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おっさん先生と愉快な仲間のぶろぐ

先生って楽しい仕事だと思い続けることができたしあわせな爺っさまのつぶやきです。

AIの手習いを始めることにしました。

2025-04-03 15:59:18 | Weblog
何か「手習い」を始めようと思い立ちました。
生成AIを使ってプレゼン資料を作ってみました。

驚くほどの早さで資料が作れることに驚かされました。無料版はクレジット制で使用ができます。

検索機能や言葉を絵画にする個別の機能については少し前に知っていたのですが、まるで日進月歩という言葉がふさわしいような進み具合を感じました。

こんなの教育現場で使えれば「資料作成」や「報告書作成」なんか時短ができるはずですよね。

ただしそうしたシステムが教育現場ですぐに構築できるかは別問題、そこに企業と学校の違いがあるのですよね。

こんなことができるという知識はどんどん一般化されるのですが、ハードとソフトだけで解決できるという単純な構造ではないところに「学校」という箱もののややこしさがあるように思います。

社会が大きく変化してもその最先端の技術を享受できないという環境や、使用技術を獲得する時間がないことなどが考えられますが簡単に言えば道具の進化に追いつけないことと利用する目的が明確にならないことなのかなと考えてきました。

何のために道具を使うのか、よくわからない時代になりましたね。

「子どもに何か(教科の知識)をおしえるため?」
知識を得るためだけなら、時々間違いはあるかもしれないけど生成AIで調べれば、下手な先生よりわかりやすく教えてもらえますよね。

「校務処理が速くなるため?」
報告文書や申請文書は増えることはあっても減ることはないと聞いたことがありますが、膨大なデータが現場に可視化された形でフィードバックされず、一部の管理職や行政機関にか返されていないという検証システムや欠員や休暇習得による人員の配置システムが「各校まかせ」で教育委員会レベルでの補充システムが機能していないことなんかが問題で、人海戦術だけでの対応しかできないことが課題のようにも思います。

企業のチェーン店でもシフト管理システムがあるところとないところではシフト管理ができないチェーン店に勤めると「ブラック」といわれる時代ですよね。

今どきの若い先生なら、コンテンツの使い方も知ってるし、学習指導要領や年間計画の理解もできるし、子どもたちにグループウェアやプラットホームを使って共同作業もさせられそうだし「授業」の形態はもう、新しいステージにはいれる、だろうなと思い込むのは、少し早計かもしれないですね。

先生が子どもを見とる視点は、「汎用」では役に立たないし、個別に対応する方法や事例は聞かないと誰も教えてくれないのが普通ですよね。

経験則の伝達はできる職場とできない職場があるのが、企業でも学校でも同じだけど、成果を求められる企業と何が成果なのかがあいまいな学校とでは、その伝達に関しての意識に違いがあるわけで、「経験則」に関しての管理する人たちの意識が違うし教員や公務員への世間の人たちが持つ「何の成果を上げなくても月給が上がる仕組み」に対する意識も影響しているのだろうな。

ビジョンを明確に打ち出せない管理職の下で働く辛さは、ひょつとしたら学校の先生たちのほうが感じているのかもしれないね。

親を理解する視点は、最近ハウツー本で学習できたとしても、身の前にいる子どもを、どう受け止め、親の気持ちと齟齬なく共感する「寄り添う」という言葉の難しさを実感することのできるか、どうかかがひとつのターニングポイントだろうね。

挨拶の仕方や言葉の受け答えなど「しつけ」を教える先生、細かな句読点や文字のかたちの位置など「正しい言葉の使い方や漢字の書き方」を教える先生がいい先生だよという娘や孫の言葉に「お母さんのやお父さんの仕事」や「塾の先生の仕事」ができる先生が「今時のいい先生」らしいと気がついたのは、もう何年か前の話し。

その時「じゃあ、あなたの仕事は」と孫に聞いたら「お勉強」の返事、孫の教育に口を出さないのかいいじいじなので黙っていたが、「家庭」と「学校」の関係が希薄になると「先生」っていう仕事はたいへんになりそうだという予感はしていましたよ。

でも大変でない仕事って、あるんだろうかな。好きになれない、生きがいややる気が出ない仕事はあると思うけど「何の努力もせずに、成果が得られ大きな対価を得ることができる仕事」があるのなら、いいんだけどね。

時代は変わっても「不易と流行」という言葉は大切に思えるのですが。

「小学校の先生の仕事」って何ですか。
今どきの「志」の意味って。

昭和の時代に一緒に仕事した方たちの早期退職の連絡をよく耳にします。
春は別れと旅立ちの季節なんでしょね。

いろいろあるけど、新しいスタートです。毎年気持ちを切り替わらせることができる職業が先生なのかもしらませんね。

無理せず、あなたらしく、笑顔は自分を守る武器ですからね。
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曇り空のお散歩

2025-03-28 09:48:34 | Weblog
空模様が怪しかったけれど
時間があったので
京阪電車で出町柳に。


いつもは出町商店街に向かうのだけど
今日は反対の道を、百万遍にむかう。


叡電の駅前を通り過ごして細い道をのんびり歩く。道沿いには昔にはなかった今どきの店に行列ができている。

記憶にある店も生き残っている。これが京都のいいところかもしれない。

学生の頃も何度も古本を買いに通った道、あの頃のスタートは叡電の前にあった喫茶店、百万遍の古本屋を巡ったあとに銭湯に入って、近くで飯食ってなんて思い出が甦る。


今日の目的地は大学の「博物館」と「図書館」、来月外国からのお客さんが来るので案内するための下見。

小学校の図工で模写をさせていたことを思い出した。正確に模写することが大人になってもいきるということを、こうした資料が教えてくれる。そうだ、孫を連れてこよう。


インバウンドで混雑する場所を案内するのは御免だから、大学巡りのブログラムをつくり、最初はあの大学にした笑

単に訪問者が同業者だということと「大学」なら桜が咲いているだろうという単純な理由だけどね。

母校は桜は凄く綺麗なんだけと交通がちょと悪いからね。

意外といろいろな京都にある大学の桜は綺麗なんだよね。


博物館で5月の連休に来る孫のために「サメの化石」「砂漠の花」を買った。

孫たちを連れてきて進々堂でモーニングして「百万遍あたりの旨いラーメン」食べて出町橋で川遊びして、京阪電車のプレミアムカーに乗せるなんて孫とのプランもできた。


久しぶりの古本屋巡りで2冊の本を買ってたら、雨が振りだしそうになったので、美味しい湯葉を買うことは断念したけど、曇り空の散歩も面白い。














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春休みですね。

2025-03-25 14:53:46 | Weblog
 ようやく一年が終わり、ほっと一息という感じですね。小学校の先生にとって春休みは、あってないようなものなのかもしれませんが、今の時代には「有休」を消化しないと次年度には一定日数しか持ち越せない仕組みは改善されたのかな。

 ちょうど10年前の退職の年、初めて40日あった「有休」を28日使ったときのことを思い出しています。

 今の学校ではもう「内示」とか「内内示」とか言われる、ひそかに行われる次年度の体制についての伝達が行われているのかどうかはよくわかりませんが、「昭和」の学校では、結構これが春の関心事項の一つでした。

 次年度のクラス編成って結構難しいのです。小学校では単純に成績順では教科が多いからできないし、かといって無作為にあいうえお順なんてこともないはずなんですよね。それぞれの学校でルールがあるはずなのですがあまり公開をしているところはないはずです。公立と私立でもその違いはあるように思います。

「先生ガチャ」という言葉が一時はやりましたが、先生にも好きに選べるというという自由度はないのが普通だと思います。かといって複数のクラス数の場合くじ引きで単純に受け持つということでもないはずです。このあたりでストレスがたまることもありますよね。ミドルになると見えてくることもありますからね。そんな時はどうするか、そこが意外と大事ですよ。

 来年というか、すぐ4月から誰と学年を組むのか、「主任」は分掌なのか、学年なのか、なんて情報が口コミで職員室を駆け巡っていました。

昭和の時代に大きな学校で「学年主任」をしても、当時のたばこ代以下の月々の手当しかもらえませんでしたね。かといって沢山もらえたら大変な学年の面倒を見たかと言われれば、そうではなかったと思います。

昔の先生たちは「和」を求めていたように思います。
フリガナをつけてると「和む」職場ですよね。
コミ力のない先生はいつか淘汰されますよ。
小魅力でいいので、持ち続けてくださいね。

この時期に結構学校の「実態」がわかりますよね。
「どのように学年が組まれるのか」は「管理職がどのように学校を見ているか」「先生たちの個々のスキルをどのように評価しているのか、管理職が目指す学校ビジョンに必要な人としての評価をするのか、個々の状況を配慮して生かすのか、いわば組木細工のような「人事」が毎年行われます。

ただそこに管理職との信頼関係ができていなかったり、依存しすぎていたりすると不満がたまることはありうることですね。
採用倍率の高かった氷河期採用の先生が管理職になり、学校現場だけが「ブラック」だと思い込んでいる先生たちとどのように対応しているのか、外からですがみています。

特に若い先生も増え、先生たちも「多様な価値観」を持つようになった今の学校ではどんなことが起こっているのか、また新しい学年が決まったら教えてください。
愚痴ぐらいは、まだ聞くことができます。

今年は、パソコンに放り込んだままにしている「古いデータ」のリメイクしてみようと思っています。
パワーポイントはプレゼンだけのものと思っていたのですがいろいろ使えるようなので、古い資料ですが、時間ができたら少しずつ公開しようかなと考えてます。

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昭和の情報教育ですか。

2025-03-10 23:23:33 | Weblog
小学校の情報教育って難しいよね。

もう少しで卒業式、区切りの時期だから少し、だらだらした長文で昭和の教育をつたえます。

やってはいけませんということを伝えるために、その事を禁じれば必ずやめるかどうかは、微妙な問題だということを先生たちは知ってますよね。

昭和の時代にも、廊下を走る子どもにどう指導したらいいか、結構難しい問題でした。

大きな声で指導すれば高圧的と言われるし、放っておけば怪我したときに、なぜ注意しなかったのかを問われるし、「なぜ、走ったの?」と聞けば「わからない」と答える笑。

廊下は歩くところだというブロパガンダを生徒指導のこわもて先生が行うか、児童会という子どもたちを動員してキャンペーンを実施するかなんかを考えたことがありましたが、「守るべき規則作り」以外あまり思いうかびませんでした。

結局、なんか「大人の社会」の真似事みたいで違和感を持ったので、廊下にプランターの花を並べたことがありました。

のんびりした時代でしたね。

今の時代は「情報教育」ですか。

ネットでのトラブルを予防するためにどう指導したらいいのか、ですね。

利用スキルや利用モラルが理解できる年齢まで利用させないのが一番だとおもいますが、大人がそうしたものを理解しない間に利用し始めたこともあるし、ネット利用を今更やめろということが、言えないぐらいの社会の激しい変化がありましたよね。

元々は「免許制度」が必要だと思ってましたが、「殖産振興」の国策や世界の流れの中で「スマート社会」という「便利さ」を売り物にした社会になりつつあるようです。

情報教育と「社会の変化」は深い関係があることを、まずその事を認識させることが必要ですね。

小学校なら社会科や総合の時間ですね。同時に教科の指導ではなく「考える時間」が必要でした。知らない方も多いのですが、ひとつの単元で教える時間は決められていて、議論は大事なことが分かっていてもゆっくり時間をとるのが難しいですよね。

特にトラブルについては、「人の心の動き」や「モラル」とも関係があるので、全体を俯瞰するイメージを作ることが大切だと思います。

僕は社会科や総合からのアプローチをしたので、古典的な「シチズンシップ(市民教育)」から派生した「デジタルシチズンシップ」に注目しました。

情報機器がいち早く使われたアメリカの情報社会でどのように情報と付き合っていくかの指標になったものです。

モラルだけを取り出して「規則や道徳意識」の必要を学校で指導することもできるとは思いますが、評価が必要な「道徳の時間」やマニュアルがある「◯◯指導」の時間ではない、カッコいいコトバでいえば「解のない問いを考える時間」が確保できれば何でもいいというスタンスでしたね。

アプローチの仕方は、それぞれの先生たちの「課題意識」で違うとおもいますが、定義や理論という知識を教えることより、その事を子どもたちとともに考える場としての授業っていうどんなものだろうっていう感覚でしたね。

あなたの「情報の隠蔽と公開」という問題意識は「情報の真偽」をどのように判断できるようにするかと関わる部分があるようですね。

隠されていた情報や埋もれていた情報を見つけたり、公開することが可能になったなら、「人は隠すことをやめる」と思い込むことは、性善説を信じやすい若い先生としては正論なのでしょうが、したたかなベテランは早計だと考えるでしようね。

見つけた情報に価値をつけて、操作したり、事実にまぎらわせてフェイクを挿入して混乱させたり「情報の真偽」を判断することが、ますます難しい時代になっていますよね。

利益を追求するあまり「道徳的倫理や規範」が無視されることもあるという「リアル」を現実社会を経験していないといわれる教員の「理想論的な解釈」だけでは難しい部分ですね。

正しい答えを「先生」が伝えなければいけないと思い込む真面目な先生が悩む部分でもあるのですよね。

現実だけで夢や理想を忘れたら「人としての生き方に困ることはないのだろうか」なんて言い返したかったのです
、ぐっとこらえたのが昭和でしたね。

だからといって家庭で「リアル」だけを伝えたのでは「前向きな姿勢」が生まれたのかな。

「諦め」や「指示待ち」の若者に出会うとき、「理想だけを伝えた先生」だけの責任だとはいいきれないようにも思います。

確かに不文律としての「嘘も方便」の世界をどう伝えるのか。「大人は嘘つき」という意識にどう対応するのか、けっこう大変ですよね「リアル」を伝えるのことは。

アンタッチャブルといわれる部分や「タブー」という部分にまで踏み込むことも必要になるかもしれませんね。

オープンエンドの学習は、子どもたちの深まりはあっても、保護者や同僚、管理職の理解がないと独りよがりの学習とおまわれる場合もあるので、しっかり意図を回りに伝えるスキルがあなたに必要になるかもししれません。

話がそれてしまいそうです。

イデオロギーではなく「国」という存在の首領がいつの時代にも手に入れようとしたのは「情報」だったように思うのですが、今度、歴史の先生に聞いてみようかなと思ってます。

社会科が得意な先生ならそこからアプローチできますよね。

テレビやネットでは、トランプ大統領になってからだけではななく、世界的に社会全体が、まるで「情報戦争」の様相を呈しているように感じることがあります。

「正しい情報」というミサイルがそこかしこから打ち込まれているって感じですね。

こうした大きな変化が起きている今、学校ではなにができるかなと考えてますか笑

忙しくてそんなこと考えてないかもしれませんね。だから先生って仕事に魅力がなくなったのかも笑

必要だと思ったことを、教科指導だけのなかで行おうとするのではなく、横断的に時間と指導案をつくり行うことが可能なのは、もう知ってますよね。

やってみたいというあなたの思いは素敵ですが、なぜ、その授業が必要なのかを回りに理解がないと情報教育アレルギーもまだあるし、思いつきだけでやるのは小学校では難しいかもしれませんが、取り組む価値はあると思います。

前年度年間計画と赤本だけの授業と分掌の仕事で忙しいだろうけど、そろそろそうしたものを見極める力が身に付いてきたのかな。

決まった情報だけを伝えて、その手順どおりの方法で行っているかを確認して評価するのが「小学校の先生」の仕事なら、確かに小学校はいらないかもしれないね。

今の世の中の人が「情報として」小学校教員を「安定した塾の先生としての職業」として認識しているのは「学歴、知識社会における小学校」としての位置づけと、「勤労者としての職業意識」の変化があるからかもしれないね。
総合的な学習(探究)の時間が楽しかったのは、そうしたものを越える何かがあったのかもしれませんね。

ただ、そこに「生きがい」を感じるかどうかは、個人の問題だよね。

話を戻すよ笑

正しいと思われる情報を収集するためには、その情報ソースがどのようなものであるかも調べつつあまたの情報を飲み込む必要があるのはあなたたちなら理解できると思いますが、そのツールも手段も持たない人と、それらを持つ「為政者」とのデバイドがうまれているように思えるのです。

フェイクニュースや迷惑メール予防ためのURL確認の習慣を身に付けさせることは歯磨き指導と同じぐらい必要な生活習慣になるかもしれないのに、なぜ、学校ではしないのだろう?
意外とこんなことで何かが見えんかもしれないね。
「世の中の役にたつこと」=「生産性を生み出すこと」で「困っている人を助けること」には必ずしも合致しない、その事を考えずに継承している「伝統」という文化が学校にはあるのもしれないね。

「情報」は「力」を持つ者のためだけに利用されるなら、本来の力を発揮することはできなく「疑心暗鬼」という状況を生み出し、「分断」や「対立」を起こすという仕組みを子どもたちに考えさせずに、その利点だけを正解とするのはなんだかおかしいよね。

「民衆」という人々を操作するごとに気づかせられない「情報教育」は偽善なのだと「専門家」や学校の先生たちは気づかないのだろうか、と思うことがあります。「情報教育」の理想が見つけられなかったというストレスがあったのかもしれませんね。

情報教育は家庭や社会で行うべきだという議論もあるかもしれないけど「情報教育」は分担された誰かがやるのではなく、それぞれが自分の立場で何ができるのかを考える課題なんだと思います。

「タブー」はなぜ生まれ、「タブー」であることて得をする人たちは誰か。

何もゴシップのことをいっているのではないのですが、「タブー」が明らかになることにワクワクしてしまう人々の気持ちを利用して「フェイク」が「タブー」だったこととして明らかになるという構造もありますよね。

5人のライングループはひとつしかないとと思っている人たちといくつものライングループがあると分かって利用するの人たちとでは、「全員グループライン」での発信内容も違ってくるわけで、こんなことを年配の管理職がどこまで理解できるのか、情報教育の沼は深いですよね。

でも、そこを考えさせることが「経済」と「学歴の優位性」だけを教える学校よりも、今必要なのかもしれませんね。

このあたりは、「教育学」ではなく「教育方法学」や「教育工学」という世界なのですが、世間的には「教育学」の倫理で判断されることが多いから、先生たちが混乱するのかもしれませんね。

高校の「情報」教育でしか教えられないとしたら、オープンな情報公開を目指したはずの「情報」が、「タブー」や「闇」を生み出すものになってしまっているように思います。

折角フェイクニュースを取り上げるなら、サイバープロパガンダまで、踏み込める指導が、小学校でも出来るはずですよね。

「情報教育」における「情報リテラシー」は両刃の刃だとおもいます。

ネットにはサイバープロパガンダが溢れてますが、矛盾をみつけさせることができれば意図的なソースの信頼を消すことができますよね。

面白い世の中になったと感じられるのは判断できる力を持っている人たち、情報分析の弱者はカモられる、そんな時代のようにも思います。

何が言いたいのか、フェイクニュースを教材に授業にしたのなら、次はサイバープロパガンダの授業をやってみるのも面白いかな、ということでした。
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お米ですね。

2025-02-19 12:15:11 | Weblog
最近、お米がニュースになっているようですね。

米飯給食もピンチみたいだけど、やっぱり、自校炊飯の給食はうまかった記憶がありますね。

昭和の現役のころは学校給食の主流はパンと牛乳がセットになっていましたよね。

そのおかげで、日本の食生活が変わったという気がします。

日本にない「小麦」で作るパンと生産量が少ない「牛乳」だったのってことはあまり気にしませんでした。

最初で三角パックから牛乳ビン、そして今の紙パックと入れ物は変わりましたが「牛乳」、そして「食パン」や「コッペパン」は変わらずでしたよね。

昔、こんなことを、6年生の子どもと「社会」の勉強で話したことがあります。

「なぜ、給食にお米がでないのか」(昭和です。笑)

当時、お米好きだった僕は外国(アメリカだと思います)からの輸入を前提とした国の施策に「学校」が利用されていたのでは、なんて考えていたのかもしれません、社会科が専門でしたから。

脱脂粉乳で小学校時代を過ごした経験から牛乳をのむことに違和感があったのですが、「日本の酪農家を守る」とか「食生活の改善(欧米人みたいな身体に)」というスローガンがあり、そうなのかなと思っていました。

でも、今の米のニュースを聞きながら、日本はもう「米の自給自足」というか「食べ物」の自給自足が難しい「国」になったのじゃないかなって危惧してます。

元社会科の専門家で、今はどちらかというと総合的な探究に興味がありますから。

でも、日本人の米離れを促進したのは「学校」だったのかもしれませんね。

「安全で、安価な」日本食に戻すなら学校給食が結構大きな影響を与えるのです。

日本の「食文化」に影響したのです(笑)

食育も考えたことがありますが、食事のルールなんて、「同じ時間に食事」ができないことが多くなった「今」必要なルールかなと思います。

「個食」を「当たり前」と考える風潮に「学校給食」が関与してきたなら、楽しい給食時間を考えれば解決の方法も見つかるかもと考えたこともありましたが、分掌が「給食部」でもなかったし、給食部長が苦手だったという個人的な事情もあったので、口にはだしませんでした。

でも、コロナの時に思いだしたのですが、「楽しい食事時間」に「規制」は必要なのでしようか。

三角食べなどという「規則を守って食事の順番まで規制する」って無茶苦茶「戦時中の兵隊さん」なんですが、いまだに「給食指導」という名のもとに若い何も考えない栄養士さんが指導しているところがあると聞いたことがあります。

規則は制限する事、マナーは楽しむためのもの。規則は誰かが作ったもの、マナーはみんなで作るもの。楽しむためのマナーは必要だと思います。

「前例」を尊重するあまり、時代にそぐわない指導を行ない続けて、「なぜ」を忘れてしまう日本人の習性なのかもしれませんね。

好きな食べ物が出たとき、最初に好きなものを食べるか、最後に好きなものを食べるかはディベートの題材にはなりますが、個々の感性の問題なのかなと思う時もあります。

ただ野菜は先に食べたほうがいいということは僕は入院して初めて知りました。病院食はまずいと文句を口にした時、医師から聞きましたが、守るべき順番はそれだけでした。

担任のころ「三角食べ」なんかおかしいと言った僕は確かに肥満体になりましたが笑

給食は好きでした。
牛乳は「肉食」に結びつき、洋食文化に対しての緩和材になりましたし、日本人の体つきもよくなるなどの大きな変化がありました。
スタイルもよくなり、背もたかくなったのですか、それが運動能力に結びつき、世界で活躍できるようになったのは、食事の変化のおかげだと言えるのかもしれませんね。

ただ、「一粒の米を大切にする」という「言い伝え」はスプーンで肉丼を食べる新しい食事のスタイルでは死語になっているのかもしれませんね。

また、管理職になると政治と教育は結構、関係があることに気づきます。

教育委員会は、政治的な特に「予算」絡みの施策に敏感でないと苦労するはずだし、とくに「学校」は国の施策でぶれまくります。何も考えない「保身」の管理職なら、ですよね。「考える管理職」は板挟みで苦労する(笑)のかな。

自分の正義を見つけたと思い込み、それ以後何も考えない若い教員が「自分の夢や使命感」だけで「教育って何んなの」という問いを持たなければ、単なる従順な権力者の羊になるだけなのでしょうね。

僕がそうであったように笑

食を考える時、祖母がよく言ってい「煎じ茶」という言葉を思いだしました。何でも近くにある野草を煎じて飲むのです。

どくだみ、ヨモギなどをよく飲んでました。どくだみの独特の匂いが手にのこった記憶があります。

孫に飲ませると、息子や娘がきっと激怒するだろうからそんなことはできないなと考えてしまいます。

九州の友人からゴーヤ茶をいただいた時に、また、思いだしました。

健康にいいものは「苦い」という「良薬は口に苦し」という「言い伝え」です。

未来を担う子どもに何を考えさすことが大切なのかという「問い」の答えはまだ、見つかりません。

何を教えるか、なにを守らせるかにこだわっているあいだは、見えない世界なのかもしれませんね。

「なぜ」を一緒に考える楽しさはそれを楽しんだものにしかわからない楽しさなのかもしれませんね。

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表現活動ですか

2024-12-04 21:24:14 | Weblog
オーストラリアに旅行した時に、オーストラリアの高校にはサーフィン科があることに驚きました。

自分の生き方を支援するコースがあるんだという驚きでした。

日本でも演劇を通して表現する高校があることを高校に勤務する先生から教えてもらいました。

自分の生き方を支援する体制が徐々にできているようです。

自分を自分らしく表現するって結構日本の社会では難しいことだったけど、もう時代は令和、今までのしがらみや忖度に束縛されている事自体が問い直されていますよね。

これからの時代は表現がキーワードになるように思ってます。

国語や総合からのアプローチを小学校から始める必要があるのではと考えてます。

昭和の時代の小学校では、身体表現(いわゆる劇)だけではなく、その前段階としての人形劇的な指導としてペープサートやパネルシアターという手法がありました。

でも、ペープサートやパネルシアターというスキルはもう、消えたのかも知れませんね。

どんな技術かはネットで調べられますので一度調べて見てください。

表現することを大切にした時間が減っているように思うのです。

確かに物語の心情読み取りだけでは、大学入試の長文読み取りには対応できないかも知れませんね。

だからといって指示語探しの説明文や文法の授業がおもしろいはずがないのも確かなのです。

唐突ですが、僕の思う、劇はクラスづくりです。

発信(表現)する学習者(子どもたち)が発信したいと思うテーマに巡り合い共同でそれをやり遂げたときの有用感を共有できます。

そのプロセスを国語か総合のカリキュラムの中に落とし込む事が必要で、学習発表会自体は、ある意味で、単なるイベントです。

ても、イベント当日のでき映えや他の先生の評価は気にしなくていいのです。

当日までの取り組みで、子どもたちが面白い、もっとやってみようと思えればそれで良いのだと思います。

大事なのはそこに至るまで子どもたちの姿勢にはあなたのクラスづくりが反映されているということなのです

アプローチの仕方は3つぐらいありますが、テーマと関わって教科も時間数も違うと思います。

まず、国語科からのアプローチについては物語をテーマにするものが多いので、歴史や街の歴史を物語仕立ての台本(シナリオ)を作ります。ネットにあるものを利用しても「あなたが見つけた物語」という付加価値は付きませんね。 
(ここがあなたたち、先生の力量になります。ありきたりの物語もいいのですが、「誰も知らないこと」を身体表現としての劇にしたいなら郷土資料館などから物語をみつけるといいですね)

2つ目は総合としての台本カリキュラムを作るアプローチてす。

たとえば「テレビ報道仕立て」の発信を想定して、歴史をビデオや写真で紹介するグループやグラフで可視化するグループ、ビデオレターを作る技術班など子どもの特性を生かしたポジショニングが大切で、あなたがデレクターになり、イベントまでのスケジュールと達成目標(ロードマップ)を作ります。

詳しくは新しい教職講座 (第8巻)「総合的な学習の時間」ミネルバ書房 に小学校の実践事例が乗ってます。
R大ではまだこれを教科書にしてます。宣伝です。

3つ目が社会教育(生涯学習)や就学前教育で培われてきたスキルへのアプローチです。

ペープサートやパネルシアターは幼稚園の先生や保育園の先生が上手いです。

昔は小学校でも低学年を持つ先生はスキルとして持っていました。

ただ準備が大変なのと、小学校では、スキル継承や引継がうまくいかない、カリキュラムに入れてないなどの課題で消えていったのだと思います。

こうしたことに危機感を持ったのが、平田オリザさんです。子どもだけではなく「人間の悩みや苦しみ」を考え、演技(模倣)することで疑似体験ができ、人間を理解できるという考えかたです。

あなたの今回の交流会での「劇」とは少し違うかも知れませんが、読んだ本のなかでは「ともに生きるための演劇」辺りがおすすめですね。

どんな「イベントとしての劇」をするにしてもゴールとしてのイベントはこどもたちが「いきいきと取り組んで、喜んでやっていれば」成功だと思います。

やらされて台本を読まされてる劇(イベント)や全校朝会での先生の作った原稿丸読みのような発表を見たこともありますが(委員会活動がおもしろくなくなる原因でもあります。)子どもを、先生の操り人間にするイベントは、あまりおもしろくないですよね。「あなたの劇」を作って下さい。
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ちょっと前に読んだ本

2024-12-03 09:33:54 | Weblog
アメリカで起こったことは、10年経ったら日本でも起こるとよく言われますがこの本が示してくれた現実が、日本でも起こったということですね。
 
5年ほど前にでた本ですが、情報社会が進めば「何が真実なのか」を迷うときがくると示してます。

数字や統計のマジックに引っかかる事の怖さや情報を意図的にコントロールすることができることそれが、マスメディアに攻撃の矛先を向けたことは、10年前のアメリカでした。

それが、アメリカの混乱のひとつの原因になっのかも知れませんね。

マスコミというスポンサーつきの会社を作らなくても、個人が情報を意図的発信(フェイクやファクトとして)できる時代になった国で、どうすれば真実を見きわめる力(ファクトチェック力)ができるか、については、事実に基づかない真実をうのみにしないためには情報だけでなく自分自身を批判的に見る力が欠かせません、と言ってます。

少し分厚い本ですが、ある意味での今後のメディア教育の方向を示してくれた本で、今の日本を考えるにはいい本だと思います。
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初めて孫の運動会にいけました。

2024-10-22 12:41:09 | Weblog
ようやくコロナ禍が過ぎ、孫の運動会に参加できるようになりました。

上の子は今年6年生、少し遠方なのと、コロナのおかげで、式という名の付くものや、○○会というイベントには人数制限や延期で、今年の運動会が小学校初のライブ鑑賞、そして最後の機会でした。

学校では、コロナのお陰で「学校行事の精選」が進み、行事の時間短縮や内容の吟味が行われ、「運動会」もその対象になっているようですね。

当事者である子どもたちにとっては、「なくて当たり前のこと」「ズーと昔にあったこと」でも、「初めて経験する事」は楽しいことだと思います。

ただ、厄介なのは「見る側」が、「当たり前のこととしての経験」をしている保護者だということだろなと元先生のじいじは思いながら、初めてで最後の運動会を見てきました。

コロナの期間中、儀式行事の取り扱いや体育、音楽関係の行事、遠足や社会見学をどうするのかは、各学校の判断に任された部分があり、子どもたちと同様に運動会も初めて取り組むという先生もいるのかも知れませんね。

教科の指導と違い、計画書やプログラムがいかに綿密に組まれていても、それは「主催者側の感覚」なのがイベントなのです。

昭和の先生たちは「主体者」としての「子どもたちのモチベーション」と「見る側の親たちの思い」に共感する先生の思いがないと「学校行事」での「感動」は生まれないと経験則で考えてきました。

先生の指導スキルではなく、古くさい精神論的な「思い」重視論ですね。
子どもがどんな思いで、「見守ってくれる人に何かを伝えようとする姿」を示してくれるのが「学校行事」で、単なるイベントではないという「刷り込まれた意識」があるのです。

所詮、親たちは自分のこどもの姿しか見てないし、それが親として当たり前だと考えていたのでしょうね。じゃ、今の親はどうなのか、自分の子どもで判断するしかないので見てました。

母となった我が子が孫の姿をどのように見るのかも楽しみでした。

フェスで音楽を楽しむ感覚で、こどもの演技を見るのか、「母」として我が子を見るのか、それが知りたかったのです。

子どもが「見に来る誰か」のために、一生懸命努力した姿を見せる、それだけで「誰か」は感動し、満足すると考えてきました。

往々にして、先生たちは「できばえ」や「ビジュアル」などの「技」や全体を動かすというスキルや観客にどのように見せるかという演出力にこだわるという傾向があるように感じることがあったのですが、「親」までそんな評価をするなら、それは間違いだと言わなくてはと思う祖父母の心配は、娘の涙でかききえました。

親ばかな親は周りを気にせず泣くのです。

昔、指揮台の上で「先生」として演技をみた時、「そんな親たちの思いがお前にはあるか」と昭和の時代にはイベントだけが生きがいの「体育会系」と呼ばれる先輩が言った言葉をふっと懐かしく思い出しました。

娘は一生懸命、演技に取り組む姿を見ていると、六年生になるまでの子育てのことがフィードバックしてきたそうです。

たとえそれが、「去年と同じ選曲」のほんの少し振り付けと衣装が変わっていただけの演目であっても、「小学校最後の運動会」に取り組む姿は親たちやじいさんばあさんに「感動」を生むものだということなのだと思います。

帰りの新幹線で、缶ビールを飲みながら思ったことは、
徒競走がなくなり、集団演技と集団競技だけの午前だけで終わるプログラムは、時間短縮で「先生の負担軽減」のためには仕方のないことだと思うけど、「全員リレー」がなく「綱引き」なのは❓️これは昭和のノスタルジーかな。

徒競走も学習として位置づけるなら今度は「記録会」が必要になるはず。
単に廃止するだけではなく、きちんとした根拠がなくては、体力テストという報告のための時間は「健康診断」と同じ扱いにする必要があるし、体育の時間は集団ゲームの時間で終わり「体力(走投跳)」の向上はスポーツジムに任せることにならないかという危惧が生まれた。教科の専門性を考える時、「体育」も「算数」も同じく「教科学習」ととらえるのが小学校で、単一の「教科」としてとらえるのが中学校だという違いを理解してる大学の先生や政治家さんは意外と少ないかも。だから小学校の先生に魅力がなくなったのかな。

とにかく金がないと子育てが難しいのは何も学力だけではないですね。

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コンピューターが人を超えるですか。

2024-10-10 12:30:43 | Weblog
今年のノーベル賞をもらった科学者が早ければ5年で「シンギュラリティ」が間近に起こると言ったそうです。

スキルだけなら、僕なんかはとっくに抜かれてるかも知れませんね。正確な誤字脱字のない書類を書くことや句読点を間違えずに付ける、なんてことは、きっとAIの方が上だと思います。

遅くても20年ですか。

その時までは生きているかどうか、怪しいですが政治の世界もAIに任せる時代が来るかも知れませんね。

人が自ら考えず、他の人にその考えを委託するシステムがあること自体がおかしいと考える学者さんがでてくるかも知れませんね。

理念なき二項対立の政争が「政治」と呼ばれるなら、若者たちは「政治」に参加することすら放棄し、自分の意思を代弁してくれる独裁者を待望するかもしれません。

「対立」が「分断」と同義語とするなら、「違い」と「差」の区別をつけることは難しい事だと思い込んでしまうかも知れませんね。

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今日も29℃ですか

2024-10-02 12:59:13 | Weblog

昼から大阪で打ち合わせがあるので、少し早めにでて、昼飯を大正で食べることにした。

京橋までの電車の中、外国からのお客様が大きな荷物を抱えて、優先席に。隣は勉強がお仕事で、参考書にかじりつく若い学生さん、優先席を作るより、インバウンド車両やお勉強部屋車両が必要なのではないかな?



大正と言えば沖縄料理、沖縄まで行かなくても美味しい店が大正にはある。


初めて沖縄料理を、食べたのはなぜか神戸のガード下、その話を友人にしたら大正のガード下の店を教えてくれた。



久しぶりの沖縄そばとおにぎりの定食はおいしかった。やっぱりお茶はさんぴん茶、いまだにジャスミンティーとのちがいはわからない。



ルートピルがのめなかったのは少し残念、なんか輸入できないらしい?ドクターペッパー探そう。

ちんすこうを手土産に昼からの打ち合わせ、頑張ろう🎵
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