おっさん先生と愉快な仲間のぶろぐ

先生って楽しい仕事だと思い続けることができたしあわせな爺っさまのつぶやきです。

大人が嫌いですか

2021-01-28 14:13:00 | Weblog
知らない間に時間は過ぎていきますね。

若者で居続けるためには、時間は関係ないかもしれませんね。

立場という「組織」のしがらみのなかで「仕事」を得ると責任というやっかいなものがついて回るものです。

それが嫌なら別のものを探すことも視野にいれないとね。

何かを生みだすときって、やっぱり苦労が伴うものなのだよね。

一緒に何かをしたいという思いがあっても、一人一人の思いが伝わらないとギクシャクするよね。

いつの間にか手段が目的になって、いつの間にか求めていたものが消えていく、そんなこともわからなくなって焦ることもあるよね。

「大人は嫌い」でもいいけど、そんな大人になっている自分に気づけないままだと、いつまでもひとりのままでいるのかもしれないね。

かといって大人ぶって打算や計算の世界だけを追い求めるのも、なんか切ないのかな。
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採用まであと少しですね。

2021-01-21 10:51:00 | Weblog
最近、考えがまとまらないことが、多くなってきました。

多分歳のせいだと思います。(笑)だらだらとおもいつくまま書いてみます。

法律で縛られることの不条理さは、自分が公務員を経験したとのでなければ理解できないと思います。

総論は「実施」で、各論は「不実施」なんてことはよくあることで、「国民の税金を使うのだから、勝手なことはできない。」のです。

国民全体の「奉仕者」という意識はあるのに「職務は個別の人たちへ対応」、当然リスクのある取り組みや対応は許されず不測の事態が起こった時は、後からの責任問題や管理責任が現場職員の頭をよぎるわけですよね。

政治家も公務員、結局は票を集めるパフォーマだという意識が芽生えてくるわけです。

でも、自分は無党派だというおもいが、いつまでも安全地帯な身をおく傍観者にしているのではという後ろめたさを感じる時もあったかな。

目の前の自分のクラスでは、大人たちの知らない間に「カースト」という言葉が当たり前すぎて、そのなかで、どう生き延びるかが日常化した子どももたちの耳を「建前の理想」を熱く僕の声が通りすぎるのではという不安もあったかな。

あなたがそんな目の前の子どもたちのありのままの経験を認め、受け入れようとするなら、先生という仕事は過酷かもしれないね。

子どもたちはあなたとの出会いで変わるということを信じられるかどうか、だけなんだよ。

目の前の「いじめ」という現象に、それはおかしいと、一言言える勇気、「不条理」な現象に、それはおかしいとひとこと言える勇気は「子どものころから形成される」としたら、それがあなたの仕事なのかもしれませんね。

スピード違反の取り締まりは、生命を守るために行うとのだという認識より、罰金があるから守るという認識を生み、感知器という産業を生み出し、あおり運転という心の動きが厳罰の法律を作ったのかな。

「自分で守ること」は「自分で決める」という経験が、「地域のコミュニティ」から逃げ出した大人たちには理解しにくいのかも。

「地域のコミュニティ」というリアルの空間が消えつつある時に起こったコロナ禍、大きな意識の変化が起こるのはまちがいないが、そのベクトルがどこを目指すのか。

情報の洪水やマスコミの誘導に惑わされない子どもを生み出すことができるかどうかにかかっているように思うのですが。

負けるな先生。
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緊急事態宣言ですか。

2021-01-15 22:29:41 | Weblog
老人2人のよた話です。

コロナ禍における学校マネジメントの稚拙さが校内の分断と乖離を生むとしたら、管理職の責任は結構重大なのですよね。

でも、先生たちが、教科指導さえすればいいとする「生涯一教師」という錦の御旗を掲げて、それ以外のことは「誰かが」がしてくれることが当然とする先生なら、その先生に「誰か」に「いつか」貴方がならなければならないと言うことを「何年か(小学校の場合は、6年程度が普通)たてば、外の学校への転勤」を余儀なくされている先生たちに、どのように意識付けていくのかが、結構むずかしい課題ですよね。

でも、学校に集めて、教科指導だけの授業をすすめることにおわれていたら、すぐに塾やAIにとってかわられるかもですよね。

結構難しい構造的な課題があるのですよね。クラス作りに上手い下手があるのか、クラスの子どもの編成に差かあるのか。春休みのクラス編成は、ベテランの意見が優先されると、ですね。

ベテランが楽したいわけではなく事実、忙しい先生もいるはずです。何故なら、「先生がやりたい授業を作るため」には無限の教材研究が必要だし、それぞれの先生のそうした意欲や知識、スキルにも「差」があるのは残念ながら事実です。

でも、経験知がスキルを向上させるとは限らないのです。むしろモチベーションがスキルを押し上げてきたように思います。

「授業がうまい先生」もいれば「保護者対応がうまい先生」もいるはずです。当然、その逆もあるわけで、「うまい、下手の違いによる処理時間の差」もうまれますよね。この差をどうして埋めるか、埋めようとするのかしないのか、辺りの問題もありますよね。

自分に自信があるか、ないかも意外と処理時間の差につながることもあるように思ったことがありますね。

先生は評価されることを嫌がりますが、「科学的で客観的な評価」方法まで、否定するならそれは「科学的」ではないはずですね。

科学的で客観的な評価はAIの得意とする分野です。学校に「評価」のためAIがはいるのは、それほどさきのことではないかも、ですね。

企業では勤務評定は当たり前のことですが、先生たちの場合はまだ、一般的ではないですね。塾の先生は「評定」されるから力がつくという人もいますね。

だからといって自分の健康を害してまで授業以外の「仕事」をするとブラックだと揶揄される。
集まって、酒を飲めばバッシング、なのに学校がクラスターになって、先生が感染しても「児童や生徒は家庭での感染」した、という報道。

高校や中学がクラスターになっても、その実態を公開している自治体は少ないように思うけど。どの様にして注意喚起をしているのだろう。

なら公立学校民営化をも先生たちが意識しなくてはならない状況がコロナ渦でやって来るかもなど、果てしなく話が広がる昭和生まれの老人二人のよた話でした。

負けるな先生。
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ワクチンが光ですね。

2021-01-08 22:32:53 | Weblog
ワクチンが「100%安全」であるかどうかという論議に少し違和感があります。

ワイドショーで連日流される画面を変えれば、いつか戻ってくるであろう日常への期待、天変地異は時の為政者や年号の変更で乗り切れると信じる古代から続くシャーマニズムの幻影などなど、この国の平和さが何か悲しくなることがあります。

日本でよく使われる「分断」という言葉は欧米人の「違う生き方の方向」や「自分の生き方」としての「あたりまえにある階層(階級)」という「違い」のように思います。日本ではこの違いが見えにくかったのかもしれませんね。

自分が中産階級だと思い込んでいる人の比率は高いというデータを前に見たことがあります。「中の上」「中の中」「中の下」という感覚です、総じて「中」というのは珍しいのだそうです。

単一民族というたてまえのなかでは、大多数の方についていることが安全であり、「自分」を表現することより、大多数が目指す方向に「100%安全であること」への保証書があることを求めているのだろうね。

突然の未曾有の出来事がおきているのに直ぐに100%安全なワクチンなんかできないのが当然って考えることはおかしいことなのだろうか。

未曾有だから、自分はどうしたいのかを主張できることができる社会が大事なじゃないのかな。

100%の完璧な安全でなくても「今ほしい」人はいるだろうし、99%安全でも「いらない」と思う人もいるはずだよね。

こんなとき自分の子どもにワクチンをうけさせるかどうか、保護者が判断できないなら、国がどうするかの方向を決めるのは仕方のないことかもしれないけど、「大人」が、「みんなが言っているから」、「テレビや新聞で言ってたから」100%安全なワクチンでなければ安心できないという「多数派」意識になることが、なんか納得できないんだよね。

こんなとき、欧米の人たちはどんな判断をしているのだろう、アジアの人はどんな判断をするのだろな。

国民性の違いなのか、政治の違いなのか、自立した個人の判断の違いなのか見極める方法がほしい。
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絶叫マシン年齢制限

2021-01-07 23:08:00 | Weblog
老人へのおもいやりですよね。

遊園地に高齢者の年齢制限があることを初めて知りました。幼児の身長制限だけでなく、老人にも危険な乗り物なのでしょう。

自分が老人であると感じる時でした。

老人に優しいのか、孫と楽しむ権利を奪われているのか、むずかしいね。

コロナが拡大するということは、老人が、なにもしない時間が増えるということ。コロナは老人にリスクが大きいということがやっかいだ。

もっと早く、○○「たら、れば」という時間軸の問題より、「我慢するかしないか」の「個としての自己規制」の問題なんだろうな。

自分のための社会か、社会のための自分かという二項対立的な問いかけに、何か空しいものを感じるのは、なぜだろう。

規則があるから守る。自分の意思で守る。同調圧力があるから守る。自分の命が大切だから守る。他人の命が大切だから守る。それぞれの「価値観」で守る、そしてそれぞれの「価値観」で守らないも「多様な価値観を認めるなら」アリなんだろうな。

自分の「意思では守れないから規則が必要」だとしたら、「自立や自律」を目指した教育は間違いだったのかな。

破ってしまう者の心情を理解せず、規制だけを要求することへの違和感。
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なぜ総合的な学習の時間が好きだったのですか、ですか。

2021-01-04 13:06:00 | Weblog
総合的な学習の時間の授業研究を行うなかで、
知識基盤社会から情報基盤社会での情報リテラシーが必要になる時代での教育を考える必要がある。と考えてきました。

多様で大量な情報や知識を用いて、自分たちの目の前に広がる未知の地平での出来事にどのように対処し、よりベターな社会を構成するために協働することの大切さは、教科という枠にとらわれない総合的な学習の時間という学習の中でこそ学ぶことができると信じて取り組んできたのかも知れません。

知らないことを知る喜びは小学校で大切にしなければならない学びの一つなのですが、知識獲得のハウツーのみで終る教科指導や指導書と呼ばれる最低限のマニュアルに従うだけの授業は、僕にとっては退屈な物足りないものだったのです。

公立学校の教員という限られた制限の中で、子どもたちも、僕も自由になれる時間、それが総合的な学習の時間や生活科の時間だったように思ういます。

将来子どもたちが生きる時代に必要なスキルとしての教科学習は、学歴社会の中では、単なる素点の多い少ないが評価の対象となる点数至上主義としては機能してきたとおもいますが、もし、グローバル化というスローガンのもと学歴至上社会への見直しがすすめば、教科という日本独特の分類(個々の国が独特の分類をしているという大前提)についても見直しがすすむのは必然であり、高校の探求や教科内容の再編成は行うべくして起きている現実なのですが、あなたの言うように教える側の意識が変化しなければ、なにも変わらないかも、知れませんね。

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明けましておめでとうございます🎍

2021-01-01 09:53:12 | Weblog
昨年で、通算150000人の方々に訪問していただくことができました。細々と気ままに綴ったブログですが、これからも、よろしくお願いいたします。

時代が大きく変わる時、皆さんと同じ青空を見続けたいと思ってます。
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