「原発安全神話」と本質的には全く同じでありながら、未だにその神話が大手を振ってまかり通り、多くの国民をだましつづけているのが「日米安保神話」でしょう。
日米の従属的な「軍事同盟」である「日米安全保障条約」に基づく「日米同盟」こそが、日本の安全保障の要だという「神話」です。
「原発安全神話」に基づいて東京(首都圏)が福島に原発を押しつけきたように、この「日米安保神話」に基づいて本土は沖縄に米軍基地を押しつけてきました。
本当に原発が絶対に安全だと言うなら「東京に原発を!」とかつて広瀬隆が言ったように、「日米軍事同盟」が日本の安全保障のために絶対に必要だと言うなら、たしかに沖縄に押しつけている米軍基地を同じように本土に移転すべきでしょう。
しかし、3.11の前まで首都圏の僕たちのほとんどが「原発安全神話」を信じていながらも、なぜか東京に原発をつくる気にはならなかったように、「日米安保神話」を信じる本土の国民の多くは沖縄の米軍基地を本土に受け入れる気持ちにはなれないのが、現実です。
つまり、「安全神話」を前提にする限り、原発と米軍基地を福島と沖縄に押しつけ、首都圏と本土の住民は利己的な差別主義者にならざるを得なかったし、これからもそうでしかありえないのです。
どうしたらよいのでしょうか?
明瞭です。
すでに「安全神話」が崩壊した原発に関しては、すべてを廃炉に(=脱原発)した上で、福島へ強いた犠牲を首都圏の我々が反省し、可能な限り償うしかありません。
沖縄に関しても、実は全く同じです。
沖縄の米軍基地は、福島の原発と同様に、廃止・撤退させる以外に本土に移転などできない危険極まりないものなのです。
原発が結局は「原子力ムラ」=「原子力マフィア」の巨大な利益のために開発され続けてきたように、沖縄の米軍基地は世界中の米軍基地と同様に、アメリカの巨大な多国籍「軍産複合体」の巨大な利益のために、第2次大戦後、世界中に張り巡らされてきた、いわば「基地帝国」ともいうべきものの極東における拠点なのです。
最近見た、
イタリアの若い二人の監督による『誰も知らない基地のこと』という映画は、実に鋭くそのことを暴き、描いていました。
2年ほど前に、僕はこう書きました。「武力による自衛戦争ないしは他国との軍事同盟によって自国を守り、平和を維持するというのは、ほぼ1億人を殺しあってきた20世紀の惨憺たる歴史の深い『現実』をふまえれば、まったくの幻想に過ぎない。
他国の安全と独立、平和を最も脅かしただけでなく、日本の安全と独立、平和自体が最も危機に瀕したのは、日本が歴史上最も強大な軍隊を持った1940年代前半だった深い『現実』を、多くの人は忘れている。
今こそ、第二次大戦後の初心に帰り、その後の東西軍事同盟の対峙による冷戦と、冷戦終結後のアメリカの唯一の超軍事大国化とその下での民族紛争とテロリズムの多発の歴史を踏まえ、自国や同盟国の軍事力などに頼らない、徹底した平和主義的外交路線による『安全保障』と『平和』を、日本は自ら率先して求め、北朝鮮の冒険主義や中国の軍事大国化路線の危険性と空しさをアジアと世界に訴えていくべきなのだ。
そうしてこそ初めて、憲法第九条の平和主義につきまとう偽善性を一掃することができる。
沖縄に世界最強の米軍基地を置き続けたままでは、それを一掃するのは不可能である。
21世紀に日本が世界に貢献できるとすれば、一切の偽善とダブルスタンダードを排した徹底した平和主義の国として、いわゆる『先進国』の先頭を走り、核兵器の廃絶と一切の戦争の違法化のためのオピニオン・リーダーとなることだ。
それさえできれば、文化と技術の助けを受けて日本は世界中から支持され、尊敬されることだろう。」(
髭彦閑話24「何が現実的なのか」2010/6/22)