現在の新聞の論調に共通しているのは、菅総理に行政能力がないということと、早く退陣すべきだということだが、他の点では違いがはっきりしてきた。
朝日が「脱原発」の旗色頭を鮮明にする一方で、読売は、菅総理の原子力政策の一貫性のなさに批判が集まっているといった情報を載せて、脱原発といった議論からは距離を置いている。(中略)
一方に「原発推進派」がいて、もう一方に「原発反対派」がいて、二人が議論したあとにビールで乾杯して打ち解けるということは考えにくい。(引用終わり)
以上、「あらたにす」に掲載された慶応大学の先生、竹森俊平氏の論評より。
以前、こんな川柳を作ったことがあります。
続けるか踏み絵を迫る原子教
この川柳を作った当初は、「(贅沢を続けるか否かの決断を)迫られているのは国民」として描きましたが、何かモヤモヤした思いが残る。以来、考え続けています。それで、思い当たりました。決断を迫られているのは、マスコミでもある、と。
以下、同様に数週間前に「あらたにす」に掲載された、元朝日新聞記者、栗田亘氏の論評より。
(新聞記事が、発表ジャーナリズムに堕し、どの紙面も似たり寄ったり。つまらないと論じた後で)こうした私の物足りなさを補ってくれるのは週刊誌、とりわけ「週刊現代」の記事だ。同誌の一連の原発批判報道は、一部にセンセーショナルな傾きはあるにしても、説得力があり読むに値する。(厳しく言えば)日々の新聞紙面とは別の、「発表」に頼ってはいない世界が、ここにある。新聞記者OBとしては残念だが、そう思う。(以上、引用終わり)
このまま発表ジャーナリズムを続けるか、否か。踏み絵を迫られているのは、国民だけではなさそうです。竹森氏の論評からは、どちらが良い悪いは別として、踏む社、踏まぬ社に分かれ始めたということが分かります。
ちなみに、新聞の名誉のために言っておくと、東京新聞は頑張っているようです。栗田氏の論評の続き。「(6月)18日の東京新聞特報面は、原発推進を労使一体で掲げ、民主党に「票とカネ」を提供する電力総連のリポートを載せている。この記事に限らず、同紙特報面は新聞の中では際だって原発をめぐるあれこれを詳報し、私は大いに参考にしている。」(マルカッコは筆者注)。
なお、私が「踏み絵」という表現を使っているのは、創作上の便宜です。憲法19条、思想良心の自由、同20条、信教の自由を定めた憲法の精神を否定するものではありません。念のため。
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