二草庵摘録

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「皇帝フリードリッヒ二世の生涯」塩野七生(新潮社)レビュー

2016年02月18日 | 塩野七生
塩野さんの「皇帝フリードリッヒ二世の生涯」上巻下巻を読了し、やや茫然としている。
傑出した稀代の帝王だった人の生涯を、こういうふうに、ドキュメンタリータッチで読ませてもらったのは、久しぶりであるが、塩野さんにはすでに「チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」と「わが友マキアヴェッリ フィレンツェ存亡」がある。彼女の人間に対する洞察力は、さらなる成熟を遂げているといっていいだろう。

そして・・・すべては永遠に過ぎ去る。
風だけが吹き抜けていく、瓦礫と区別がつかないような遺跡に立って、塩野さんは、ブリリアントであったフリードリッヒ二世の時代に想いをはせる。そこには、驚くべきことに、ニヒリズムの影も、べたついた感傷のカケラもない。
フリードリッヒ二世は、自分の人生の涯まで歩きつくした。そして塩野さんは、彼に寄り添いながら、彼について書くべきことを、すべて書いたのである。

ルネッサンスの先駆者は、ローマ法王という宗教勢力に対し、果敢に挑戦しつづけた。
暗黒の中世・・・と、かつてはいわれた。中世を批判する人たちの、決まり文句である。
そうか・・・中世はそんなにひどい時代であったのか?
古代ローマとルネッサンスのあいだにはさまれ、キリスト教によるドグマが、人間を二重三重に縛っていた時代。中世に描かれた絵画を見ていると、ルネッサンスのころとの違いに脅かされる。ネズミの群れのようになさけない姿であったり、そのへんの草のように、特徴がなかったりする人間たち。

長いながい冬ではあったが、フリードリッヒ二世とその治世は、その冬に射し込んだ一条の陽光であろう。フリードリッヒ二世を描くと決めてから、ずいぶんと長い歳月が流れたようである。「まえがき」にそのことが書かれている。ずしりとした重いことばが、螺旋状に積み重ねられていく。螺旋状に・・・というのは、叙述のくり返しが多いからである。
「ああ、またか」と思わないでもないが、そこを階段のように昇っていくと、以前とは明らかに違った景観が豁然と開けてくる。
そこが作家塩野さんの腕の見せ所。おかげで書店では彼女の著作を、文学者(女性)のコーナーに置いたらいいのか、歴史書のコーナーに置いたらいいのか、迷っている。

塩野さんは本書の前に書いた「十字軍物語」の中で、第六次十字軍、無血十字軍を率いた神聖ローマ帝国皇帝として、このフリードリッヒ二世のスケッチをおこなっている。しかし、本書ではルネッサンス精神の先駆者として、その誕生から死にいたるまでが、はるかに詳細に、丹念に描き直されている。しかもその後およそ20年で、残した息子たちがすべて法王側の勢力によって滅亡させられ、フリードリッヒの帝国は灰燼に帰する。ルネッサンスに先立つこと、二百年。
本書のオビのコピーには《古代にカエサルがいたように、中世にはこの男がいた!》と書かれているが、読みおえると、この要約がいかに的確であるかが視えてくる。

ギリシャとローマ、そしてルネッサンス。そこがステージだった作家に、新たに中世が加わり、塩野ワールドは、さらに厚みをました。その見事な果実は、ほんとうに眼を瞠らせるものがある。こういう物語を、日本語で、日本人のために書いているのである。
政治と戦争。宗教と民族をめぐる紛争。男の生き方、女の生き方。これは塩野七生という人の文明論であり、人間論である。現代のわれわれに無縁なものは、なにひとつない。
わたしは、そう考えて読んでいる。そして、彼女の片言隻句に、ときどき心臓をつかまれるような思いをしている。

陽光あふれる南イタリアの丘の上。カステル・デル・モンテの白っぽい遺跡が、真っ青な空に向かって聳えている。そこを吹き抜ける風の音は、およそ800年後のいまでも変わらない。
その音が、本書を読みながら、わたしの耳にも聞こえてきた。これが敬愛する塩野七生さんの魅力である。
よろしかったら、ぜひお読み下さい。決して後悔しないことを、わたしが保証します*(^-^



※評価:☆☆☆☆☆(5点満点)

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