おっさん先生と愉快な仲間のぶろぐ

先生って楽しい仕事だと思い続けることができたしあわせな爺っさまのつぶやきです。

夏ですね。

2022-07-29 14:58:36 | Weblog


久しぶりに本棚の整理をしていたら、何冊かの懐かしい本をみつけました。使い古した工作図鑑は、図工が苦手だった僕を図工好きにしてくれました。

 この3冊は。教師って仕事を考えさせられた本です。

 教育実習という制度は京都から生まれたと自負していた大学時代の恩師は、教育実習は「実習校にとって本務ではない」と明確に示しながら、それを担う担当教師に理想があるのかを問うていたのだと思います。

 「授業はコミュニケーションを組織することだ」とする知見は僕が「授業」をずーと、考えるきっかけになりました。

 「学力」についての問いは「ゆとり教育」についての問いでもありました。  
 「教師のためのゆとり教育」をめざした教師が当時は批判され、今は、再評価されようとしていますが、「子どものためのゆとり教育」が必要であり、そのために熱い思いを持った教師もいたことを忘れてほしくないという思いが今でも蘇ります。

 「ゆとり教育」で示された方向性は、決して間違っていなかったと思います。
ただ、難しかったのは、教育力のある学校でしか実現できないというものだったし、小学校という限定された場所でしか理解されなかったということです。

 アクティブラーニングも「探究」も、「生活科や総合的な学習の時間」で追い求めたこととどこが違うのか、よくわかりません。

 多分廃刊になっているので古本でしか読めないと思いますが、何度も読み返した本です。

 自分の心を明るい色のフィルターにかえると、見える景色も夏の色になり、足りない時間さえ、余裕のあるものになるってことにようやく気づきました(笑)

 「教師の負担感」に関連して「教師のメンタルの弱さ」「教師の資質不足、スキル低下」などの解消を指摘する議論があるのですが、少し違和感があります。

 今どきの先生をみていると、気持ちを切り替えることが、不器用なだけで、安心して気持ちを切り替える方法を教えてくれる先輩や上司が居ないという「情報が欠落した」環境にあるというだけのことと思ってしまいます。
 
 同質の情報しか獲得しない、できない環境にあるということの危険性ですね。一般世間(現実社会)と情報乖離した異質の空間だと言うことは古くからいわれてきたことですが、ますます現実社会を知らないまま子どもたちに現実社会を生き抜く方法を示さなければならないという矛盾に見える命題に、向き合わなくてはならない時代になってますね。


 個別最適化された学びと協働的な学びの一体的充実の具体が見えにくいのは個別最適化を「個の知識やスキルの数値化」と読み違えているからではないのでしょうか。
 「協働」を「同質の共同体」と読みくだくベテランたちのマウンティング体質という構造的な課題に対し、抗う事を放棄せざるをえないと感じている大量採用されたミドルリーダーと呼ばれる世代の心の持ち方ひとつで、「小学校はかわる」と思っているのですが(笑)
 
 何もしないと、また「校長がかわれば、学校がかわる」論や「カリスマ教師が学校をかえる」論の復活ですね。

 夏です。年休を取っても、いい時代になりました。思い切りリフレッシュしてください。



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作文ですか。

2022-07-13 10:17:11 | Weblog
 作文のことで少し思いだしたことがあります。

 若い頃、斎藤喜博氏と無着成恭氏にハマったことがあります。

 生活つづり方という言葉を、知ったのは「山びこ学級」での無着先生の実践だったのですが、今、「山びこ学級」の取組や無着先生を、あなたはどのように評価するのかな?

また、暇なとき教えて下さいね。

 僕はクラスに40人の子どもたちがいて、2年間の担任が当たり前の昭和の時代に担任として勤務していました(今の保護者の一部もまだそうした経験があるはずですね)が、今、小学校では、一年間が当たり前の時代ですよね。

 持ち上がりも「グラス替え」があるはずで、「クラスに適応しにくい子どもをクラスで支えるのではなく担任の力量と相性で判断して、持ち上がる」のが一般的になっていると思うのですが、なぜそうなったかを保護者が聞いてきたら、あなたはどう答えるのかな?

 小学校担任は、教科指導も大事、学級経営も大事、更に生徒指導、教育相談も大事だと教わった人もいるかも知れないけど、小学校では、そんなの全部できるスーパーマン教師はいないからね。

 ひとつずつ、ゆっくり積み重ねて行けばいいよ。

 昭和の先達たちはひとつの価値観にどっぷりひたり、それを教科指導や生活、生徒指導でどのように発信するか、更にはその立ち振舞いまでが「品位」として求められていた部分があるように思います。
 今はそうしたスタイルは「小学校では」時代遅れなのかもしれませんね。

 ひとつ価値の押し付けにならない多様な価値への認識を持ち、その場に合わせた提示ができる小学校の先生がカッコいいんだけどな(笑)

 どうしても人は信じることで救われる部分があるから、自分の固執する価値観から離れられず、俯瞰できないでいるのかもしれませんね。

 100点主義(満点主義)に陥ると新しい価値との出会いに躊躇したり混乱したりするんだろうな。

 ひとつのことを見極めないと次のステージに移行できないというのは昭和のロジックなんだけどな。
 令和スタイルの先生への問い、大切にしてくださいね。
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自己責任という言葉はあまり、好きではありません。

2022-07-03 18:20:14 | Weblog
 何でも子どもたちの「自己責任」という言葉で大人が自己放棄していることを隠蔽しようとする風潮があるように思えるのですが、こうした大人たちの姿勢には、賛同できないのです。

 ありきたりの質問をひとつ。

「幸せ」ってなんなのでしょうね。

 教育を語る時、どうしても自分の解が必要になった問いだったように思います。

 年齢と共に変化するかなと思っていたのですが、僕の場合は中学の頃から同じで変わることはなかったようです。

A happiness consists in contentment

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