雪の朝ぼくは突然歌いたくなった

2005年1月26日。雪の朝、突然歌いたくなった。「題詠マラソン」に参加。3月6日に完走。六十路の未知の旅が始まった…。

日々歌ふ

2012-05-12 15:32:44 | 日々歌ふ

―<石巻市門脇町の激甚被災地区に立ちて>

炎追ふ大津波こそ門脇の地を襲ひけれあの日あの時


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炎追ふ大津波こそ門脇の地を襲ひけれ 3

2012-05-12 15:29:44 | 日々写す

―<石巻市門脇町の激甚被災地区に立ちて>

炎追ふ大津波こそ門脇の地を襲ひけれあの日あの時


                          4月30日 廃墟と化した門脇小学校、石巻市門脇町にて


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炎追ふ大津波こそ門脇の地を襲ひけれ 2

2012-05-12 15:26:58 | 日々写す

―<石巻市門脇町の激甚被災地区に立ちて>

炎追ふ大津波こそ門脇の地を襲ひけれあの日あの時


                            4月30日 門脇小学校前の廃墟、石巻市門脇町にて

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炎追ふ大津波こそ門脇の地を襲ひけれ 1

2012-05-12 15:17:28 | 日々写す

―<石巻市門脇町の激甚被災地区に立ちて>

炎追ふ大津波こそ門脇の地を襲ひけれあの日あの時


                                  4月30日 廃墟と化した門脇小学校、石巻市門脇町にて


4月30日、予定では、青森を経てフェリーで北海道ルスツに帰省の旅を続ける義妹夫婦と郡山で別れ、僕たちは新幹線で帰京するつもりでした。
ところが、義妹たちは石巻の被災地に寄ってゆくというのです。
出発前に、親しい知人に「ぜひ石巻の被災地を見て行け」と勧められ、「見に行くだけでは」とためらったそうですが、その知人が「見るだけでも大きな意味がある」と重ねて強く勧めたこともあり、旅の日程からも何とか行けそうなので急きょ決心したのだとか。
それを聞いて、僕たちも一緒に行くことにしました。
仙台で名物牛タンの昼食をとってから、石巻に向かい、その後僕たちは石巻駅で降ろしてもらって、在来線で仙台まで戻り、新幹線で帰ることになりました。
僕たちはもちろん、義妹たちも石巻の被災地の状況について、これまでの報道などで見聞きした範囲を超えた具体的な情報は準備していません。
仙台の青葉城祉の牛タン店で昼食をとった後、やむを得ずカーナビに「石巻港」と入れて出発しました。
ナビに従って目的地に近づくと、突然、道路の両脇に津波による被災跡が広がってきました。
次第に声を失ってゆきます。
大きな鯉のぼりがはためく慰霊の祭壇のようなものが右手に現れ、「がんばろう!石巻」という大看板と人影が目につきます。
ここは帰りに寄ることにして、さらに進むと、左手に3階建の大きな校舎が何もない校庭の向こうの山裾に、異様な姿で現れました。
ここで降りようということになり、校門のあったと思われる入り口の階段に立って、校庭越しに左右に長く伸びた校舎を見ると、まるで戦火にでも焼かれたかのように煤けています。
屋上には、「すこやかに育て心と体」という青い標語が残っていますが、学校名はどこにもありません。
カメラを持って校舎に近づくと、ガラスはめちゃくちゃに破れ、カーテンと壁やそのそばにかろうじて残った立木は焼け焦げ、教室や職員室を破れたガラス越しに覗けば、文字通りがれきの山です。
本当に息をのみました。
涙が浮かんできます。
小学校か中学校かもわかりません。
多くの子どもたちが犠牲となった大川小学校はもっと高台にあったはずですが、この学校の子どもたちは無事だったのだろうか…。
そんな思いが駆け巡る中で、夢中でシャッターを押し続けました。
ふと気がつくと、小さな子どもを連れた若い母親たちが、何組かそばにいます。この学校の卒業生なのでしょうか。
一人のかわいい男の子が僕のカメラを見て撮って欲しそうな身振りをしているので、「撮ってほしいの?」と聞くと「ウン」とうなずきます。
そばの母親に「いいですか?」と確認してから、ガラスの破片が散乱する焼け焦げた壁の前に立つ、あどけない少年の写真を撮りました。
去りがたい思いを封じて、鯉のぼりのはためいていた地点に車で戻りました。
次々に人びとがやってきて、花を捧げてゆきます。
周りは、大きながれきは撤去されているものの小さながれきは無数に残された空き地が、どこまでも広がっています。
わずかにタンポポが黄色く咲いている以外に、いのちの気配はありません。
確かに、「見るだけ」でも意味がありました。
帰宅後、すぐネットで調べると、ここは石巻のもっとも激甚だった門脇町の被災地区で、学校は門脇小学校だったのです。
不幸中の幸いで、大川小学校とは対照的に子どもたちは裏山の公園に避難して無事でした。

「その時 何が(14)廃虚の街(石巻・門脇町、南浜町地区)」(『河北新報』2011年5月29日)
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