おっさん先生と愉快な仲間のぶろぐ

先生って楽しい仕事だと思い続けることができたしあわせな爺っさまのつぶやきです。

ふっと老人は考えました。

2020-03-26 20:14:49 | Weblog
もう、慌ててスーパーに買いだめ始めたり、コンビニの食糧買い込んだり、前のトイレットペーパー騒ぎとおなじようなパニックは始まってますよね。

渋谷では若者たちが日常を楽しんでいると海外のメディアが批判的に報道しているそうです。

京都の渡月橋あたりでもまだ若者が闊歩してます。

ふっと年寄りは考えます。

リアルの危機感がネットで生きる若者たちにはどのように伝わっているのだろう?

メディアという媒体の向こうで起こる出来事はゲームソフトの世界と同じで、テレビやゲーム機を乗り越えてリアルがおしよせてくるという感覚がないのでしょうか。

自分は感染しないという感覚は「人の生と死」にあまり関わることがない人生を過ごしてきたことが、起因するのかもしれませんね。

僕ら年寄りは戦争を知らない世代と言われ、戦争を実体験した大人たちから、「リアルな写真」を平和教育の教材として示されました。

僕に残ったのは「恐怖」いやむしろ「見たくない、遠ざけたいもの」という感情でした。

映像や画像が感情を生み出した訳です。

始めて、戦争にむきあったのは、コンバットというテレビでの戦争映画とリアルに起こったベトナム戦争でした。

ワーグナーの大音響を聞きながらベトナムで機関銃を撃ちまくる米軍の兵士の姿やライフに掲載されたナパーム弾を浴びせられ、逃げまどう子どもたちの写真を見て「何ができるか」を少しだけ考えた。

けれど、湾岸戦争の時は炬燵のなかでミカンを食べながらテレビのミサイルがバンバン撃ち込まれる映像を見ても、「遠い中東の紛争で日本にミサイルなんか飛んでこない」という感覚が生まれました。

僕たちにとってもメディアの向こう側はバーチャルだったのです。

知らない間にマスメディアが変化することなど考えられない「日常」を吐きちらして彼等が指し示す正義を訴えることに慣れていったんだと思います。

若者たちにとっても人の死はバーチャルのゲーム機のなかでしか見えていなかった出来事だったかもしれないし、今もスマホの向こう側の出来事なんじゃないかな。

武漢もイタリアも若者にとってはバーチャルなんじゃあないのかな。だからリアルでパニくる年寄りたちを冷ややかにみることができるのかもしれませんね。

いくら感染者の数字が増えようと、得点掲示としてしかとらえらないのなら、「たいしたことはない」出来事でしかないだろうし、むしろ「リアルでかわることのないはずの今」が続くことに疑問をいだかない若者に「日常」が、すぐに「非日常」に変わることを教えることは難しい課題だと思います。

メディア、特にマスメディアはすでに若者の規範ではなくなりつつあるということへの危機感がないのですかね。

国が真正面から訴えても何も伝わらない若者たちをを作ったのはマスメディアと教育なのかも知れません。

自ら情報を受発信できるツールを持ち自らの「ルール」のなかで生きる日本の若者たちが、「生や死」に向き合うことなく育てきた。それだけのことだと思います。

彼らがメディアが讚美し教師たちに求められてきた「合理的」という呪縛が「感染を恐れず日常を大切にする若者たち」を生んだとしたら、さてさて、メディアや先生たち、学校で何にを教えるのでしょう?

このコロナが終息すれば、学校現場で先生を守るために何が必要なのかという論議が行われなねればなりません。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人事、異動、昇格いろいろ気になる時期はすみましたか?

2020-03-26 14:02:19 | Weblog
この時期、気になるのは来年の人事ですよね。小学校では「担任」になることが前提のように思う学生がいますが、学校には「担任外」とよばれたり「7年」とか小中一貫校なら「10年」という先生たちがいます。

細かく学級担任外と特別支援学級等(障担とか通級学級担)の担任を分ける場合もあるようです。

そこを担当する先生たちは、学級担任として「すごく力量があって全体の先生の支援ができる先生」が行く場合と学級担任として一人立ちするのには何らかの課題があり、「その先生の持っている特性を生かして、教科や児童支援をしてもらう先生」が行く場合とその先生の力量とは関わりなく「学級編成上の理由」や「その先生のキャリア形成と昇格の都合」のために行く場合などさまざまな理由がありますが、誰がなるかは気になるのですよね。

訳のわからない動きをするベテラン先生がでてくるのもこの時期で、管理職特に校長先生の力量が見えるときですね。

担任外は本来は全体のためのものなのですが、「個別対応」という錦の御旗で「指導が困難な子ども」を優秀な先生かクラス編成に必要のない先生のどちらで隔離対応させるかでなやむバカな管理職がいるということは聞いたことがあります。

ただ優秀な先生が必ずしも専門性を持っているかどうか、ここが難しいところです。

小学校で教科担任制を進める話がありますが、全教科+英語、道徳、発達障がい支援の専門性を持っている先生が都合良く学年にいないと教科の取り合いですよね。

僕なら、人に何かを教えるのなら、やっぱり自分が何か行動していたいとちょっと思ってきたから、それ探す時間がほしいと思うかな。

あなたも、「専科」も経験して、そろそろ学校に必要とされる先生になってきたから「クラス担任」でやるのもありやな。

大学で講義できるレベルの力をもった「クラス担任」って結構カッコええやん(笑)

若い先生の面倒やとか、だるいお局さんの対応とか、昭和のハラスメント症候群のさばきかたとか(笑)まだまだまなばなあかんことが学校にはあるんやろな。ぐあんばれ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

特別支援教育デザイン研究会のサイト、及び教材は無料で利用可能です。

2020-03-26 12:56:00 | Weblog

学校が休校になってから、教育委員会から家庭で使える教材として案内させてもらいたい、、保護者から電話をもらったり、特別支援教育を生業にしている会社からは私たちの教材を使わせてもらったら教材費を徴収しないから使わせて欲しいなどと律儀な連絡をいただきます。ほんとうにありがとうございます。
私たちは商用でなければOKです。私たちの教材でよければぜひ使ってください。許可も必要ありません。たいへんな時期ですから、子ども、家庭を中心に動いてください。連絡くださった方にお礼を言わさせてもらいます。ありがとうございます。
http://www.e-kokoro.ne.jp/ss


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

計算しない生き方もありだよね。

2020-03-26 10:02:00 | Weblog
何かが足りないから、別の何かかすぐれているはず。

結局、人間ってどこかで計算してしまうんだよね。

なら、計算しなければいい。

損とか得とか、勝つとか負けるとか
一度だけの人生だって気づいたのは
鼻や口からチューブをつっこまれた
病院のベッドの上だったけど
まだろうそくの火は消えていない。

やさしいとか、好きだ嫌いだとか
結局自分が独りのさみしがり屋だと気づいたのは
あなたからの20秒の電話だったけど

まだ人を愛せると信じてる

ただ楽しむことを知らない連中がなんと言おうと、楽しめばいい。

結果オーライ、楽しみの後に結果がついてくる。勝たなくてもいい。負け続けてもいい。

明日が来ることを信じているだけで、楽しいものさ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする