おっさん先生と愉快な仲間のぶろぐ

先生って楽しい仕事だと思い続けることができたしあわせな爺っさまのつぶやきです。

先生の専門的な力量ですか。

2020-03-30 19:20:25 | Weblog
教師の専門的力量て何んなんでしょうね。

国が求める教師像は「これからの学校教育を支える教員の資質能力」として示され、各都道府県では「目指す教師像」として示されている。

採用試験の答案としてはそれらを書けばばいいわけなのだが、実際に仕事を一緒にやる場面では、少し違うようにおもえるのたけどどうなんだろう。

コミ力のない人、向上心のない人、人として魅力を感じない人、時間や提出物にいい加減な人、周りや上司の評価計りを心配する人等々「資質に課題がありそうな」人に「専門的知識」や「高度な指導スキル」があったとしても子どもたちの模範とはならない。

かといっていつまでも先輩におんぶにだっこ、世の中の動きも知らない、新しい知識や指導方法にも関心がない、けど私は「子どもが好き」という「思い」だけでいくと、後輩の面倒みるのがわずらわしくなる。

最低でも、9科目×6学年、更に特支や道徳、英語の全てを「完璧」にやりこなさなければならないと言うプレッシャーや塾や家庭教師では出会うことのなかった多様な価値を持ち多様な行動をする子どもたちへの対応。

子育てに不安をもち、教員か経験したことのないことへの解決の方法を教員に求める保護者への対応と方途を示すことのできない同僚や上司の存在

先生たちが未来に希望をいだくには何が必要なのだろう

子どもたちに「希望」や「未来」を教えられることこそ先生の専門的力量なのかな。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

教務主任ですか。

2020-03-29 22:09:18 | Weblog
全体を見渡すことの難しさを学ぶいいポジションですね。

天狗にならず、みんなの声を謙虚に聞けば、みんなから信頼されますが、仕事は圧倒的に増えます。

僕のように自分のしたいことだけやり、敵味方を峻別する昭和の手法はもはや効果的ではないと思いますが、とにかく教務主任やったおいて損はない仕事です(笑)。

教務主任 校長の椅子への 一里塚

と揶揄された時代もありましたが、今はどうなんでしょうね。

学校現場では、将来学校を引っ張っていくことができるかどうかを見極めるため、ある意味で早くから「人をふるいにかける」ことがあるようです。そういう意味でやっとふるいにかけてもらえるようになったわけなのかも、です。

生涯担任で過ごしたいというのは、みんなが認める「一つの専門的スキル」を持ちみんなを引っ張っている人が言えばカッコいいですが、そうでない一生懸命自分のことだけやることが取り柄の人が職場で言えば「自己中」とか「無責任、負担のがれ」と思われかねないのが、今の学校にはあるのかもしれませんね。

教務になって机の上が整理できないとみんながみてます。僕は皆に整理整頓を指示するのは管理職の職務だと管理職になってからしりましたが、教務主任は微妙なスタンスです。

八方美人ではできないあなたの軸が問われます。

教務の時代に授業をみる目と先生たちの子どもとの距離感を見る目を養うことができなければ、一生生涯1担任で過ごした方が幸せだと思うよ。せめて1教科、どの学年の先生にも語れるだけのものがあるといいね。

事務処理なんか今の時代、パソコンですべてできる。それができないなら、今まで楽しみすぎただけだから、今からスキルをつければいいだけかな。
昔の管理職はその辺シビアでよく見ている官僚的なイメージを僕は持っていましたが、時代が少しは変わっているのであなたにも親切に教えてくれると思いますよ(笑)。

今は気づくことができないかと思いますが、あなたは賢くて真面目だから、実は利用されやすいタイプなのかもしれませんね。

あなたが利用されたり、踏み台にされたと気づいた時、自分の感情をどうコントロールできるか、楽しみにしてます(笑)。

利害や評価がはさまると、守ってくれる人は少なくなります。それでも守ってくれる人、守りたいと思う人を作るのが教務主任の時代だと思います。頑張り過ぎないことがみんなのためなのかもしれませんね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

重なる思い

2020-03-28 19:28:00 | Weblog
特にそうした、人の死に関わるリアルや哀しみと人の生に関わるリアルや喜びが、社会が便利になればなるほど子どもたちの視野から消えて行きました。

国と国の利害から戦争が起こるといわれていますが、利害を伴わない自然災害は自然というものの尊大さとともにこうした生死のリアルを人間に示すものなのかもしれませんね。

未来は次の一瞬にあるように現在も次の一瞬で過去になりますよね。

一瞬で全てが変わる、つい九年前に日本人も学んだはずなのですが。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

先生の数が少ないからこそ学べることは多いはずです。

2020-03-27 17:21:00 | Weblog
全校児童30名ですか。

単学級かな、複式学級かな?

とっても素敵な教員生活のスタートだと思います。

学校が地域を支え、地域が学校を支えていることを実感できるなんてしあわせですね🍀。

指導スキルはぼちぼち身につけていけばいいよ。子どもが大好きなあなたなら大丈夫。

先生の、数が少ないからこそ学べることは反対にたくさんあるからね。

また困ったらメール下さい。
先生楽しんで下さい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ふっと老人は考えました。

2020-03-26 20:14:49 | Weblog
もう、慌ててスーパーに買いだめ始めたり、コンビニの食糧買い込んだり、前のトイレットペーパー騒ぎとおなじようなパニックは始まってますよね。

渋谷では若者たちが日常を楽しんでいると海外のメディアが批判的に報道しているそうです。

京都の渡月橋あたりでもまだ若者が闊歩してます。

ふっと年寄りは考えます。

リアルの危機感がネットで生きる若者たちにはどのように伝わっているのだろう?

メディアという媒体の向こうで起こる出来事はゲームソフトの世界と同じで、テレビやゲーム機を乗り越えてリアルがおしよせてくるという感覚がないのでしょうか。

自分は感染しないという感覚は「人の生と死」にあまり関わることがない人生を過ごしてきたことが、起因するのかもしれませんね。

僕ら年寄りは戦争を知らない世代と言われ、戦争を実体験した大人たちから、「リアルな写真」を平和教育の教材として示されました。

僕に残ったのは「恐怖」いやむしろ「見たくない、遠ざけたいもの」という感情でした。

映像や画像が感情を生み出した訳です。

始めて、戦争にむきあったのは、コンバットというテレビでの戦争映画とリアルに起こったベトナム戦争でした。

ワーグナーの大音響を聞きながらベトナムで機関銃を撃ちまくる米軍の兵士の姿やライフに掲載されたナパーム弾を浴びせられ、逃げまどう子どもたちの写真を見て「何ができるか」を少しだけ考えた。

けれど、湾岸戦争の時は炬燵のなかでミカンを食べながらテレビのミサイルがバンバン撃ち込まれる映像を見ても、「遠い中東の紛争で日本にミサイルなんか飛んでこない」という感覚が生まれました。

僕たちにとってもメディアの向こう側はバーチャルだったのです。

知らない間にマスメディアが変化することなど考えられない「日常」を吐きちらして彼等が指し示す正義を訴えることに慣れていったんだと思います。

若者たちにとっても人の死はバーチャルのゲーム機のなかでしか見えていなかった出来事だったかもしれないし、今もスマホの向こう側の出来事なんじゃないかな。

武漢もイタリアも若者にとってはバーチャルなんじゃあないのかな。だからリアルでパニくる年寄りたちを冷ややかにみることができるのかもしれませんね。

いくら感染者の数字が増えようと、得点掲示としてしかとらえらないのなら、「たいしたことはない」出来事でしかないだろうし、むしろ「リアルでかわることのないはずの今」が続くことに疑問をいだかない若者に「日常」が、すぐに「非日常」に変わることを教えることは難しい課題だと思います。

メディア、特にマスメディアはすでに若者の規範ではなくなりつつあるということへの危機感がないのですかね。

国が真正面から訴えても何も伝わらない若者たちをを作ったのはマスメディアと教育なのかも知れません。

自ら情報を受発信できるツールを持ち自らの「ルール」のなかで生きる日本の若者たちが、「生や死」に向き合うことなく育てきた。それだけのことだと思います。

彼らがメディアが讚美し教師たちに求められてきた「合理的」という呪縛が「感染を恐れず日常を大切にする若者たち」を生んだとしたら、さてさて、メディアや先生たち、学校で何にを教えるのでしょう?

このコロナが終息すれば、学校現場で先生を守るために何が必要なのかという論議が行われなねればなりません。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人事、異動、昇格いろいろ気になる時期はすみましたか?

2020-03-26 14:02:19 | Weblog
この時期、気になるのは来年の人事ですよね。小学校では「担任」になることが前提のように思う学生がいますが、学校には「担任外」とよばれたり「7年」とか小中一貫校なら「10年」という先生たちがいます。

細かく学級担任外と特別支援学級等(障担とか通級学級担)の担任を分ける場合もあるようです。

そこを担当する先生たちは、学級担任として「すごく力量があって全体の先生の支援ができる先生」が行く場合と学級担任として一人立ちするのには何らかの課題があり、「その先生の持っている特性を生かして、教科や児童支援をしてもらう先生」が行く場合とその先生の力量とは関わりなく「学級編成上の理由」や「その先生のキャリア形成と昇格の都合」のために行く場合などさまざまな理由がありますが、誰がなるかは気になるのですよね。

訳のわからない動きをするベテラン先生がでてくるのもこの時期で、管理職特に校長先生の力量が見えるときですね。

担任外は本来は全体のためのものなのですが、「個別対応」という錦の御旗で「指導が困難な子ども」を優秀な先生かクラス編成に必要のない先生のどちらで隔離対応させるかでなやむバカな管理職がいるということは聞いたことがあります。

ただ優秀な先生が必ずしも専門性を持っているかどうか、ここが難しいところです。

小学校で教科担任制を進める話がありますが、全教科+英語、道徳、発達障がい支援の専門性を持っている先生が都合良く学年にいないと教科の取り合いですよね。

僕なら、人に何かを教えるのなら、やっぱり自分が何か行動していたいとちょっと思ってきたから、それ探す時間がほしいと思うかな。

あなたも、「専科」も経験して、そろそろ学校に必要とされる先生になってきたから「クラス担任」でやるのもありやな。

大学で講義できるレベルの力をもった「クラス担任」って結構カッコええやん(笑)

若い先生の面倒やとか、だるいお局さんの対応とか、昭和のハラスメント症候群のさばきかたとか(笑)まだまだまなばなあかんことが学校にはあるんやろな。ぐあんばれ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

特別支援教育デザイン研究会のサイト、及び教材は無料で利用可能です。

2020-03-26 12:56:00 | Weblog

学校が休校になってから、教育委員会から家庭で使える教材として案内させてもらいたい、、保護者から電話をもらったり、特別支援教育を生業にしている会社からは私たちの教材を使わせてもらったら教材費を徴収しないから使わせて欲しいなどと律儀な連絡をいただきます。ほんとうにありがとうございます。
私たちは商用でなければOKです。私たちの教材でよければぜひ使ってください。許可も必要ありません。たいへんな時期ですから、子ども、家庭を中心に動いてください。連絡くださった方にお礼を言わさせてもらいます。ありがとうございます。
http://www.e-kokoro.ne.jp/ss


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

計算しない生き方もありだよね。

2020-03-26 10:02:00 | Weblog
何かが足りないから、別の何かかすぐれているはず。

結局、人間ってどこかで計算してしまうんだよね。

なら、計算しなければいい。

損とか得とか、勝つとか負けるとか
一度だけの人生だって気づいたのは
鼻や口からチューブをつっこまれた
病院のベッドの上だったけど
まだろうそくの火は消えていない。

やさしいとか、好きだ嫌いだとか
結局自分が独りのさみしがり屋だと気づいたのは
あなたからの20秒の電話だったけど

まだ人を愛せると信じてる

ただ楽しむことを知らない連中がなんと言おうと、楽しめばいい。

結果オーライ、楽しみの後に結果がついてくる。勝たなくてもいい。負け続けてもいい。

明日が来ることを信じているだけで、楽しいものさ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

失敗から学ぶ感性

2020-03-25 11:49:00 | Weblog
人は失敗することから何かを学ぶ感性は持っているのだと思います。

ただその感性を育む仲間や教師と出会えるかどうかが、その人格の形成に大きな影響を与えるのかも知れないなと思ってきました。

学校だけが「失敗してもいい」場所だと考えてきました。

無着成恭さんも、相田みつおさんも実現したいと考えた空間は教室にあると考えてます。

個人の学びにおける最初のステップは「失敗」から始まると思います。

この「失敗した時の自分」がどのように失敗から学ぶかが、それからの人格の形成に影響を与えるのではと考えてきました。

教師の多くは、個人における学びや努力は、個人のモチベーションや意欲に帰結するものと考えて、励ましや指摘という個への刺激を重視し、他者との比較を、判断の基準にして、「ふたたび失敗をしないこと」を教えてきました。

しかしこうした手法は子どもたちが、自ら「価値の判断」を身に付けるためには、不適切な指導だったのではと考えました。

つまりこうした手法では「1を100」にする事はできても、「0を1」にする事はできないと思ってます。

「0を1」にする事、「不可能だと思っていることを可能にする事」は「自らが新しい価値に気づき、新しい学びを失敗の中から見つける力」を子どもたちが身に付けることで達成できると考えたわけです。

学校の単一的な教科では、こうしたことは難しいので、芸術や情報、道徳、総合的な学習ので時間でのアプローチをやったら「小さな奇跡」がたくさん見えて、教師が楽しめたって感じですね。

あなたがいう高尚な理論なんてありません(笑)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昔のできごと

2020-03-14 10:18:10 | Weblog
ふっと昔の出来事を思い出しました

「教室にいることで自分が壊れていくこともあるねん、先生。」 ある学校で出会った小学校6年生の女の子の言葉です。重たい言葉です。

長い沈黙の後、ようやく心を開いてくれた彼女が語ってくれたのは、つらかった小学校1年生の時の思い出でした。

厳格でルールを守らせることで、 保護者の間では「良い先生」と好評だった A 先生が担任でした。

彼女は新しい学校で毎日がとても楽しくて、 ついつい羽目を外す行動をしてしまったそうです。

往々にして低学年の先生は、 規則重視で、その枠の中に入らない子どもたちを 「穏やかでない子」=「悪い子」という公式に 知らず知らずに当てはめている場合があります。

当然、彼女の行動は A 先生の叱責の対象になります。

昭和の時代は「耐えること」を美徳とする時代でしたし、「良いモデル」「悪いモデル」を明確に示すことが教師の力量だと考えられていたのかもしれません。

度重なる叱責とその後の処置として、A 先生はクラス全体への周知が必要と考え、彼女の名前を出してルールの遵守を他の子どもたちに訴えます。「良いモデルになりなさい」

他の子どもたちが知らない間に A 先生の「他人に迷惑をかける子は悪い子」「みんなと同じ行動をしない子は悪い子」という 価値観をすり込まされた場面です。

こうした他の子どもたちの中に醸成されてしまった価値観は 中学年にまで引き継がれる場合があります。

昔はギャングエイジという言葉で 「荒れるのが当たり前」という感覚で捉えていた学年です。

自我に目覚め、抽象的な思考の基礎を作る段階として、最近では、とても大事な時期だという認識が必要だとされています。

 この時期の子どもだからこそ「まわりに迷惑をかける子」より 「周りの比較的穏やかなこどもたち」の方が大切なのですが、 多くの教師は「まわりに迷惑をかける子」の方を気にしてしまいます。少し前によく使われていたいわゆる空気を読めない子どもですね。

新しい学年でのクラス編成を考えるとき「まわりに迷惑をかける子」の対策として 「周りに比較的穏やかなこどもたち」を入れると言うことまで 考える場合があると聞きます。

中学年では、大多数の「周りに比較的穏やかなこどもたち」は、 その子たちを受け持った低学年での担任の先生の「価値観」を 従順に受け容れ従ってきたから、「まわりに迷惑をかける子」に対して 「比較的穏やかなこどもたち」と思われているわけです。

ここでも教師が規則重視で、 その枠の中に入らない子どもたちを 「穏やかでない子」=「悪い子」と考えれば、 その子は、教師の作った「いじめの構造」の中に 組み込まれてしまう場合があります。

教師が「異質」と判断することにより 「比較的穏やかなこどもたち」は その価値観を受け入れ「異質」として扱ってしまうという構造です。

「異質」を受け入れる学級を作るには 教師にそれなりのスキルが必要となるのですが、 そのスキルは実践知とでも呼ぶもので 経験的に身に着けていくもののようです。

冒頭の重たい言葉を述べた女の子は 、こうした構造への反発から 5年生で教師への反抗を重ねました。

最初の怒りの対象は 規則を高圧的に守らせようとした若手の教師でした。 そして教師を乗り越えると「周りの子」へターゲットを移します。

「いじめられる側」から「いじめる側」へ、 そしてターゲットは「比較的穏やかなこどもたち」でした。

5年生で理由を問われたときの彼女の返答は 「ズーとみんなにいじめられてきたから仕返ししているだけ」でした。

6年生で担任した僕が 、その子の心の傷を払拭できたかどうかはよくわかりません。

とにかく話を聞ける関係にはなりました。

かつての「穏やかなこどもたち」、 もう「いじめられている子どもたち」も含め 「ちがい」について考えたことを記憶しています。

何年かののち、彼女は笑顔で宅配便会社の制服をきて元気に荷物を学校に届けにきてくれました。

これがソーシャルスキルを考え始めたきっかけでした。

人には「違い」があるのが当たり前で、 おなじことができなくても「悪い子」ではないという意識を 醸成するというアプローチが必要でした。

クラスの中で素直に自分を表現すれば 人も素直に返してくれるという安心感を作る取り組みを ソーシャルスキルトレーニングを通して行いました。

もうひとつの側面として僕自身が 自分自身の意識をニュートラルにすることを 心がけていたように思います。

その子たちの特質を「さりげなく」受け容れているのかという点です。

みんなに迷惑なことをしても、「なかま」だったら仕方がないことなのだから 「みんなちがって、みんないい」と 思い込みなさいと言う感覚にも少し違和感がありました。

 小学校段階で、担任の教師の価値観が子どもたちに影響することは確かだと思います。

ただそれを正義として押しつけることに僕は 、違和感を抱いていたのだと思います。

教師自身の自然な振る舞いや言葉の中から、 子どもたちは「みんなちがって、みんないい」と感じるのであって 教師が固執する「正しい価値観」の押しつけ的なスタンスでは、 子どもたちの本音が見えてこないことが多いことは経験で知っていました 。

もしクラスの子どもたちが 「表出する行動面で判断するのではなく、 その中にある思いや感情を受け入れる」という 新しい価値観を受け入れてくれれば、何かが変わると思っていました。

 そんな意識が周りの子どもに芽生えると 小さな奇跡がクラスでもいくつか生まれました。

「いじめ」は子供間のトラブルが原因だという要素は 多々ありますが、教師の持つ価値観が作り上げるという側面や 保護者の持つ価値観が作り上げるという側面もあると 考えています。

特に教師や保護者の影響を受けやすい小学校段階の子どもたちにとって、 それらは単に「道徳」を教えるという行為のみでは解消できないものだと考えています。

世間の親たちに小中高等学校に「道徳」を専門とする教師 ( 道徳の免許状を持つ教師 ) はいないということはあまり知られていません。

皆さんは気づいているかもしれませんが小学校全科の一部として道徳が使われていますが、 高等学校の「倫理社会」が近いものとしてあるだけで、 誰も免許状はないという教師の資質の問題も確かに存在するのです。

職務としての道徳教育は 「偶然、クラス担任になった教師」が行うというのが 一般的だという現状から考えると、 子どもたちが「作られた価値観」から 「自分たちの価値観」を構築する思春期に出会う教師の「価値観」はとても重要なものだと考えます。

もしそんな教師に出会うことができずに大学にきているとしたら、と考える場面もあったわけです。



 一般的にいわれている経験のある教師の中でも、 「いいクラス」を作れる教師と、 そうでない教師がいるという認識はあるのですが、 経験豊かで「いいクラスを作れる」といわれる先生の多くは、 親も子も、上手に「のせる」キャラクターを持っているように思います。

ただ、一般の方が言われている、また思い描く明るくて元気というパターン化された教師像ではないようです。かといって子どもや親たちに迎合する軽さでもありません。

「のせる」ということを言い換えれば 「コミュニケーション」能力があるわけで、 こうした先生が担任になると 「違いがある」「違いがない」の意識をせずに 「クラス」が形成され 「健全な子どもたちの社会や教室のルール」が自然と醸成されてきたのだと思います。

学級カーストという言葉が何の抵抗もなく子どもたちに受け入れられ常態化しているのなら、子どもを「のせる」ことができる先生が必要ですね。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする