ヨハネス・フェルメールが発見した日常性を
数百年後のぼくたちが発見する。
そこに差し込んでいた光は永遠のつばさをえて
時空を旅している。
その途中で たまたま日本人のこころをとらえたのだ。
そこに描かれた人びと。
青いターバンの少女や手紙を読む女や
地理学者 真珠を量る女。
「やあ こんにちは。お会いするのははじめてですよね」
登場人物をつつんでいるやわらかい親密な光。
時代の刻印をもったミクロのほこりは
こういうまなざしの内側で舞いあがる。
鋭利なのではなく その逆でもない眼がとらえる
世界の片隅のキラキラ。
片隅の・・・。
フェルメールの絵は一枚いちまいが まるでモーツァルトの楽章のようで
立ち止まって耳をすまし
いつのまにか聴きほれている。
凍りついた時間が
ここではなぜこうもあたたかく なつかしいのか?
人びとは大抵 家の中に あるいは仕事場にいる。
王侯貴族ではなく 美人でも有名人でもない。
「ただの人びと」である彼らが
ヨハネス・フェルメールという画家をとらえたのはなぜだろう。
観念や感情にくもらされていない眼のすごさ。
まったくとるにたらない日常のまったくとるにたらない一こまが
見る者の魂のようなものを刺しつらぬく。
ヨハネス・フェルメールが発見した日常性を
数百年後のぼくたちが発見する。
たしかにそこに差し込んでいた午後の光。
そこに「いた」人びと。
ここから浮かび上がってくるのは 非存在というものの
霊的な輝きのようにも見える。
ああ 今日ぼくには自分の指先すら ひどく遠く
とおくに見える。
意味という重圧から解き放たれて。