<写真右>
■「雪国の春」柳田國男(角川文庫)
1.雪国の春
2.「真澄遊覧記」を読む
3.雪中随筆
4.北の野の緑
5.草木と海と
6.豆手帳から
7.清光館哀史
8.津軽の旅
9.おがさべり(男鹿風景談)
10.東北文学の研究
・「義経記成長の時代」
・「清悦物語」まで

民俗学の柳田國男さんは、わたしはこれまであまり親しんではこなかった。愛読したといえるのは「遠野物語」くらいかしら?この本の魅力は、吉本隆明さんと、三島由紀夫さんに教えてもらった(三島はたしか「文章読本」の中に「遠野物語」に言及したとても印象的な批評がある)。
わたしが柳田國男にこだわる理由のもうひとつがこの「雪国の春」である。これは名著の中の名著・・・だと、わたしは考えている。とにかく、ほかに比較するような書物がない。

東北に関心をもったのは、「雪国の春」が引金になっている。それと宮沢賢治、太宰の「津軽」もあるけれど。
考えてみれば、菅江真澄という存在を知ったのは本書がきっかけだった。
わたしは子育て時代に、妻や子をつれて、東北二泊の旅に出かけている。そのとき、男鹿半島へ立寄って、その風光に魅せられ「なんてすばらしい、不思議な風土だろう」と、少し虜になりかけた。
その男鹿半島の魅力を、柳田さんは、本書の中であますことなく論証している。

整理整頓のいきとどかない本の山のうちから「雪国の春」をさがし出すのは億劫なので、これも紀伊國屋へいった折り、新装版があったので、また買ってきた。文庫本で250ページ余の薄っぺらい本だが、ここには「柳田國男によって見出された東北」が、かけがえのない風土探訪記となってぎっしりとつまっている。そういえば柳田さんには「海南小記」という、これまた一連の旅の結晶とういうべき名著があるが、これはまだ読んだことがない。

この「雪国の春」一冊と、数台のカメラをさげて、10日くらいゆっくりと、念願の東北を旅してみたいというのは、わたしの10年来の夢。白虎隊の会津、賢治の北上川、柳田國男の遠野と男鹿、そして太宰の津軽。
こんな空想をしていると、ますます仕事がいやになる。それはそれで仕方ないと腹をくくっている。

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