2007年/米/フランシス・ローレンス監督/ウィル・スミス アリシー・ブラガ
2010年4月18日 テレ朝日曜洋画劇場
【あらすじ】
人類は何処へ行ってしまったのか。ニューヨークにたった独り、愛犬と共に生きる男ロバート・ネビル博士(スミス)。まだ見ぬ自分以外の生き残りを求めラジオ電波を飛ばし、ライオンと獲物を取り合い、過去のメディアコンテンツで時間を潰し、謎の病原体を研究し治療への道を模索する日々。
彼が恐れている生き物、それは…ウィルスに冒され理性を失い凶暴化して自身と同種の生物を食糧とするようになった、モンスターと化してしまった人類<ダークシーカー>! 脅威の感染力を持ったそのウィルスは、発病率9割!残りの1割は、9割に食べられちゃったのだった。
果たしてネビルは<生き残り>に出会えるか、もしくは治療薬を完成させることができるのか。はたまた憐れダークシーカーの餌食になってしまうのか…!?
原作は、リチャード・マシスンによって1950年代に発表された傑作小説「地球最後の男」なんだそうな。今作以前にも2度映画化されている、SFホラーのスタンダード。だからなのか、「くどく説明的なアナウンスを入れなくても、みんな知ってるでしょ」といった感じの突き放し感もあったような気がする。
<自分の他に誰も居ない世界>というプロットだけは、公開時の宣伝目玉だったから知っていたが。まさか吸血鬼的モンスターが出てくるとは知らなかった。
というのも、孤独願望の強さ故、私自身もよく妄想する<もしも>なのだ。私が憧れ脳内シミュレーションする孤独世界を、ハリウッドが如何様に調理してくれるのかということに興味津々だったのだ。勿論私の妄想に、ホラーモンスターは出てこない。
そのような訳で、ダークシーカーが出てくる前の30分ほど、孤独をエンジョイする主人公のサバイバル風景が、私にとってのハイライトなのだった。無人島モノと違って文明が揃っていて、好きなことし放題!自分勝手な人間どももアンモラルな腐った社会も消失して、あとは自分独りで消費するだけ。超可愛くて従順なシェパード犬がパートナーで、もう言うことなし!
なのにこの主人公ときたら、独りが寂しいとか言うんだよね。マネキン使って擬似恋愛まで楽しんでみたり。バカらしい。
ま、なんのかんの言っても実際同じ状況下に置かれたら、この私だって「寂しい」って思っちゃうんだろうけどさ。実現不可能だからこその、ロマンだよな~。
ところで、以前こんな疑問を持った人が居た。曰く、
「人間の肉を食べるゾンビは、人間を食い尽くしたらその後どうするの」
これは今作とは無関係な場での素朴な疑問で、弱肉強食の食物連鎖上にあって「食う相手を食い尽くしたら、種にとっては致命傷なのでは」という生態学的にごもっともなご意見だったのだ。
この疑問を見た時には下らないことを考えるなあとしか思わなかったのだが、今回確かに、「この人食いモンスターたちは何を食べてるんだろ」と思わずにいられなくなってしまった。だってこの<最後の一人>を食いあぐねてるんでしょ。
実はこの物語に関しては、明確な回答が原作上には記されているらしい。
「どうせ知ってるんだろうから、描かなくてもいいでしょ」なんだろうか。
更にモンスターが仕掛けた罠に主人公が掛かるに至っては、この手のモンスターに知恵があるという思いも寄らない設定に不自然さを感じていた。
ところが原作では、この<知恵>こそが哲学的ターニングポイントらしいのだった。ここでも「みんなもう先刻承知のことでしょ」的扱い。
ここなんか、これを見せることで「ちゃんと原作を意識してますよ、ゾンビじゃないんですよ」というアピールのためだけの描写としか思えない。だって<知恵のある生き物>という意図を回収せずに、自爆特攻という形で結局大量殺人してしまった!そして英雄扱い。それならもう<動く死体>ゾンビとして描いた方が、人道的なのに!
そんなこんなを踏まえて、<超独り暮らし>を忘れてシナリオをなぞってみると、なんと
「28日後…」(’02)にそっくりであることが判明。「28日」の脚本家が「地球最後の男」の影響を受けたかどうかは定かでないが、原作から哲学的部分を削いだらそっくりになってしまうくらいのことは、「レジェンド」製作側は気付いて良さそうなもんだがなあ。
そういえば「28日」を観た時も、人が居なくなった世界を楽しそうに思ったような気がする…。
ところで、劇中で
「シュレック」が使われているのだが、ウィル・スミスの吹き替えは山寺宏一…。ドンキーと被ってるんだよ。って、流石に劇中映像にあの吹き替え版を差し込むような手間は掛けてなかったけども。山ちゃんもやり辛かったろうな。はは。