おっさん先生と愉快な仲間のぶろぐ

先生って楽しい仕事だと思い続けることができたしあわせな爺っさまのつぶやきです。

旅がしたい

2022-03-21 17:22:17 | Weblog

エストニアは旧ソ連の時代、情報整備の中心になっていた国で独立後も電子政府と言われるくらい情報環境が整備されていた。

キエフと同じくロシアとの国境が近いタリンの街で人々は今どんなことを考えているのだろう。

タリンの街で、国や政府がメディアを使って情報の制限をしたり、「言論調整」や「言論弾圧」する仕組みがあるということは、そのつらい経験から「誰でも知っていることだ」という人に出会ったことがある。

日本では、どこで教えるのだろう?とふっと思ったことを思い出した。戦争が起こったら「大本営発表」があるということは歴史で教えるけど、組織において、その組織にとって都合の悪いことや、構成者に知られたくないことを「伝えない」ことは「日常的に起こる当たり前のこと」という感覚に大きな隔たりがあるように思った。

人と関わるなかで、言ってもいいこと、言ってはいけないことを経験で知ったり、他の人間(親や先生や大人と呼ばれた年上の人たち)から、教えてもらったりして「限られたコミュニティ(家庭、教室、地域)におけるコミュニケーション」の取り方を学んでいくのがコミュニケーションスキル学習だと思ってきた。

前提として「人と関わることが、必要」だという意識が「あたりまえのこと」(いわゆる社会通念としての常識)としてあったからだと思う。

「人と関わることは組織に属すことで、そこには組織の運営のため情報を操作するものがいるから、組織には属さない」からソ連からエストニアは独立したし、僕は会社に入るより個人で独立したい」という彼の意見。

もし、コミュニティに依存し、そこに、ただ存在することに意味を見いだせるなら、組織の中の「常識」は崩れることはなかっただろうし、常識的な生き方が、安全で安定を生み出したはずだった。

だから僕らは、情報はいつでも水や空気と同じ「信じていい安心なもの」としての感覚が身についてしまっていたのかもしれない。

人という厄介な生き物は、常に新しいものを求める時、新たな「常識」を生み出さずにはいられない生き物なのなのだろう。

かつて子供たちに教えた「口を封じる」という慣用句には人の命を奪うという意味がある。言いたいことが言えない、聞きたいことが聞けないというのは命を奪うことと同じだという意味があることは知っていたはずですよね。ただそんな経験がなかったという違いは大きいものなのだと思います。

本当のことが言えない、メディアを通して伝わらない息苦しさを感じない大人はどの時代にもいて、安定や安全を確保するためには「言ってはいけないことがある」と真面目に説いてきた。

そう、日記帳は机の中に隠して人に見せないことが大切だと。

確かに、何でもあからさまに伝えることで人間関係は必ずしも深まらないという気持ちが心の片隅にあることが難しいところですよね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「避難民」という表現

2022-03-19 11:28:26 | Weblog

 新聞では「難民」という文字が消えましたね。

多くの新聞では「避難民」と表記しています。

「難民」という文字のイメージは、今まで日本人が持っていた漠然とした「恐れ」、受け入れることもなく、その存在も距離があった人々という感覚から、将来日本人として「帰化するかもしれない」外国の人というイメージに(変わりつつあるのか、変えようとしているのかは別にして)変化しているようです。

戦争=難民というイメージが作られてきたからなのかもしれませんね。「避難民」なら自然災害も含めているようでイメージが和らぐからなのかもしれませんね。

ずーと「情報教育」というものに関わってきたので「文字による表現」ということに少しこだわりがあるのかもしれませんね。

組織としての「情報の操作は必要悪」だと考えている風潮にあらがうことは、組織にいた人間ならだれもが知っていると思うことですが、非常に難しいものなのだそうです。

流されることを「要領がいい」とか、「オトナだ」とか正当化するには、強いメンタルが必要ですよね。

忖度や配慮が必要だということは社会人になれば必ず一度は先輩や上司から言われることですね。

「口に気をつけろ」「口答えはするな」、今、どこかで戦争を行っている国の指導者の世界観に似ていますね。

そうなんですよね、「嘘も方便」という慣用句は、今でも日本の学校で教えられていることだと思うし、「世の中には知らない方がいいこともある」と意味深な言葉を吐く善意の先輩に出会ったこともありますよね。

組織とはまた別の問題として、個人の資質とか人間性が情報の拡散と関係している場合もあるかもしれません。

「人々が疑念を抱く情報」を、ある一定の方向に導くということが意図的に行われた場合、そのことが「真実かどうか」ではなく、個人として「信じるかどうか」が問われ、判断をする必要があるような強迫心理が生ずる時がありますよね。

また、意外と真面目な人ほど自分が嘘をついていることに気づかないこともあるようです。

というか、「真実だと信じている」からで「嘘だと」指摘すれば保護バリヤーを張り巡らし、攻撃的になったり、よりかたくなな殻に閉じこもったりするのかもしれません。

まるで子どもみたいということはたやすいのですが、年を経て経験豊かな方の場合やすぐそばに存在している場合は扱いが難しいですよね。

「共生」はお互いの素の姿を受け入れることから始めなければ、「ただ本音を伝えるだけ」では実現しない難しさがあるのではと最近思い始めています。

7年前ヘルシンキの街では、難民を労働者として受け入れてきた社会福祉国の政府に対して、市電、市バス、鉄道などの公共機関の就労者が「受け入れ反対」のゼネストを行っている風景に出会った。自国の「働き場所」を自国民から奪う政策には反対だという駅員と飲み屋で話したことを思い出しました

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もうすぐ卒業式ですね。

2022-03-14 22:20:35 | Weblog
卒業式の日に最後にはなす言葉ですか。

あなたの思いを伝えることが大事だとおもいます。

初めての卒業生を送り出すのならともかく、何回目かの卒業生なら泣かないで笑顔で自分の気持ちを伝えることがプロだと昭和の先生たちは先輩から教わりました。

あなた達は感情が豊かだし、保護者の目も変化しているだろうから、気持ちを素直に出せばいいと思います。

あなたの問いかけをききながら、自分ならどんなことを「今」話すだろうと考えました。

今の僕が担任だったらこんな話をしていたかもしれません。

戦争の時代を生きた祖母が、お彼岸の頃、お寺の境内でハトに豆をやりながら、何故か急に、幼かった私に向かって「戦争は私たちがしらない間に始まっていたんだよ」って言った言葉が、甦ります。

国際社会を学級に例えるのは、余り適切ではないかもしれませんね。

でも、子どもたちに今の世界を伝えることがあるなら僕は「クラス」を例えにします。

「国を守る」って「国際社会」からspoilされたら生きていけないから、暴力で従わせるか、だれかの助けを受けないと「はみご」にされるって構造は、まるで、小学生のグループ対立やclassroomカーストと同じ構造なのではないでしょうかというといからはじめます。

あなたの受け持つクラスで、こうしたことをあなたは容認せず立ち向かってきたなら、今の子どもたちに「今の世界」を伝えることができると思いますし、伝わるはずなのです。

猿に例えられた日本も、白熊さんと同じ道を歩いたことがあったけど、また、どっちかにつかないと「はみご」になると悩んでいるのか、どっちかについてそのカーストのなかで守られることを選ぶのか。

まるで小学校で起こっているようなことか「今の世界」で起こっているなら、子どもたちはあなたと一緒に考えることができると思いませんか。

まもなく卒業式ですね。沢山の思い出はコロナで作れなかったかもしれませんが、今の世界を考える視点を持たせてあげたいと僕は思ってます。

「何かが起こった時」、力なき良心の仲裁者は対立するグループの暴力になす術もないのかという問い

国連の立ち位置が僕には「高学年を受け持つ学級担任」と、どうしてもオーバーラップしてしまうのは年寄りの冷や水ですね。

学級担任の明確な方向性が必要といわれたのは昭和の時代ですが、あなた達新しい時代の先生は、担任の意思通りに動く都合のいいリーダを作ることにあくせくしたり、リーダのいないクラスを嘆いて何もできないと諦めることはしないと思いますが、では、どのように「クラス作り」をしてきたのでしょう。最後の言葉はその結果なのだと思います。

担任の先生が「国連」って暴論ですが、クラスが国際社会の縮図に見える時代を感じています。

クラスで学級作りが、難しいのも、国際社会も同じて考えるのは、飛躍しすぎですよね、世界のリーダが小学生が解決できることを解決できないなんて姿は晒して欲しくないですね。

戦争の足音が空耳で聞こえるのは僕が年老いたせいですよね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都人あるある

2022-03-14 18:22:04 | Weblog
伏見で8時までの時間制限のなかで酒酌み交わしながら京都生れの年寄り達の話題。

「安土桃山」時代の桃山って、なんかおかしいんだよね、特に京都生まれの年寄りには。

平安時代は平安京に都があったから。奈良時代は奈良に都があったから。鎌倉時代は鎌倉に幕府があったから。江戸時代は江戸に幕府あったから。という風に明治までの時代区分はその「都のあった広範な地域」という感じなんだけど、それなら「安土伏見」時代なんだよね。

東京に政治の中心かあるのに「東京時代」と呼ばずに「明治」時代という天皇の諱を時代区分としたことも、何か意図的だけど、政治の中心は「天皇」にあったとするなら、筋は通っているのだけど「桃山だけは何かおかしい」

桃山という狭い地名はあるけど、そこにあった城なら「伏見城」だし、明治維新の鳥羽伏見の戦いまで地名としては「伏見」が広いエリアをさす地名なんだよね。

ネットて安土桃山時代の「城」って「安土城」しかないのは「伏見城」は再建されてないからだろうけど、もっと「伏見」って地名アップしたらいいと思うけどな。

古い京都市生まれの年寄りのなかには、令和になっても「伏見と山科は京都を詐称している」とか、「右京区と西京区は後からくっついた区」いう市バス206伝説があるようだけど、伏見は「酒」で地名が先行しすぎたのかもですね。

「桃山」が、有名になるのは「桃山城キャッスルランド」という遊園地ができてなんだよね。

だから、小学校でこの時代を教える時「織豊時代」って教えていたけど、子どもたち、キョトンとしていたな🎵

時代区分を名付けた人、きっと明治以降の京都以外の学者さんじゃないかという京都人あるあるでした。

歴史を知ってる先生、誰か知ってたら、教えて下さい(笑)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戦争のない世界になりますように。

2022-03-02 23:43:15 | Weblog
ベトナム戦争の時、戦争反対の声を挙げ反戦歌を歌えばアメリカは戦争をやめると信じていた。

若かったのですよね。

国を守るためには、国に経済力や科学力が必要だということはわかります。

でも、周りが戦争反対の声をあげるだけでは戦争は終らないということはベトナム戦争の時、大人達が教えてくれました。

政治は強いものが生残る力学で、自分の身に迫らない悲劇は、テレビのドラマと同じだということも、でした。

とんな綺麗事を言っても人の命をうばえば革命も戦争も同じだし、政治というパワーゲームで勝ち組に乗れば少しは生きやすくなったかもしれないけど、そんなことより、小さな幸せで満足しようとしたのかもしれません。

だから止めて欲しいという願いがあっても、「何が自分にできるか」を考え続けることをやめたのだと思います。僕の「視野の鎖国」はあの時から始まったのかも知れない。若者達が声をあげているという、こんな時先生は何を教えているのかな。

第一次世界大戦の時、ドイツの領土(植民地)だった中国の青島を奪ったのは日本だったよね。その時スペイン風邪が流行っていた。そのあとから、日本への欧米やロシアの敵視が始まったよね。なぜだろうね。
第二次世界大戦で、日本は今度は領土を奪われて、もう戦争しないと宣言したんだよね。でも、ソ連とは国際法上戦争は終わってないよね。なぜだろうね?

でも世界の他の国はどうしてたか、なんか日本では余り学んでないのだよね、大学入試には日本史で充分だし、高校の選択でとった世界史で近現代までやるなんてめったにないからね。

極東の国日本にとってヨーロッパは「極西」なんだよね。

クウェートでも、イスラエルでも、ブラハでも、チェチェンでも、イラクでも、ミャンマーでも、ジョージアでも、チェコでも、アフガニスタンでも、アフリカでも、チリでも、「内戦」「内乱」「紛争」という名目の「戦争」があったし、日本でも「乱」とか「変」とか「事変」とかいうけど結局は「戦争」なのじゃないかなって思ったことがある。正しい「戦争」なんてないとしか、教えることができなかった。

教師だった時、先輩達が熱く語る「戦争教育」「平和教育」という論議になぜかついていけず「人権教育」や「命の教育」が大切だと思った。大学では歴史を学んだのに。

マスコミの取り上げかたが何か、気になる。世界大戦になるから?経済封鎖で日本の経済に影響があるから?ロシアが侵略したから?ロシアの銀行投資に日本の年金使ってるから?
結局は「政治」が、国が解決してくれますよ、それができないなら「政治」が悪い、国が悪いから、参議院選挙に投票しましょう、ですかね。

リタイヤした老人に何ができるのだろう?考えてみますか。

「知っている」だけ「熱意」だけ、ではなにも変わらない世界を変えることができるツール、結局は個人の良心と人と人とのつながりなんだろうな。

たくさんの事実や真実は、人をまどわすこともある。必要なのはひとつの良心、かな。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする