2014年/邦アニメ/八木竜一、山崎貴監督/水田わさび 大原めぐみ かかずゆみ 妻夫木聡 木村昴 関智一 松本さち 萩野志保子 山崎バニラ
2015年8月30日 テレ朝日曜洋画劇場
【あらすじ】
自身の身の不幸を先祖に責任転嫁した未来少年セワシ(松本)は、ポンコツネコ型ロボット<ドラえもん(水田)>を四代前のご先祖野比のび太(大原)にあてがい改善を目論んだ。ドラえもんには<成し遂げプログラム>なるコマンドが入力され、のび太に幸せな未来が約束されるまで帰れない。こうしてドラえもんはのび太のサポートをすることとなった。
のび太の幸せとは即ち、剛田ジャイ子(山崎)との婚姻を源しずか(かかず)へと変換することである。そう判断したドラえもんは、意志薄弱なのび太相手にいろいろと世話を焼く。のび太更生作戦は度々失敗を繰り返すが、14年後、雪山で遭難しかけたしずかを、過去と未来双方ののび太によって助けることで婚約が叶った。
プログラムをクリアしたドラえもんには、強制送還の時がやってきた。しかしドラえもんは、のび太が心配でならない。そんなドラえもんの憂慮に、のび太はどう応えるのか…!?
セワシのやったことって、利己的な理由による過去の改ざんであって、改めてこう見せつけられると驚くべき所業である。というか、配偶者を変更したら普通にセワシが消滅するだろ。なんつって。こんな重要なタイムパラドックスがスルーなんだから、ドラえもんというのは懐が深い。さすが四次元に繋がっているだけのことはある。
さて今作である。
「ドラえもん」は、小学館の学年誌での掲載から始まって、日テレ系アニメ⇒テレ朝系10分アニメ・劇場版アニメ(のぶ代世代)⇒テレ朝系30分アニメ・新劇場版アニメ(わさび世代)と変遷を重ねてきた。日テレ系アニメプロデューサーは、まさかこんなドル箱コンテンツに化けるとは思いもよらなかったことだろう。
ともかく、この今までの流れを置いといて、<原作まんがの3DCGアニメ化>を敢行したことになる。もうドラえもんは、日本人の認識として<何故のび太のところにいるのか>という次元を超え、<いて当然>な存在となった。そこで一度、原点を映像化しておこうということにでもなっただろう。それ自体に異論はない。
問題は、何故CGだったのか。何故山崎貴だったのか。これが重大なポイントである(私にとって)。
実は我が家には、原作コミックス(てんとう虫コミックス)が何冊が存在する。藤本タッチによる愛らしい造形、安孫子タッチによるちょっとアレな描画。これら<二次元の描画>としてのドラえもん世界が、オリジンとして深く根付いているのである。もちろんアニメ描画もちょっと違うが、更に藤本タッチとかけ離れた3DCGにされてしまうともうこれは<私が知ってるドラえもん>とは違うものにしか見えない。気持ち悪いのである。
更にシナリオである。手持ちコミックスの中に、「さようならドラえもん」で一旦終了する巻と、「かえってきたドラえもん」で始まる巻もある。これが見事に、まんま映像化されていた。
確かに感動的ではあるが、月刊1年12回掲載の学年誌連載だったことによる便宜上の最終回と、好評を受けての便宜上の再開エピソードであることに変わりはない。
であるからして、なんのヒネリもないこの一連のエピソードに対し、一ミリも泣ける要素はなかったのだ。これならまだ、「ひみつ道具」の鈴エピソードのほうが泣いた。
でな、もう折角だから、一捻り加えてもいいように思うのよ。始まりと終わりと、再開を描いたわけでしょう。
何故ドラえもん世界は、こどものままで進行しないのか。世界観的には、<過去>も<未来>も存在する。季節も巡るしイベントも発生する。だが世界の進行がない。
ここにひとつの<便宜上アンサー>をねじ込んじゃっていいんじゃないか。
かつて都市伝説として、<すべては昏睡状態に陥ったのび太の夢だった>というものがあった。こういう仮説に挑んでもいい時期になったように思う。未来世界からの介入が世界に時間軸的エラーをもたらしている、とか、<成し遂げプログラム>が偶然<もしもボックス>とリンクして無限ループに陥っている、とか。もちろん原作者の意向ではないので、匂わせる程度でいい。
ちなみに私のシナリオはこうです。事前に<ねがい星>を登場させて、しずちゃんの前で活躍し損ねるという失敗エピソードを入れておく。
14年後の結婚エピソードを見送って、帰ってきたのび太たち。ふと大人のび太の世界に、ドラえもんがいなかったことに気付く。いずれドラえもんと別れる日が来ることを悟ったのび太。一言「きみと別れるくらいなら、大人になんかなりたくないな」 これを聞いた<ねがい星>が、キラリと光る…END。
そんな妄想はともかく、いくらなんでも14年後が未来すぎだとかスポンサー色が強すぎだとかのツッコミも一応しておく。しずちゃんの産声って<天使のラッパ>みたいだったんだって。…危ない! 世界が終わっちゃうよ!
2015年8月30日 テレ朝日曜洋画劇場
【あらすじ】
自身の身の不幸を先祖に責任転嫁した未来少年セワシ(松本)は、ポンコツネコ型ロボット<ドラえもん(水田)>を四代前のご先祖野比のび太(大原)にあてがい改善を目論んだ。ドラえもんには<成し遂げプログラム>なるコマンドが入力され、のび太に幸せな未来が約束されるまで帰れない。こうしてドラえもんはのび太のサポートをすることとなった。
のび太の幸せとは即ち、剛田ジャイ子(山崎)との婚姻を源しずか(かかず)へと変換することである。そう判断したドラえもんは、意志薄弱なのび太相手にいろいろと世話を焼く。のび太更生作戦は度々失敗を繰り返すが、14年後、雪山で遭難しかけたしずかを、過去と未来双方ののび太によって助けることで婚約が叶った。
プログラムをクリアしたドラえもんには、強制送還の時がやってきた。しかしドラえもんは、のび太が心配でならない。そんなドラえもんの憂慮に、のび太はどう応えるのか…!?
セワシのやったことって、利己的な理由による過去の改ざんであって、改めてこう見せつけられると驚くべき所業である。というか、配偶者を変更したら普通にセワシが消滅するだろ。なんつって。こんな重要なタイムパラドックスがスルーなんだから、ドラえもんというのは懐が深い。さすが四次元に繋がっているだけのことはある。
さて今作である。
「ドラえもん」は、小学館の学年誌での掲載から始まって、日テレ系アニメ⇒テレ朝系10分アニメ・劇場版アニメ(のぶ代世代)⇒テレ朝系30分アニメ・新劇場版アニメ(わさび世代)と変遷を重ねてきた。日テレ系アニメプロデューサーは、まさかこんなドル箱コンテンツに化けるとは思いもよらなかったことだろう。
ともかく、この今までの流れを置いといて、<原作まんがの3DCGアニメ化>を敢行したことになる。もうドラえもんは、日本人の認識として<何故のび太のところにいるのか>という次元を超え、<いて当然>な存在となった。そこで一度、原点を映像化しておこうということにでもなっただろう。それ自体に異論はない。
問題は、何故CGだったのか。何故山崎貴だったのか。これが重大なポイントである(私にとって)。
実は我が家には、原作コミックス(てんとう虫コミックス)が何冊が存在する。藤本タッチによる愛らしい造形、安孫子タッチによるちょっとアレな描画。これら<二次元の描画>としてのドラえもん世界が、オリジンとして深く根付いているのである。もちろんアニメ描画もちょっと違うが、更に藤本タッチとかけ離れた3DCGにされてしまうともうこれは<私が知ってるドラえもん>とは違うものにしか見えない。気持ち悪いのである。
更にシナリオである。手持ちコミックスの中に、「さようならドラえもん」で一旦終了する巻と、「かえってきたドラえもん」で始まる巻もある。これが見事に、まんま映像化されていた。
確かに感動的ではあるが、月刊1年12回掲載の学年誌連載だったことによる便宜上の最終回と、好評を受けての便宜上の再開エピソードであることに変わりはない。
であるからして、なんのヒネリもないこの一連のエピソードに対し、一ミリも泣ける要素はなかったのだ。これならまだ、「ひみつ道具」の鈴エピソードのほうが泣いた。
でな、もう折角だから、一捻り加えてもいいように思うのよ。始まりと終わりと、再開を描いたわけでしょう。
何故ドラえもん世界は、こどものままで進行しないのか。世界観的には、<過去>も<未来>も存在する。季節も巡るしイベントも発生する。だが世界の進行がない。
ここにひとつの<便宜上アンサー>をねじ込んじゃっていいんじゃないか。
かつて都市伝説として、<すべては昏睡状態に陥ったのび太の夢だった>というものがあった。こういう仮説に挑んでもいい時期になったように思う。未来世界からの介入が世界に時間軸的エラーをもたらしている、とか、<成し遂げプログラム>が偶然<もしもボックス>とリンクして無限ループに陥っている、とか。もちろん原作者の意向ではないので、匂わせる程度でいい。
ちなみに私のシナリオはこうです。事前に<ねがい星>を登場させて、しずちゃんの前で活躍し損ねるという失敗エピソードを入れておく。
14年後の結婚エピソードを見送って、帰ってきたのび太たち。ふと大人のび太の世界に、ドラえもんがいなかったことに気付く。いずれドラえもんと別れる日が来ることを悟ったのび太。一言「きみと別れるくらいなら、大人になんかなりたくないな」 これを聞いた<ねがい星>が、キラリと光る…END。
そんな妄想はともかく、いくらなんでも14年後が未来すぎだとかスポンサー色が強すぎだとかのツッコミも一応しておく。しずちゃんの産声って<天使のラッパ>みたいだったんだって。…危ない! 世界が終わっちゃうよ!