雑文の旅

猫爺の長編小説、短編小説、掌編小説、随筆、日記の投稿用ブログ

恋人がサンタクロース

2011-11-15 | 日記

 街はもうクリスマスの装い。 毎年聴きなれた歌が流れる。 山下達郎の「クリスマス・イヴ」、松任谷由実の「恋人がサンタクロース」 今年もクリスチャンでない家庭も、クリスマス・ツリーの準備をし、子供たちへのプレゼントをそろそろ考えておく時期になった。 子供たちが小さい頃は、無神論者の私でさえも、似非(エセ)クリスチャンになったりしたものだ。

 子供たちがまだ幼稚園にも行っていない頃のある年のクリスマス・イヴ、私たちはマンションの一階に住んでいたので、子供たちへのプレゼントをベランダの外に置き夜が更けるのを待った。 ケーキも食べ終わった頃、急におしゃべりを止めて、私が小声で言った。 「ベランダでなにか音がしたぞ、サンタクロースかな?」  子供たちは目を輝かせてベランダにすっ飛んでいった。 ベランダのサッシュを開く音がして、子供たちは「わっ」と叫んだあと一瞬の沈黙があった。 隣のおっちゃんがマンションの角を曲がるのが見えたらしい。 子供たちが嬉々としてプレゼントを抱えてリビングに戻ってきて言うのだ。 「サンタクロースは、となりのおっちゃんやった」 「おっちゃん、ありがとう」 この年は、なんだかあほらしいクリスマス・イヴだった。 


認知症推定論

2011-11-15 | 日記

 認知症とは、長年正常だった脳の一部が壊れていく症状だ。 人間は知能が発達し過ぎて、年を取って死が迫ってくると恐怖や苦痛を覚えるようになりその苦痛、恐怖を回避するために自然に備わった自己防衛本能が認知症ではなかったのだろうか。 老化した野生動物に死がせまると、どこかに姿を消してしまう本能が備わっているように、人間も野生に近かったころは、そういった本能がゲノムに組み込まれていたのではないかと私は想像してしまう。 やがて、宗教を作り出した統率者が現れ、社会生活が行われるようになると、そんな本能はぼやけて、認知症は病気として認識され、現在は治療法まで確立されてしまった。 と、専門家でもないのに、勝手に思う。

 年を取ってきて、そろそろ死を意識しはじめるのはアラフォー世代。 「人生も半ばに達した」感が芽生え、そこからは、徐々に増していく。 「そろそろお迎えが…」なんて口にするころは、死への意識がかなり身近になってきている。だからこそ、開き直るように平然を装って死を口にする。 「おばあちゃん、そんな縁起の悪いことを言わないで」などと止めないで、思いっきり言わせてあげよう。 そして、「気が悪いけど」おばあちゃんの口癖に慣れよう。 「そうねぇ、そろそろ来るわよ、お迎えが」と、相槌を打ってあげよう。 しらけちゃって、言わなくなるかも。 (写真は本日撮ってきたハナミズキの実)


紫陽花問答

2011-11-15 | 日記

 毎年大房の花(本当はガク)をたくさん付けていた紫陽花が、今年は一輪の花も付けなかった。 妻の死と関係があるのだろうか。 霊能者に電話で尋ねてみることにした。 

 『多分、奥さんは貴方のことが心配で、成仏出来ずに彷徨っておられるのでしょう』 「紫陽花の花が咲かないことと関係あるのでしょうか」 『奥さんに大切に育てられた紫陽花が、奥さんに遠慮したのでしょう』 「なるほど、それで花を咲かせなかったのですね。では、どうすればよいのでしょう」 『まず、奥さんを成仏させてあげることです。 それには、私ども霊能者が奥さんの霊を説得することでしょう』 「費用はどのくらいかかりますか」 『お心付け程度で構いません。 たとえば、大先生に依頼したい場合は、100万円程度でしょうか』 「その下は?」 『そうですねぇ、50万円程度で大先生の弟子が参ります』 「まだその下はありますか」 『あります。10万円程度で霊能協会が行う一週間の講習を受け、霊能者検定試験に合格したフリーターが参ります』 「違いはどのようなものですか?」 『大先生の場合は、霊を説得して完全に極楽浄土へお導きいたします。 弟子の場合は、とりあえず成仏させます。 フリーターの場合も、成仏させる方向に向かいますが、稀に途中で地獄に落してしまうことがあります』 「はァ? クレーンゲームみたいですね」 『そうです、そうです、成功の確率がわりに高いクレーンゲームと思っていただければよろしいです』 「・・・・・」

 紫陽花の花が咲かなかったのは、昨年改装工事をしたので、紫陽花の鉢を日の当たらないところへ移していたため葉が部分枯れしたので、まだ夏が終わらないうちに剪定しまった所為かも知れない。 それに、紫陽花に毎朝水をやって、大切にしていたのは私だ。 もう一つ打ち明けねばならないことがある。 実は、会話の部分は私の妄想である。