金属中毒

心体お金の健康を中心に。
あなたはあなたの専門家、私は私の専門家。

83 ライト

2007-01-03 16:48:50 | 鋼の錬金術師
83 ライト

「厳守すべき秘密というより,ナイショごとに近いんじゃないスか」
ハボックの答えはロイの予測のとおりだった。
あの右手に練成陣を刻まれたやつらのことだ。
彼らは自分達でライト(右)と名をつけていた。
もし、本気で軍が彼らを隠すつもりならそもそもあんなに派手に退役者や負傷者を集めたりすまい。それにライト達は外出禁止だが洗濯業者や生鮮食品の納入業者は堂々と出入りしている。
ロイも当初から同じ疑問を持っていた。だからハボックを送り込んだ。堂々たる密偵にハボックほど向く男はいない。確認のためというよりライト達の生の声を知りたかった。

ハボックの報告はロイの予測を超えた範囲まで広がっていた。いったい誰を口説いたのか。包帯の下に隠されたあの破壊の練成陣の写真まである。
間違いない。スカーの彫り物と同じだ。
「どうやってこれを彫ったのか話を聞きたい。呼び出せないか」
「そりゃダメっすよ。情報提供者のプライバシーを守らなけりゃジャーナリストの信用ゼロになっちまう」
「ジャーナリストか、  よし、ハボックお前フリージャナリストになれ」
軽い冗談のつもりだったハボックはロイの言葉にぽかんとした。
「冗談スよね」
「当然本気だ。私がいかに優秀でファミニストで美形で頼れる男かをたっぷり宣伝してくれ」
「たいさー、ジャーナリストは信じてない情報は書かないんすよ」
「何を言うか。事実だけだ」
堂々たる返事。まったくこれが全部本音なのだから恐れ入る。
しかもあながち嘘ではない。ただし、それらの良い点を上回る弱点があるだけだ。
「へたれで、雨の日無能で、サボリで、書類が遅くて、女たらしで」
「人使いが荒い」
「うんうん、若い者は良く見てるなぁ」
エドの声に続いてラッセルが止めを刺した。大将はともかくこの坊やにもこんな顔ができたのか。ハボックは16歳コンビをつくづくと眺めた。よほど調子がいいのかエドが病室を出ている。
と、違和感がある。ハボックは懐かしい感覚に襲われた。昔に戻ったような。4年ほど前に戻ったような。

「大将、ちっこくなってる!!」
ハボックは脳まで筋肉でできていると女達に見られていた肉体派だが、意外に勘がいいし現場指揮官としては頭(かしら)になれる男だ。ただ、その頭脳は現場でこそ最大に発揮され、ふだんはそれほど鋭い表情を見せない。緑陰荘のメンバー全員が気づいても気づかない振りをしていたある事実を彼は指摘してしまった。マスタング派閥最大のタブー、鋼の錬金術師の身長を
            小さい
と言った。
「だぁれが、豆粒どちびかぁー!!!」
懐かしい一撃をハボックは片手で受け止めた。間違いなくエドは3センチほど縮んでいる。それにしてもこのところかろうじて室内を歩ける状態だったエドのこの元気さは何だ?
「エドワードさん、体力を無駄遣いするとますます縮みますよ」
一番若いメンバーの小さな声が空間を切り裂いた。
ピタリ。エドの動きが完全に停止した。
(こ、こいつ、アルよりきつい)
すかさずラッセルの手が暴れ馬でもなだめるかの手つきでエドを抑えた。
(こいつら、アルの役を分業しているな)
アルはこういうときさりげない一言とともに暴れ馬状態のエドを一人で御した。
そういえば最初にエドに出会った12歳のときにもそうだった。
『こんなちっこい子に軍属をさせるんスか?』
その一言でエドの右こぶしが跳ね上がってきた。(身長に差があるためまっすぐ打ち込めない)
あの時、アルはさりげなく言った。
『事実だから仕方ないよね。兄さん』
エドがポップコーンみたいな暴発型なのはマスタング派閥共通の認識だが、その弟が単に礼儀正しく素直なだけの少年でないことに最初に気づいたのはハボックだった。

今日この部屋にいるのはロイとハボック、エドとラッセル、それにフレッチャー。ほぼ24時間ラッセルにくっついているブロッシュはいない。あの書類地獄の日だ。ようやく一段落ついて一息つこうとしたら追加の書類が緊急度最大で運ばれてきた。やれやれと思って見てみると。
『穀倉地帯のグレートプレーンズに巨大トルネード発生。被害多し。緊急救援請う』
何気なく眺めていたブロッシュは書類を補佐官から奪い取った。本来なら軍法会議ものだが次に出た言葉に誰もそんなことを気にしなくなった。
『母さんが』
グレートプレーンズ。そこはアメストリス有数の穀倉地帯。小麦大麦カラスムギとうもろこしと多種類の穀物の大生産地。名前からもわかるように平らな土地だ。大きな川があり古くから用水路でのかんがいが進んでいた。
アメストリスの中心からはだいぶ離れており独自の気風がある。
そのため駐屯している軍もせいぜい交通事故対策(羊と牛が荷車にぶつかる程度の事故)程度でこういう災害時の対策は不可能である。
そのために電信と電話をつないでセントラルに緊急援助を求めたのだろう。
穀倉地帯がやられたと言うことは軍にとっても大打撃だ。
ただ、これだけの書類では何もわからない。
それなりの士官を送って調査し、どういう援助が必要かを含め指揮を取らさなければならない。
ただ、あの土地は、いろんな意味で田舎だった。まず、まともに言葉が通じない。異常になまりがきつい。しかも中央の人間が行くとそれを意識的に強めるのだ。地元出の士官がいたはずだが、タイミング悪く戦場である。
きわめて保守的で仲間意識が強いあの土地に誰を派遣すればトラブルなしにいくのか?そこまで考えたところで補佐官は書類を奪った男に気づいた。
「ブロッシュ少尉。グレートプレーンズの出か?」
「はい」
あわてて軍人の顔に戻る。処罰覚悟だった。
そのブロッシュの前にラッセルが立つ。書類を取り上げた。詳しくはわからないがかばうつもりらしい。補佐官は微笑する。かわいいものだ。
「トリンガム中佐。彼の故郷の救援に少尉を誰かにつけて派遣したい。よろしいですね」

こうしてブロッシュは10日の予定で行った。
出かける直前までラッセルに「無理に我慢しなくていいけど、お願いだから私が帰るまで何もしないでおとなしくしていてください」と繰り返して。
さすがのラッセルも自分がトラブルに縁があることは自覚している。(トラブルを呼び込んだり火に油を注いだり、火の無いところに炎を撒き散らしているというところまでは自覚していない)
「おとなしく待っているから」と固く約束した。
ラッセルは約束を破るつもりは1グラムも無いが、ブロッシュはこの約束が守られることについて1グラムも信用していない。嘘をついているわけではない。
ラッセルは本気だ。問題はおとなしいと言う判断が彼の場合かなり広い、ただそれだけだ。


84ハリコの戦争と 偽装誘拐

82 お迎えの時間

2007-01-03 16:38:57 | 鋼の錬金術師
82 お迎えの時間

『今度、おかしなまねしたら本気で殴るわよ!首輪つけて妙な気を起こさないよう縛り付けといて!!』
なんだか胸騒ぎがして、早めに帰ってきてみたフレッチャーはとんでもない場面に出くわした。
きれいな人だなぁ。兄さんがあの人のほうを好きになってくれたらいいのに。そしたらお姉さんって呼んでお店にも遊びにいけるし、きっと楽しいのに。
そんな風に密かにあこがれていたウィンリィがスパナを振り回して兄をたたきだす場面に。
反射神経の良かったはずの兄が彼女の手で見事にひっぱたかれる場面。
この日、かわいいばかりだった弟は少し大人になった。
女の人って・・・・・・・・こわい。
ただこの経験が今後の彼の『女とは利用するか、一時的な肉欲の対象でありそれは対価で清算できる』とでもいいたげな女性遍歴の原因のすべてではないだろう。後に兄は女性を個人として認識していないのではないかと思えるような弟のようすに『育て方を間違えた』と深く悩むことになる。

兄がまた頭を抱えた。
「鎮痛剤飲む?」
「いや、いい」
記憶があいまいだ。石を作ろうとして失敗した。その後、なぜか柔らかな金の髪が見える。やさしく包み込む声。小さな小指。秘密の約束。その後柔らかな金の髪がいきなり真夏の太陽の光で編み上げたような輝く髪に変わる。エドワードの約束。後ははっきりしない。頭が痛い。以前にも頭痛に悩まされたがあの時とは痛み方が違っている。心臓の動きに合わせてうずくような、傷のような痛みかただ。
何があったのか知らなければ。だが弟にうかつに聞くとまた墓穴を掘る気がする。ブロッシュに聞こうと彼を探す。
いない。
いつも近くにいる彼がいないととたんに不安になる。このところ確かに自分はどうかしている。今病院に行けば神経症、依存症、情緒不安定だのと大量の病名をつけてくれそうだ。
「ブロッシュさんは?」
「まだ憲兵隊かもね。代わりに尋問を受けるって言っていたから」
(憲兵?尋問?)
どこからそんな単語が出てくるのだろう。
「兄さん、何も覚えてないの?」
兄の表情をわずかに掠めた疑問符に弟はすばやく縄をかけた。
兄の返答はない。-覚えてないの?-の基準になる記憶そのものがないのかもしれない。もしや、自分を外に出したことも覚えてないのでは?
「シンから密輸本が入っていたよ。とにかくあるだけ買ってきたから」
考えることは誰しも同じだ。この国の医学でも錬金術系の治療でも直せない病気なら。よその国ならと。
老医師を通じて仮想敵国―というよりゲリラに仮託してずっと小競り合いが続いているードラクマの医療科学者とさえも連絡を取ってみたがむだだった。全身汚染はそれだけ対処がむずかしい。
エドワードが17歳の誕生日を迎えられるのかは誰にも答えようが無い。
だが、兄がいる限りエドが苦しむことだけは最後まで無いだろう。
兄が誰にも理解できない方法で、合併症と体力低下をぎりぎりまで抑えている。だがこのごろの兄を見ているとすでに兄のほうが限界だ。
実のところ密輸された本にどれほどの内容が載っているかには期待できない。
マスタングが金に飽かして雇っている語学者たちが次々に本を訳しているが期待する内容は無い。もともと密輸される程度の本にはそれほどの内容は無いのだろう。

どうやら兄は弟を外に出したことさえ、覚えていないのだ。
「ねぇ、キャスリンさんはかわいい人なの」
収まりの悪い頭痛に手を焼いているらしい兄に数錠の鎮痛剤と栄養剤を溶かした水を手渡しながらさり気なく訊く。
「ん・・・。ルイの妹だからな」
返事がずれている気がした。兄にとっては本音なのだろう。
「すきなの」
「好きだな」
ため息が出そうだ。兄は相手が女の人だということをわかっていて返事をしているのか、それとも兄にとっては准将やホークアイおばさんやエリスおばさんを好きなのと同じレベルなのか?
兄はしばらく手の中の錠剤を転がしていた。そのうちに弟の視線に気づいたのか勢いをつけて飲み込んだ。老医師に渡された鎮痛剤は気休めにしかならないが飲まないよりはましだろう。

「出てくる」
「どこに?」
訊かなければこの兄は決して答えない。兄が自分から言うときは何か思惑のあるときだけだ。
「軍だ」
軍に行けば憲兵隊に拘束されているブロッシュのこともわかるはずだ。
「軍に?」
珍しい事もある。兄が命令なしで軍に行くなど。
「雪になるかもよ」
暗にやめといたらと言う。どんよりした雲。重そうな,水分と冷気をたっぷり含んでいる空。
エドワードさんは冬生まれだ。もうすぐ17歳。兄さんは数ヶ月遅れて初夏の生まれだ。生まれたときが暖かい季節だったためか、兄は寒いのが苦手だ。育ったのがずっと南の方ばかりだったせいもあるだろう。ゼノタイムはオレンジが育つほど暖かい。
あぁ、そういえばたしか自分たちはあの町をもう一度再生したかったはずだ。
いろんなことがありすぎて忘れていた。まだセントラルにきて1年足らずなのにもう10年も過ぎた気がする。
兄は無言で軍服を手にした。
そうだよね。昔から止めて止まる人ではなかった。
だから、
『僕には兄さんに付いて行くことしかできない』
そんなことを言ったのはいったいどのくらい前か。
アルに会いたい。彼と話したかった。
なるべくたわいないことを。
僕も強くなったよとちょっぴり自慢したい。

気配に振り向くと兄は軍服のボタンに手間取っている。さっきから気になっていたが兄の指先は震えている。そもそもこの1年間自分で服を着たことなど数えるほどしかない。
たっぷり1分間、ボタンと遊ぶ兄を眺めた。次第にいらいらしてくる兄の気配。
どうして手伝ってといえないのかな。この人は。
そういえば以前左手を骨折したときもそうだった。兄はまったく進歩していない。
弟は兄が手間取っていたボタンを簡単にはめた。
こんなに何もできない人ではついている人は大変だ。一事が万事。兄はいまだに軍で自分の部屋までたどり着けない。
ふとからかい混じりに訊いてみる。
「兄さん、軍がどこにあるかはわかっているよね」
「運転手が知っているだろ」
あぁやっぱりこの人は覚えていないのだ。
兄が日常的なことに意識を向けられなくなったのはいつごろからだったか。
やはりこの1年だ。特にブロッシュがついているようになってから重症化している。おそらく安心してまかせ始めるともうそういったことを意識できなくなったのだ。
軍に行き始めたころ、『軍の術師には常識の無いやつがいるからお守りをつけるそうだ』といって不思議そうにしていたが、今となっては兄が常識はずれの筆頭ではないだろうか。

適当な警備員を運転手に使ってまず軍へ。それから教えられたとおり憲兵隊長の自宅へ。普通なら1時間とかからないコースだが3時間かかった。降り始めた灰色の雪が道を凍らせる。汚れた空気の中、純白の雪は地上にたどりつくときにはうすら汚れてしまう。雪だけが遅れた原因ではない。途中車酔いしたラッセルが何度も止めさせたせいも大きい。紅陽荘でキャスリンと食べた昼食が全部無駄になった。もっとも吐き出したおかげでアルコールも抜け始めたので禍福はあざなえる縄のといったところだろう。

結果は目的を果たすことはできなかった。憲兵隊長にすればそもそもラッセルを返しただけでもサービス過剰なのだ。まぁ、そこら辺には大人の事情があるのだが。
形式的にもラッセルはブロッシュの直属上司ではない。
少し話をする許可だけでもとラッセルは粘ったがそれも断られてしまった。
セントラル炎上未遂犯の容疑がはっきりするまで証人は外部からの接触を絶たれる。
憲兵隊長は軍服こそ着ていても、軍人としての常識に欠けているらしい青年に書面片手に説明する。
落胆したラッセルからは普段の取り繕った表情が消えた。軍人としての常識に欠ける彼には次にどうしていいかわからない。その表情にどうもまだ子供なのだと思った憲兵隊長は、アームストロング元将軍の名を教えた。何かと頼りになる人だから伝があるなら相談してみなさいと。だがラッセルがアームストロング本家に行くことは無かった。いつも軍人としての行動はブロッシュが教えてくれた。彼がいない今、どう行動すべきかがわからない。
これがセントラルに来る前なら簡単に決められた。大切な相手が捕らえられたなら取り返すだけだ。
実力で。

「仕方ないか」と口の中でつぶやく。マスタングのところに行くしかないだろう。
本当は行きたくない。石作りに成功した後なら今後の方針も含めて相談したいことは山ほどあるが見事に失敗したのだ。術師としてはあまり自慢にならない状況だ。
もう一度口の中で「仕方ない」とつぶやく。
ブロッシュがいなければデル博士の行方もわからない。憲兵隊長の家に行く前に工場に立ち寄ったがあちらはあちらでごたごたして中に入れなかった。割とよく話をしていた研究者に聞くと社長の浮気がばれて夫婦喧嘩となり離婚騒動だという。会社へは先代社長が再び出てきているらしい。人工血液についてはこのまま生産を続けるが研究はいったん中止すると言われたそうだ。
デル博士は兵士に連れて行かれたという。どこに行ったかはわからない。
大量の裏金と保釈金を出した社長が失脚したので多分刑務所に戻されると思う。研究者は早口で語った。

ラッセル・トリンガムの研究をした人はたいてい同じ感想を持つ。とにかくついてない人だね。
今回もそうだった。マスタングのところに行こうと受付の女の子に秘書課のお局様を呼んでもらう。彼女の髪の枝毛によく効くトリートメントの作り方でも教えながらお局様が来るのを待つ。お局様はラッセルが自分の部屋にすら行けない方向音痴、というよりそういうことに使うべき脳もすべて研究に注ぎ込んでいるのを知っている。
『坊やはそれでいいの。どうしても必要なことは私達が代わりにしてあげるから』
40代後半の彼女は軍で最初に坊やに夢中になった女だった。以来彼女を中心に坊やの保護隊ができている。
ラッセルは本当に運の無い人だった。お局様が降りてくる数秒早くに大総統の補佐官の一人に捕まってしまった。
「ちょうどいい。今から君も呼び出すところだった」
ラッセルが受付の女の子の髪から手を離してあわてて敬礼する。
それを見た補佐官が「さすがにマスタング准将の直弟子。かわいい子には手が早い」と笑った。
世間ではこういった言動を指してマスタングの後継者だの、年増殺しだのバーさんキラーなどと言われているがラッセルには他意はない。ただ、治癒師の本能で、人体の悪い部分を見るとつい直したくなる。それが美容に分類されているレベルまで及んでいるだけだ。
ラッセルに関する数少ない直接の記録によると『女性がきれいなのは命として当然あるべき姿だろう。よりきれいでいてほしいのな。そのほうが見ていて気持ちいいだろ』

補佐官に敬礼のやり方を直される。間違っているわけではないがどうもさまにならない。そのまま会議室に連れ込まれた。行ってみると書類の山である。
「君が来ているときはましだったのだけどね、また大総統の病気が再発してこの有様だよ」
「どこかお悪いのですか?」
「うん、護衛のマスタング准将もそうだけど、書類逃亡病と放浪病がある」
「と言うわけで頼むよ」書類に埋もれた机のひとつを指された。
「は?」
要するに大総統にもマスタング並みのサボり癖があるらしい。そしてこの会議室の書類は溜め込んだ必要書類なのだろう。なんだかいやな予感がする。
渡されたペンとハンコ。なんと大総統のハンコである。
「こんな大事なものを」
恐れ敬った振りで逃げようと思った。こんなことをしていたらブロッシュを迎えに行けない。
「逃がさないよ」
補佐官の笑いが黒い。多分大総統にもマスタングにも逃げられたのだろう。
「副官がいないとわかりません」
交渉の余地があるかもしれない。
1時間後ブロッシュは憲兵隊を出された。つかまっていたと言っても拷問されたわけでもないし、のんびりチェスをしていただけだ。なにしろアームストロング家の息がかかっている。
(このまま拘留期限までいてもいいな)と思っていた。たまにはのんびりしたい。上司のことも気になるがご当主に任せれば何とかなるだろうと思っていた。ところが大総統府の命令ですぐ出頭である。
『勝負は預かっててやる。今度つかまったら続きをしようぜ』
憲兵の声に見送られて囚人気分で呼び出された会議室に行くと手のかかる上司が書類の山と格闘している。側では補佐官たちが次々と書類を回している。
「頼むよ」
ろくに挨拶もなしにハンコを押し付けられた。
それから3時間。会議室は書類地獄と化した。

81 お昼寝の時間

2007-01-03 16:37:04 | 鋼の錬金術師
81 お昼寝の時間

二の句が告げないという表現は聞いたことがあったが、言ったのはリンかランファンだったか?それならこういうのはどういうのだろう。
エドはラッセルをまじまじと見た。こうしてまじめに見ることはなかったが、なるほどロイの言うとおり女ならほっとけないタイプなのだろう。淡く上気したほほ。さらさらの銀の髪。月を映しこんだような瞳。
『あの瞳は彼の最大の武器になる。10代だけを任すつもりだったが40代50代にも威力を発揮している』
『母性本能というやつだよ。恋愛よりも効果がある。しかも一方的に貢ぐのが楽しいんだ。私も昔はよく使った手だ』

「エド」
以前のからかうような口調でもこの1年のやさしく包むような口調でもない。ほんのりと甘い。エドのお気に入りのレアチーズケーキのような声。
その呼び方。声は違うのに目を閉じるとロイに見えてくる。
何かまずい。
本能的な危険をエドは感じる。
それはわかるのだがどうするべきかわからない。
そういえば昔もこんなことがあった。どこの宿だったか大柄な男にこの種類の声で呼ばれた。鳥肌が立った。今回は不快感がない。確かあの時は、硬直した自分の代わりにいつもはトラブルを避けようとする弟がその男を窓からつまみ出した。あそこは2階だったのだが。
今回は・・・。
「おい、フレッチャーどうしたんだ」
もう一人の弟に助けてもらおう。
「遊びに出した」
万事休すかもしれない。
何か安全な話題はないのかー?
掻いてもいない汗をエドはぬぐった。
「エド」
またほんのりした声で呼ばれた。
返答がのどに絡む。
「お前に聞きたいことがあったんだ」
「・・・何だ」
この雰囲気で予測していることを訊かれたらどう答えればいいのだろう。
嫌いではない。出会った最初から気になっていた。その後もどこかで彼の名を聞かないかと思ったこともあった。好きかときかれればイエスだろう。しかし。
「お前、どう思っているんだ」
「脈絡のない訊きかただな」
「そうかな、うん、そうかもしれない」
「ラッセル、お前」
どうも様子がおかしい。こんな話し方をするやつじゃない。
「なぁ、弟を元に戻した後、お前どうするんだ」
「へっ?」
予測とは270度異なった質問だった。

(戻した後?)
「そんなもの無い」
「楽しみにしてることは無いのか?お前のやりたいことは」
「無い」
「エド」
ラッセルが下から見上げてくる。こんな角度で見られるのは初めてだ。瞬きひとつ無く見上げてくる。エドワードの脳のひだを1本ずつ検索するように。
「興味はあったけどあきらめたことは、ほったらかしていることは?」
「・・・シンには興味あったけどな。でも」
そう、どうやったらあのリンのようなずうずうしくて不真面目で胃袋が底なしで、生命力はあるのに生活力の無い皇子様が出来上がるのか、シンに行ってあいつの国を見てみたい。いつかアルを元に戻したら。そうだ。確かにそう思った。
だが、それだけだ。どちらにしてももう同じことだ。もう自分には時間が無い。
「シン?シン国か」
エドが知るはずは無い。アルが兄のためにその国に行って行方不明になったことを。
「前にシン人にたかられた。あんなたかり上手なやつを生み出す国がどんな国か見たかった」
「行けるさ」
「もう、」
時間が無いと言いかけてエドは言葉を止めた。どうやっているか教えてくれないが、今の自分を支えてくれているのは彼ら兄弟だ。その彼らの前であきらめの言葉を言ってはいけない。それだけは。
「行ける。約束しろ。必ずアルが戻ったら行くと」
約束。できるならしたい。
「約束しろ」
体勢を変えられた。さっきまで見上げられていたのに、今度は見下ろされている。
「わ、わかった。する。約束する」
だからそんな泣きそうな目で見るな。
「エード。約束のキスは」

フレッチャーお前の兄貴を殴っていいか。

エドが右手を握り締めた。

1時間後。
「あらまぁ、そんな風にしていると双子の赤ちゃんみたいね」
洗濯物を抱えたメイドが微笑む。
「どこが赤ん坊だよ。このでかいやつの」
あれからラッセルは何かつぶやいたかと思うと握り締めたエドの右腕を枕にお昼寝状態になった。
「女の目から見たらかわいいものよ。そうそう、もうすぐウィンリィちゃんが来るわよ。さっき電話があったわ」
「へぇ、 (それならピナコばっちゃんのことも聞けるな)」
エドはころりと忘れていた。ラッセルとウィンリィが最初に出会ったとき何があったか。
ラッセルが幸福な昼寝からウィンリィのスパナ攻撃でたたき出されるまで後30分。

80,5 宴の後

2007-01-03 16:35:31 | 鋼の錬金術師
ラッセルが緑陰荘に歩き出したのは、エドが遅めの昼食をもてあましているころだった。なんだかふわふわしていい気分だった。キャスリンのおかげとラッセルは思っていた。それも事実だった。しかし最も直接的に作用したのはデザートに使われたシャンペンだった。たいした量ではない。子供でも食べるデザートだ。しかし、ラッセルは自覚無く酔っていた。
おかしな話であった。普段裏社会でも軍でも彼はザルと呼ばれているのだ。いくら飲んでもまったく乱れない。酔っている気配も無い。これは彼が有機系の練成者であることに秘密があった。彼は飲むときはたいてい炭酸割を好んだ。実はグラスを手にしている間にアルコールを水と二酸化炭素に分解していたのだ。酔わないわけである。

この方法でロイの相手を務めたこともある。そのときにはロイが勝った。あまりの量に胃のほうがいっぱいになったからだ。翌日、二日酔いに悩まされたのはロイ一人。エドには「もう年なのだから無茶するな」といわれロイはいきなりの中年コールに大いに落ち込んだ。

エドが昼食をもてあましているとき、フレッチャーはエドを持て余していた。
  ロイが帰らない。アルの事を聞きたいのに。
エドはどうしようもないほど機嫌が悪かった。それも時間とともにますます悪くなる。
昨日まではエドはわがままを言ったりむくれたりすることは多かったがこんなに不機嫌になることは無かった。
エドの周囲に黒い雲がたまっていくようだ。
  以前ときどき気づくことがあった。エドのむくれ方がひどいときや、調子の悪いとき、エドの全身を包む青紫の光に。それに包まれた後エドはうとうとと少し眠って次に目を覚ますときは不機嫌さを忘れていた。
何の証拠も無く、弟は‘兄‘だと確信していた。
 しかし、今日はどんどん黒い雲を増やし続けるエドを光が包み込む気配は無い。
「ヨーグルトぐらい食べないと」
「欲しくないもんはいらねぇ。だいたい牛の乳を腐らせたような物食えるか!」
なんだか、エドは柄まで悪くなっている。
今日何度目のため息かをフレッチャーはかみ殺した。
エドの中は今アルのことだけでいっぱいいっぱいになっている。おそらく、‘弟‘の自分が近くにいるだけでも気が荒れるのだろう。むやみやたらと怒鳴り散らさないだけでも感心してもいいだろう。まぁ、体力的に怒鳴れないということもあるようだが。

チリンとちいさなドアベルの音。
兄だ。
ベルの音を聞くとフレッチャーは手のつけようの無いエドを置いて兄を迎えに出た。エドに‘弟‘がなにを言っても逆効果になる。ここは‘兄‘に任そう。
「ただいま。何だ、ご機嫌斜めだな」
兄はやけに機嫌がいい。この一年近くずっと青白かった顔色までいくらかましになっている。それがアルコールの効果とは自覚のない兄もあまりにも少量ゆえに呼気にも現れないため弟も気づけない。
(さすがにプロは違う)
老医師が何の反応もなかった兄をどうやって立ち直らせたのか?
このとき弟は将来必ず医師になることを決意した。兄がまたおかしくなったときに助けるのは自分の手だけであるべきだ。
兄の左手がゼノタイムにいたときのように弟の前髪をなぜた。このごろ弟の身長が大きくなっているので帰ってきてもほとんどしなくなった動作。今、兄はよほど機嫌がいいらしい。この1年ほどで一番機嫌がいいのではないだろうか。数時間前を考えると同じ人とは思えないほどだ。
「誰のせいだと思っているの(散々心配かけて一人で何もかも決めてしまって)」
「エドだろ」
兄の返事はよどみない。
間違ってはいない。エドの黒いオーラに手を焼いているのは事実だ。ただし、エドよりもはるかにたちの悪い原因がもう一人いるのだが。この兄は一生それには気づかないまま終わる。
「交代する。少し遊んで来い」
兄が車のキーとカードを渡す。
フレッチャーは運転できないが、外の警備員を誰でも使えばいい。
カードはラッセルの口座に直結している。
フレッチャーがセントラルにきて一年近くになる。その間彼が緑陰荘を離れたのは2度しかない。1度目は来てすぐに兄と必要品の買い物に出たとき。このときはあっさり道に迷い帰り着くのに3時間かかった。それ以来弟は兄の道案内を信用しないことにした。
2度目は運転手を借りて一人で出た。通称錬金通りに行った。そこでゼノタイムでやりかけていた命の水の合成に必要なあらゆるものをそろえた。兄は何も言わなかったが兄の口座残高を半分にするほどの買い物だった。その後緑陰荘の1室で研究を続けている。兄にも一緒に研究して欲しかったし、マスタングの意見も聞きたかった。しかし、兄は忙しすぎたしマスタングは専門が気体に偏っていた。
有機練成の中でも生命に関する練成は人を選んだ。術師が陣を選ぶのではなく、陣が術師を選ぶといわれていた。
昔、トリンガム兄弟はよく似ているといわれた。同じ印象を与える金の髪と銀の瞳によって。最近は兄弟に見えないと思われていた。これはラッセルの印象が金から銀へ変わったことに寄る。
それでも彼らは似ていた。行動が。兄が赤い石を作ろうとしているとき、弟は命の水を作ろうとしていた。
街で楽しんで気分を変えて来いとの兄の気持ちはありがたいが、なぜだろう?追い出されたような気分になるのは。兄はまたエドに何かするつもりではないか。           危険なことを。
それでも弟は外に出た。煮詰まりかけているのも事実だったし、どうせ止めても無駄とよく知っていたから。
弟を見送ってから兄はエドの部屋に向かった。弟に聞いていたせいかドアが開いてもいないのに黒い雲を感じる。
かすかな声が聞こえた。重厚なつくりの緑陰荘は防音が効いている。ドアが閉まっていたら中の音が聞こえるはずはない。それでも聞こえた。
アル
ラッセルははじかれたようにドアノブに手をかけようとした。

開かない。
見下ろすと右手はまだ硬直したままだ。
手は真っ白くなるほどに硬く握り締められている。実のところキャスリンは気づいていた。しかし気にさせてはいけないので気づかないふりをしていた。
「まったく、情けない身体だな」
左手で指をこじ開ける。
(これは?)
直径3センチほどの白い球体が手の中にある。
キャスリンのつけていたペンダントの真珠に似ているがこの球体の方が輝きに深みがある。

記憶をたどってもそんなものを持っていた覚えはない。唯一考えられるのは、
赤い石の練成だ。それにしても、
(なんとも見事な失敗だな。赤い石の変わりに白い石とは)
手の中の球体を見る。一度は処分しようと思ったが球体は美しい。
(エドにやろう)
もうすぐエドの17歳の誕生日である。少し早いが腕輪にでもしてやろう。
ずっと後になって落ち着いて考えると(よくこんな正体のわからないものを贈る気になったなぁ)とラッセルはその時の自分の考えを理解できなかった。
結果的にはエドが扉を開いた夜、白い球体は消えた。オートメールの腕につけられていた銀の腕輪は翌朝当たり前の顔をして生身の右腕にはまっていた。
小さくノックした後ドアを開く。
「エド」
ドアを開いたとたんに黒い霧の中に突っ込んだ気がした。なるほど重症だ。
何とか機嫌を直させないと身体に悪い。
睨み付けるようなエドの視線。
「退屈か?」
「        アルは、何所にいる         」
いきなりだった。
「お前はいつもまっすぐだな」
「なにを!」
「もう少し待ってくれ。必ず何とかする」
「もういやだ。待てない。もう時間がない」
エドは知っている。最初に医者が宣告してしまった。もう後どのくらい持つのか、何の保証もない。もう医者の宣告した時間はすぎている。
「アルを、つれて来い。約束したじゃないか」
フレッチャーがいる間は、それでも押さえていた。‘弟‘のまえで泣き言は言いたくない。
ラッセルの胸元をつかむ。昔なら引き倒していた。今はそんな力は無い。
「エドごめん、待たしてばかりで。でも、頼む。もう少し待っていてくれ」
石を作らなければ、強く思った。石さえできればエドの時間を延ばせる。うまくいけばある程度外に出してやれる。
「・・・まてない・・・」
「俺がアルを・・・・・・・・アルを元に戻す」
「アルに会いたい。会って扉を開ける。必ずアルを元に」
シーツがぬれる。
ラッセルはタオルを落とした。エドの涙を見てはならない。
誰かに気づかれたと知ったときに、エドは崩れ去る。
ラッセルは気づかないがそれはほんの少し前にキャスリンが彼のためにしたことと同じ。
さりげなく視線をそらす。そして気づいた。ベッドの柵が叩き折られている。
「これは?」
切り口に見覚えがある。弟だ。
だが、何のために?
抑えていたものを吐き出したことでエドもいくらか落ち着いた。
自分が誰を責めているのかにようやく気づく。責められるべきは彼ではない。そんな相手がいるとしたら、悪夢におびえなくなった自分自身。そう、緑陰荘で最初の夜が終わってからエドはもう悪夢に悩まされなくなった。あれほど恐れた嵐の夜すらも。ロイの手の中で、雷鳴が美しいとはじめて思った。
ロイがいた。守ってくれた。
コワイモノからみんな。
ロイが直接守れないほど忙しくなってもラッセルがいた。ラッセルが軍に引きずられて忙しくなったころにはもう一人の弟がいた。
直接に2重に3重に、自分は守られている。
エドが急に静かになった。
すかさずラッセルはエドの右手をそっと取った。
(かなり同調しているな)
弟の報告で大体の見当はついた。
エドが自責の念に捉えられる前に気分を切り替えなければならない。
ラッセルは親指と人差し指でエドの人差し指をそっと動かした。
エドが内臓でも引っかかれたかのような顔をして右手を見た。すでに握りこまれていたベッドの柵ははずされている。感覚の同調をラッセルは逆利用した。
「手!」
感覚などあるはずの無い機械の手が、感じた。
ラッセルがエドの手首をそっと握る。そのまま青い練成光をあげた。
見慣れた光が収まった後には青銀の細い腕輪が淡く光る。白い球体はうまく7割ほどが腕輪の銀に収まっている。
「えっ」
目をしばたかせるエドを(かわいいなぁ)と聞こえたら張り倒されそうなことを考えながら、ラッセルがオートメールの手を引く。鋼の手の甲に軽く唇を当てる。
「少し早いけど、バースディプレゼントだ」
確かに17歳の誕生日にはあと少しある。
「ああ、アリガト」
言いかけて、エドが止まる。
何だがごまかされたとわかったらしい。
(限界か)
できるならエドにはもう少し笑っていて欲しかった。
(もう見せてくれないのか?お前の透明な笑顔は)
悩みも苦しみも忘れて、ただ幸せに。立場も方法も違ってもラッセルはロイと同じ目でエドを見ている。
気分が悪いわけではないのに、足元がふらついた。とりあえずベッドの隅に腰を下ろす。
「エド、必ず間に合わすから、待って・・・」
言葉が途中で詰まる。エドの輪郭がぼやける。
(おかしいな。妙に目が)
ふらふらして起きているのがつらい。
(ラッセル?)
なんだか、様子がおかしい。
「悪い、部屋に戻るよ。少し気分が」
気分が悪いわけではない。この感覚は何だろう。彼は今までまともに飲んだことがなかった。さらに疲れもあって肝機能が低下していた。そのために普通なら感じるはずのない量で、酔っていた。
立ち上がろうとしても足が震えている。
「無理するな。ここで休んでいけ」
エドの声が優しく響く。
「・・・そうする・・・」
それだけ答えるとラッセルがベッドにもぐりこむ。
「・・・」
予測外の反応にエドが言葉を飲み込む。
「エド」
薄い雲に守られた月のような瞳が見上げる
「なんだ?」
「一緒に寝よう」

80 宴の後

2007-01-03 16:35:06 | 鋼の錬金術師
80 宴の後

刑務所の中でダイエットを強制されていたため(アメストリスの刑務所の食事のまずさは定評があった)デルは軽かった。さして苦労することなく連れ出すことができた。とにかく安全な工場の壁際に来たときブロッシュは危うく年寄りを落っことすところであった。
ラッセルがいない。手錠をはずして自力で動いているならいいが、そうではないようだ。手錠をつけておいた柱が斧で切り倒されていた。慌ててデルをおろす。どうやら、ラッセルのトラブル体質は呆けていても健在らしい。
黒煙は派手に上がったが火はすぐ消えている。消防団は数人の現場検証員を残して引き上げかかった。彼らに聞くとそこにいた若者は憲兵が連れ去ったという。容疑はセントラル炎上未遂である。
ブロッシュはデルをつれて社長室に走った。警備員を5人ほどなぎ倒したのは意識にも残らない。社長は檻の中の熊も負けそうな勢いで部屋の中を歩き回っている。彼にとってもこの火事は予測外の不幸だった。
今夜はどの愛人の家に行こうかとうきうきと香水をかけていた矢先の火事の知らせ、どうしていいかわからない。
「社長、実験中のミスによる小火程度にどうして憲兵を呼んだのです」
口調は柔らかいが視線が怒りを隠せない。ブロッシュは自分がこういう言い方もできる男だったのをはじめて知った。
しかし、憲兵を呼んだのは社長ではなかった。この会社がここ数ヶ月異常な勢いで業績を伸ばしていたのでライバル会社がスパイをもぐりこませていた。そのスパイがいきなりの煙と窓から見えた錬成光を見て、セントラル炎上を企てていると匿名で憲兵に電話したのである。
無論、証拠は無い。事実でもない。この時点でセントラル炎上させるほどの腕をラッセルは持っていない。約1年後にはビルの30ぐらいは爆破しきる腕を持つが現時点では不可能である。
憲兵隊はつまらないいたずら電話と判断して引き上げかけた。そのとき座り込んでうつむいたラッセルを見つけた。普通ならほうっておくところだった。しかし・・・。
「隊長、あれは?人間ですよね・・・」
闇の中、淡く紫に光る影。
これについては説明が必要である。練成には通常練成光が付き物である。ラッセルはエドに対して未だ誰もしたことがない連続練成を使っている。本人が気をしっかりと張っているときは練成光を抑えているし、あまり暗いところにはいかないように気をつけてもいた。しかし、今夜はショックが大きすぎた。今まで何とか気を張ってこられたのは最悪でも赤い石を間に合わせるという希望があったからだ。それが今夜打ち砕かれた。それも自分のミスで。
憲兵は手錠に繋がれた挙動不審者を捕らえて連れて帰った。
部隊につれて帰って尋問したがさっぱり要領を得ない。黙秘というより言葉を理解していないのでは思えた。さらに厄介なことに銀時計が付いていた。軍に登録ナンバーで問い合わせて名前を確認する。
当然直属の上司に連絡すべきだが正式の軍人でない彼には直属の上司などいない。あえて言えば大総統であるがいかに憲兵隊長でも大総統に直接連絡などしたくない。回りまわって、ようやく推薦者のマスタングの住所に連絡が入ったのは夜明けごろだった。
その夜緑陰荘では言い争いがあった。
ラッセルが赤い幻に飲み込まれたころ、エドは夢を見ていた。
まだ子犬のデンがひび割れる大地から逃れようと必死で走っている。夢の中でエドは右手を伸ばし子犬を抱き上げた。そのとたん目が覚めた。誰かが右手をつかんで引っ張ったという気がした。部屋はほんのりと明るい。時計は午前2時。右手は無意識にベッドの柵をつかんでいた。
窓を見ると表に豪華な犬小屋がある。デンが吼えた。無駄吠えするような躾の悪い犬ではない。まるでエドの夢に答えたかのようだ。エドは急に意識が澄んでくるのを感じた。そうなってみてようやくわかった。今まで寝ても起きてもどこかでぼんやりしていた。そして一日中ラッセルの気配を感じていた。それはフレッチャーがいるせいだと思っていた。だが、違う。兄弟ではあるが彼らの気配は明らかに異なっていた。
このときフレッチャーも目を覚ましていた。エドの部屋の簡易ベッドはトリンガム兄弟が常に使っていた。このところ兄が不在がちなので弟は24時間エドについていた。エドの気配が変わった。はっきりわかった。兄の支配が消えたのだ。兄に何かあったのだ。おそらく精神面に打撃を与えるようなことが。
エドの気配の変化を読む。幸いといっていいのか、肉体への支えは無意識レベルで続いているらしい。
「なぜ、デンが来た?」
犬小屋から出てきたデンが窓のわきでクーンと鳴いた。
「デン、リゼンブールで何があった?」
デンがまた答えた。
泣いているように聞こえた。
「ばっちゃんは      」
言葉にしなかったエド。しかし、フレッチャーは読み取っていた。死んだのか?
リゼンブールは東部司令部の管轄するド田舎である。ロイが実質的司令官だったころ、テロは多いものの比較的平和だった。その後ロイが視察したときもまだ薄皮一枚の下で平和だった。イシュヴァールキャンプを視察したロイに赤い目の子供が石を投げて血を流させる小さなアクシデントはあったがそれでも平和だった。飛び出してきた老母は子供を怒った。傷ついた人を責めるのは大地の神の教えに反すると言って。彼女の子も孫も燃えつくしていたのに。

エドは今すぐリゼンブールに連絡すると言い張った。フレッチャーは反対した。体力の無駄遣いは避けさせたい。そして、彼は知っていた。東部のいくつかの村が襲われ全滅していた。ニュースは詳しくは言わなかった。しかし、もしもそこがエドの電話する相手だったら・・・。相手の無事を確認するまで電話なんてさせられない。
言い争いはエドの右手がベッドの柵を握ったまま錆付いたかのように動かなくなっているのがわかって立ち消えた。オートメールが完全に動かない。今までに一度もなかったことだ。
「一日おとなしくしてればウィンリィさんが帰ってきてくれますよ」
「トイレはどうするんだー!!」
すでに冷や汗気味のエド。フレッチャーが小悪魔の顔になった。
エドが数センチ下がる。右腕が動かせないからそれ以上逃げられない。
「尿瓶、持ってきますから」
そんなところでえくぼを見せないでくれと、逃げられないエドは不在のラッセルに内心で苦情を言った。
『弟の育て方、間違えているぞー!』

数分後、しおれた花のようなエドを気の毒に思ったか、もともとそのつもりだったのか、フレッチャーはベッドの柵を手刀でたたき追った。切り口の鮮やかさにエドの目の色が変わる。
「すげぇ」
流儀は違うが並の腕ではないのはわかる。しかも力にも技にも余裕を感じられえる。
「あのときのエドワードさんほどではないですよ。僕は実戦経験がないし」
ゼノタイムでラッセルとやりあったときのことを言っているらしい。思えば、あれから2年しかたっていない。まるで人生を圧縮したようにたくさんのことが起きた。ずっと一緒にいた弟はロイの手でどこかに隠された。                   エドはそう思っている。
聞けばトリンガム兄弟にもこの2年は結構長かったらしい。
フレッチャーが何気なく立ち上がった。こうしてみるとあのときのラッセルぐらいの身長になっている。細身の兄と違い骨の作りも太く筋肉の付きもいい。たいていの女の目から見て、理想的な男に育っている。セントラルに来てから特に栄養状態が大改善したので身長の伸びがいい。
顔はまだふっくらした少年の顔だが2年もすればぐっと精悍でいい男になるだろう。ラッセルとはつくりが違うらしい。
以前に聞いたが亡くなったナッシュは身長こそ高かったが細身で、遺伝的に胃弱だったそうだ。ラッセルは父親の血が出たのだろう。
「おふくろさん、大きかったのか」
不意に聞かれて、フレッチャーは点滴の用意をする手を止めた。
「いいえ、小柄で金の髪、銀の瞳でいくつになっても子供みたいなかわいい人だったって聞いてます」
「覚えてないのか?」
「話を聞いただけです。僕はまだ小さかったから」
そういえば前に眠れないままにラッセルと一晩話したときも母親の話をしたのはエドだけだった。あれからフレッチャーが来たしラッセルも忙しくなったので一緒に寝たのはあれっきりだが。
翌朝寝過ごした二人をたまたまロイが起こしにきた。エドは知らないがラッセルだけは気が付いた。ロイの自覚のない微妙な独占欲に。

待っているときに限って兄は帰ってこない。何かがあったことはわかっている。もうエドを取り押さえるのは無理だ。何気ない会話の中にもエドが急速に自分を取り戻しているのがわかる。エドは今ロイを待っている。弟のことを聞き出すために。ここまで押さえ込んだ兄が手を離した。たぶん本人は意識せずに。もう押さえは利くまい。
もともと、エドの意識を考え込まないように抑えたのは偶然だった。最初にラッセルだけが来たときエドは半身ともいえる弟と引き離され不安定になっていた。そんなエドをマスタングはまるで一生分の愛を注ごうというように大切にした。失いかけた宝物。マスタングはエドを壊れ物扱いしていた。だが、軍人のロイは忙しい。一日中は付いてやれない。
そこにラッセルが来た。当時、腫瘍のため摂食障害を起こし弱りきったエドにラッセルは借りを返すといい、リスクを覚悟の上で意識をつないだ。その結果、エドの体はラッセルの管理に移った。その副作用とも言うべきか、あるいは無意識下の望みが表面化したのか、ラッセルにはエドを守ることこそが至上の目的になった。エドを守り、優しくし、何の悩みも意識させないように!
70年後の研究によると相互依存に分類されるこれは双方からの働きかけにより成り立つ、すなわちエドにももう悩みたくない幸福でありたいという意識があったことになる。
ただ、現時点ではなぜエドの精神が子供帰りしたのか、兄がショックを受けたことでそれが変化したのかを推測しているのは弟だけである。それも研究によってでは無く邪推によって。ただし70年後の研究は乏しいデータを組み立てての立証である。真実は土の下にしかない。

兄に連絡を取ろうにもどこに行ったかわからない。24時間兄を管理しているブロッシュなら100パーセントわかっているだろうがその彼ごと行方不明である。
憲兵隊からの電話はそんな朝の空気をなだめるようにかかってきた。
どういうことなのか、兄は憲兵隊に保護されているという。
逮捕なら理解できるが(何しろあの兄のことだ)、保護とは?
とにかく保護者に来てもらいたいという憲兵に弟では無理かと聞いてみる。
一応、保護者ですから。どなたかご親族の方でもと言われるがそんなものがいるわけが無い。理想的なのはマスタングだが軍に行っている。それに、あの日兄が殴り倒されるのを見て以来、フレッチャーはどうしてもマスタングを信じきれない。あの兄の性格からしておそらくマスタングが切れてしまうようなことを言ったのだろうと想像は付く。だが、それとこれとは話が別だ。
困った。今日幾度目かのため息をフレッチャーはつく。
兄も気になるが、自分ではどうしようもない。それよりも部屋にこもっているエドを見てこよう。

数時間後、憲兵隊長に抱えられて兄は戻ってきた。
本来なら上司か保護者の保障がなければお返しできませんが、副官が事情徴収を受けると言っていますし、どっちにしてもこの様子ではお話も伺えませんし、とにかくお返しします。
「だいぶお疲れのようですから、どうぞお気をつけて」
兄は一人では歩けない。白髪の隊長に半ば抱えられている。
エドの安全のため部外者を極力入れないことになっている緑陰荘の防犯システムのため、憲兵隊長は最初の防衛線に引っかかってそこで足を止めた。
「見事な防犯システムですね」
憲兵隊長といえばそういうことの専門家でもある。その彼がほめるのだから緑陰荘のシステムはよくできているのだろう。となると、らくらくと突破してくるハボック少尉はあんなすっとぼけた外見にかかわらず凄腕なのかもしれない。
とにかく礼を言って兄を受け取る。後始末は軍人たちに任せるしかない。
毎度のことで申し訳ないが紅陽荘に連絡して老医師に来てもらう。とにかく兄を正気づかせねば話にならない。
この朝フレッチャーは長年の望みをほんの少しかなえた。十分に加減しているが兄の胸元をつかみひっぱたいた。生干しの水産物状態だった兄が何かをつぶやいた。その切れ切れの言葉から弟は兄が気死した理由をつかんだ。

どうして先に言ってくれないのか。この兄は昔からこういうときは一人で決める癖があったが、まったく進歩がない。14歳のときから伸びたのは身長だけではないか。
賢者の石を造る。
そんな大事を誰にも相談もせずに突発的にやったというのだ。
しかも兄のこの様子、まるで干からびた草である。
失敗したのだ。石は手に入らなかったのだ。
おそらくそのことで兄は自分を見失ったのだろう。
ブロッシュがいれば、例の呪文で・・・『エドノタメ』、正気づかせてくれたのだろうがあいにく彼も憲兵隊に拘束されているらしい。
そして、時間がたつごとにエドは自分の状況に気づいていったのだ。
弟がいない。大切な半身がいない。今の自分の状況に。
そう、偽りの平和は終わったのだ。

かろうじて言葉は出たものの兄はまだ一人では立てない状態だ。
耳元で大声を出しても反応が鈍い。
「兄さん、僕ではだめなの」

あの時も兄を立ち上がらせたのはあの人だった。あの人なら。
でも、できるなら、兄には自分の声を聞いてほしい。
老医師が入ってきた。ソファに座らせられたまま無反応のラッセルの様子を探る。
「また、何か無茶をしたようだね」
錬金術師ではない老医師には言ってもわからないだろうから、弟はうなずくだけにした。もっともこれは弟の浅慮だった。確かに本人は術師ではないが老医師は40年もアームストロング一族に仕えていたのだ。
医師によるとエドは多少興奮状態だが特に緊急の危険はない。問題はラッセルのほうだった。さっさと正気に戻さないと強力すぎる練成陣を抱える身ゆえ、コントロールが失われると自滅する。
しかし、薬は使えない。あの事件以来、体質の変わったラッセルはさまざまな薬品に対して過剰な反応を示した。わかりよく言えばたちの悪いアレルギー体質になっていた。

祭りの後キャスリンは異常に効く精神薬を老医師に持ち込んだ。何かおか   しな成分が入っているのではと1粒抜き取っておいたのだ。結論は・・・ただの増血剤だった。血液製剤特有の複雑な成分ではあるが特に珍しいものではない。表面をコーティングして正体を隠しているだけだ。そういえば精密検査の結果とも符合する。貧血が多少改善されていた。
『よほど、信頼できる相手からもらったのでしょうね』
つまりあの効き目は純粋に暗示効果だった。老医師から話を聞いてキャスリンは驚いた。あの人がそんなに信頼する医者がいるのかしらと。
『どういう者かはわかりませんが、彼をよく見ているのは間違いないでしょう。彼にはほとんどの薬は使えませんから』
   ラッセルに使える薬には限りがあった。そしてこういうときに正気を戻さすような強い薬は完全にアウトだった。

「駄目だったようだね」
言葉を飾っても仕方ない。老医師は兄を見つめるだけの弟に問いかけた。
この弟では兄を戻せなかったのだ。
(まったく、手のかかる子だ)
精神的な抑制が強すぎるせいか、ひとたびこうなると手がつけられない。
(若様はいつお帰りになるかわからないし、どちらにしても若様では逆効果になる)
(お嬢様なら)
うまくいくかもしれなかった。
不思議とお嬢様とは仲がいい。ただ、医師の目にはどう見ても恋人同士に見えないのが難点だが。
幸いお嬢様は当分紅陽荘にいるという。天の助けというが天使の助けである。

『少し落ち込んでいるので何とかしてください』
医者の言葉としては情けない限りだが、老医師は平気で使った。もう自分は財団の中央病院の院長ではない。それは長年副院長だった男に押し付けた。院長だったときは財団の医療機関全ての長として財団の名誉や立場を第一に考えねばならなかった。しかし、今は単なる医師だ。患者のことだけ考えればいい。それがどれほどやりたかったことかよく20年もあんな面倒な立場でおれたものだ。
「どうすればいいのかしら」
小首を傾げるお嬢様は老医師の目から見ても文句なく   かわいい。
このお嬢様を無視できる男がいればそいつは○のうに違いない。
「何も気づかない振りでお好きなお話をしてください。そのうちに帰ってきますから」
帰ってくるというのは彼のタマシイのことである。
うなずいて部屋に入る。あの時の坊ちゃまを引き戻したお嬢様だ。たかだか落ち込んでいる子供一人、すぐ連れ戻すと医師は踏んでいた。
キャスリンお嬢様には他のご兄弟のような錬金術は無い。しかし、あの心を失いかけたものを救うお嬢様の才能は並大抵の術ではないのではないか。
老医師は二人のいる部屋の隣に入り、薄いコップを壁に当てた。会話を盗み聞く体勢である。まるでいたずら中の子供のように胸が高鳴るのはなぜだろう。
隣からはお嬢様の声だけが聞こえてくる。
壁を通しているせいか、少し低い声に聞こえる。
『昨日はありがとうございます』
話題はバラになっている。なるほどこの話題ならいくらでも出てくるだろう。
 いまシラユキヒメがちょうど盛りです。 エドワードさんにもお見せしたいから鉢ごと紅陽荘に持ってきています。 ネムリヒメがまたつぼみのまま枯れ落ちてしまいました。とてもよい香りなのに一度も花が開かないのです。でもきっと次は大丈夫。またつぼみをつけさせますわ。あきらめなければきっとうまくいくときがありますもの。
   「そうですね。キャスリン姫ならきっとうまくいきますよ」
キャスリンが部屋に入ってから2時間後、ラッセルはまるでずっと彼女と会話していたかのように答えた。
あきらめるな。考えろ。成功する。
キャスリンの口から出た言葉が低い声に変わって体内で反響する。
必ずあいつを救ってやる。ドンナコトヲシテモ。
強い決意。もうすでに妄執といったほうが近かったが、再び焦げ付くように体を焼いた。

ラッセルの声を聞いた老医師が次は私の管轄とばかりに立ち上がった。腰が痛い。おかしな姿勢で壁にしがみついていたせいだろう。
老医師がようやく腰を伸ばし部屋に入ってくるまでの数分間の間、若い二人は内緒話をしていた。
キャスリンがラッセルの耳元で‘お願い‘をささやく。
身長差のせいで下から見上げる形となる。
瞳の色こそ違え、見下ろす金の髪の少女は弟とエドによく似ている。そうラッセルは思った。彼はこの二人のお願いを断れたためしがない。
「私を(表向き)姫の婚約者に」
つまりは付き合っている振りをしろということだろう。
「(ラッセル様はこわくないから)お願いします」
見上げてくる瞳が涙で潤む。
キャスリンにはキャスリンの悩みがあった。恵まれすぎた家庭環境ゆえの悩みは他者から見ればぜいたくに見えるだろう。だが、大嫌いな男と強制的に付き合わされる女の子の悩みは生まれも育ちも関係ない。
「5年以内でよければ」
5年という言葉にどういう意味があるのかキャスリンにはわからない。
それは彼が自分で決めた自分の期限。
(お兄様と同じ。この方は約束を守ってくださる)
キャスリンは自分の都合からお願いしたのだが、結果的にこの約束は5年間の彼の命を保障した。幾度もあっさりと命をあきらめかけた彼は彼女との約束のために生き残ることを選んだのだから。その後は、エドの遺言が彼を現世に縛り付けた。
キャスリンが小さな小指を差し出す。戸惑ったように少し遅れて彼の小指が絡められた。
100年後に公開されたキャスリンの日記によると彼女は表向きのつまり偽装婚約してくれとは頼んでいない。しかし、ラッセルのメモには彼女に好きな相手ができるまで5年の期限で婚約者を演じることにしたとなっている。記憶の違いというより両者の認識の違いだろう。

その後老医師に2日目の検査をサボったことでお説教され、ごく軽いランチをキャスリンとともにした。メニューには一切肉は使われていない。また、少しでも口当たりの悪い野菜も使えない。たとえばジャガイモもかぼちゃもアウトである。また青みのあるきゅうり系も食べない。香りの強い葉物も嫌う。トマトは食べるが品種が限定される上に出来が気に入らないと手もつけない。その上食が細く好きな料理が無い。
紅陽荘のコックはこの偏食坊やにこの後も長く泣かされることになる。

「いつかネムリヒメを見ていただけますか」
「はい喜んで」
微笑みあう16歳が二人。金の髪と銀の髪が触れ合う。
デザートのシャンペンシャワー(果物のジェラートに少量のシャンペンをかけたもの)をスプーンで運びながらラッセルは考えていた。このジェラートアイスを今夜エドに作ってやろうと。


数日後のことである。アームストロング家の当主は憲兵隊長のグラスに酒を注いだ。すでに退役したとはいえ、将軍に注いでもらうなど、ましてアームストロング財団の当主に酒を注がすなど。憲兵隊の歴史始まって以来の事件である。
「あの子は末娘の大事な子でな。少し酔いすぎていたので心配しておったが」
当主はすべてを酒に酔っていたせいでと、片付けさせた。
ラッセルが保証人もなく拷問を受けることもなく釈放されたのは裏から手を回したガルガントス当主のおかげであった。頼りになるアームストロングともマスタングとも連絡のつかなかったブロッシュがやむを得ず頼ったのがアレックス・ルイの父だった。それがぎりぎりのタイミングだったことまではブロッシュは知らない。色白で生絹でつくられたような肌のラッセルが無抵抗にうつむいているとき、妖しい目で見ていた憲兵は一桁では足りない。
とにかく、憲兵隊長は退役後の再就職に悩まなくてすむようになった。



79.5 祭

2007-01-03 16:32:45 | 鋼の錬金術師
その夜ラッセルはまずブロッシュの運転する車でデートの相手であるはずのキャスリンを紅陽荘に送り届けた。すぐ車に戻る。
今夜は緑陰に戻るつもりだったがどうも雲行きが変わったようだ。今夜中に研究所であれを造りたい。
「あの博士はどうしていた?」
「デル博士はスタッフをこき使って実験中です。人工血液を強化血液に転用すると言っていました」
「・・・不愉快な年寄りだけど、研究は使えるか」
「まぁ、紙一重ですからね」
ラッセル・トリンガムについて後世の評価は辛口だった。理由のひとつとして彼が独自の研究ではなくて他者の研究を受け継いだことがよくあげられる。研究成果を盗んだとさえ言われる。しかし、彼はそれを自分の功績としたわけではない。現に人工血液の利益は会社が100%とっているし、学会に発表された論文も研究所員の連名でありトリンガムの名は入っていない。
彼は基本研究屋でなく応用屋だった。錬金術研究の成果を工業生産に結びつける実用屋だった。生まれたのがドラクマであれば当初から高い評価を受けていたはずだとは友好条約締結後のドラクマの歴史家の言である。
生前の彼は自分の欲しい物を造り興味あることを次々と手がけただけで、人々の評判など気にしなかった。31歳で社会的な死を迎えた彼には評判を気にする暇などなかったのだろう。
 
 研究所に着いてまずしたことはデル博士以外の所員を返すことだった。
「こういう話は博士のような優秀な術師以外には聞かせられませんから」
さりげなくデルをおだてた後、ラッセルは話を切り出した。人口血液の実験用タンクには1トンの血液が入っている。それを強化血液に転用する。もちろん工場の所員には秘密である。
「強化血液は博士のような天才型の才能がなければ不可能な研究です」
自分を天才と思っている不遇な者はおだてに弱い。特にデル博士は賞賛に飢えていた。
研究所の外で小型の盗聴器を通して会話を聞いていたブロッシュは思わず舌を出した。
「天性の嘘つきだよ。あの坊やは」
しかもあきれたことに当人は嘘をついている気はないのだ。以前ふと漏らしたことがあった。
「俺はずっと生きるために嘘を重ねてきた。あいつらに会って、まっすぐに生きるのがどんなことか見せてもらった。だからあれからは嘘はやめたんだ」
しかし、どう見ても彼は嘘を大量に利用している。彼に聞くとこう答えた。
「生きるのには工夫も要るだろ」
彼の基準に従うと世の中には嘘つきは一人もいなくなるだろう。

ラッセルの目的は強化血液ではない。赤い石だ。しかしこの博士にそれを知られるわけにはいかない。だが人工血液を強化血液に変えるのは計り知れないほどのメリットがあった。人工血液は鉄原子を中心にポリクロール化合体を化合したいわば化学薬品である。生体への適合性に問題はないし一見血液に見えるが結局は化合物に過ぎない。
だが強化血液は当初が生きた血液からスタートしただけに生き物としての面が強い。
ゼノタイムの赤い石の材料については今でも分析しきっているわけではないが、化学薬品なのに生きている気配を感じた。特に満月の夜など。一人でじっと赤い水を見ていると背中がぞくぞくするような悪寒を覚えた。巨大な肉食獣に睨まれたような感触。といっても中途半端な田舎ばかりで育ったラッセルは犬と猫とネズミくらいしか見たことがなかったが。
ラッセルは逆方向からあれを再現するつもりだった。このデル博士が強化血液の段階まで持っていってくれれば後はゼノタイムの手法を応用できる。できるのは不完全な石に過ぎないがそれでもエドの時間はかなり延びるはずだ。
その後は・・・。
後のことは後で考えるしかない。

少し戻ってその日の昼間である。
ワン
庭でデンが吠えた。
デンはハボックがつれて帰ってくれた。今は抵抗値が落ちているから触れないがエドはガラス戸の脇にデンが座ってくれているだけでうれしかった。ガラス戸を開けようとして手を伸ばしかけてはフレッチャーに睨まれる。
「余計なことを考えているなら縛り上げますよ」
にっこり笑顔でいう言葉ではない。
後世の一部歴史家には誤解があるがこの時点でフレッチャーがエドをいじめていたわけではない。後にマスタング政権の闘犬と呼ばれ、さらに獅子の腹を破る狼と呼ばれた彼もこのころはかわいい弟だった。エドが考え無しな行動にでると支え手の兄の負担が増える。エドをお利口にさせておくのが兄を助ける最大の方法だ。いささか情けない気もするが。
「あいつ腹減ってないかな」
「さっきハボック少尉が鶏肉の煮込みを食べさせていましたよ」
「デンも年取ったんだな」
昔は硬い骨を平気でかじっていたデンも今は歯が弱くなっている。犬の寿命は人より短い。
「外出たいなぁ」
陽だまりの中幸せそうにごろついているデンがうらやましくなる。
「ご希望なら首輪もつけましょうか」かわいいえくぼがさりげなく皮ひもを手にしている。すばやい練成である。
「遠慮する」
こういうとき、こいつは間違いなくあいつの弟だとエドは実感する。
その兄のほうが誰のために何をしようとして気に入らない年寄りをおだてているかなどとは、エドは一生知ることはない。

祭りは深夜に終わる。アームストロング財団現当主は車のテールランプを見送った。
一度帰ってきた息子は大総統のじきじきの命令で軍に行ってしまった。娘は大総統のさりげない言葉の下、いつの間にか婚約者と呼ばれるようになった若者の車で紅陽荘に行ってしまった。父親以上にキャスリンを溺愛している息子がよく許可したと思うが、息子の言葉を聴いているとむしろキャスリンに彼を守るように言っているように聞こえた。まぁキャスリンの実力からすればそれも当然という気もするのだが。
「あなた。もう休みましょう」
はとこで幼馴染で妻である女が呼んだ。
いつ見てもいい女だ。この女と一緒に成れたのは人生最大の幸福だった。できるなら息子にもこういう女と出会ってほしかったがどうもうまくいかないようだ。だが、その分息子は世代を超えてよい友人に恵まれた。息子の人生はまだこれからだが収支決算が合うように祈るばかりだ。
嵐の予感があった。経済界からの報告は大きな戦争の予定を告げていた。イシュヴァールどころではない大きな戦だ。
「まだこれからだな」
「はい。あなた」
妻がさりげなくガウンをかけた。古傷が痛み出すころと彼女は知っている。

ラッセルがアームストロング家のガーデンパーティでキャスリンの手を握っていたころハボックは午前中に新しいリハビリセンターでのリハビリを終えて何気ない顔で第7研究所の食堂でランチを食べていた。相変わらずでかいカメラを抱えている。
「なんせさー、あそこの飯まずいんだぜ」
大声で新しいリハビリセンターの食堂をこき下ろす。あまりに堂々とした態度に部外者立ち入り禁止のはずの第7研究所のスタッフもつい彼の出入りを認めていた。ここにいるのは例の右腕部隊である。彼らは自分たちが機密であることは知っている。だからもしハボックがそのことを聞いたら即追い出すしかないと知っていた。だがハボックは相変わらず飄々とした雰囲気で彼らに話題を提供した。彼らは今のところ外に出られない。ハボックは女の子のスカートが短くなっただのオレンジ色は色が薄めで下が透けて見えるだの、リハビリセンターで看護婦がスカートの下に黒をはいてただのと彼らが喜びそうな話題を提供した。一方でセントラルではあまり見かけない渡り鳥を見つけたからと写真を撮ってパネルにして見せてやったり、季節の花が咲いたと庭の花をちぎって食堂のパン焼きバァサンに贈ってやったりした。ほんの数日の間にランチタイムにハボックがいるのは当たり前になっていた。
無論そこで拾った情報はマスタングの手元に届けられている。


すっかりいい気分になったデル博士の指示でラッセルはいくつもの練成陣を書いた。刑務所にいる間に博士は片足に壊疽を起こしていた。彼は自分自身のためにも強化血液が欲しかった。
「今度のは完璧じゃ。絶対暴走なぞ起こさんぞ」
ラッセルはデルの言う暴走がどんなことだったか知らない。知っていたら目的のためには道を選ばない彼でも考え直しただろう。彼は保釈される程度の罪なら大したことではないと思っていた。2代目社長がどの程度裏金を使ったかまでは考えが及ばなかった。
博士は助手が書いたレポートを検分する教授よろしくラッセルの書いた練成陣を調べた。
「よし。ここから先はわしでないとできん」
ラッセルは期待と賞賛の瞳で博士を見上げた。デルはいたく満足しているようだ。賞賛は作り事だが期待はラッセルの本音だった。デルが成功しなければ一から自分でしなくてはならない。おそらく体力が続かないだろう。
ラッセルは部屋を出された。やがて見慣れた青い練成光が研究所を満たした。
とっさにブロッシュはラッセルを抱いた。爆発の危険を感じた。1秒2秒3秒
20を数えたところで寝息に気づいた。上司は眠っていた。
わずかに汗をかいている。研究所は静かだった。ブロッシュは脱皮する虫のように上着を脱いだ。胸元をラッセルの手が握り締めている。彼には握り癖がある。抱いてくれている相手を逃がしたくないと手だけが言っているようだ。
なるべくそっと床に下ろす。以前そのまま倒れたがまったく目を覚まさなかったので気を使う必要はないのだが。
研究室に声をかける。
「デル博士。ご無事ですか?」
静かだった。
思い切って中をのぞく。
デルは床にのびていた。
「あれだけの材料を相手にするのは初めてだから年寄りにはつらいかも」とラッセルが言っていたように体力が尽きたのだろう。ともかくデルを車椅子に乗せ部屋の隅に片付けた。
赤い液体の入ったタンクは一見変化がなかった。だがラッセルを迎えにいこうと背中を向けたときブロッシュは妙な気配を感じた。見られている気がする。デルはのびているしこの部屋には誰もいないのに。本能的な恐怖に胃をきしませながら彼は部屋を出た。
「いける」
部屋に入るなりラッセルは目を輝かせた。
「デル博士は間違いなく天才だ」
おだてではない。
(これでうまくいく)
そう思うとデルに手を合わせたくなるほどだ。
時間が惜しい。すぐ始めよう。
まずは。
ブロッシュにデルを部屋に戻すように頼んだ。
ブロッシュはのどにとげの刺さったような顔をした。
「大丈夫。危ないことはしないから」
ラッセルは嘘を言っていない。問題はこれからしようとしていることを危ないと思っていない彼の感覚だった。14歳のときにもやったことの応用だから大丈夫と彼は思っているが、そのときの量はせいぜいフラスコサイズ。タンク1トンを相手にするのにどういう危険があるのかのデータはない。
(大丈夫。何かあっても背中の陣を使ってねじ切ってみせる)
言葉の後半は無意識に省略した。
ブロッシュを見送った後、まず強化血液のサンプルを取る。さして興味はないがデルには大事なものだろう。
「では、やるか」
両手を打ち鳴らす。とたんに練成反応が、   起こるわけではない。
単なる勢いである。レースで飾られた絹の上着を脱ぐ。髪を結んでいた銀の糸をはずす。
さらり。まったく癖のない髪が背中に遊ぶ。
タンクのカバーをはずす。
両手を付く。14歳のときと異なり練成陣は描かない。今は肩のおしろい彫りが代わりを務める。
一気に力を解放した。体力を考えれば長続きはしない。一度に済ますしかない。
ブロッシュはデルの部屋の重いドアを開けた。
グラリ
不意に足元が揺らいだ。
地震?
セントラルは安定した地盤の上に立っているので、地震は少なかった。しかし今年になってから微震が幾度かあった。
違う。これは!
まさか、いや、やっぱり。デルを室内に押し込むと鍵をかけた。
「これだから、あの坊やは信用できないんだ」
走り戻りながら思わず悪態をつく。言いたくもなる。自分にまで嘘をつくこともないだろうに。
足元が大きく揺れた。何かが割れる音がする。角を曲がると紫の光が床も壁を天井も染め上げている。それが次の瞬間に消えた。練成そのものは終わったのだ。変わりに生臭い熱風が吹き付けてくる。ガラスのひび割れる音。何か大きなものが倒れる音。
息を大きく吸って部屋に飛び込む。ラッセルはタンクの前にいた。両手をついたままなにかつぶやいている。
「なぜ?」
爆発音が響く。黒い煙が吹き荒れた。薬品に火がついたのだ。
ブロッシュが腕を引くがラッセルは動かない。
見上げるとタンクは空っぽだ。床には幾種類もの薬品がこぼれている。だがあの1トンもの人工血液はどこに行ったのだ?どこにも痕跡がない。びしり。ガラスにひびの入る音。とっさにラッセルの腕を強く引く。硬直したままの腕は硬い手触りだ。人の腕というより細い木の枝でもつかんでいるような。無理やり部屋の外に引きずり出す。備え付けの消火器をつかむ。だが薬品系の火に小型消火器では文字通り焼け石に水である。使い尽くしても火勢は収まらない。
(まずい)
スプリンクラーがようやく作動した。しかし相手が化学薬品、しかも正体がわからないところに水をかけてどうなるか。急激に上がる温度。
「逃げろ!」
外を指さす。だがラッセルはブロッシュが置いた位置のまま動こうとしない。
ラッセルの中では化学式が飛びまわっている。何が間違っていたのか。記憶を幾度も反芻する。途中までは14歳の時と変わらなかった。狂い始めたのはさすがに量の多さに参りかけて、背中の練成陣を使った瞬間から。
本能が教える。この陣の力は人にとっては無尽と言っていい。力だけを引き出すつもりでいた。それが狂った。逆に飲み込まれた。かろうじて覚えているのは赤い色。それがタンクの中身の色なのか暴走し始めた陣の影響なのかすらわからない。立っている位置はタンクの前だったはずなのに実感がなくなる。手に触れているはずのガラスの感覚が無い。足が粘った液体に入っているようだ。
「これは嫌だ」
声として聞いたのではない。拒絶された気がした。誰かに腕をつかまれた。引きずり出される。何か叫んだ気がした。声にはならなかった。
『父さんはいない』
そう言ったと思う。なぜ今さら父のことなど考えなければならないのか。
吹っ切ったとは正直なところとても言えないが、エドのことが落ち着くまで考えないつもりでいたのに。
どこかに引き込まれかけ、たたき出された気がした。14歳の時にすらしなかった失敗だ。ましてもう後が無いこの時になって。
ラッセルは知らない。自分が何を背負っているかを。真理の門、生命の樹を身に帯びることにより彼は真理に最も近づける人になった。同時に永遠に真理を見ることの無い者になった。そして彼が意識をあまりにも強く繋いでしまったエドは生身の人間としては最も多くの真理を得ていた。彼らこそ永遠に出会ってはならない存在だった。
ブロッシュはラッセルを無理やり背負うと研究棟を離れた。50メートル先に工場の分厚い壁がある。
(まさか爆発はしないと思うけど)
研究棟からはまだ黒煙が出ている。
工場の手すりの柱に手錠を掛けた。ラッセルの足に繋ぐ。彼はまだほうけたままだ。この状態でふらふらされたらどこに行くかわからない。正気の時でさえどこにいくかわからない人なのだから。
「いいですか。ここで待っていてくださいよ」
手錠の鍵を押し付けた。自力で鍵を開けられるなら正気に戻ったといえるはずだ。
ブロッシュは研究棟に駆け戻った。中にはまだデルがいる。ほうっておくわけにはいかない。本音のところあの不愉快な老人がもしも爆発に巻き込まれて亡くなったとしても「気の毒には思えないな」。ではなぜ戻るのか。相手が人間だからか?
ブロッシュが戻る動機はヒューマニズムとも生命至上主義ともかけ離れていた。盲愛。この言葉が一番近かった。
自分の為に誰かが犠牲になったと知ったら、手のかかる上司坊やがまた落ち込む。もうあんな姿は見たくない。
ちっとも崇高でない思いを抱えてブロッシュは研究棟に飛び込んだ。

ブロッシュがデルを抱えて研究棟を出たとき入れ代わりに消防隊が入ってきた。黒煙が見えているから誰かが通報したのだろう。

79 祭

2007-01-03 16:32:22 | 鋼の錬金術師
79 祭

研究所に缶詰中だったラッセルはキャスリンからの連絡でアームストロング家の本宅に来ていた。本音を言うと邪魔されたくはなかったし、ここの庭にはあの大きな金属系練成の練成陣があるからあまり近寄りたくはないのだが、(五行説でも木と金は仲がいいとは言いがたい)連絡をしてきたのがキャスリンでは仕方がない。なにしろ彼女には紅陽荘にいる間ずいぶん世話になっているし、何よりも彼女はアレックス・ルイの大切な妹だ。
「朝のうちはおじ様達が今年の方針を決めるの。昼からは園遊会になるわ」
バラに囲まれた東屋でゆっくりお茶にしながら、キャスリンは今日のパーティの事を説明した。その午後の園遊会にパートナーとして来て欲しいというのが彼女の伝言だった。キャスリンにはキャスリンの事情があった。例年兄と出ていたのだが今年兄は帰っていない。もし、帰ってきても兄は兄自身の婚約者を連れなければいけない。そして、キャスリンにパートナーがいないとなると口うるさい一族の年寄りが無理やりに誰かを押し付ける。年齢的につりあうとなると傍系に赤い髪のジェームズがいる。しかし、キャスリンは彼を思い出しただけで蕁麻疹が出そうなほど嫌いだった。といって他の誰を選んでも、後々アームストロング家の末娘との縁談が問題になりそうだ。第一兄のいないところで男に手を取られると思っただけでキャスリンは気を失いそうになる。
どうすればと思い悩むキャスリンに兄の乳姉妹が答えをくれた。
『ラッセル様ならお嬢様の嫌がることは決してされませんよ。それにお嬢様もあの方は平気でいらしたでしょう』
それにあの人のことはお兄様が気に入っていらっしゃる。キャスリンが電話を手にするまで3秒しかかからなかった。

ガーデンパーティはアームストロング家の広大な裏庭で行われる。裏庭といってもまともな町が50は造れそうな面積がある。噴水に東屋、蘭の温室、バラ園が点在する。少し先に行くと牧場があり、その脇に人工の森が広がる。
こういうパーティでは身分や地位、格式の高いものほど遅れてくる。例年大総統は夜11時に来て当主とお茶をして帰っていく。ガーデンパーティは深夜12時に終わる。その後陰謀や密談、秘めた恋愛が東屋や温室の一隅で繰り広げられる。
今日のキャスリンは淡いばら色の古典様式のドレス。これは初代の妻が着たのと同じ形式である。ラッセルには合わせる形で淡い青色のタキシードを用意していた。あまりに淡い色は品格なく見えることもあるのだが、この銀の若者にはこれ以上はないほど似合った。
『お似合いですわ。軍服のときまるで青に覆い尽くされそうに見えていたから淡い色のほうがいいと思ったけど、これだけ似合えば針子たちも喜ぶでしょう』
何しろ連絡が取れたのはパーティの朝である。それから大急ぎで服を作るのに、セントラル随一の洋品店の縫い方達が全滅することとなった。

「キャスリンお姉さん。ルームメートのトーマスだよ」
「ゴードン。こういうときは身内を先に紹介するものよ」
3歳の時に養子になったとはいえ、実の親のもとでのんびり育っているゴードンはこういう場の礼儀が身についていない。お兄様に相談して来年までにきちんとした作法を教えなければと本家の姫君らしくキャスリンは一族の子供の教育方法を考えた。
「初めまして、キャスリン姫。トーマス・シラキです」
軽く彼女の手を取り唇に当てる。ルームメートといいながらトーマスはすでに豆紳士、育ちの差が歴然である。
実のところラッセルもこういう場での作法が身についているとは言いがたい。マスタングの教育は必要なつどの即席教育で文学だの音楽だの古典劇だのに話題が移るとどこまで対応できるか危なっかしい。
今はバラ園を中心に若い招待客の間を主催の一族のものとして挨拶しているレベルだから問題ないが、夜の部で底意地の悪い年寄りたちが出てくればバックのないラッセルはつらい思いをすることになるだろう。
「こいつ、学校でひどい目にあったんだ。知ってるよね。人質事件」
身内の気安さもありゴードンはトーマスがあの時の人質だったことを軽く告げた。キャスリンの手を取る銀の若者がその事件の助けぬしだったとは知らない。
「あの時の・・・」
ラッセルは言いかけて口を閉ざした。緘口令が出ていたはずだ。
「ご存知ですか?あの時ご覧になっていらした?・・・・僕は犯人を見ていました。干からびていくところを」
「干からびて?」
「生きたまま全身の水分を搾り取られた。腕の肉がまるでビーフジャーキーのように        怖かった」
「キャスリンお姉さん。俺たち牛狩りのほうにいるから、また後でね」
年齢よりはるかに体格が大きいため、とかく神経が回っていないと見られがちなゴードンだが、実際は見た目に似合わず繊細な面を持っている。ルームメートが吹っ切るためにここに来たのはわかっていた。あえてあのことを話題に振ってみたがどうやらまだ傷口は深いようだ。とにかく気分を変えさせようといささか乱暴に手を引いた。
「待ってくれ、シラキ子爵。君はあの時中にいた?犯人はどうなっていた?調べようとしたら、記録がなくて」
「あなたは?・・・あなたがあの時の練成を?」
わずかに銀時計が見えた。
「あ、緘口令出ていたけど・・・まぁいいか。そうだよ、外から地面を通したんだ」
「あなたが・・・」
思い出したくないことが思い出される。それでもトーマスは踏みとどまった。
自分で解決するしかない。
「おい、行くぜ」
何かまずい、と感じたゴードンが手を強く引いた。半ば引きずるように離れる。

子供たちが去った後、キャスリンはラッセルが考え込んでいるのに気がついた。
(どういうことだ?どうしてあの子にあんな目で見られなければならないんだ?会ったのは今日初めてのはずなのに     バケモノ、声にはなっていなかったけどあの子はそう言った。どうして?)
「ラッセル様、温室で伯母様達にご挨拶がありますの。連れて行ってくださいます」
「・・・失礼、姫」
今日がどういう日であるかを忘れていた。今日の自分は姫のエスコート役だ。考えるのは後にすべきだ。
温室前の瀟洒なティルームには2人の老婦人がいた。彼女らはキャスリンが兄以外の男と連れ立ってきたことにまず驚いた。あわてて老眼鏡をかけ直す。
「おや、どこで見つけたの。上等だね」
「伯母様ったら、この方はお兄様の、   」
兄の何だと言えばいいのだろうか。正式の軍人でない彼は部下ではない。現に今日の彼は軍服では無い。
「ルイ坊のお友達かい、また上等なのを見つけたものだね」
「初めまして、マダム。ラッセル・トリンガムです」
しわだらけの手を取り口付ける。
「おやおや、おませな坊やだね」
「気にしないでやってね。この人昔からこうだから」
もう一人の老婦人がとりなすように言う。
しばらく老婦人達の取り留めの無い会話に付き合った。ラッセルは年寄りには慣れていた。新旧ゼノタイムでも彼はばぁさん達の話し相手であったからだ。同じことを何度も繰り返されてもまったく動じることなく初めての話のように受け答えしている。
「おや、もうこんな時間だよ。キャスリンは牛狩りを見るのだろう」
「伯母様達は?」
「ルイ坊が出ないからつまらないよ。今年は戻れなかったんだね」
先ほど取り成した老婦人がキャスリンを手招きした。
「やさしくていい人ね。もう決めたの?」
「伯母様、この方はそういう方では、ただ私が無理にお願いしただけです」
「うちの一族の婿にしては線が細いようね。キャスリンが守ってやるほうが似合うよ」
「伯母様ったら」
会話が聞こえていないはずは無いがラッセルはゆったりと微笑んでいるだけだ。

牛狩りは本来アームストロングの一族の男のみが行う。筋肉を最大限に美しく見せながら狩るのがポイントである。男達は例年ポーズを決めパフォーマンスを見せながら牛を倒す。時には力自慢の軍人やレスラーなどが飛び入りすることもあるがその場合には周りに銃殺隊がつく。
ゴードンはトーマスに剣を渡して「とどめはお前が刺せよ」といった後牛をひっぱたいた。ゴードンには叔父たちのようにポーズをつける趣味はない。ごく普通の家庭に育ったゴードンにはどうもあの感覚は理解しにくい。気恥ずかしくはないのかと思う。
興奮し走り回った牛がこちらに突っ込んでくるのを待って角をつかむ。一気に180度ねじり上げた。
血混じりのよだれをたらし四肢を痙攣させる牛を見下ろした。
「トーマス、とどめを」
足を震わすトーマスを引きずり込む。都会育ちのトーマスは生き物を殺した経験などない。
「楽に死なせろ」
トーマスは剣を振り上げたが降ろせない。ルームメートの手にゴードンは手を重ねた。
牛の首は重い音を立てて落ちた。

キャスリンとラッセルが闘牛場についたのは牛の首が落ちる音が響いたときだった。
「早すぎるわ。もう少しお客様の目を楽しませないとだめよ」
例年のことだからキャスリンは平然としている。闘技場の血だまりに顔色を変えたのはラッセル一人だった。
やがて次の牛が引き出されてくる。
「キャスリン姫、きれいなペットをお連れですね」
その声が聞こえたとたんキャスリンは思わず身震いした。振り返りたくはないが振り返る。
「ジェームズ子爵、失礼でしょう」
きれいなペットが何を指すかはニヤニヤ笑いを浮かべている彼の取り巻きの視線を見るまでもない。ラッセルだ。
ラッセルも相手を見下ろした。身長はラッセルのほうが2センチほど高い。横幅は、倍以上あるだろう。しかし、ジェームズが体にまとっているのはキャスリンの兄のような美しい筋肉ではない。不摂生の脂肪だ。燃え立つような真っ赤な髪とあわせて、彼に迷惑をこうむったものはみなこう言う。
『あいつに火をつけてみろ。油だらけだからよく燃えるぞ』
「へぇ、こいつが身の程知らずに本家の末姫に求婚したって若造か」
根も葉もない噂だが、この日ジェームズが他の客のいる前で口にしたことでむしろ広まってしまった。
ラッセルはジェームズの体重を計算した。100キロはありそうだ。背の練成陣の暴走事件以前ならこの程度の男を投げ飛ばすぐらい簡単だった。しかし、今はとても無理だ。第一こいつもアームストロング家の傍系ではあるらしい。服の胸にわざとらしく家紋のカメオが光っている。
ぐっ
いきなりジェームズがラッセルの腕をつかんだ。
ラッセルは反射的にはずそうとするが、脂肪だらけでもジェームズの力は強い。
「小鳥は鳥かごに入ってろ」
どうやら酔っているらしい。乱暴に腕を銀のテーブルに置く。
見慣れた練成光が輝き銀の檻がラッセルを包んだ。周りがざわめいた。
ジェームズは今年からキャスリンのエスコートは自分だと思っていた。それが今日まで本家からは何の連絡もなかった。おかしいと思って早々と来てみると、キャスリンにはパートナーがいるというのだ。
女達の話ではとにかく輝くように美しく金と銀の一対で神話の挿絵のように見えたという。
自分の目で見てみると、なるほど確かに見た目はきれいだ。しかし、噂で聞けば何のバックも無い男だという。貴族ですらないらしい。
見た目も細いが衣装で多少はカバーされているらしい。握ったときの腕の細さは下手するとキャスリンより細いのではないか。
(こんな鶏がらみたいながきが俺の当然の権利を奪いやがった!)
ラッセルは無言で銀の檻に片手を当てた。淡い紫の光がわずかに檻を覆う。
「まぁ、美しい」
「器用なものだ」
光が収まったときには彼はもう檻の外にいた。一歩も動いていない。檻を分解し1メートル離れたところに再構築した。ついでにつるバラを這わせ蒼バラを咲かせておいた。
錬金術を見慣れた人々にはこの技の高度さがわかった。まず金属系の分解、再構築と同時に有機系の合成か、成長を使っている。
「この!」
重くはあるがスピードには欠けるパンチが降ってくる。避けるのはわけも無いはずだった。タイミング悪く胸が痛まなければ。
(あ、)
無意識に胸を押さえた。
(こんなバカな。切れるのが早すぎる)
安定剤が切れかけていた。最悪のタイミングだ。
パシン
「ジェームズ!私の婚約者への無礼は本家の名にかけて許しません」
白いレースに包まれた手がジェームズの手を払い落とした。
それからキャスリンはいかにも良家の姫らしく気分を害した振りをした。
「ラッセル様。私気分が悪いわ。部屋に連れて行ってくださいます」
ラッセルは無言でキャスリンの手を取った。実のところは声を出す余裕が無かったのだが。
二人が去った後、ジェームズは本家の当主、つまりキャスリンの父に飲みすぎを注意された。その後、むしゃくしゃした気分を晴らすため牛狩りに出たが、酔いもあったのか致命傷を与えることができず異常に興奮した牛が暴れ周り見物のご婦人方のドレスを埃まみれにしたためアームストロング家の者に対しては異例のことだが銃殺隊が止めを刺した。
父親には体面を考えよと厳しくしかられ、彼は執事の手で屋敷に戻された。

広大な庭には約20メートルおきに東屋だの水車小屋を模したティルームだのが作ってある。
その1室に若い二人は姿を消した。中に入ったとたん今までうつむいていたキャスリンがすばやく鍵をかける。
安全を確認するとラッセルを座らせた。
「ラッセル様、ごめんなさい。私が無理をお願いしたから」
「姫、薬を」
わずかに震える声が答えた。
彼の手が瓶を開け切れず空回りしている。
キャスリンは手早く蓋を開け、グラスに水を注ぐ。
飲んでから5分ほどでラッセルはすっかり落ち着いた。
信じられないほどの効き目である。早すぎた。キャスリンは医学や薬学に詳しいわけではないがこの効きの早さには疑問を持った。彼女はラッセルに瓶を返すときこっそりと一粒隠した。カートン医師に渡して調べてもらうつもりである。
しきりに恐縮する彼に、お疲れのところに無理を言ったのは私ですからと彼が気にしないように話す。
二人が東屋にいたのは10分ほどだが、その間に噂は広まった。アームストロング本家秘蔵の末娘を射止めたのはどこの馬の骨だと人々はさりげなく東屋の周囲に集まっていた。
「妙に人が増えましたね」
「・・・ごめんなさい。私があんなことを言ったからみんなラッセル様を見に来たのだわ」
「あんなこと?」
「あなたを私の婚約者だと」
いいながらキャスリンはほんのりと薔薇色に染まった。
それは遠めには若いカップルの甘い語らいに見えた。
「なかなか外見はよさそうだがどこの馬の骨だ」
「ラッセル・トリンガム。数ヶ月前に推薦枠で銀時計を得ていますね。その後軍に出入りするようになり、最近は大総統の護衛を勤めています」
「アームストロング家の末姫とはとんだシンデレラボーイだな」
「まだ、正式の婚約者ではないようです。ただ、次期当主があれを気に入ってすでに別荘には自由に出入りさせているとか」
「聞いたことの無い名だな」
「貴族ではありません。今まで南の方の田舎で育ったとか聞きましたが」
「バックなしか。使えるかも知れんな。完全に調べ上げろ」
似たような会話は年頃の息子を持たない貴族財界人高級軍人の間でそれぞれに交わされていた。
彼らは知らない。次期当主の乳姉妹がラッセルを推薦したのは彼が末姫にとって完全に安全な男だからだ。彼らの間には友情や仲間意識以外のものは成立し得ない。キャスリンが彼を恐れないのは彼が男のうちに入っていないためで、ラッセルは間違いなくキャスリンを愛しているがそれは大切なバラや蘭を愛するのと同じ感情である。この二人ほど周りの見る目とは異なり恋愛に程遠いペアはいなかった。
キャスリンをアームストロング正婦人が呼んだ。
「お一人でいらっしゃるようにとのお言葉です」
どうやら夫婦で気をそろえていたのだろう。その間に現当主が闘牛場に来た。
「娘がわがままを言ったようで申し訳ない」
当主は以前に庭まで来たラッセルを見ているが、ラッセルのほうは初対面である。それでもすぐに相手が何者かわかった。ルイに似た気配。この一族に特有の体格。物柔らかでありながら決して油断の無い軍人の気配。
「初めまして。アームストロング大佐のお父上でいらっしゃいますね。ラッセル・トリンガムです。いつも大佐にお世話になっております」
この挨拶で当主は婚約者の噂が噂に過ぎないことを見抜いた。この若者にとって娘はその兄の妹であるに過ぎないらしい。少なくとも今は。
それにしても女の好みとはわからないものだ。実の娘でも母親と同じとはいえないらしい。キャスリンの母親は自分が何者であるかわかっても、それでも自分に命がけの思いを与えてくれたのだが。17年前の思いに一瞬当主は心を飛ばした。
目の前の若者は静かだった。あまりに静かなのでいつもなら人前で決して思い出すことの無い記憶がかえってきてしまった。当主は周りの気配を探った。気づいた者はいない。だが、目の前のこの若者は何かに気づいている。
女なら目を離せないだろう柔らかな微笑。娘もこの微笑に夢中になったのだろうか。どうもよくわからない。男には女心は永久にわからないのかも知れない。
闘牛場の牛が鳴いた。柵を壊しかねない勢いで突っ込んでいく。周りの人だかりの多さに興奮しているようだ。当主はいすに座ったまま柵を作り直した。
「お見事です」
素直な賞賛の声。
この牛は今年一番の大物で本来なら息子のルイがパフォーマーになるはずだった。だが息子は帰ってこられないようだ。
それを言ったのは気まぐれだった。だが後で思うと様々な思惑が絡んでいた。
「トリンガム君。せっかくだから牛狩りをしてみないかね」
当主の言葉は周りの貴族達や高級軍人達も聞いていた。ここで断ったらラッセルを推薦した当主の恥になり、子飼いにしている立場上(エドの大切な人である)准将の不利益になる。当主はルイの父親でキャスリンの父親だ。
NOとは言えなかった。
「はい。ご許可をいただければお目汚しをさせていただきます」
当然のように銃殺隊が周りを取り巻いたが当主が片手で退けた。いざとなれば自分が助ければすむ。ルイの言葉を聞けば軟弱にすら見える外見にかかわらず重装兵5人を3分で殴り倒す腕だという。期待してもいいだろう。
当主は知らない。それは彼が厄介な練成陣に悩まされる前の話であり、最近では握力が以前の半分もなく、全力で戦えるのもせいぜい5分程度であるのを。
(どうしてこう厄介ごとが降ってくるのかな)
上着を柵の外のメイドに預けるとゆっくりと柵内に入った。
(エドに伝わるから怪我はできないし、走り回るのはいやだし)
どうやら、近づいてきたところで神経を一撃で断ち切るしかないらしい。解剖学の本のページに載っていた牛の神経図を思い出す。
ラッセルは剣を断っていた。一見自信ありげだが事実は重い剣を振り回す体力が惜しかっただけである。
周りの視線が痛い。ここで失敗すれば社交界中に広まることになる。
(ひどい話だ)
バラの香りがする。キャスリンの庭は遠いから別のバラだろう。老婦人がひとりゆっくり柵に近寄った。上品そうな貴婦人だ。香りは彼女の胸の白バラから発していた。いいバラだ。気に入った。
「マダム。あなたの守護をいただけますか」
荒れる牛に何気なく背を向ける。周りのざわめきが大きくなる。老婦人の胸のバラをそっと抜き取る。騒ぎに興奮した牛が柵の中の人間に突っ込んできた。
男達の喚声と貴婦人達の悲鳴が重なる。銀の若者が吹っ飛ばされるのを彼らは予測した。
「伯母上!」
当主が叫ぶ。若者のそばにいるのは財団の最長老である叔母のマリアだ。
すでに権力は無いが財団の聖母といわれた彼女は高官達に慈母と慕われている。このごろ少しぼけてきたらしい彼女は若いころから好きだった牛狩りに無意識に近寄ったのだろう。
当主は柵を片手でなぎ倒して闘牛場に飛び込んだ。あの叔母に怪我をさせてはならない。当主の動きに銃殺隊も動いたが牛の勢いは止まらない。振動で地面が震える。下手に攻撃して傷つけたら余計に暴れさすことになる。一撃でしとめなくてはならない。当主は練成しかけたが叔母に近すぎる。
あの銀の若者がどのくらい当てになるか?
当主の見る中、彼は何事も起きていないような顔で振り向いた。片手には白いバラ。剣さえ持っていない。牛までは約1メートル。当主の視線に彼は微笑した。余裕の表情だ。
左手を大きく動かすと手にした花を投げた。同時に青紫の光が牛を包む。
ずん。
重い音がした。牛が足を止めた。そのまま動かなくなる。ひずめが土に食い込んでいる。
ぱちぱち。
少女のようなかわいい笑顔の叔母が手を叩いている。
「マダム。あなたのおかげです」
実際助かった。牛を追って走らずにすんだし、当主が飛び込んだことでパフォーマンスの条件もクリアしただろう。パフォーマンスというよりハプニングに近いが祭りの余興としては合格だろう。
しかし、見物人は何がおきたかわかっただろうか?
わかるものとわからないもので反応が違った。
銃殺隊が牛の周りを囲んだ。完全に死んでいるのを確認する。だが傷はどこにあるのだ?血の一滴も落ちていない。
「きれいな戦いぶりね」
ご婦人達には好評だ。何しろ埃でドレスが汚れなかった。
牛の背に刺さった赤いバラを抜いた。練成で汚れを消し去る。
「この会場で一番美しい方に」
彼女の手に口付けてバラを胸に飾る。
気障やろうめ!
男達の視線が語る。だがお相手が60歳を越した老女では怒りを持続するのは難しい。
一方ご婦人達もうらやましさにため息をついたものの相手が最長老では怒るわけにはいかない。
数分後母親のもとから帰ってきたキャスリンは騒ぎの原因を聞いて顔色を変えた。
「お父様!」
「おぉ、キャスリン見ていたか?鮮やかなものだったぞ」
父は上機嫌だ。
「お父様。私当分紅陽荘にいきます」
「キャスリン?」
娘は何を怒っているのだろう。女の子は本当に扱いが難しい。

祭りは多少のハプニングこそあったがほぼ順調に進んだ。当主は今年も無事に終わりそうだといくらか緊張を解いた。終わりがけに思わず息子が帰ってきた。キャスリンの喜びはたいそう大きくパートナーの手を離して兄の胸に飛び込んだ。本来なら礼儀に反する行為だが銀の若者自身もうれしそうに息子を迎えているのを見ると、彼らにとっては問題ないのだろう。当主には若い世代の感覚は理解できない。例年通りの時刻に大総統が来た。例年通り本家がそろっての出迎えになる。ラッセルは護衛として随行していたマスタングの側に引いた。
「いつからいた」
マスタングが小声でささやく。
「昼前からです」
「調子は?」
「大丈夫です。弟が付いていますから」
「 エドじゃない。君だ」
「は?あぁべつに痛みませんから」
マスタングなりに殴ったことを反省しているらしい。
「マスタング君。若い者の恋路を邪魔するのは野暮というものだ」
大総統が形式的な挨拶もそこそこに護衛の位置の二人を呼んだ。
「明日から当分忙しくなる。今夜のうちのゆっくりデートを楽しませてやろう。よろしいですな。ガルガントス将軍」
当主はもう軍を退いているが退役時の呼び方で大総統は呼ぶ。一族の者のみが使うセカンドネームで親しげに話す。一見友人というイメージだが、将軍の中ではそのような甘い関係ではなかった。
そして『明日から忙しくなる』。それが何なのかラッセルは引っかかった。どうやら休暇は後数日を残して没収されるらしい。


78.5 破壊の右手

2007-01-03 16:29:57 | 鋼の錬金術師
退屈しているエドにハボックは撮りためていた写真を見せてやった。
田舎の風景に始まりブラックハヤテ号が花屋の女の子に抱かれて鼻の下を伸ばしている(ように見える)一枚。ハボックがここ数ヶ月どこで何をしていたのかよくわかる。その最後の1枚にエドの手が止まる。
オートメールをつけた犬が檻の中にいる。
「デンだ。これどこで撮ったんだ」
「あぁ、それか。第7研究所だ。どっかで迷子になっていたのを拾ったそうだ。オートメールをつけている犬は珍しいから預かる気になったそうだ。知っているのか?」
「デンだ。友達だよ。おかしいな。リゼンブールにいるはずなのに」
いやな感じがした。何かあったのではないか。何か起こるのではないか。
リゼンブールに。

第7研究所はもともとリハビリセンターだった。翌日、昨夜ロイに言われたこととデンのこととでハボックは研究所に来た。治療の見込みは無くても残存機能を落とさないためにリハビリは必要である。もともとリハビリセンターには退役軍人が他の職業に就くためのトレーニングセンターも付随していた。それゆえにハボックが第7研究所に行くのは正当な理由がある。
昨夜遅く帰ってきたロイはハボックが残っていたのを見てある指示を出した。
第7研究所に集められた500人のうち治療不能が200人。残り300人が研究所から出てきていない。それを調べろというのだ。
何かが動いている。それが何かはまだわからない。ロイには誰かの手の上で踊らされている危惧があった。自分が今大総統を目指していることすらそいつの計画のうちではないかと。


あのテロリストによる幼年学校生徒の人質事件は銀の若者の手で解決していた。しかし人質にされた生徒は全員が精神的ショックで入院し一人を除いて幼年学校を辞めていた。残った一人はトーマス・シラキ。アームストロング家に並ぶ名門シラキ一族の嫡孫である。アームストロング家が一族も増え繁栄しているのに対しシラキ家はどういうわけか子孫にめぐまれずいまや当主であるシラキ中将と孫のトーマスしかいない。
トーマスは病院を退院してからもしばらくは寮に帰らなかった。これ以上休むと自動的に退学になるぎりぎりまで休んだ。
今日は久しぶりの授業である。
「トーマス!やっと出てきたのか!」
いきなり後ろから背中をはたいたのはルームメートのゴードン・ロック・アームストロングである。平均的身長と中肉中背のトーマスは黒板の手前まで吹っ飛ばされた。
いつもなら簡単にかわすトーマスだが今日はまだぼんやりしていた。ゴードンはゴードンなりに加減しているのだが12歳で180センチの身長とアームストロング家特有の超筋肉質な体型の力は強すぎた。
二人はルームメートだが専攻している課が違うためあまり授業は重ならない。
「いやー、わるいなー。おじき達と会ったばかりで加減を間違えちまった」
悪いといいながら豪快に笑う。このルームメートに早く会いに戻ればよかったとトーマスは思った。
彼にはたかれたとたんに錬金術への恐怖心が吹っ飛んだ気がした。
「お前大丈夫か?」
事件の緘口令は出ていたが人の口に戸は立てられない。すでに学校中があの事件を知っていた。
「多分大丈夫。これ以上休めないし」
「御曹司はつらいなぁ」
「君も同じだろう」
「俺はどーでもいいんだ。もともと家名なんて持ってないし」
ゴードンはアームストロング家の傍系のロック家の長男だった。3歳の時に明らかにアームストロング家特有の体型と錬金術への才能を見せたため本家の親族の家の形式的な養子とされた。今も学校が休みのときは実の親と暮らしている。弟も妹もおっきな兄ちゃんが大好きで帰ってくるのを楽しみにしている。
本家の者とも交流はあるが12歳の彼には自分よりおっきいおじちゃん達という認識しかない。後にアレックス・ルイ・アームストロングが後継者を持たないまま亡くなった後、キャスリン・エル・アームストロングの推薦を受け財団の後継者になるとは12歳時点では誰の予測にもなかった。

ゴードンはトーマスをアームストロング家の祭りに誘った。年に1度開かれる財団会議は通称をなべ祭りと呼ばれる。午前中は一族だけで集まり、何げない会話が交わされる。このときに財団の次の一年の方向が決められる。午後からは軍の高官や取引先の社長などを招いてのガーデンパーティになる。このパーティにはあらゆるジャンルの大物が集まるし格式ばらないので、招待状をもらえるかどうかは社交界では大問題だった。
「お前が戦史と射撃を教えてくれたから成績上がったんだ。ご褒美に今年は個人客を一人呼べるんだ。遊びに来いよ。俺、猛牛狩りにも出るんだ。俺が倒した牛でバーベキューしようぜ」
アームストロング家のパーティには錬金術師も大量に集まる。トーマスはまだ錬金術師が怖かった。理屈ではない。錬金術のおかげでみんなが助かったのはわかっている。だが、夢に見るのは立ったまま干からびていく犯人の姿。それでも彼は錬金術から逃げられなかった。この国の軍が錬金術を中心にしている以上軍人を目指すなら早く吹っ切るべきだった。
「ありがとう。ぜひ参加させてもらうよ」
祖父のために。
亡くなった父のために。
家名のために。


ラッセルはこの日初めてゼネラル薬品の主任研究員に会った。会わないほうがよかったなと思った。錬金術の悪いところを捏ね上げて蒸留したような研究員だ。まともな研究員に聞けば合成獣による連続傷害事件で無期懲役だったこの男を何とかいいところを見せたがっていた2代目社長が金を出し保釈中という。確かに研究に関しては恐ろしいほどの才能がある。聞けば昔は人工血液ではなく強化血液を極めていたという。だが研究のために研究をするタイプで次第に本来の目的を離れていったのだ。『進化する肉体』という本を書いていたそうだがラッセルは読んだこともない。軍に発禁処分をされたというからどうせまともな内容ではなかったのだろう。
「あんたも体の再生をめざしてるのか。わしもじゃよ。軍のばか者どもはわしの天才振りを理解せんのじゃ。今に見ておれ。人工血液の後は強化血液じゃ。必ず研究を成功させるぞ。わしの研究が完成すれば怪我も病気も内側から治る完全な人間が出来上がるのじゃぞ。そいつらを兵士にすれば死なない軍隊ができるのじゃ。指1本からでも体を取り戻せるのじゃ」
それでもエドの治療に参考になることはないかと少しばかりおだててみたがどうやらどうにもならないようだ。ラッセルは無言で合図した。奥から数人の男が出てきてデル博士を連れて行った。たった数分でもあんな年寄りに無駄に使った時間が惜しかった。
「マッド サイエンティストですよ。確かに研究には天才でしたが人間が使うことを考えに入れてない研究では何にもならないのです。人工血液はトリンガム君のおかげで使い物になったのですよ。おかげで会社の利益は10倍ですよ。
私達の給料も2倍になったし」
若い研究員が気軽に話しかけてくる。出入りしだした当初は隔意をもたれがちだったがこのごろはすっかり打ち解けている。
「まだ、研究の余地ありだけどね」
「うーん、粒子が小さいから血液型を問わず輸血できるわけだし連用しなければ問題はないのですけどね」
「出血傾向を抑えれば再生不良貧血への連用もできるようになる」
「社長は今の品質で十分だって言っていますよ。もう軍に納入できているし」
人工血液は莫大な利益を会社にもたらした。とかく先代と妻に押さえ込まれがちだった2代目社長はホクホク顔で愛人を5人に増やしている。社長にとっては青いバラは今では幸運のシンボルだった。
「少し試したいことがあるんだ。社長には内緒で手を貸してもらえないかな」
「いいですよ。何するのですか」
「知り合いの誕生日に面白いものを送りたくてね。休みの間に缶詰して作りたいんだ」
もうすぐエドは17歳になる。はたしてその日が迎えられるかどうかはわからないが。ラッセルはこの休みの間に石を作るつもりでいた。完治は無理としてもそれを使ってエドの残った時間を延ばせると読んでいた。マスタングには話していない。弟にも何も言っていない。当人は秘密主義のつもりはない。ただ、うまくいくかわからないことを言っても仕方ないだろうと思っているだけだ。世間ではそういうのを秘密主義と言うのだが、世慣れているくせに常識に欠ける彼にはわからない。

ハボックはもとリハビリセンター(現第7研究所)の食堂にいた。
あれこれ調べるまでもなかった。食堂は残った300人とリハビリに通う負傷者でごった返している。みんな回りの雑音に負けないよう大声で話していた。
ハボックは幾人かの顔見知りを見つけた。
負傷し軍を辞めることになっていた兵士は、ここで治るしまた軍人としてやっていけると喜んでいた。
「助かりました。子供はちびだし、俺学が無いから軍以外じゃやっていけないし。ハボック少尉は?」
「俺はだめだったよ。いいんだ。趣味もできたし田舎でのんびり暮らすさ」
ハボックはカメラを見せた。
「うわー。それ高いのですよね」
「そうなのか。もらい物だから知らねぇや」
「そんな高いのくれたのですか。いい女ですねぇ」
それは田舎に帰る前ロイが何気なくよこしたもの。
美女を見つけたら住所と年齢とスリーサイズを書いて報告しろと言って。
「お前、子供に写真ぐらい送ってやったらどうだ。一枚とってやるよ」
ハボックは兵士の写真を取った。数日後、ハボックはまた食堂に来た。写真を渡してやろうと思った。しかし、兵士は現れない。こないだはうるさいぐらい騒がしかったのに今日はやけに静かだった。顔見知りを見つけたハボックは兵士の名を言って聞いてみた。
「…ハボック少尉、   リハビリだけして帰ったほうがいいですよ」
彼らは口を閉ざした。見ると彼らはみんな右手に同じような包帯をしている。そういえばあの兵士もそうだった。
無理やり聞き出すには人目が多すぎた。トイレの中でハボックは顔見知りを見つけた。どうも待っていたらしい。
「あいつ、死んだのです。俺もどうなるかわからない。少尉は見込みなしでされなかったのですよね。少尉だけでも無事でよかった」
「どういうことだ」
「この包帯の下によくわからない練成陣が掘り込まれています。何でも壊せるそうです。あいつ一番に試してリバウンドで吹き飛んだのです。これ忘れてください。でないと少尉も危険です。俺たちはもう逃げられません」
「残った300人全員がそれを彫られたのか?」
「死んだやつもいるので全員じゃないでしょうけど。錬金術で彫られたのでそのリバウンドで死んだやつもいるから」
「…逃げる気はあるか?」
「俺、田舎に親がいるのです。俺が軍でちゃんとやっているって聞いて喜んでいた。逃げられません。この話、もう忘れてください。さよなら少尉、幸運を」

数日後、リハビリに来たハボックは、職員から今後のリハビリは少し離れた病院付属のセンターに移ると知らされた。今後、この第7研究所は別の目的専用に使われるという。食堂の片隅で、数日前に出会った顔見知りを見つけた。彼は行き着いた後吹っ切れたような顔をしていた。
「この国は強くなりますよ。もう何も恐れる必要も無いくらいに。今はこれ以上言えませんけど。まぁ、軍の広報を楽しみにしていてください。『破壊の右手軍団』の戦果がもうすぐ載りますよ」

78 破壊の右手

2007-01-03 16:29:31 | 鋼の錬金術師
78 破壊の右手

ロイは秘書課から押し付けられた若い秘書嬢に朝一番で赤いバラを渡した。
彼女は今まで『相性が悪い』と思っていた上司にいきなり花束をおくられ目を白黒させている。それでも東方の色事師の腕は落ちていない。涼やかな笑顔(エドなら嘘臭いと表現する笑顔)で秘書嬢を納得させてしまった。
50分ほど前だ。罪のない顔で『おばちゃん』発言した14歳。そのとたん言った当人以外の全員がそれぞれの理由で硬直した。一秒後。電話のベルが固まった空気を切り裂いた。
電話の相手は今の秘書嬢であった。「急な会議のため少将以上に呼び出しが来ています。
マスタング准将には秘書長から特別呼び出しが来ているのですぐお越しください」
少将以上の呼び出しならブイエ将軍も当然かかわる。となるとホークアイも当然急いで出勤しなくてはならない。
現役軍人2人は大急ぎで軍服に着替え飛び出していった。
「あわただしいもんだ」
のんびりとコーヒータイムを楽しむのはハボック一人である。
その後、彼も呼び出された研究所に向かう。
第7研究所。もともとは傷病軍人のリハビリセンターであったが最近名前が変更されている。同時に管轄が大総統府下の錬金術研究課に変わった。主な目的は錬金術による治療の研究と実践とされている。
ベルトコンベアー式に500人の傷病軍人、あるいは退役者が軍医達の検査を受けた。ハボックもその一人だったが治療の見込みなしと診断された。
予測していてもやはり多少の落胆はある。
とりあえず今日は軍の宿に泊まるように言われたが知り合いのところにいるのでと断った。すぐに田舎に帰るつもりだったが今夜一晩くらい大将の話し相手になってやろうと緑陰荘に帰った。
「だめだったのか」
「わかってたけどな」
エドのベッドの脇に車椅子を留めて第7研究所の話でもしてやる。
錬金術による治療を目的とすると聞いてエドが首をかしげた。
「何でラッセルは呼ばれないんだ?」
治癒系なら当然呼ばれるはずである。
「別に呼ばれたくないな」
いつもさらさらの髪が乱れている。弟と共謀したブロッシュに無理やり病院に連れて行かれ脳波・心電図・レントゲン・血液検査・肺機能検査・胆液採取・肝機能検査・心理テスト・血糖抵抗検査・ドラクマからの密輸入の最新医療機械による心臓造影…と30項目にも及び調べ上げられた。その上明日も続きをと言われて不機嫌極まりない。それでもエドの部屋に入る瞬間見事に不機嫌を忘れ去った。今は呆れ顔のハボックを尻目にエドの口元におやつのパフェをスプーンで運んでいる。
完全に自然体の16歳二人を見るとこれが特別なことでないのはいくら鈍くてもわかろうというものだ。
こっそりとため息をつくハボックだが二人はそれにすら気づかない。
最後にエドの唇に残ったクリームをラッセルは細い指先でふき取った。
何気なくそのまま口に持っていく。ハボックは目を閉じた。
数秒後目を開けたときにはラッセルは部屋を出掛かっていた。
( 大佐がいたら燃やされちまいそうだ。それとも公認かよ、まさか昨日切れた原因その辺じゃないだろうな)[乾いた笑い]
ラッセルと入れ替わりで入ってきたフレッチャーに治癒の邪魔になるからとハボックは部屋を出された。

「(弟から)逃げているのか」
リビングではラッセルがソファで横になっていた。エドの部屋では気づかなかったがいくぶんだるそうだ。
「俺も准将のこと言えませんよ。フレッチャーに隠している。これからも言う気はないんです」
「お前の弟ならあの話を聞いても平気だと思うがな。(なにしろ東方の女神をおばちゃん呼ばわりする度胸があるんだ)」(笑)
「フレッチャーなら平気ですよ。あいつは強い。(術の)腕も俺よりいいし。ただ」
ラッセルは自嘲の笑いを浮かべた。
「俺が言いたくないだけです」
何しろあの話をしだすとあの鋭い弟のことだ。兄が隠していることにも気づくはずだ。ファーストのこと。ブルーのこと。タイトスカートのこと。芋づる式に言わされそうだ。
ラッセルは身震いした。
絶対に、言えない。
(だるい)
検査に使われた造影剤が体に残っている。低血糖、低体温、低血圧と3拍子そろっているため新陳代謝が低下している。普通なら1時間もあれば排泄されるはずの薬剤がいつまでも体の底に沈殿する。
(うっとおしいな)
薄いカーテンでも引いたかのように視界がかすむ。
軽く目の周囲を揉み解すがそれで治るわけではない。
(ブロッシュさん、まだかな)
朝、工場に送ってもらおうと思っていたら弟に捕まった。素直に検査をうけないと外出禁止にすると脅された。考えてみればおかしな話である。弟は軍人ではないし、ブロッシュに命令できるわけはないのだが。それでも最初から、ラッセルのことに関しては弟の言葉はブロッシュに対して絶対的な強さがあった。
「フレッチャー君が言うなら仕方ないですよ」
この一言で決定である。ラッセルがどれだけ頼もうと無駄なのだ。
よく考えるとそれもおかしな話である。ブロッシュは貸し出されているとはいえ、ラッセルの部下である。命令すればいいのだが、ラッセルは出会ったときからお願いはしても命令はしない。
病院では二人は老医師の指示で別行動を取らされた。ブロッシュはラッセルについているつもりだったが彼自身の胃潰瘍の検査で婦長に連行された。ようやく合流したのは帰る直前である。
帰りの車でふくれっつらのラッセルは19時に工場への送迎を頼んだ。今日から休暇が終わるまで工場の研究所に泊まり込むつもりである。
(まだかな)
横になったまま時計を見る。鎖につながれた銀時計。旅の間はここに置いていたがセントラルではいつ軍人に捕まるかわからない。国家錬金術師が銀時計を持っていないとそれだけで反逆罪にされかねない。
ふわり
柔らかい物がかけられた。
ぼやけた視界に毛布がうつる。
「転がっていると風邪引くぜ」
(ブルー、のわけないか。タバコのおじ…)
「ハボック少尉」
気持ちはありがたいが寝る気はない。
数日分の着替えその他を用意したブロッシュが階段を下りてきた。後7日間。休暇の残りは工場の研究所に缶詰の予定だ。
(こいつ、妙に汗ばんでないか)
セントラルは雨も少なく、年間を通じて冷涼な気候である。ここ数年降雨量がさらに減り乾燥気味の気候になっている。そのためか気管系の患者が増えている。第一汗を掻くような季節ではない。
ラッセルは目を開けてはいるがどこを見ている様でもない。
(ガソリンが切れかけだな。無駄骨どころか邪魔をしていたと聞いてショックが大きかったか。
だいたい大佐の秘密主義が一番悪い。
それにしてもいい勘だ。あの程度の情報でアルの行方をあそこまで追い詰めた。まぁ、大佐もそれを認めたから話す気になったんだろうが)
「大佐は准将のことだったのですね。あの時はアームストロング大佐だと思っていました」
ラッセルがブロッシュにゆっくり起されながらふと言い出した。
「一気に出世したんだな。(あるべき姿だ。いいとこの坊ちゃんだしあのことを除けば軍功も多い)最終的にスカーをとっ捕まえたのも少佐、大佐だろ」
「近くで見ていたけどすごかったですよ。あれだけの大質量練成は始めて見ました。     強かった」
ラッセルは自分もスカー逮捕の功労者であることはよく忘れている。その功で本来なら少佐待遇のはずの軍属の身で中佐に出世しているのに。彼にとってはエドが無事ならそれでいいのである。
「ラッセル君、背中」
明らかな熱気。老医師に言われるまでもない。また暴走しかけている。
「ん、   言いたくない」
「7日も持ちませんよ」
「わかってる」
ハボックには理解できない会話である。
「わかっているなら工場に行く前に抑えましょう。私からも言いますから、今日ならちゃんと病院にいったしご褒美があってもいいと言えますからね」
(この雰囲気まるっきり子守だな。変なとこだけお子様かよ)
「……いや、いい。自分でも抑えられないと何かのときに困るし、今は痛みがないから」
「抑えられますか?」
「完全じゃないけど、大丈夫。そんなに遠くじゃないし本当に困ったら帰ってくればいいから」
「仕方ないですね。我慢しすぎは」
「わかってる」
「軍曹、と今は少尉か。あれからデートしてるのか」
「女とはとっくに別れました。あんなものと遊んでいる暇はないですから」
「おいおい、あんなものって」
(こいつ、俺より女好きと思っていたんだが)
(まさか、男に転向した?・・・悪い冗談だな。しかし、軍では珍しいな。同性のお守りか)
ラッセルに毛布をかけたとき銀時計が見えた。
(こいつも鎖もちか)
だとしたら今回の推理力、あのときの精神力も納得できる。もっともこの納得は幾分世間の感覚とは異なる。ハボックの知る鎖持ちはまずロイ、そしてエド、鎖もちではないがそれに匹敵するアル、アームストロングである。一癖もふた癖も三癖もある連中だが才能と実力が化け物レベルであることは共通している。ハボックの基準は高い方向にずれている。
才能と実力にあふれた国家錬金術師は変なところで世間知らずである。専門馬鹿の極致とも言える。そこで軍では無用のトラブルを避けるためお守り(副官)をつけている。国家錬金術師はたいてい男である。男女比率は19対1と公表されている。軍はあらゆる面で国家錬金術師を管理するため異性の副官をつける。そのために国家錬金術師の副官は世間では公娼呼ばわりされている。ロイやアームストロングが副官を遇するやり方は世間では例外だった。

「それじゃあ、ハボック少尉、エドワード君をお願いします」
やけに大きな荷物をブロッシュは抱えている。まるで旅行のようだ。
「おいおい、俺も明日は帰るぜ」
「もう少しいていただけませんか。せめて7日間」
7日後には休暇は終わる。また午前中アルバイトさながらに軍に行き、午後は弟と交代してエドの面倒を見て夜に工場の研究所に行く生活に戻すつもりである。今日から工場の研究所に缶詰になるつもりの7日間だけでもいてもらえればエドの気晴らしになるだろう。見たところエドはこの大男に懐いているようだし。
「まぁ、俺は退役しているから問題は少ないしそれぐらいはいいかもな。どうせあわてて帰る理由もないし」
母親が心配するので早く帰るべきだが、長いこと離れていた親と一日中顔を会わせるのも気詰まりな面もあった。お互いに少しほっとしてもいいかもしれない。それにフュリー曹長のことも気にかかる。マスタング軍団の中では一番トラブルとは遠そうなフュリー曹長が最初に営巣入りしていた。ホークアイはそれをロイに伝え、うやむやのうちに殺されないように手を回しに来ていた。ハボックと重なったのは偶然である。

ラッセルは車の後部座席に座っていた。体の中に検査薬が残っているのか少しぼうっとしている。石のことを考えようとしているのにどうにも気が散ってしまう。少し寒気がする。砂漠を離れたら治まるはずだが熱がぶり返したのだろうか。
(ブルー、あ、しまった。まだ捜索してもらっているんだ)
うっかり忘れていた。あれが偽者だった以上あの辺りを掘っても無駄だろう。
金はもうどうでもいいが、暑い砂漠でブルーに無駄骨を折らすのは気の毒だ。
(連絡を…5番街を使うしかないか)
ノリスの町には電話はない。それに連絡先も聞いていない。
ラッセルは気が進まなかったがブロッシュに寄り道を頼んだ。一人ではとても行き着けない。目的地は繁華街の近く。通称を悪人通り。5番街の店はその一角にある。
「あんなところに?」
「少し用があるんだ」
車で入る訳には行かない。プレートナンバーで軍関係者とばれてしまう。
ラッセルは通りの少し手前で車を降りた。
「ここで待ってください」
「だめです。一人であんなところに入るなんて」
「平気だよ。この通りは初めてだけどどうやっていくかはだいたいわかっているし」
通りの雰囲気はどこの裏通りも似ている。わからなければてきとうなチンピラを殴り倒してそいつに案内させればいい。ラッセルにとってはシルバー時代に慣れた行為である。
「ラッセル君、帰りは戻ってこられないでしょう」
そういえば帰りのことは忘れていた。
どうしょう…。
一人で帰れるとはとても言えない。過去に軍の中でさえも何十回迷子になったことか。そのたびに秘書課の女性達を総動員して探していた。おかげでラッセルはすっかり彼女らのペットになっていた。
結局少し戻ってアームストロング(財)系のホテルに車を預けた。軍のにおいのするものはすべて置いていく。厄介なのは銀時計。やむを得ずホテルのフロントにかばんの中に隠してから預けた。
歩くと遠いのでブロッシュがホテルに交渉して車でぎりぎりまで送らせた。1時間だけ待つように言うと二人で通称悪人通りに入る。
5番街は意外にすんなり見つかった。最初にいちゃもんをつけてきたチンピラを、ブロッシュが殴り倒して案内させたので。
「ブロッシュさん。素人が手を出しては後がうるさいよ」
現役軍人を素人扱いするのはラッセルぐらいである。
「私がいるときに手を汚すことはないです。それにまだ、感覚が戻ってないでしょう」
「…ばれたか」
まだ手足の感覚が鈍い。麻酔が完全には切れていないようだ。
「ここまででいいよ。中には俺一人で行くから」
店の入り口で足を止める。案内のチンピラを放り出した。
「30分経って帰ってこなかったら入りますよ」
「大丈夫。この手の店は慣れてるから。すぐ戻るよ」
(やれやれ、ラッセル君の大丈夫ほど信用できないものはないけど)
服の内側の銃を確認する。軍の正式銃ではない。裏ルートで手に入れた品である。ほかにも手榴弾や小型の発光弾もいつも持ち歩いている。
10分後、店のドアが開いた。一見ホテルマンを思わす上品そうな男が出てきた。しかし、動きが違う。あまりにも隙がない。やはり裏社会の者である。
「シルバー様のお連れ様でしょうか?」
ホテルマン並みの礼儀作法である。
シルバーという名は初耳だがおそらくラッセルの通り名だとすぐわかった。
「こちらにどうぞ」
どうやら何かあったらしい。これだからラッセルの大丈夫は信用できない。
店の中は予測と違い明るい。
奥の部屋に通された。
上等そうなソファにラッセルが座り込んでいた。
かなり動揺しているようだ。
「ご伝言をお渡しした後情報を伝えましたら急に倒れられました」
ラッセルの唇がわずかに動いている。声は出ていない。目は開いているがブロッシュが来たのも気づけないようだ。
ブルーごめん俺があんなことを頼んだから
ラッセルの唇を読み取る。
(ブルー?誰だ?)
「伝言というのは、それに聞かせた情報は?」
一見ホテルマン風の男に尋ねる。
「伝言はわかりません。預かっていたメッセージBOXを渡しただけです。情報は西でブルーが変死した、それだけです」
とにかくここで倒れさせているわけにも行かない。
ブロッシュはホテルマン風の男に聞いてラッセルを適当なホテルに連れて行った。こんな場所にあるにしては内装の上等なホテルである。レースのカーテンの値段だけでブロッシュの月収ほどもする。
「飲めるかい?」
ルームサービスで紅茶を頼む。まず一口飲んで毒見した後、ラッセルに渡した。
「俺が、殺したようなものだ。ブルーに砂漠の捜索を頼んできた。アルを探してもらうのに」
問うまでもなくラッセルは話し出した。言わずにはおれないようだ。
「俺が、あんなことを頼まなければ。
ブルーはハーブが好きだった。ハーブの作り手と一緒に住んでた。ブルーは平和な男だった。子供がいて。今度帰ったら流しはやめてずっと一緒にいるって約束して。俺があんなことを頼んだから」
「ラッセル君」
落ち着けと言うべきなのか、考えるなと言うべきなのか、君のせいじゃないと言うべきなのか。名を呼びはしたがブロッシュは次の言葉が出てこない。どういっても意味がない。
(こんなとき大佐がいれば)
アームストロングがいれば安心して任せられる。だが、頼りになる上司がいない以上ブロッシュは自分で考えるしかない。
今日医者に心臓にこれ以上負担をかけないように言われている。砂漠でたちの悪い風邪を引いたらしくかなり悪くなっていると言われた。ストレス、発熱
、睡眠不足。何が引き金になって致命的な発作を起こすのかわからない。医師の話では今のところ不自然なほど安定しているそうだが…。その理由は後にマルコーの口からあかされることとなる。
結局ブロッシュは慰めの言葉を選ばなかった。下手に慰めると気力が切れる。そうなったら何もかも崩れる。
「落ち着いてください。エドワード君に影響します」
あえてきつい口調で言う。以前にフレッチャーに教えられた。兄がどうしようもなく手におえなくなったらエドの名を使えと。
効果はブロッシュの予測を超えていた。今までがたがた震えて、俺が殺したと自責の言葉をつぶやくばかりだったラッセルが不意に立ち上がった。
「遅れている。早く工場に行こう」
まるで今までのことはなかったかのような豹変振りだ。
いつ崩れても不思議がないように見えた不安定な表情が消え、硬質ガラスを鋳型にはめて作ったような取り付く隙のない顔になった。ラッセルが軍で普段使用している表情だ。
方法を誤ったかとブロッシュは後悔した。この手のかかる上司についてから後悔することがあまりにも多い。胃潰瘍にもなるというものだ。
ラッセルは胸ポケットから新しい薬ビンを出し白い錠剤を冷めた紅茶で飲んだ。
前のボトルは昨日で空になっていた。ぎりぎりで間に合った。この薬は老医師がラッセルの体質に合わせて作らせたどの精神安定剤より効果がある。さっき受け取ったファーストの伝言BOXに入っていた。
『依存するな』のメモとともに。
もう遅いよ、とつぶやいてラッセルは薬ビンを胸ポケットに入れた。
ホテルを出て5番街の情報屋にもう一度寄る。
残った金をブルーの遺族に届けるように手配する。正式の妻ではないらしいが、ラッセルにとってそんなことはどうでもよかった。
ごめん、ブルー。今はこれしかできない。5年たったら
ブロッシュは横目で無意識に動くラッセルの唇を読んだ。
5年とはいったい何のことだろう?尋ねるわけにもいかない。
数ヵ月後、このときの遺族への好意が裏目に出てラッセルは危うく女に殺されかけることになるが、この時点ではまだ誰にもわからない。


77 破壊の腕

2007-01-03 16:27:30 | 鋼の錬金術師
77 破壊の腕

傷が無い。あまりに単純な理由を聞いてラッセルは反論した。エドが直したとは考えられないのかと。
その反論はアルが鎧のみの存在であると知らなければ出てこなかった。
「あの時点でエドはもう私のところにいた。その後アルとは会っていない」
「アルフォンスが自分で直した可能性は?」
「いや、エドにしか直せない」
「そうですか」
ラッセルは深く息をついた。ともかくもアルは無事、かもしれない。
「クセルクセスか」
「ご存知でしたか」
どこで見つけたかはまだ言ってなかったはずだ。
「術師としては一番考える場所だ」
「見つけたのは偶然です」
「運命、か」
「大佐、話は明日にできませんか」
ホークアイが口を挟んだ
無事の可能性を聞いて気が緩んだのだろう。ラッセルはブロッシュに寄りかかっている。疲れているのは間違いない。
「悪いが明日はまた戦場だ」
視察という名の激戦地への派遣である。一日で戦況をひっくり返す、今や焔の魔人の名はスカーを倒した勇士として以上に軍内に知れ渡っていた。
「次ぎに戻れるのはいつかわからない。今のうちに話せることは全部伝えておく」
そう前置きしたがどこから話すべきかに悩んだ。そもそもラッセルはどこまでわかっているのだろう。
「エドが人体練成に失敗して、アルが魂を鎧に定着させているのは知っています。結構有名な話ですから」
「そうか、それがわかってなおここにいてくれたなら、話もしやすい」
そこからは時折ホークアイが補足しながら一通りのことを話していった。ゼノタイムの件については当事者のラッセルのほうが詳しかった。その後ホムンクルスの話になる。さらにロイは続けた。あるいは大総統も化け物ではないかと疑っていること。
「まぁ、大総統が普通の人間だと言われるよりは納得できますね。でも、ホモンクルスというのはどうでしょうか。あれはもう少し性質が悪い気がしますが」
「君は本物のホムンクルスとやりあったことは無いはずだが」
「ゼランドールで10歳ぐらいまでの子供ばかりが殺される事件がありました。死体は全身の血液を抜かれていた。その子らは俺の生徒でした。情報を追いかけたら手足の伸びる黒髪黒目のちびにぶっかって危うく死にかけました」
「それはエンヴィーだ。エドが戦った相手だ」
「よく助かりましたね」
「君もな」
「逃げるのは得意ですから」
とてもついさっき殴った男と殴られた男の会話には聞こえないわね。ホークアイは冷えたお茶を入れ替えようとした。
「ロス少尉はシンに逃がした。彼女からの報告だ。アルが砂漠で襲われて流砂に飲まれた」
こと
小さな音がした。
さっきから一言も声を出さずに支えの柱に徹していたブロッシュが初めて反応した。
「そういうことだ」
実のところロイは目の前にいながらブロッシュの存在を忘れていた。見えているのに気配が感じられない。あのヒューズの得意技だった。
(影に徹するか。女好きで人のいいのだけが取り柄の坊やに見えていたが、この数ヶ月で一番変ったのはブロッッシュ少尉かもしれないな。今のブロッシュには教えてもかまわない。それにしてもまったく驚いていないようだが?)
(やはり、そういうことですか)
(そういうことだ)
視線だけで語る。たった数ヶ月でここまで変るとは彼を手元においていたアームストロングの先見の妙に感心する。
「報告では襲ったのは弱小民族らしい。しかし、どう考えても裏があるはずだ。この腕はそれを調べるための罠のひとつだった」
ラッセルは笑った。自嘲の笑い。
「なるほど、俺はピエロを演じて、邪魔までしたわけだ」
「そうとばかりは言えまい。襲ったやつらにしても君の動きは予測外だろう」
「確かにわざわざ味方の邪魔をする馬鹿がいるとはおもわないでしょうね」
「ラッセル君」
ラッセルの声の微妙な変化にブロッシュが最初に気づいた。
「疲れた」
声がかすれる。
自分はいったい何をしにあんな西の果てまで行ったのだろう。研究室にこもって石を作るほうがよほど役立ったのに。いや、それも間に合えばの話だ。
「エドはよくもって3ヶ月です」
最初に宣告されていたとおりならエドはもう死んでいるはずだった。もう長くは持たないことはロイには十分わかっていた。だが、理性が納得しても感情が否定した。
「元気そうに見えるが、やはり無理か」
「…約束しましたから。最後まで自由を与えてやると」
それがどういう意味なのかハボックだけわからなかった。

「お兄さんはいいのかい」
エドの病室に入ってきたフレッチャーに老医師は話しかけた。
「はい。明日にでも検査に行かせます」     「無理やりにでも」
数秒たってから付け加える。あの兄がおとなしく病院に行くとは思えない。
「こっちに帰ってから一度しか診ていないのだが、…お兄さんから聞いているかな」
「兄はいつもあの調子ですから」
説明になっていないようだが、老医師には通じた。
「仕方ないな。そのうち自分で話すと言っていたのだが。   君も医学系に強いそうだね。お兄さんのためにも医者になる気はないか。今すぐの返事でなくてもいいが、お兄さんには医者が必要だ。それも言うことを聞かせられる医者が。   彼は先天性の心疾患がある。聞いているかい?」
「いいえ」
まただ、と思う。兄はいつも自分に肝心なことは話さない。
ゼノタイムのときも。兄は一人で抱え込んでいた。あの時、エルリック兄弟が来ていなかったら兄はどうすることもできず自滅しただろう。
「まだ外に行ける体ではない。まして軍になど。坊ちゃまがいれば庇って下さっただろうが今はどこかの基地にいるらしい」
軍人が特に従軍錬金術師は行き先を絶対に口外できない。
「銀時計を返上もできない。彼は知りすぎている。返上などしたら抹殺される」
老医師は教師のようだった。最初からそうだった。トリンガム兄弟の治癒は理屈よりも本能に沿っていた。老医師は人体生理をひとつずつ説明し、彼らの治癒に理論を与えてくれた。もっとも兄は幾分わずらわしく思っているようだが。
「士官学生には特例があると聞きました。大学受験制限の特例が」
「…そういえば聞いたことがあるね。使ったのは一人ぐらいだが」
「貴族子弟枠なら入寮せずに士官学校の単位が取れるとも聞きました」
「教えたのはマスタング准将かな」
「キャスリンさんです」
「お嬢様が?」
「僕は早く医者になりたいんです。兄には錬金治療はできないから」
老医師は微笑した。こんないい弟を持って幸せな兄だと思う。肝心な兄はそれを少しもわかっていないようだが。
「慌てることは無い。お兄さんにはまだ私がついている。エドワード君のこともできるだけ手を貸そう」
「ありがとうございます。でも僕はできるなら誰にも兄さんにふれさせたくない」
老医師の微笑が凍りついた。それでも年の功ですぐ柔和な表情に戻した。
「僕は今年の一般枠で銀時計を手に入れます」
おやつでも買いに行くような軽い口調だ。
「もし、兄のように大総統の目にとまる様な事があったら士官学校の特別枠を求めるつもりです」
「待ちなさい、そんな大事なことを。お兄さんに相談は?」
「兄は知りません。話しても無駄でしょうから。兄には僕が子供に見えるんです。ずっとね」
フレッチャーは老医師を懲戒神父にしていた。だが、老医師は神父ではなかった。彼の親でもなかった。
ただ、より多くの時間を経験してきた者として不安を感じた。あまりにも強い思いは本人にもあいてにも不幸しかもたらさないのではないかと。


「大総統令8528を発動せよ」
大総統室の隣、アメストリスの権力者たちが集まる部屋がある。そこに並ぶのは原則として中将以上。大総統の息のかかった人形ばかりである。その人形達に命令が下った。大総統令8528、通称を『希望の腕』計画である。

人形たちを通じてあらゆる方向に命令が飛んだ。アームストロングは西から呼び戻された。同種の命令で北の基地に住む地の錬金術師もセントラルに呼ばれた。地の錬金術師。通称をガイア。大地の女神の名をを冠する彼女はイシュヴァール戦でロイと並び英雄勲章を受け、その後北の大国ドラクマの息のかかったゲリラを国境線で押し留めている歴戦の勇者である。


翌日の朝食時、エドのご機嫌は最高潮であった。
このところ部屋に閉じ込められていたのに食堂に行く許可が出た。しかも車椅子ではなくていつ戻ってきたのかロイが抱いていってくれた。出歩いてばかりのラッセルも帰ってきていた。さらにオードブルのイチゴムースをホークアイが持ってきた。そして。
「おはよーっス」
開かれたドアからの懐かしい声。
「ハボック少尉!」
まだ半年と過ぎていないのに何年も会ってない気がした。
相変わらずくわえタバコで(火はついていないが)、くしゃくしゃの髪をしている。
「よー、大将。思ったより元気そうだな」
「こら、朝寝坊だ」
「へいへいすんません」
和やかな会話。何の心配事も無いかのような。だが、全員が知っていた。このひと時は偽りだと。それでもいやそれだから彼らはわずかな時間を時間の粒子の一粒ずつを味わいつくすように楽しんだ。
「だいぶ伸びたな」
「そう見える?!!やった!!」
「髪が」
「いじめだー!」
相変わらずエドの背は伸び悩んでいる。旅の間三つ網だった髪はこのごろはさらさらと流されている。傷んだ枝毛部分を切ったので少し短くなっているはずだが、跳ね回る三つ網の印象が強かったハボックには逆に長くなったように見える。
がちゃ
聞き覚えのありすぎる銃の安全装置の外れる音。
「ハボック少尉、子供をおもちゃにしないように」
「い、イエス、マム」
ヒキッツタ声。
「すごいね。やっぱりどこでもおばちゃんが一番偉いんですね」
何気なく発される子供の声。
「「うゎ、フレッチャー」」
二人の16歳の声が重なる。
きょとんとした14歳。
自分が最大の罪を犯したことに気づきもしない。

78 大総統令8528  破壊の右手

76,5 絶望の腕

2007-01-03 16:26:19 | 鋼の錬金術師
車の中でさんざんブロッシュにお説教され、ラッセルは緑陰荘の重いドアを開いた。重いのはドアよりも気持ちだった。
「ただいま」
なるべく自然を装って言った後、ラッセルはすばやく自室に上がろうとした。
しかし、階段を下りてくる弟に捕まった。10日ぶりに会う弟。顔を見るのが怖かった。
(怒っている、だろうな)
今になって気づく。途中の駅からでも電話をすべきだった。
そうすればせめて弟の怒りを分散…しても無駄かもしれないが。
「兄さん」
いきなり手首をつかまれた。逃がしてはもらえないようだ。
「ただいま、エドの機嫌はどうだ」
比較的当たり障りのない話題を振る。情けないが語尾がわずかに震えた。
弟はにっこりと微笑む。その上機嫌振りが怖い。
「ここ何日かは悪くないよ。昨日は少し手間取ったけどね」
「そうか」
「しばらくお風呂に入れてなかったから昨日髪を洗おうとしたらいやがられてね、仕方ないから無理やり洗ったよ」
弟はまた笑う。小さいときと同じえくぼがいとしさを増す。しかし、それを見ている兄はエドに同情した。一日早く帰って俺が入れてやればよかったと心底思う。さぞかし、エドは泣いたことだろう。
フレッチャーがエドを乱暴に扱うということはない。むしろ大事にしすぎるぐらいである。ただ、これはエドの心理面の問題である。治療ならともかく日常生活を『弟』に面倒見てもらうというのが『兄』には耐えられない。しかしすでに神経系に障害が出始め痛覚が麻痺し始めたエドは介助なしでは生活できなかった。
「ところで兄さん、僕に言うことはないの」
(きたな)とラッセルは身構えた。これから弟に何時間説教されることかと思うと早くも気が遠くなりそうだ。
コートを脱ぎかけると足元に砂が落ちた。
気のせいか口の中まで砂利ついているようだ。
「先にシャワー浴びてくるから」
そう言って弟の手を外そうとする。
「フレッチャー。離し」
「外して見せてよ。簡単でしょう」
それほど昔ではない。ほんの数ヶ月前までは簡単だった。
しかし、今兄は弟の手を振り払おうとはしない。できないのはわかっていた。
「強くなったな」
兄はシャワーをあきらめたのか、ソファーに座った。
握られた手首が痛む。
「痛い」
汽車の中で眠ったはずだが熟睡できなかったのだろう。座ると全身がだるい。
痛いと言われて弟はあわてて手を離した。
(弱くなった)
こんなに簡単に握りこめる腕ではなかった。兄の手はいつも力強くて兄に守られていれば何も怖くなかったはずなのに。
うかつに触ったら折れそうな腕。
弟は話の前に一発殴ろうという思いを完全に消した。そんなことをしたら兄は壊れてしまいそうだ。
公平を期するとこれは主観の問題だった。ラッセルが弱くなる以上にフレッチャーが強くなっていた。
「シャワーはだめだよ。湯船で温まらないと風邪引くよ」
てっきりお説教が始まると構えていたラッセルは優しい弟に、なにか不思議なものでも見るような視線をあてた。
「何?」
「いや、お前がなかなか怒らないから」
言ったとたんラッセルは後悔した。自分は救いがたい愚か者らしい。わざわざ虎の尾を踏んで、なおかつ巣穴から引きずり出したのだから。
「ふーん、兄さん怒られるような事をした自覚はあるんだ」
弟の声が低くなった。
「何が毎日電話するだよ。何日たったと思っているのー!さんざん人に心配かけて!!ブロッシュさんがどれだけ兄さんの行方を捜してくれたか!!!キャスリンさんも毎日電話をくれて!!!!准将もあと一日連絡がなければ憲兵隊を使ってでも捜索させるって!!!!!
第一僕がどれだけ心配したか、少しはわかっているの?」
兄は弟がまったく息継ぎなしで言ったことに感心した。それからそれどころではないと顔色を変えた。
もうごまかしも引き伸ばしも効かないらしい。
「その…悪かった。気がついたら3日も経っていて、つい連絡しそびれて。その後は電話のないところにいたから…」
3日の間何をしていたかは弟には絶対言えない。まして、エドの機嫌を確かめたら情報やに行ってあの男から伝言が入っていないか確かめるつもりだったなどとはなおさらだ。
ドン!
テーブルの上に見覚えのある、鞄とコートが置かれた。
「これは?」
「兄さんのでしょ。憲兵隊から准将に回ってきたんだ。マフィアの本拠地からね。いったいどういうこと?!
捕まったの?!!心配するって思わなかったの?!!!」
「まぁ、いろいろあったから」
兄の返事はあまりにも歯切れが悪い。弟は理性の糸がまた一本切れた音を聞いた。
「これを逃したら、もう外に出るチャンスはないと思ったら、つい…」
「エドワードさん、注射を痛がらなくなった」
「…そこまできたか…」
フレッチャーはエドの注射を、意識的に痛みの感じやすいところに刺していた。別に嫌がらせではない。(まったく無いかは本人にもわからない) エドが感覚障害検査の質問にろくに答えないから正直に反応する注射のときを利用していただけだ。
(もって3ヶ月)
エドのことは何でもわかっていても毎日世話をしている弟の口から聞くと、重いものがあった。
(あの石を急ごう)
兄はシャワーをあきらめたのかソファーに座った。ミネラルウオーターを二つのグラスに注ぐ。一つを弟に差し出すが弟は取らなかった。兄は少しさびしそうな顔をしてから一口飲んだ。
セントラルの水道はまずいことで有名だった。水源汚染は健康規定最低基準値をはるかに超えていた。しかしそれを知る市民は少ない。
胸ポケットから薬のビンを出した。もうあまり残っていない。効いている時間が次第に短くなっていく。
薬のビンを開けようとする兄の手が震えている。ふたは1分立っても開かない。見かねた弟が無言でビンを取り上げてふたを開けた。
「兄さん。疲れているだろ」
「…少しな。少し眠い…」
エドの機嫌をうかがったら、5番街の情報屋に行って、帰りにはゼネラル血液製剤工場の研究所に行って何とか石を合成できるところまで今月中にこぎつけたかった。だが、薬を飲んだ後目が開かない。
「言い訳は後で聞くから少し眠ったら」
まだ、説教したりないのかとラッセルは絶望的な気分になった。それでも弟にそれを言うのだけは抑えた。
ソファーに横になってしまった兄が寝息をたてるまで1分とはかからなかった。
車を置いてきたブロッシュがいつもの毛皮を抱えて入ってきた。まるで兄が眠るのをわかっていたかのようだ。
自分でもなぜとはわからず機嫌の悪くなった弟は無言で部屋を出た。


目が覚めたときはもう夜中だった。起き上がるといつもどおりブロッシュがドアを守っている。前の椅子には軍服姿のマスタングが不機嫌を隠せない様子で座っていた。
「ラッセル、何をしに行った」
『お帰り』も、『心配した』も無い。いきなりの質問だった。
「アルを探しに」
ラッセルは少しかすれた声で答えた。
のどが渇く。ブロッシュが部屋を出た。お茶を持ってくるつもりだった。
数分後、ブロッシュはこのとき部屋を離れたのを後悔することになる。
ラッセルはマスタングから軍人のにおいを感じた。火薬と焔、そして血の臭い。
マスタングは大総統の名代の視察という建前で、人間兵器としての仕事から帰ったばかりだった。
メイドからお茶のセットを受け取ってドアを開いたとたん怒鳴り声がした。
「あなたにはわからない、あいつらがどれだけお互いを必要としているか!エドからアルフォンスを引き離してまで、やることがあるわけがない!」
ラッセルは立ち上がっていた。マスタングも立ち上がっていた。ブロッシュがドアを開けるのと同時に反対側のドアを開く男女がいた。
「大佐」
「帰ってたんスか」
男女の声にガッという強い音が重なった。
「私がどれほどあの二人を見てきたか、君のような若造にわかるものか!」
現役のしかも戦場から戻ったばかりのマスタングの右拳がラッセルのほほを打った。
ラッセルは打たれた勢いのまま吹っ飛んだ。大きな音を立てて壁に後頭部からぶつかる。
押し殺したような「ぐぅ」という声。
「「大佐!」」
男女の声が重なる。
「ラッセル君!」
「兄さん!」
ちょうどブロッシュの後ろから入ってこようとした弟が部屋に飛び込む。
だが、もう兄を抱きとめるのは間に合わない。壁の下に意識の無い兄が倒れている。急いで抱き起こしかけた。
「触らないで!!」
女の声に止められた。
「頭をぶつけたのよ。動かさないで!」
フレッチャーには十分すぎるほどわかっていることだった。しかし、倒れている兄を見たとき医学知識も何もかも吹っ飛んでいた。
「大佐!あんたなにやってんスか」
車椅子の男がそれ以上の暴力を止めるべくマスタングの両手を抑えた。
だが、もう押さえ込む必要は無かった。マスタングは自分の右拳を信じられないように見た。
「ハボック少尉、大佐を隣の部屋へ」
「イエス、マム」
「カートン先生を呼んできます!」
ブロッシュが部屋を飛び出した。カートン医師は定年を少し早めて病院の院長職を退き、今は紅陽荘にいる。理由は緑陰荘にいる二人の16歳のためである。
走りながら後悔をかみ締めた。なぜ側を離れたりしたのか。あの人にお守りがいるのはわかっていることなのに。
夜中にたたき起こされたカートン医師が来たのは2分後だった。
医師が来たときにはラッセルは目を開いていた。だがまだ言葉は出ない。自分がどうなったのかよくわからない様子だ。
医師は15分ほどラッセルを診ていた。
「軽い脳震盪ですね。ただ、一度ほかの事も含めて精密検査をしたほうがいいでしょう」
医師は何か言いかけるラッセルを無視してフレッチャーだけに訊いた。
「エドワード君を見てきていいかね」
「お願いします」
フレッチャーはカートン医師に深く感謝していた。兄が世話になっていただけではない。出歩くことの多い兄の代わりによくエドを診ていてくれる。術師ではないので錬金治療こそできないが医者としてはアメストリスでも有数の人である。

一方、隣の部屋に移ったロイとハボックである。
「大佐、そりゃズルイスよ。
あの坊やを大将並みに使っといて、大将並みに扱っていないんでしょ」
一通り話を聞くとハボックはさっきの件には触れずそう言った。
聞くとマスタングはラッセルを自分の子飼いとして軍内外での情報収集に使っているという。使い方は元気だったころのエドに比べてさえはるかに扱き使っている。その上、大総統のお気に入りになっているという。
「私はあの兄弟を巻き込みたくないだけだ」
「そりゃ嘘とは言いませんがね、あんたそれをあいつらに聞いたんスか?」
「聞くわけはないだろう。あの話はまったく言ってないのだからな」
「ここに連れ込んだ時点で坊やは大佐の子飼いに見えまスよ。
軍でもそう扱われているでしょうが」
「まぁな」
「理由もわからないまま敵の真ん中に放り込まれて、それじゃ身も守れないスよ。
それで大将のためにアルを探しに行ってやっと帰ってきたところを大佐に殴られた。俺ならそんな親は殴り返しちまいますかね」
「彼は弱っているからな。そんな余分な体力は無いだろう」
ぽろり、ハボックの口からタバコが落ちた。
「あんた、それがわかっていて殴り倒したんスか」
「う、弾みだ。あれが鋼のことで生意気を言うから」
「子供を相手にむきになってやきもちを焼き暴力行為に及んだ。そういうことで間違いありませんね。大佐」
ホークアイが氷水の入った洗面器を持って、台所からやってきた。
「悪かった」
ロイはがっくりと首をたれた。
「それは私ではなくあの兄弟におっしゃつてください」
「中尉、いや大尉になったんスね」
「いいわよ。ここでは中尉で。ハヤテに会いに行ってくれたのね」
「大きくなりましたね」
「軍用犬にはなれなかったわ」
「あいつは軍にはもったいないっすよ」
ハボックはごく自然にホークアイの手から洗面器を受け取った。
「様子を見てきます」
「それなら私も」
「大佐、そこで少しは反省してください」
ホークアイはお茶のセットを持って部屋を出た。車椅子のハボックが犬さながらについていく。
病室に入ると兄と弟が言い争っていた。
「大丈夫って言っているだろ」
「中で出血していたらどうするの。先生にきちんと検査してもらわないと」
「そんなにきつくは打ってない。こぶもできてないぐらいだ。第一、…」
兄は急に言葉を止めた。ホークアイの後ろから金髪の男が入ってきた。
「ブルー…。あ、失礼」
一瞬、ノリスの町でしばらく行動をともにしたブルーと思った。金の髪。青い瞳。骨太で筋肉質の体。だがその男はブルーよりだいぶ若かった。
「よぉ。坊主、なんだあいかわらずガリガリだな」
「あら、知っているの?」
「知ってるってほどじゃないすけど」
「タバコのおじ…お兄さん。あの時はお世話になりました」
「おじさんはひでぇなぁ。俺まだ20代だぜ」
「すいません」
「大佐に殴られたんだと」
「…俺が勝手をしましたから。それに殴られたといってもかすっただけですし」
ラッセルはむしろロイをかばっている。
ハボックから洗面器を受け取った弟は無言でタオルを濡らし絞った。
兄の後頭部に当てる。
兄はわずかに眉をしかめる。さっきから一言も痛いとは言わないがかなり痛んでいるはずだ。
ノックの音がした。ゆっくりとドアが開かれた。入ってきたのはロイである。
弟は敵意を隠さない目でロイを見上げた。兄を傷つけた。それは弟にとってロイを敵とみなすのに十分な理由だった。
「大佐」
「准将」
ホークアイとラッセルの声が重なった。二人とも相手に遠慮して次の声を出さない。
その隙間を弟が埋めた。
「准将、兄が落ち着くまで入らないでいただけますか」
「フレッチャー」
兄の声が弟をとがめた。しかし弟は平然とロイを見上げた。その目にはここに来たときからずっとあった敬愛も親和も無い。あるのは敵意だけ。
(弟か。もし鋼のに同じことをしたらアルもこうして私を見るのだろうな)
たった数ヶ月だが彼らは擬似家族だった。特に合成獣に襲われて一緒に戦ってから、ロイは父親のような思いでこの弟を見てきたつもりだった。
「フレッチャー、エドのところに戻れ。准将に話したいことがある」
「だって、兄さん」
「行け」兄はゼノタイムで赤い石を作っていたときのようにきつい命令形を使った。
「…うん」
弟は不満だらけの顔で立った。
弟が部屋を離れると、ラッセルはソファーの脇に立っていたブロッシュから皮のケースを受けとった。
ケースを開けようとしてハボックを見る。はたして彼がいるところで話していいのだろうか。
「この二人は私と同じに考えてかまわない」
「そうですか。それなら」
ケースを開こうとするが手が滑った。指先が震えている。
隣に立っていたブロッシュが当然のようにケースを開いた。
皮のケースから出てきたのは鎧の右腕。
ハボックは一瞬息を呑んだ。
(アルの腕。   いや違うな)
最初は間違いなくアルの腕と思った。
(違う、あの時の傷が無い)
ホークアイも一秒だけ硬直した。
「まずはこれが偽者だという根拠を教えていただきたい」

77 アルを探しに   破壊の腕

76 絶望の腕

2007-01-03 16:25:55 | 鋼の錬金術師
76 絶望の腕

駅で一等個室のセントラルまでの切符を買い汽車に乗る。今日のこの汽車を逃せば3日後までセントラルまでの便は無い。運がよかった。
乗り換えに使う体力が惜しい。それに認めたくないが自分はあまり方向感覚がよくないらしい。セントラルではほぼ24時間ブロッシュがついていてくれたので問題は無かったしノリスの町ではブルーがいた。
ラッセルは個室に入るとすぐ横になった。微熱が残っている。砂漠を離れれば治まるはずだがまだかかりそうだ。丈夫な皮のケースを握りしめた。入っているのは鎧の右腕。
「疲れた」
小さく口に出した。
それにしてもあれが夢でよかったと思う。ブルーと一緒にクセルクセスの遺跡を離れるとき、縛り上げた野盗を見に行った。彼らは消えていた。
「どうやら、お前の言っていた5人目が助けたのだろう」
ブルーが言った。ほっとした。野盗が溶けていく。あれはただの夢だったのだろう。
ラッセルは知らない。ブルーが野盗の一人の縄にこっそり切れ込みを入れたのを。偶然に縄が外れた(と思った)野盗が仲間を助けて4人で逃げたのを。
セントラルまではかなり時間がかかる、ゆっくり眠れそうだ。眠れば乗り物酔いにもならないだろう。
収穫もあった。これで言い訳もできる。後の捜索はブルーに任せてきたが彼ならうまくやってくれるだろう。
幸運なことに、それが当然なのだが汽車は青の団にも黒の団にも襲われず時間通りセントラル駅に着いた。
駅員に起こされて目が覚めた。行きはひどい状態だったが帰りはゆっくり眠って来られた。皮のケースを抱えホームに下りた。そこで足が止まる。
(さて、どっちだろ)   方向音痴の自覚は間違っていなかった
行き交う人々の合間に青い色が見えた。この国では軍人はどこにでもいる。だからラッセルは特に気にしなかった。その青い色が自分の目の前に来て怒りを隠しきれない声で名を呼ばれるまで。
「ラッセル君」
声は小さいが耳によく響いた。
「あれ、ブロッシュさんどうして駅に?」
ブロッシュが両手を握り合わした。ボキリと音が聞こえた気がした。
「よくも、私に黙って勝手に出歩きましたね。どれだけみんなが心配したか、電話も寄こさないで」
「ごめん。でも軍の仕事があるだろ。それに軍には知られたくなかったし」
けろりとして言い訳をする。ラッセル本人は言い訳とは思っていない。彼なりにブロッシュの立場を考えたのだ。
「でも、どうして今日この汽車に乗っているってわかったんだい?」
「3日前からここにいましたから」
「えぇ!でも軍は」
「秘書長からの命令で当分駅の警備をするようになりましたから」
「そっか。仕事中ならしかたないな」
ラッセルはここでブロッシュと会えたので緑陰荘に送ってもらう気でいた。
だが、仕事中なら仕方がない。
「荷物持ちますから貸してください」
「あれ、駅の警備はいいのかい?」
「警備はラッセル君が帰ってくるまでです。さぁ、帰りますよ」
どういうことなのだろうと思った。これでは軍にどこに行っていたか知られていたということではないだろうか。
ラッセルが汽車に乗った直後ブルーは情報屋に寄った。シルバー(ラッセル)の体力から計算してセントラルについてから一人で行動するのは無理と思った。そこで情報屋のネットワークを利用して迎えを頼むことにした。幸いシルバーは伝言板役をしている2年間に数多くの裏の者と接触している。シルバーは自分の治癒の技を秘密にしなかった。知りたい者には使い方のコツを含めどんどん教えていた。これは流しとしては常識はずれもいいところだった。もともと定住型の治癒師の存在そのものが常識はずれなのだが。ラッセルはただ自分の治癒のやり方が秘密にするほどのものではないと思っていただけだった。しかし、普通治癒のやり方は個々人の財産であり秘密にするのが当然であった。ラッセルは逆にどんどん公開した。それはラッセルの立場からは貸しであり、教えられた者から見れば借りになった。ブルーはそのとき借りを作った者がセントラルに少しはいるはずだと考えた。そいつらの誰かをセントラルで運転手にすればいい。セントラルで大きな情報屋といえば5番街である。ブルーのメッセージが届いたときそこには黒髪黒目の危ない男がいた。
(夕方には帰るか)
「迎えの必要はない。もう手配はしている」
危険な男、ファーストは情報屋に言い残すと外へ出た。
翌日、西の砂漠で一人の男が死んだ。金の髪、青い目のブルーと呼ばれる男は恐怖そのものが張り付いたような顔で死んでいた。

ラッセルが汽車に乗る4日前である。軍の大総統室の一番奥まった部屋でキング・ブラッドレイは手ずから紅茶を入れていた。
「ラッセルが帰ってきていないだと」
「そうですよ。大兄」
そんなはずは無いとブラック中佐は思った。あそこで別れて一日休んだとしてももう帰り着いているはずだ。
「大兄、そのお姿も馴染んできておられる」
「そうか」
「口調が大兄のときともファーストのお姿のときとも変わっていますよ」
紙のように薄い白磁のカップに厳選されきった紅茶が注がれた。
「形とは便利なものだ。本質を隠し、本質を造る」
ワグナー中佐は大総統直下の情報部に所属している。ここに所属する者は地位にかかわらず高い命令権を持っていた。その情報部の中でもワグナーはもっとも機密に近いところにいた。ワグナー中佐、別名をファースト、その本体はホムンクルスのプライドである。
(いったい何をしている)
「大兄がお気にされるならマスタングを通じて呼び出しましょう」
「いや、自分で戻ってくるはずだ。それよりお父様からのご命令だ。『西に威嚇を。セントラルをニュートラルにするように』」
「かしこまりました」
この国で一番えらいはずの男は恭しく頭を下げた。
頭を上げたときワグナー中佐の姿は消えていた。
「大兄、むしろあなたの方が人と長く接しすぎたのではありませんか」
すでにいない男に向けて大総統、ラースは皮肉な言葉を漏らした。
それから秘書を通してブロッシュ少尉に駅の警備を命じた。期限は手のかかる上司が帰ってくるまでである。

ラッセルがセントラルに帰る3日ほど前である。フレッチャー・トリンガムは小さなバックを前に不機嫌極まりない顔をしている。
不機嫌の原因は彼の馬鹿兄であった。
「いったい、どこで何をしているんだ」
文句もため息も出るというものだ。兄は出かけたきり電話一本寄こさない。こっちの心配などお構いなしに好奇心のままやりたい放題しているのだろうと思うと立場をわかっていない能天気な兄を一発や二発殴りたくなっていた。
(そうだ、僕はずっと兄さんを殴りたかったんだ)
このかばんとコートは憲兵隊を通じてマスタングに届けられた。名も何も入っていなかったが作った店のネームが入っていた。セントラルでも随一を誇るその店の職人はコートを見るなり、マスタング准将の注文で金髪の若者に作ったものだと証言した。かばんにも同じ証言があった。
ある町に二つのマフィアがあった。Aグループが謎の敵に襲われ半壊滅状態になった。BグループはチャンスだとAグループを叩き潰した。しかし、本部を留守にした隙に軍がA・Bグループを叩いた。その時押収された荷物の中にコートとかばんはあった。マフィアの倉庫には売り物の少女や青年たちがいた。彼らの証言で眠ったままの銀の髪の若者が少しの間いたことは確認できた。しかしその先は不明のままである。
フレッチャーは不安を噛み殺した。エドの部屋に行かなければならない。不安な顔はできない。
兄は薬を失っている。薬なしでは長くは持たないはずだ。それでも兄が生きていることだけは確信できた。彼は初めて父に感謝した。父が奇妙な練成陣を兄弟の身体に共有させたおかげで、兄の命の心配だけはしなくてすむのだから。
じりじりと電話を待つだけの時間が過ぎていく。
「兄さん!帰ってきたら…、楽しみにしていてよ」
思わず、壁に拳を打ちつけた。壁は蜘蛛の巣状にひび割れた。

ラッセルが汽車の個室に入ったころ、アームストロングは当番兵から町で拾ったというハンカチを受け取っていた。間違いなく自分のものだった。だが、なぜこんなところで拾われたのだろう。当番兵によると昨日駅への道で拾ったという。
「細身のきれいなお嬢様でした。大佐のご姉妹でいらっしゃいますか?」
姉達は細身ではないし、妹は本宅にいるはずだ。お嬢様が銀の髪だったと聞いてア-ムストロングは確信した。
(ラッセルだ。しかし、お嬢様?)
あのプライドの高い彼が女装するだろうか?
でかい護衛が付いていたと聞いてますますわからない。彼は何をしているのか?いや、彼がここ西の砂漠に来ている以上目的がアルなのははっきりしている。
(また、無理をしているな)
アームストロングはとにかくラッセルを手元に戻そうと決めた。できるならマスタングに知られる前にである。
(マスタング殿はよい方だが、エドワード・エルリック絡みのこととなると正常な判断力が失われることがあるからな)
勝手な行動を取ったラッセルをどう思うか、亡きあの上司の域には到底達していないといつも思うアレックスには予測の付かない話であった。


75.5 希望の腕

2007-01-03 16:22:59 | 鋼の錬金術師
75.5 希望の腕

「お嬢様お手をどうぞ」
柔らかなレースのブラウスの上に絹の淡いクリーム色の日よけをまとう。
大男はいかにも丁重にお嬢様の手をとる。馬には婦人用の横座りようの鞍が付けられている。銀の髪を大きな青のリボンで結い上げたお嬢様は無言でレースの手袋をはめた手に手綱を握る。しかし、自分で馬を御そうとはしない。大男がいかにも慣れきった態度で引き綱を握る。
「ご気分はいかがですか」
お嬢様はうつむいたまま返答しない。レースの日傘越しにわずかに見える肌は青白い。苛立ったかのようにハンカチを握り締める。女物にしては大判のハンカチにはウサギの刺繍がある。
その日宿は軍の手入れを受けた。首謀者がこの宿に泊まっていると捕まった男達が吐いたのだ。しかし部屋はすでに空っぽだった。兵士達は駅に走った。この小さい町に車は無い。駅を使うしかないはずである。駅への道を走る兵士達は途中すばらしい美女を見かけ思わず口笛を鳴らした。いい家のお嬢様がお忍びで遊びに来ているという感じである。
馬の脇にいる大男は護衛件使用人だろう。大男がにらむと兵士達はあわてて駅に走った。急に強い風が吹いた。
めまいを起こしたらしいお嬢様の手からハンカチが飛んだ。大男は気づかずに馬を歩かせた。馬の首に寄りかかっているお嬢様もハンカチが飛んだのに気づかない。
やがて主従の影は角を曲がって見えなくなった。兵士の一人が風に飛ばされたハンカチを受け止めた。ウサギの刺繍の脇にどこかで見た紋章が金の糸で縫いこまれている。アームストロング家の紋章である。
「大佐の?」
ではさっきの美女は大佐の妹か姉だろうか?兵士はハンカチをあとで大佐に渡すためそっとポケットに入れた。

数時間後、クセルクセス遺跡でブルーは大笑いしていた。側では青いリボンをはずしたシルバーが苦虫を数匹噛み潰している。
「いやぁ、思っていたより美人だ。兵隊どもがみんな鼻の下を伸ばしていたぞ」
ふん、とシルバーは横を向いた。今夜はここで泊まる。この男と二人きりになるのは気に入らないが仕方が無い。性質の悪いことにブルーは着替えを持ってきていない。レースのブラウスに薄紅のスカートでいるしかない。
「お前!わざと着替えを持たなかったな!」
スカートをはいたまま仁王立ちしても迫力はゼロである。
「おいおい、せっかくの美人がそう怖い顔するな」
怒っても仕方が無い。ラッセルはブルーに背を向けると足音も荒く神殿に向かった。そこはかってエドワードがイシュヴァール人に襲われた場所。
(これがエドの言っていた太陽と竜の錬成陣)
確かに上部がかけていて正体が読み取りにくい。
(いずれ研究する暇ができたらじっくり調べよう。そんなときがくれば…)
上ばかり見上げていたせいだろうか、足元がふらついた。とりあえず崩れた柱の一本に腰を下ろす。さすがにスカートで大また開きはまずいと誰もいないのに足はきちんとそろえておいた。
「上玉だ」
「貴族か」
柱の影や壁の向こうに隠れている者がいる。明らかに野盗の一味とすぐわかる男達。観光客と思しき女を襲いシン国に売り飛ばすつもりである。
「5人」
女が急に言った。
「柱の後ろに二人。壁の後ろに3人」
女は正確に野盗達の位置を語る。女にしては少し低めの声だ。
「無駄はよせ。お前達を相手にする気は無い」
野盗たちは顔を見合わせた。
(この女、軍人か?)
「かまうものか。あれだけの上玉を逃す手は無い。こっちは5人だ。抑えつけりゃ一発だ」
「よし」
「実力差すらわからないバカどもめ」
女は吐き捨てるかのように言うとゆっくりと立ち上がった。
(まずいな。足元がふらついてやがる)
3人なら1分以内にぶちのめす自信がある。だが5人目まで体力が続くだろうか?
(しまった)
忘れていた。自分は今歩きにくいタイトスカートをはいている。蹴りは使えない。足元を見ると乾燥に強い砂よもぎが生えていた。しかしなるべくなら正体を知られかねない錬金術は使いたくない。
野盗が二人、同時に近づいた。
(神経節を打つしかない)
錬成陣の暴走の一見以来筋力ががた落ちになっている。今も前の半分ほどしか力が出ない。試しにやってみた腕相撲では秘書課のお局様にも負けるほどだ。まぁ内勤とはいえ軍人の彼女が女性の平均値とはかけ離れていたということもあるが。ともかく、それ以来ラッセルは体力に自信を失った。お局様は「坊やの年ならすぐ元気になるわよ」と胸に抱いて慰めてくれたが。それを聞いた他の秘書課のご婦人達も彼女を見習ってラッセルを『坊や』と呼び始めた。この呼び方は彼が41歳で死亡するまで軍の秘書課に受け継がれた。
「一人」
一人目が正確にのどを突かれて昏倒した。
「二人」
二人目が首の後ろを打たれた。
「三人」
三人目が突っ込んだ勢いのまま腰を打たれた。哀れな犠牲者は今後一生女を必要とはしなくなった。
ラッセルは柔らかな余裕の微笑を見せた。
「逃げるなら見逃してやる。それとも4人目になるか?」
きらりとナイフの刃が光った。無傷で捕らえるのをあきらめたのだろう。ラッセルは後ろの壁に背を付けると息を整えた。口先ほどの余裕は無い。むしろ逃げてほしかった。さらさらと銀髪が数本砂に落ちた。
(まずい、避けきれるか?)
一刃目はぎりぎりで避けた。しかし、足がもつれた。砂に手をつける。武器になる物をひとつも持っていないのが悔やまれた。ふと手に何か硬い物が触れた。
何であるかも考えずそれを手にして次の刃をはじいた。ナイフは大きく吹っ飛び天の助けだろうか。5人目の男の腕に深く刺さった。5人目は叫び声をあげると逃げ出した。
4人目が仲間のいなくなったのに動揺した。ラッセルはそれが何かを考える暇もなく手にした硬いものを思いっきり振り回した。頭を殴られた4人目の男はふらついた。だが、やはり力が落ちている。男は頭を振るとラッセルの首に手をかけた。もはや売り物にしようという意識は無い。
(やられる)
(だめだ。俺が死んだらエドが道ずれになる)
背中が急に熱くなった。
目の前が真っ白になる。

「おい、シルバー、おい!」
ブルーの声がした。
頭が痛い。のども痛い。気分が悪い。ラッセルはかろうじて目を開くと吐いた。発熱してからろくに食べてないから吐けるものはほとんど無いがそれでも吐かずにおれない。胃をひっくり返してきれいになめされたような気がした。
「悪かったな。こんな服で一人にして」
大男のブルーは本当にすまながっている顔をしている。
「あいつは?」
足元に3人の野盗がロープで縛られている。4人目、自分の首を絞めていた男はどうなったのだろう?
「あ、4人目は俺がのした。向こうのサボテンに縛り付けた」
ラッセルは改めてブルーの大きなごつい手を見た。この手ならあんな野盗ぐらい簡単に倒すだろう。
「ちくしょう」
悔しかった。あんな3流の男どもにあやうく殺されかけるなんて。
錬金術を使えば簡単に倒せるのはわかっていた。しかしあの程度の男達に手間取るつもりは無かった。体術だけで倒すつもりだった。
情けない。悔しい。あんなやつらごときに手間取るなんて。しかもブルーにまで助けられて借りを作ってしまった。
また吐き気がした。激しく嗚咽を漏らす。胃液すら出ないのに吐かずにおれない。背中が痛い。あまりよい状態では無いらしい。
「シルバー。落ち着け。それ以上吐くと脱水症状を起こす」
ブルーは流しの治癒師の中でもベテランだった。
なるべくそっとシルバーの肩を抱くと薄めに入れたハーブティを飲ませた。鎮静作用のあるカモミールティーである。シルバーはさらに数回吐いたが次第に落ち着きを取り戻した。
「手がべたついて気持ち悪い」
ラッセル(シルバー)は上ずった声でブルーに訴えた。
確かに手が不自然にべたついている。まるで質の悪い油にでも突っ込んだかのように。
ブルーはとりあえずぬらしたタオルで手をぬぐってやる。そういえば手だけではなくシルバーの倒れていた足元にも不可解なべたつきが水溜りのように広がっていた。あれはいったい何だろう?
「大丈夫か?」
平凡な言葉だがこういうときはほかに言いようが無い。
「胃が千切れそうだ」
ストレス性胃炎なのはわかっていた。セントラルを出る前からいやセントラルに向かう前からですでに持病である。
ブルーの低い声が心地よい。ラッセル自身は気づいていないが、彼は大人の男に気遣われるのに慣れていた。
ブルーは適温に冷ましたハーブティのカップを手渡してやった。手が震えている。カップの中身が大きく波打った。
乾いた砂にカップは音を立てずに落ちた。貴重な水分が砂に消えた。
「悪い」
「いちいち気にするな。お前はどうも気を使いすぎだ。胃が悪いのはストレスだぞ」
ブルーは自分のカップをシルバーの口元まで持っていく。
(こいつ慣れているな)他人にカップを持たしたまま飲むのは多少コツがいる。シルバーは違和感なしにブルーの手から飲んでいる。しばらくそういう生活をしていたらしい。そういえば再会したときも思ったがやせすぎだった。リバウンドと本人も言っていたがどんな大技を使ったのか?
治癒師同士は互いのプライバシーに干渉しない。また患者に対しても私生活には干渉しないのがルール。あくまでも治癒の技を売る商人として一線をひくのが原則である。だがブルーは腕の中の同業者にいったいどういう生活をしているのか尋ねたかった。まだ10代のはずだ。それが鶏がらでもあるまいにこのやせようは何だ。さらにあの全身の内出血は何だ?あれでは貧血もおきるだろう。
落ち着かすためにブルーは何か話してやろうとした。当たり障りの無い話題としてさっき縛り上げた野盗の事を言った。
「あの3人見事に倒していたな」
「相手が3流だっただけだ」
機嫌の悪い声を返された。
「のどに首に腰。全部一撃じゃないか」
お前は十分強いと暗に言ってやる。だがシルバーの機嫌は悪いままだ。
「ブルーが助けてくれたんだろ」
拗ねたような声だ。このときブルーはこの同業者が田舎の村にいる自分の娘より年下だと実感した。自分はこのぐらいの息子がいてもいい年なのだ。
「4人目か?いや、ナイフのささったやつなら逃げかけのところを捕まえただけだ」
「もう一人いただろ。俺の首を絞めていたやつが」
ラッセルはブルーがサボテンに縛り付けた4人目はそいつだと信じていた。ブルーが助けてくれたのだと思っていた。
「いや、俺が見たときはお前が倒れていてあの3人が完全に伸びているだけだった。サボテンに縛ったのはその前だ」
「…一人足りない」
急に寒気がした。熱がぶり返しているらしい。ブルーもシルバーが震えているのに気づいた。
あの男は自分を絞め殺したと思った後、ブルーの来るのを知って逃げたのだろうか?ラッセルが覚えているのは首を絞められて目の前が真っ白になったのと急に背中が熱くなったことだけだ。そういえば今もかすかにうずいている。
わからなかった。不安感がある。いったい何がおきたのか知りたかった。
「寒い」
砂漠の太陽はたちまち沈む。日が沈めば気温は急激に下がる。一日の気温差が40度以上になることも珍しくない。
「テントに戻るぞ」
ブルーはごく自然に肩を貸した。本当は抱き上げたかったがそれではこの息子のような年の同業者のプライドが傷つくだろう。
ブルーが立ち上がると脇に置かれていたある物がラッセルの視線に入った。
「あ!」声が出ない。息ができない。それが何であるかラッセルはよく知っていた。
アルフォンス・エルリック。探している相手。大切なエドの弟。
裏の噂で知った、空っぽの走る鎧。噂に聞く不死の巨人。ごつい外見にまったくそぐわない少年の高い声を思い出す。自分と同じ年の少年。2年以上前に数日間だけ運命を交差させた相手。忘れるはずのない相手。錬金術上の奇跡の存在。
そこにあるのは自分の体力低下を無視してまでこんなところまで探しにきた相手。
その右腕だけ、だった。
「あ、アル。アルが!」
声が震える。涙が落ちた。遅かったのか。最悪の知らせしか大切なあいつに届けられないのか。
「アル。アル!アル」
自分の声とは思えない。しわがれた声。
「シルバー!おい、どうした!」
ブルーが必死に呼んでくるが返事をする余裕は無かった。
「アル。アル」
腕を抱きしめる。硬い金属の感触。冷たい感触。
     大切な弟の腕

パン
乾いた音がした。ほほが痛い。ひっぱたかれたと理解したのは無理やりテントにほり込まれた後だった。
「食え」
パンを口に押し込まれた。
吐き気がした。
「抑えろ。これ以上吐くと体が持たない」
言われなくてもわかっている。それに食べなければ体が持たないのもわかっている。エドのためにこれ以上体力を落とすわけにはいかない。わかっていてものどを通らない。
     アルは死んだのだ。これ以上生きる必要はない
その思いが駆け回っている。
「無理にでも食え」
「いらない。気分が悪い」
自分が何を考えているのかわからない。
「不安か」
返答はないがブルーはかまわずに続けた。
「噂で聞いた。それは鋼の巨人の腕か。お前はそいつを探していたのか」
返事は無い。しかし、それ自身を返答とみなしてブルーは続けた。
「生きているかもしれないな」
生きているとはっきりは言えない。
ぴくり。目を覚ましてからずっとテントの隅で鎧の腕を抱えてうずくまったきりのシルバーが動いた。
「憲兵筋からの噂で聞いた。スカーとかいう殺人鬼とやりあったときに鎧の巨人は半分以上壊されたそうだな。だが次に見たときには傷ひとつ無く直っていたそうだ」
(   そうだ、俺は何を勝手に絶望しているんだ。アルは生きている。あいつなら必ず生きている。アルがエドを置いて死ぬわけが無い。まだあいつらは望みをかなえていない。エドがアルの死んだ後まで生きているはずが無い。俺が生きている間、エドは生きている。だからアルは生きている。絶対に)
ラッセルは口の中のパンを無理やり飲み込んだ。エドのためにこれ以上体力を落とすわけにはいかない。
「食う気になったか」
「当然だ。これ以上やせてたまるか」
「いい子だ」
つい娘と同じ気分で髪をなぜた。やってからブルーはしまったと思った。このごろは娘にも『子供みたいにしないで』と嫌われていた行為だ。だがテントの隅からランプの明かりが届く真ん中に這いよってきた同業者は嫌がるそぶりが無い。むしろブルーの肩に体を預けて安らいでいるかのように見える。
(誰かの代わりか。まぁいいさ)
「ブルー、暗いとあまり見えないんだ。切り口を見てくれ」
「鳥目か。ろくに食わないからだな。お前肉類を食わなくなっているな」
「見るだけで、気持ち悪くなるから。それよりどう思う」
「刃物、分厚い刃物で切られているな。腕のいいやつのようだ」
「切ったやつはアルのことを知らないな。腕を切っても意味は無い」
(普通の場所ならな。だがここは砂漠だ。噂では鋼鉄の巨人は魂のみが鎧に取り付いている形だったな。
もし、砂漠で腕を切られたらそこから砂が入る。鋼鉄の鎧ならもう地上に出る可能性は無い)
だが、ようやく希望を取り戻したこの若者にそれを告げるわけにはいかない。
それにどうやら流砂の流れが大きく変わっているようだ。あるいは絶望では無いのかも知れない。いずれにしても情報が少なすぎた。
見るとシルバーは震えている。急いであるだけの上着と毛布でくるんだ。シルバーのもっていた薬と一緒にビタミン剤を飲ませる。あまり意味は無いだろうが気は心である。
薬が効いてきたのか震えは収まっていく。
(効きすぎだ。これはどういう薬だ?)
ラベルは無い。糖衣になっているので正体をつかみにくい。
「シルバー。この薬どこで手に入れた?」
なるべくやさしく聞く。
「ファーストにもらった」
シルバーはあくびをした。疲れたのだろう。熱も上がっている。
じきに寝息が聞こえた。全身で寄りかかられているのにほとんど重さを感じない。身長は自分よりわずかに低いだけなのにこの実感が無いほどの軽さは何だろう。内臓の半分ぐらい持っていかれたかと疑うほどだ。
(リリーが見たら怒りそうだな。あいつは俺に似て骨太だからな)
ブルーは娘のことを美人だと思っているが世間の若い男の評価は違うらしい。彼らは力強い女より楚々たる美女を好むのだ。そうちょうどこの同業者のような。さらにこの肌だ。しみひとつ無く透けるように白い。生絹かよくできたプリンのような肌ざわり。
(やばいな)
10代の若造でもあるまいに、娘より若い男を見てトキメイタなどと人には言えない。
翌朝近く叫び声でブルーは飛び起きた。シルバーがひどくうなされている。
やむを得ずたたき起こした。起きた後もしばらくぼんやりしている。シルバーの寝起きが悪いのはわかっている。目を覚まさせるため口元までお茶のカップを持っていく。
「怖かった。首を絞められて息ができなくなって」
小さい声で語りだした。シルバーは昨日の夢を見たらしい。
「その後、真っ白になって…
首を絞めていたやつが溶けた。どろどろに。骨も何もかも溶けて砂の上に水溜りみたいにたまった」
(え?水溜りのように、たまっただと。まさか、いやまさか、たんなる夢だよな)
シルバーは知らないがブルーは見た。べたべたの質の悪い油の水溜りのようなものを。とりあえず靴にへばりつかれては困るので砂で埋めておいた。
嫌な感じがした。いったい5人目はどこに行ったのだろう。仲間をほうって逃げたのだと思いたかった。
急速に外が明るくなる。
「水を汲んでくるからじっとしてろ」と言い置いてブルーはテントを離れた。
井戸に行く前に昨日、野党たちを転がしていた神殿に向かった。彼らは眠っていた。起こさないようにそっと一人の縄にナイフで深く切り目を入れる。
それから急いで水を汲んでテントに戻った。
シルバーは鎧の腕を抱えている。
(どうして言われるまで気づかなかったんだろう。アルが腕の一本を切られたぐらいで死ぬはずが無いと)
どうしてか。それはブルーに聞いたら簡単に答えることだった。お前は『アル』を知っているんだな。お前にとってはどんな姿であってもアルはアルだろ。俺は鎧の噂を聞いただけだ。だから簡単に判断できた。こういうのは年の功だからな。
「食え」
ぼんやりしているシルバーに軍の横流し物資の携帯スープをカップに入れて渡す。
「ありがとう」
珍しい言葉を聞いた気がした。流しの治癒師同士では貸し借りはあっても恩義は無い。まして今、シルバーは雇い主である。
どうやら熱いのが苦手らしく彼はいつまでもカップを揺らしている。ようやく口にしたが顔をしかめている。あまり好みの味ではないらしい。
「もう町に戻ってもいいだろう。お前、次はどうする」
ブルーが頼まれたのはクセルクセスへの案内だった。この先どうするかはシルバーしだいだ。
「帰る。もう時間が無い」
「そうか」
「ブルーの予定は?」
「特に無いな」
「それなら、金が続く限りこの辺りを探ってもらえないか。腕がここに流れ着いていたならアル自身もここらに埋もれているかもしれない。方法は任せる」
多分そう言うだろうと思っていたとおりのことをシルバーは言った。
「いいだろう。どうせ暇だ。当分宝探しをしてやる」
シルバーはスープのカップを置いた。半分ほど残している。それ以上どうしても入らないようだ。
「よし、帰るぞ。とにかく駅まで送ってやる」

75 希望の腕

2007-01-03 16:22:11 | 鋼の錬金術師
75 希望の腕

なぜ止めなかった。医師はそう言って弟を責めたが弟は簡単に答えるのみだった。
「止めても無駄ですから」
あまりにもあっさりと答えられて医師は力が抜けた。
(こんなところだけ兄弟か)。この兄弟は普段はあまり似ているとは思えないのにこういうときだけそっくりになる。
「ほっておいても帰ってきますよ。
あの人がここにいるから」
なぜだかとげを感じる言葉である。
ブロッシュからも似たような言葉を聴いた。
「あんな人を一人で行かせてどこかでトラブル起こしたらどうなるか。どうして教えてくれなかったのです」
どうも兄のトラブル体質は数ヶ月でブロッシュにはばれたらしい。
戦場視察を終えたマスタングは憲兵隊を使って捜索すると言った。
さすがにそれだけはフレッチャーが止めた。兄はすでに憲兵隊とはトラブルを起こしている。これ以上関わりたくないだろう。

弟があちこちから文句を言われていたころ、兄は金貨の袋をつついていた。
翌朝、とにかく連れ込み宿を出て、駅に向かう。途中で買った新聞で今日が緑陰荘を出てから3日目だと気づいた。
丸一日分以上の記憶が無い。
(どうしよう)と思ってしまった。もし弟に聞かれたら言い訳の仕様が無い。まさか男と連れ込み宿にいたなどとは言えない。
(何か言い訳がいるな)
調べてみればこの町は目的地の町ノストのすぐ近くである。
(予定通りノストに行って調べてみるか。何かつかめるかもしれない)

ノストの町でまず金貨の一部を普通の金に交換する。表通りの銀行でも交換は可能だがラッセルは裏の交換ルートに行った。アームストロング財団の金貨は裏の方が、交換レートが高い。
ラッセルは大型の鍋にハンマーを組み合わせたデザインのアームストロング(財)の金貨に苦い思い出もある。まだ旧ゼノタイムにいたころラッセルは町長に泣きつかれて偽金貨を作っていた。善良だが無能な町長は町の移転費用捻出のため、旧ゼノタイム最高傑作であった『幻の海』の売買代金として町に渡された金貨を使い込んでいた。アームストロング(財)に購入されたのは町にとって最高の名誉だった。それを記念するため支払いに紙幣通貨ではなく金貨を希望し町の栄誉として記念館に飾ってあった。使い込みそのものは町のためであり公表しても害は無かった。しかし、町長は「町の名誉とみんなの気持ちのよりどころとして金貨は必要だ」と泣いた。けっきょくラッセルは私通貨偽造に踏み切った。
アメストリスでは軍事も地元軍と正規軍の二重構造になっているが、経済も二重いや、多重構造になっていた。まず、政府の正式流通紙幣がありそのほかに大型財団や貴族の発行する私貨幣がある。また地方自治体の発行する市通貨がある。その中ではアームストロング(財)の発行する金銀銅貨は鋳造の複雑さから偽造が困難なことから高い評価を受けており、貯蓄や贈答用にことに賄賂に好まれた。
指紋ひとつ付いていない金貨は最高の輝きで見るものに価値を主張した。しかし、ラッセルにとって金はさほど魅力的ではなかった。彼を魅了する黄金はこの世界中探しても二つしかない。生きている黄金。太陽そのものを溶かし込んだような輝く髪。いつもラッセルが面倒見ている髪。きれいな髪なのにちっとも手入れしないからあちこち痛んでいた。それはその髪の主がずっと歩いてきた旅の痕跡。そしてもう一人。さらさらの手触りのいい金の髪。その髪をラッセルはよく撫でていた。この頃髪の主が大きくなったので最近では撫でるのに苦労するようになった。
さらり、背中の半ばまで届く銀の髪が揺れた。14歳の時から毛先をそろえる以外に切ったことのない髪はかっての色を失っていた。昔、ほんの数ヶ月前まで彼自身の髪もあの二人の髪に似た金色をしていた。今ラッセルの髪は秘書課のお局様が「古典的な言葉だけど月光を溶かしたような髪ね」と言ったように瞳の色に合わせたかのような銀に変化している。
裏の両替屋でラッセルは見覚えのある顔に声をかけた。金の髪に青い瞳の中年の男。通り名はブルー。相手はしばらくラッセルのことをわからないようだった。
「シルバーか?その髪どうしたんだ?」
「(リバウンドで)やられた」
同じ錬金術師同士だからそれだけの言葉で通じる。
「(銀も)似合うな」
ラッセルはブルーがしばらくこの辺りにいたと聞くとガイドとして雇った。
あまり時間がない。地元に詳しい同業者がいれば利用したかった。
「宝探しねぇ」
ブルーはあまり興味がないらしい。
「クセルクセス文明の隠し財宝だ。金銀宝石、何よりもあの文明の錬金術の粋を集めた古文書がある」
口からでまかせの嘘八百だったが本当の理由を説明するわけには行かない。
砂漠の流砂の詳しい情報と体力のある人夫が必要だ。
ラッセルは惜しみなく金をばら撒いて情報を集めた。ブルーが噂をばら撒いて人夫を集めた。この小さい国境の町でどうやったのか300人がかき集められた。明らかに表通りを歩けないような連中もいたがラッセルは質より量と割り切った。
「貴重な古文書に傷をつけないよう作業は丁重に。傷無しで金属の碑文らしきもの、あるいは金属製の品物を持ってきたら倍の重さの金と交換する」
なんとも気前のいい話だった。さらに証拠として中継屋に金貨を1枚預ける。金貨1枚とはいえまともな生活をしている労働者には一生お目にかかることも無い高額貨幣である。噂を聞いて正式に雇った人夫以外のハイエナのような連中も集まった。
人海戦術、ラッセルの好みではないが時間が無いので贅沢は言えなかった。砂漠の流砂が最後に集まるところと言われるポイントを中心に500人近い人間が繰り出した。だが、3日たっても金どころか古釘1本出てこない。ラッセルは焦った。休暇の残りは後10日だがすべてを砂漠で使い切るわけにはいかない。今回は衝動的にセントラルを飛び出してきたが、本来なら工場の研究室に篭って赤い石の製造を急ぎたい。
ラッセル自身も砂漠のテントに寝泊りして昼夜を問わず砂を探った。錬金術を使う彼の捜索は同業者だったブルーの目から見ても珍しいものだった。まず適当な植物の種あるいは株を用意する。それに術をかけて根を伸ばす。細く弱い毛細根を通じて根の周囲にあるものを探る。根は10センチ間隔で伸びていく。術の続く限りどこまでも。
「ここまでか」
弱い声でラッセルはつぶやいた。植物の種類を砂漠に強い砂ヨモギに変え幾度も試してみるがさすがに不毛と言われる西の砂漠である。根が伸びて行かない。今のところ探索範囲は術の周辺5キロ半径で限界だった。
砂漠の夜は暗い。空には嵐が起きない限り満天の星が輝くがその光は砂漠を照らしてはくれない。その暗い夜に、ふと目覚めてテントの周囲を散歩していたブルーはぽうっと青紫の淡い光を見つけた。
青紫の光が急に強くなる。それが巨大な練成陣であることは自らも錬金術師であるブルーにはすぐわかった。中心と思しきほうに向かい足を速める。
「シルバー、どこだ?」
大声で呼んでみても返事が無い。
ブルーは舌打ちした。シルバーはまたどこかで倒れているらしい。まったく手のかかる雇い主だ。限界まで術を使うなと何度言えばわかるのか。ほっとくと砂漠に埋もれかねないので手早く探す。方向がはっきりしているのが幸いして15分以内で見つけた。
「おい、起きろ」
乱暴に揺さぶる。がくがくと意識の無い体が乱暴に揺れる。ゴムが外れたらしく銀の髪が体の動きに応じて揺れた。
ブルーは体の奥がきゅっと音を立てるのを感じた。両刀使いとまではいわないが裏街道を歩くものとして多少の経験はある。
「こら、襲うぞ!とっとと起きろ」
ふと手に違和感がある。妙に熱い。
(こいつ、熱が。砂漠熱か)
砂漠には特有の病気が多いが砂漠熱はその中では一般的な病気である。砂漠に慣れてない者がうろつくと2日目ぐらいでやられる。体力にもよるが40度近い熱を出す場合もあり油断がならない。たいていはそう重体にならず3日もすれば回復する。体力があれば発熱しない場合もあるがラッセルは体力低下状態だった。
(39度ぐらいあるな。無理しやがって。こんな状態でうろついてまで何を探している?財宝が嘘なのはすぐわかるが、・・・砂漠に関わる金属?希少金属鉱山でもないようだが)
手のかかる雇い主を抱き上げる。ブルーの身長は185センチ、ラッセル(シルバー)は身長だけはあまり変わらないが横幅がまるっきり違った。骨太で筋肉質のブルーの側にいるとラッセルは誰が見てもお嬢さんに見えた。一度何も知らない人夫に「お嬢さん」と呼ばれて相手を殴り倒した事もある。
…アル…すぐ見つけるから待っていろ…
ブルーの耳に聞こえたのは、声にもならないような小さな呟きだった。
(アル?誰だ。そいつを探しているのか?こいつの知り合い?いやこの雰囲気はそんな簡単な関係には見えないな。愛人か?)
ラッセルが寒気に耐えかねて目を覚ますとテントの中だった。テントに戻った記憶がない。
(寒い)
ひどく寒い。外は明るいからもう昼間のはずだ。砂漠の気温は40度を軽く越す。寒いはずはないが、ラッセルは震えが止まらなくなっていた。
「おい、アルはお前の愛人か?」
いきなりの声だった。入ってきた気配がないところを見るとテントの中にいたらしい。
「ブルー。何をいきなり」
どうしてアルの名を知っているのかという疑問は浮かばなかった。言われた内容の意外性だけで頭が吹っ飛んでしまった。
のどが痛い。どうやら風邪でもこじらせたらしい。この寒さは熱のせいかもしれない。
「惚れているだろ。こんなところで金を使う理由なぞほかにあるか?」
ブルーは骨太のごつい顔に似合わないニヤニヤ笑いを浮かべている。
「お前にそっちの趣味があるとは知らなかったな。ファーストが知ったらさぞ面白がるだろ」
ラッセルは立ち上がろうとした。とにかくこいつを一発殴り倒さねば気がすまない。だがわずかに動くだけで全身の関節が痛む。
息切れがした。
「起きられるか」
急にまじめな顔になってブルーが覗き込んでくる。
太い眉、青い瞳、筋肉質の体。
誰かを思い出す。
「離れろ。触るな」
「かわいげのないことだな。昨夜は俺に抱きついてきたんだが」
「な、」
嘘だ、と言いたいがかすかな記憶がある。そういえば昨夜も寒かった。認めたくないがつい癖が出たらしい…。いつついた癖かについては、なお考えたくなかった。

少し遡って昨夜のことである。アレックス・ルイ・アームストロングは幾人かの兵士を率いて砂漠を警戒していた。ここはシン国との国境を守る基地であり、どちらの国にも所属しない砂漠の野党達から国境近くの町を守る基地でもある。いきなり強力な練成を感じた。振り返ると青紫の光が地上から天に挑戦するかのように伸びた。そしてすっと消える。
「ばかな、今の練成光は。まさか」
砂漠にいるはずのない者の錬成光。見間違うとは思えない。だがなぜあの子が西に来ている?
(マスタング殿か?あの子をアルの捜索に使った?考えられないが)
とりあえず基地に戻る。本音ではすぐに探しに行って確かめたいが軍務中ではどうにもならない。
(一人で飛び出したのか?アルの行方不明を聞いて。いや、使者が来たのは昨日だ。そんなに早くセントラルに届くはずがない。真珠を持った使者が)
シン国の密偵に会ったのは偶然だった。昨日もいつもどおり兵士たちを連れて砂漠の警備に当たっていたのだが(本来は大佐に昇進したアームストロングが自ら動く必要など無いのだが)そこで砂漠を横断していた旅芸人の一座を捕まえた。その中の一人が使者だった。小さな真珠のピアスを忘れるはずが無かった。いつもロス少尉の右耳に付けられていた懐かしいピアスを。マスタングには真珠のピアスではわからないだろうからアームストロングは家紋入りの指輪を託した。使者はセントラルに向けて再び旅立った。アームストロングは知らない。この使者がエドワード・エルリック誘拐の密命を受けていることを。

軍人達はトリンガム兄弟にホムンクルスの話を教えなかった。当然、大総統に疑いをかけていることも教えていない。彼らを信用していないわけではない。教えないのはむしろ愛情からだった。それでなくてもトラブルの多い彼ら(特に兄)にアルがシン国に行ったことなど教えたら、エドのためにと行方を追いかねない。マスタングが大総統をいつか目指しているというのは軍では有名な話なのでラッセルも知っている。しかしそれはミニスカート宣言のついでのように言われており誰もが冗談だと思っている。ホムンクルスが一度紅陽荘に来たことも教えていない。エドが赤い石を求めていることはすでに14歳のとき出会ったときに知られているのでそのままにしている。しかし、今マスタングとアームストロングがエルリック兄弟のためホムンクルスを捕らえ赤い石を奪うつもりであることは知らせていない。
黙っているのはこれ以上巻き込まないためで、むしろトリンガム兄弟の将来を考えてのことだった。しかし、軍人達は知らなかった。ラッセルが裏に独自の情報ルートを持っていることを。ラッセルはすでに正体不明のシン国人がアル失踪の直前まで接触していたことまで知っていた。当然アルの失踪がシン国がらみなのは予測できる。そしてエドが見た夢。いくつものピースを組み合わせて今彼は砂漠にいる。車なら30分でつくところにアームストロングがいることには気づかないまま。
ラッセルが発熱のため町の宿に引き返したころ、軍の兵士達がむやみと砂を掘る性質の悪そうな男達を幾人か捕らえた。彼らは宝探しと言い張った。実際彼らはそう信じていた。宝探しごときなら本来ならほうっておいてもいい。だが場所が悪かった。ハイエナのような男達はすでにクセルクセス遺跡の近くも掘り返している。そしてその辺りはさまざまな野党や部族の利害が複雑に絡み合う場所である。うかつな行動は戦乱の引き金になりかねない。軍は見せしめとして男達を20人ほど捕らえ、他の者にも解散を命じた。ゴマのハエのような男達はいったんばらばらになった。しかし、すぐ戻ってきた。翌日軍はまた20人を捕らえた。首謀者を出せと詰め寄った。ブルーはさっさとトンズラを決めた。それでも一応あれから発熱が続いて宿にこもっているシルバー(ラッセル)に声をかけてやる。
「軍が」
「お前もさっさと逃げろ。捕まったら面倒だ」
ブルーはシルバー(ラッセル)が国家錬金術師で中佐待遇を受けていることは知らない。
ラッセルは確かにつかまりたくは無い。しかし、一人で逃げ切る自信が無かった。最悪の場合は身分を明かせば中佐待遇としてセントラルまで送ってくれるだろうが、何の目的でこんなところにいたかを軍に知られたくない。それに捕まったりしたらアームストロングに迷惑がかかる。
集まっていた男達はおそらくアメストリス内に逃げるだろう。それなら。
「ブルー。あとひとつ仕事を頼みたい」
「クセルクセス遺跡へか。おまえも物好きだな」
「送ってほしい。それに軍は国内を探すだろ。クセルクセスで少し時間をつぶしてから逃げれば網が緩んだころだから逃げやすい」
にやり、ブルーが笑った。いやな笑いだ。
「よし。その代わり俺のやり方に合わせてもらおうか」
ラッセルはいやな予感がした。しかし、今はこの男を利用するしかない。


74 危険な男

2007-01-03 16:19:19 | 鋼の錬金術師
74 危険な男

(人柱は他の者に変えることもできるがニエは替えが無い。この子の価値をわからないとは、エンヴィー無能者が!)
烏が去った後の空を数秒の間、青紫の瞳は睨み上げていた。振り返ったときその瞳は髪と同じ色、最古の洞窟を思わす闇の黒に変わっていた。
「どうした」
ラッセルが部屋中を見回して何かを探している。
「ボストンバック、持ってなかったか、あれが無いと薬が」
「薬?まだ(もぐり)開業中か?」
「いや、…俺の薬」
ビタミン剤程度はどうでもいいが精神安定剤が無いのは困る。あれが無いと急に不安感に襲われたとき身動きが取れなくなる。まして旅先である。動けなくなるのは最悪の事態を招きかねない。いや、すでにそういう事態になっている気がした。やくざ者に売られるのも十分まずいが、売られたら売られたで、逃げる手はある。
(むしろ、今のほうがまずい)
部屋を見て回ってラッセルははっと気が付いた。部屋の大きさに比べあまりに大きすぎるベッド、小さなはめ殺しの窓、ここは世に言う連れ込み宿ではないか!
ファーストがなにやら性質の悪い笑い方をした。
「一応、少しは常識も付いたな。そういうことだ」
「どうして?!」
「気にするな。と言っても無理か。ちょうど近かったからな」
「本当にそれだけか!」
「他の理由も欲しいか?」
「い、要らない」
昔から、この男はこうやっていいことも悪いことも、悪いことのほうが多かった気がするが教えてくれた。いくら実年齢より上に見られるとはいえ、14歳だったラッセルが裏の連中と付き合えたのはこの男が下地を作ってくれたからだ。その意味では感謝すべき恩人だが…。
年は40前ぐらいだろうと裏の連中は言っていたが、どうもよくわからない。肌の質だけを見れば30台前半で通りそうだし蓄えたデータや知識は50歳といっても通りそうだ。黒い瞳はこれ以上深い黒を見たことが無いほど濃い。
あいつの目は黒ではない、あれは闇だと言ったやつがいた。改めて見ても本当にそのとおりだと思った。
ラッセルが知る限りでは仕事は流しの情報屋である。他にもいろいろありそうだが無理に知ろうとは思わない。
(正多角形だけが形じゃない。無理に全ての面を知らなくてもいい)
ラッセルは他人に対してそんな風に割り切っていた。
「見つけたときは何も無かったが、やつらが(闇市で)処分したのだろう」
薬が無い。その事実が動揺を誘った。
ベッドに座り込んで頭を抱えた。セントラルまでどうやって帰ればいいかわからなくなる。落ち着いて考えれば誰かに持ってこさせるか闇ルートを使って手に入れるかすれば済むことだとわかるはずだった。だが、生じた不安感が思考をさえぎる。
目の前が薄暗くなった。見上げると闇がある。ファーストが近々と覗き込んでいた。この男は嫌いにはなれないがこんな風に覗き込まれるのは不快だった。まるで闇に飲み込まれるか、頭の中を触手で探られているような気がする。だが振り払えない。14のとき最初に出会ったときからこの男とは初めて会った気がしなかった。ほんの小さいときからよく知られているような、見られていたような気がする。
「シルバー」
低い声で呼ばれる。この男の声は肌で感じることができる。低い、背中にまで響きそうな声。肌が粟立ったのがわかった。
(名にふさわしい姿になった。この子は全身が『銀』になっている)
ラッセルは知らないが眠っている間に体毛からまつげまで調べられていた。
呼吸が乱れる。胸が痛む。息苦しい。こんな危険な男に弱みを見せたくはないがもうどうしようもない。薬があればまだ押さえが効くはずだ。だが、バックも無く,服も隠しポケットの中の薬ごと消えている。
「シルバー」
また呼ばれた。考えていることをすべてかすりとっていかれそうな声で。
視界がかすむ。脳の一角は心拍数の異常と過呼吸の危険を告げる。だが、わかっていても息苦しさへの対応として起こる過呼吸を止められない。
力が入らなくなる。

どのくらい意識が無かったのかははっきりしない。数秒か数分かとも思った。
冷たい何かを感じている。唇に。同時に息が吸えなくなる。手足をしっかり押さえ込まれている。(こんなに押さえなくても抵抗する力は無いのに)
体のあちこちが痛む。
「暴れるな」低い声が耳たぶを掠めた。
では、暴れたのかと思った。ベッドに押さえ込まれている現状と全身に感じる痛みからしてかなり抵抗したらしい。
それにしてもこのような場所でこんな姿とは、もし誰かに見られでもしたら…
どう考えても一つの結論しか出ないだろう。
(フレッチャーが居なくて良かった)
情けないがそれが一番にうかんだ。
何か冷たいものを飲まされた。どうやら薬らしい。ファーストは飲ませた後ついでのように乾ききったラッセルの唇をなめていく。
即効性の種類だったらしく急速に動悸が治まる。
唇が離された隙に息をはいた。
「おりこうになったな。正直に答えろ。誰に習った」
笑いを含んだ声だが、うかつな答えを返すと相手をバラシかねない。
「聞いただけだ」
うそではない。もっとも全てでもない。軍に出入りするならぜひご婦人とのお付き合いを覚えなさいといって服装から会話術、化粧品会社へのコネと礼儀作法とあらゆることを叩き込んでくれたマスタングが『仕上げに実践トレーニングを』と言い出した。なんだかわからないまま部屋に呼び出され寝室へ連れ込まれ…あの時マスタングが腹部の負傷をほったらかしていなければおそらくそのまま…。対ご婦人用寝室での対策を教え込まれた気がする。
ただ、今ここに居る男に比べたらマスタングなど危険のうちに入るまい。マスタングは完全に女好きだったし、娼館に連れて行く前にどのくらいわかっているか見たかっただけのようだし。
「健全な青少年の好奇心を満たす程度にか、目を開けろ」
どうしてだろう。最初からこの男には逆らえない。声を聞くだけで背中が震える。怖いのに離れたくない。だが、近づかれたくない。
「セントラルまでこれで何とかしろ」
口調が変わった。情報をやり取りしていたときと同じ声に。
やれやれと思う。とりあえず最悪の危険は去った。
力の入らない左手に薬瓶を押し込まれた。
「俺はもう出る。お前は落ち着いてからにしろ。ここの払いは明日の朝までしておく」
言い終えるとファーストはもうドアを開いている。
「あ、」
ありがとうと彼の背に言いかけて、自分たちはそんな関係じゃないと気がつく。
「当分借りておく」
今回の件を借りとしておくと言う。
「そのうちまとめて返してもらうぞ」
「早めに返さないと利息がつきそうで怖いな」
「そのときにはお前を丸ごと食うことにする」
軽い冗談のようだが4年後にこれが文字通りの意味だったことにラッセルは気づくことになる。
「肉付きが悪いからまずいよ」
「まったく、もう少し食え。抱いたとき骨があたったぞ」
ドアから半分出て行きかけながらラッセルに向けて何かを軽く投げた。
反射的に受け止める。大きさの割には手ごたえがずっしりと重い。中身が金貨であるのはすぐわかった。
ラッセルは投げ返そうとした。助けられた上にこんな借りまで作るわけにはいかない。だが、象牙色の肌の男はあっさり言った。
「そいつは貸しじゃない。お前の代金だ」
つまり、ファーストはラッセルを奪ったときについでに売買代金も奪ったらしい。この男のことだから、買い手が付くのを待っていたのではないかと邪推できる。
(結構高値で売れたんだな)
重さからしてまじめな上等兵の年収の10倍はある。
(世の中には変人が多いからなぁ)と自分は常識人と完全に自信を持っているラッセルは金貨の袋をつついた。
『じゃあな』ともいわずにファーストは入ってしまった。いつものことだ。急に来て急にいなくなる。不思議に会うのはいつもラッセルが一人でいる時だけだ。とうぜんフレッチャーは兄があんな危険な匂いのする男と付き合っているのは知らない。
また乾いてしまった唇を今度は自分で舐めた。あの男のタバコの苦い味がした。



脳の暴走警報発令中。ちなみにうちのプライドはファーストの姿のときは黒髪黒目象牙色の肌。遠目にはロイを渋めにふけさせたようなおじ様です。正体は…まだ考えてなかったりします。能力は光系を目指していますが、はたして思いつけるかなぁ。
ほんの小さいころにラッセルを見つけて以来、時折人生に介入し見守っています。(別名を○トーカーともいいますが)(大笑)
ラッセルが彼を意識しているのは14歳以降です。
それにしてもあんまり借りを増やすと近々おいしくいただかれてしまいそうで大いに心配です。
ちなみにあのフェロモン全開男ロイ・マスタングの寝室の誘いに引っかからなかったのはすでに免疫があったからなのか?