金属中毒

心体お金の健康を中心に。
あなたはあなたの専門家、私は私の専門家。

98 いたずら坊やのおりこうな留守番

2007-01-03 23:36:08 | 鋼の錬金術師
98 いたずら坊やのおりこうな留守番(ラッセルのやり方)

軍服組みが出かけた後、ラッセルは1階に降りていった。
宿の客達はごく普通の中年親父に見える。しかし、この宿は貸切だから客はみんな国家錬金術師である。
幾人かが談笑している。一般人から見れば暗号にしか聞こえない会話。
鉄原子の第3形態にシリコン加工して・・・いやそれより銅を2価イオンにしてから吹き付け加工を・・・そもそも土台に鉄を使わなくても・・・
談笑する声を聞くとも無く聞きながら、ラッセルは彼らを金属系の術師なのかと思った。こういう点もラッセルの常識の無いところである。錬金術というぐらいだから金属系が練成の主体になる者がほとんどなのだが。
ラッセルのように有機系、まして加えて医療系、さらに付け加えて美容系の練成が主体というのはきわめてまれである。
このときラッセルはアームストロングが着せ掛けた上着をそのまま着ていた。特に寒いと思ったわけではないが脱ぎたくなかった。
ラッセルの若さとこの上着が他の術師の勘違いを招いた。
彼らはラッセルを自分達の世話係としてマスタングが置いていった部下と見た。
(田舎のことで不自由も多い。世話係を置いていくとはマスタングも気が利くことだ)
階級章をしっかり見ればラッセルが中佐(待遇)なのは分かるはずだが、あまりに若すぎるため誰も確認しなかった。かくしてラッセルはおっさんばかり30人の小間使いにされた。買い物・電話(この町には無いので伝言を持って走らなければならない)・酒の追加・さらにひどいやつもいて女の手配まであらゆることを言いつけてくる。それらをこなせたのはひとえに裏時代の人脈のおかげである。
「マスタング殿は良い部下をお持ちだ」
好みの女(胸がでかくて色が白く髪が長い)を手配してもらい、機嫌の良い老術師はもともとしまりの悪い口をさらにへらへらと開く。
部屋に待たしている女のところに急ごうとしたとき老術師の足元がふらついた。

砂漠熱と俗称される病気がある。実際にはひとつの病気ではなくて砂漠の気候に慣れない者がかかる病気の総称である。〈軍服組みは普段から鍛えているので全員無事だった。〉しかし、研究のためとかく生活が不規則になりがちな私服組みは・・・・。
ラッセルに女の手配までさせた老術師が高熱で倒れたのをスイッチにしたかのように、私服組み全員が程度の差はあれ発熱や嘔吐下痢を併発して寝込んでしまった。
ラッセルは大きなため息をついた。
(使い走りの次は治癒師か)
ため息のひとつもつきたくなる。美しさに欠けるおっさん30人の面倒を見なくてはならないのだ。
どうしようかともかく練成治癒をかけようかと考えているときレモンの香りを感じた。
宿の女将がふちの欠けたカップにお茶を持ってきた。
そこから漂う懐かしい、なぜか懐かしい香り。
(レモンかな?)
「どうぞ」
コトンと受け皿も無しのカップがラッセルの前に置かれた。
カップの中身を見るとレモンは入っていない。
「ハーブティかな」
「メリッサですよ。前にうちに来たお客さんがおいていったものだけど」
女将はいちいち言わなかった。置いていったお客がこの近くの砂漠で変死体になっていたことを。
老眼の進んだ彼女は気づかない。今目の前にいる青年が殺された男と一緒にこの宿に泊まっていたことを。
・・・メリッサの葉には、痛みを癒す力があり、人を救う力がある。
レモンバームのほうがわかりがいいな。俺はメリッサの響きが好きでね。俺の女の呼び名だからな。男の声。低い声、安心してよりかかれる大柄な男。
(・・・誰・・・?)
思い出せなかった。頭が痛む。思い出せないことを無理に考えているといつも痛みに邪魔される。
それが精神科医の掛けた安全装置であることをラッセルは知らない。
名前の変わりにまた声を思い出す。
・・・ジンジャーパウダーは、血液を浄化、免疫力を強くする。
黄色い痰や鼻汁にはタイムがいい。
エキナセアは、風邪、ヘルペスなど、多くの感染症に対して有効な“抗菌ハーブ”だ。
エキナセアは北方に分布するキク科の植物。紫色の花をつける
エキナセアの有効成分やメカニズムは、まだわからない。カンジダ菌による全身性感染症の予防も報告されているな。
しかし結核、白血病、自己免疫疾患のような進行性の全身性疾患、キク科の植物に対してアレルギーのある人は避けるべきだ。
相手の体質がはっきりしないときには使えないということだな。

(ハーブか。うん、いいな。少なくとも害は無いだろう。おっさんの肌に練成は・・・触りたくないな)
ラッセルは一人でうなずいた。いつの間にか誰かの名前のことは意識から消えている。
それから数日間、宿は臨時の病院と化した。
なにしろ田舎のことなので医者は2日がかりでしかたどり着けない。しかも秘密訓練中であることを考えるとうかつに医者を呼ぶわけにもいかない。
つい昨日まで使い走りにしていた青年が治療すると聞いたとき30人の私服国家錬金術師は不安と不満を訴えた。しかし、青年が優れた治癒の腕前を示すと今までのあごで使う状態から、同等の相手に、さらにはその専門性に尊敬の意さえも持ち始めた。そうなるとラッセルの気分も変わる。むさいおっさんの肌に手を当てて治癒練成するのはいやだというわがままがひっこみ、患者の苦しみを取り除くのが治癒師の商売だよなとプロ意識が出てきた。
練成で関節の痛みを抑え、ハーブ療法で安眠を誘い、点滴さえも錬成でつくり脱水症を防止し、通常なら10日は発熱や痛みに苦しむところを4日目には早いものは回復の兆しを見せていた。
(一息ついた)
ようやくほっとしてお茶の時間を楽しんでいるところに、遅れていた術師がやって来た。
「お医者の坊や。予定してたお客さんが来たよ」
治癒練成を始めてから宿の女将はラッセルをお医者の坊やと呼んでいる。
医者と治癒師は違うと何回か説明したが田舎者の彼女には理解できなかった。説明が面倒になったラッセルは適当に返事をしている。
「はじめまして。私は・・・」
半白の髪の術師は名を言ったがあまりにも聞きなれない音の塊であったため、ラッセルには聞き取れなかった。
「遠いところをようこそ」
遅く来たのだから遠いところから来たのだろうと、ラッセルは推測した。実際には彼が一番近いところから来ていたのだが。
「白水とお呼びください」
どうやら名前を聞き取ってもらえないのはいつものことらしく、50代前半と思しい術師は二つ名を付け加えた。
「緑陰です」
ラッセルもとっさに二つ名で対応した。
白水の表情に多少の驚きが表れる。
応対した青年が、いやまだ少年と呼んだほうがいいような気もする、銀時計の持ち主とは思っていなかった。
若すぎる。噂では最年少の鋼のは本来の年齢よりさらに幼く見えるそうだが、この若者はいくつなのだろう。
その表情をすばやくリサーチしてラッセルは付け加えた。
「現時点での最年少です」
宿の女将に指示して、いつの間にかすっかりラッセルが仕切っていた、部屋の用意をさせる。
その間に白水は顔なじみの術師の部屋を訪ね、さっきの細身の坊やがあのマルコーさながらの治癒を行っていると聞かされた。
(マルコー並みとはずいぶん大げさなことだ)
あんな若すぎる坊やがそんな腕を持っているとはとても信じられない。
(しかし、もし話半分でも事実なら、頼めないだろうか?)
白水はずっと(自分はついていない男)だと思っていた。
せっかく連れてきた医師は脱線事故で負傷し病院送りになった。
そもそも不運は若いころからだ。住んでいた町は砂嵐に襲われ全滅したし、何とか身を立てようと国家錬金術師になったのはいいが、軍医の誤診で盲腸炎を悪化させられ半年も入院した。そのために更新もできずに銀時計を返上する羽目になった。
これを別の観点で見れば入院したおかげでイシュヴァールに行かずにすんだのだ。その後再び銀時計を手にし研究生活を送っている。
少し前になる。若いころ住んでいた町の隣の町、エリスの町の町長から手紙が来た。砂塵嵐と流行病で町は全滅しかけているという。何とか軍に救援を求めてもらえないだろうかと書いてある。
たかだか少佐待遇の軍属の身では何もできないが、そんな自分にさえ手を貸してくれというほどエリスの町は追い詰められている。何とかしてやりたいと有り金をはたいて薬と食料を用意し医者を雇って汽車に乗ったら脱線事故である。
(俺は疫病神か死神にでもとりつかれているのか)
さぞかし自分はくたびれ果てた中年に見えるだろうなぁと大きな荷物を2階に持ってあがりながら白水は一人つぶやいた。


99 すでに滅びた町 エリス

97 マスタング・ランチ

2007-01-03 23:35:11 | 鋼の錬金術師
97 マスタング・ランチ(半野生馬を駆って行うゲーム)

ごくたまに例外はあるが高級軍人は乗馬ができる。マスタングは乗馬の名手でことに暴れ馬の扱いがうまかった。
『さすがマスタングの名に恥じぬ』と軍の大会で優勝したときはからかい混じりに大総統に賞賛されている。(マスタングとは半野生馬という意味である)
今回のイシュヴァール人狩に軍人30人は馬を使った。車では狭い路地の多いこの街を自由に走り回れない。カッカッというひずめの音が石畳に響く。
馬はもともとこの基地に飼われていた軍馬である。
軍人達は街のあちこちに身を潜めたイシュヴァール人を追い詰めて捕らえていく。
イシュヴァール人の多くは抵抗すらしなかった。もともと栄養不良で抵抗できるだけの体力に欠けることがひとつの理由。もうひとつは女が起こした殺人をきっかけに閉じ込められていたテント広場からばらばらに逃げただけで、暴動を起こすにたるスカーのようなタイプの指導者がいなかったこと。
時折起きる血なまぐさい事件は食料ほしさに地元グループの家を襲った強制収用グループの者が殺したり殺されたりされているため。
「こう無抵抗ではつまらんなぁ」
4日目の夜、酒を酌み交わしながら術師たちは自分の獲物の数を自慢しあっている。
今のところダントツでロイが優勝である。
「やはりじゃじゃ馬鳴らしに関してはマスタング准将の右に出るものはおりませんね」
「馬も女もでしょう」
「まったくだ」
他の術師がのんびり酒を楽しんでいる間ロイは収容所所長を相手に狸になっていた。
「この収容所は貴重な資源を保存しているのだからきちんと管理してもらいたい。むやみに死なれては管理責任を問われる」
要するに軍の研究資源や鉱山で使い捨てにするための労働資源を守るためイシュヴァール人の管理体制を変えろと要求した。具体的には食料供給を増やし、医療を与え、テント生活をやめさせるなど生活環境を改善せよである。
軍人であるロイにはこれ以外の言い方は許されない。
どういう表現であろうと理不尽な死を一つでも減らせればそれでいい。
そのために原因になったあの女だけは処刑せねばならない。
イシュヴァール人は死後大地の神イシュヴァラの懐に帰るため土葬が原則である。よほどの罪人で無い限り火葬はされない。あのイシュヴァール戦でロイが特に憎まれたのもその理由もあった。
「あの女は明日公開火刑する。そこそこいい女だったから特別に私が燃やしてやろう」
マスタングは所長の前で鮮やかな笑顔を作る。
マスタングの狙いはキャンプのイシュヴァール人の憎しみを自分に集めることだった。
今回の騒ぎの原因は民族内部の差別にあるといえた。それを乗り越えるほどの憎悪の対象を与えることによって事態を改善しようとしていた。リスクは承知の上である。

所長室に兵士が駆け込んできた。
<イシュヴァール人に慢性砒素中毒者が大量に発見された。どうやら原因はある女です。>
兵士は報告する。マスタングは無言でそれを聞いた。
階級は同じでもキャンプのことは所長の管轄である。
彼がどういう指示を下すのか、マスタングが動けるのはそれからである。
だが無能所長は何の手も打たなかった。
そして翌日強制収用グループの手でその女は切り刻まれた。
マスタングは一切口を出さなかった。
「膿を出す必要がある」。
アームストロングにだけ告げた。それはアームストロングに対して今回は余計な手を出すなという命令であった。
アームストロングが狩の獲物とされたイシュヴァール人達に「怪我をさせたくないので抵抗しないように」と説得してまわっていたのをロイは知っている。その説得の中で手作りのナイフを手にした赤い目の男達10数人に囲まれたことも1度や2度ではない。アームストロングがその気になればたとえ錬金術無しでも5分とかからず彼らをひき肉状態にすることはたやすい。しかし、アレックスはまったく抵抗せずただ説得を続けるだけだった。
「我輩もあの殲滅戦に行った。もうこれ以上の犠牲を生みたくないのだ。諸君の今後の生活については我が家の名誉にかけて保障する。抵抗せず捕らえられて欲しい」
説得の中で暴発した女が包丁を逆手に体当たりした。
アームストロングは1歩も動くことなく受け止めた。
厚い生地の軍服を切り裂き、その下の絹のシャツを切り裂き、日焼けした張りのある皮膚と鍛え抜かれた筋肉を1センチ切って包丁は地面に落ちた。
切りつけた女は自分がしたことに驚きおびえ座り込んだ。
地面にしみが広がる。失禁したようだ。
アームストロングは特大サイズの上着で女を地面ごと隠した。
見られたくは無いだろうという心遣いである。
虚脱した女を近くにいたイシュヴァール人に預けると彼は基地に戻り一人で傷口を縛り上げた。
同じ軍人達に知られると無血で捕らえるという目的が達成できなくなるからだ。
その日青い大きな軍服をかぶった女を中心に80人が自分から捕らえられに来た。



96 ブルーベビー

2007-01-03 23:33:54 | 鋼の錬金術師
96 ブルーベビー

この収容所には5000人が収容されている。収容所としても規模の大きいほうである。
軍の指示に従い10人100人と性別や年齢層をあわせて出荷している。
出荷された者の運命がどうなっているのか収容所の誰も知らない。
見張りの兵士の数はわずかに60人。収容所所長がイシュヴァール人を2グループに分け管理しているのも理由の無いことではなかった。
60人の兵士の中には地元に現地妻を持つ者もいる。
マスタングたちが来る半月ほど前のことである。
兵士Aはその現地妻に泣かれたばかりだった。
生後半年の赤ん坊が風土病と思われている病気で死んだ。
青の呪いと呼ばれる奇妙な病気、この10年で蔓延した。死ぬのはほとんど赤ん坊。そのためにこの土地全体に子供が減少し(砂塵の影響や水不足もある)活気の無い社会を作っていた。
兵士Aは強制収容グループのテントのある広場にいた。彼の役目は見張りである。
彼の耳に女の叫び声とむせび泣く声が聞こえた。
つい数日前彼の妻が同じ泣き方をした。
(誰か死んだのか?)
本当は見張りである自分が捕虜と口を利くのは禁止されているのだが、彼は近くにいた老人に訊いた。老人は赤ん坊が急に死んだと答えた。
青い色になって死んだと聞いたとき兵士は危うく銃を取り落としかけた。
それは彼の子供と同じだった。

一言にイシュヴァール人というが、その範囲は広い。特徴的な赤い瞳と褐色の肌の遺伝が強く出るため1つの民族と見られているが、もしその外見の特徴が無ければアメリストス社会に溶け込んだものたちはすでにイシュヴァール人としての生き方を失っている。
たとえばイシュヴァール本来の社会では何かの理由で乳が枯れた女がいる場合、まずは姉妹、次に親族のなかで乳の出るものが与えるしきたりがある。ただし、赤ん坊が男の場合だけである。
イシュヴァール社会には男女に強烈な差別がある。それは赤ん坊のころから徹底しており女の子は大地の神に母親が返す(生き埋めにする)しきたりになっている。

5000人が収容されたこの街には2人の妊婦がいた。地元グループと強制収用グループに一人ずつ。生まれたのは男1人女1人。
それぞれの母親は自分の子供のことしか知らないが、赤ん坊は2人とも同じ青い姿で死んでいた。
春風邪と俗に呼ばれる病気がある。最近の名はインフルエンザであるがこのころは正体が不明でたちの悪い風邪と見られていた。強制収容グループの母親はそれにかかり乳が枯れた。母親はむしろ当然の権利として地元グループの乳の出る女に乳を提供するよう求めた。その女の子供は女児であったから自分の男の子が優先されるのはイシュヴァール社会では当然のことなのだ。
しかしその常識は通用しなかった。
赤ん坊は早めの離乳を強制された。それでも育った。食糧不足のなかでもイシヴァールの民は男の赤ん坊を大事にしてくれた。それなのに赤ん坊はある日死んだ。
葬儀がすんでも母親は叫び続けた。兵士Aが聞いたのはそんな声だった。

その母親は暴動の直接の引き金になった最初の殺人事件を起こしていた。
ロイ・マスタングは暴動の直接の先導者だけは公開処刑を決めていた。どこかで線を引く必要があった。捕らえられた彼女は軍のなかで拘束され処刑の日まで生かされていた。

95 毒を盛る女

2007-01-03 23:32:48 | 鋼の錬金術師
95 毒を盛る女

国家錬金術師が来た。
(きっとみんな死ぬのね。)
女は料理の手を止めて城壁のほうを見た。
彼女は歌った。古い詩。子守唄。
もう歌詞は伝わっていない。だからメロディだけを。
失った子供のために。
(あの女には子供がいる。どうして私の子供が死ななくてはならないの。あの女の子供は生きているのに。みんなみんな死んでしまえばいい)
料理の仕上げに彼女が手にするのは砒素のビン。
ここの建物は昔錬金術師が住んでいたらしくこの手の薬品が大量に残っている。
「無駄にしてはもったいないものね」
東洋風のスパイスの効いたスープ。貴重な肉も野菜も大量に入れている。それを大きななべに山盛り造る。
50人分はあるだろう。
砒素が固まらないようによくかき混ぜる。
一番粗末な服に着替えてそっと外に出た。
今、昔からこの西に住んでいたグループと新たに軍にむりやりつれてこられたグループは対立している。というより昔からの西グループが無理やりつれてこられたグループを迫害していたのだが。
そんな中でも同じ大地の女神を信じるもの同士、助けるべきだと考える者もいて彼女もその一人。このスープはろくに食料を配給されていない迫害されているグループを助ける援助。彼女以外にもこっそり援助している者はいる。ただ彼女はその中に砒素を混ぜているだけ

94 ロイのやり方

2007-01-03 23:32:01 | 鋼の錬金術師
94 ロイのやり方

収容所に着いた。こげる臭い。
懐かしいという言葉では表せないほどはっきり覚えているこの臭い。
人肉が焼ける臭い。私の臭い。
そして腐臭。
どぶの臭い。
この収容所は廃棄された小さな城壁都市をそのまま利用している。
収容されているイシュヴァール人は2つのグループ。
1つはもともとこの地区に住んでいた者達。彼らは夜には収容所に戻るという建前さえ守れば外出もできるし生活レベルも以前とあまり変わらない。
もうひとつはイシュヴァール人狩りで捕らえられここに放り込まれたグループ。夜間はマイナスにもなる砂漠近郊のこの収容所で彼らの服装はほとんどが薄物1枚。健康状態も悪く死亡者は1日で30人にも達している。腐臭はその死体から出ていた。
彼らは城壁都市の大広場にテント住まいを強いられ、それも1つのテントに10人も押し込まれている。通常では3人で使うテントである。砂漠が近いゆえの砂塵の影響もあるのだろう。すでに肺病を含め感染性の気管疾患が蔓延している。
収容所所長が公式の挨拶をするのをマスタングとアームストロングが受けた。鉄血の将軍がスカーに殺された後、国家錬金術師の中で一番階級の高いのは准将であるロイである。
「暴徒どもは収容所を破壊し町を混乱させています。一刻も早く国家錬金術師のお力で不浄なる暴徒どもをきれいに焼き払っていただきたい。」
要するに自分の失敗を隠したいのだ。管理している収容所で暴動が起きたら当然所長の管理責任が問われる。その痕跡を訓練への協力という建前で丸ごと葬り去ろうというわけである。
アームストロングが口を開きかける。
自分はあの時あの戦場から逃げた。だが戦うべきだった。たとえ自分の身がどうなろうとも。
アームストロングの様子に何かを感じたのだろう。不意にロイが指を鳴らした。
バチッ
聞きなれた音。そして蒼い炎がロイの手の中で踊る。
「この程度の街、私一人でも1時間で灰にできる」
ロイの声はどこか芝居がかっている。
収容所所長はすぐにでも焼ききってくれることを期待した。彼の一族は軍需産業の大物で、彼が戦場にも行かないで准将まで出世できたのはひとえに親の7光である。
「だが、それでは面白くない。そうだな。ゲームでもしようか」
ロイがまっすぐにアームストロングを見た。
「アームストロング少佐。この町を取り囲んで壁を作ってもらおう。ゲーム盤だ」
ロイの目が調子を合わせろと語った。
「は、准将閣下」

アームストロングは町の城壁の内側に10メートルもある壁を練成した。
これでこの町を出るにはたった一つの出入り口、城門しかない。
マスタングは一緒に連れてきた30人の国家錬金術師を城門の片側を守る出城に集めた。
開口1声、マスタングは笑いながらいった。
「国家錬金術師諸君、ゲームを楽しもう」
マスタングの説明は続く。
「これだけのメンバーであんな素人以下の獲物を相手にしては楽しむ前に終わってしまう。そうだゲームにはハンデをつけよう。使う武器は鞭1本。獲物に怪我をさせることなく捕らえれば3ポイント軽症なら1ポイント、重症ならマイナス5ポイント、殺したら失格。制限時間は5日間。
どうだこれなら楽しめるだろう。」
アームストロングだけがロイの意図を正確に読んだ。
ここに来ているのはロイより階級は下だが部下ではない。
その彼らに殺さずになるべく無傷で捕らえろと言っても簡単に命令に従うとは思えない。もともと異常な出世をしているマスタングは敵が多い。ましてやロイより年齢も上で軍人一族の出の者は彼に対する恨みは強い。さらに同じ国家錬金術師だ。
もしロイがわずかでもイシュヴァール人に同情的な命令を下したら、それを口実に足を引っ張られかねない。
しかし、ゲームなら。
あるいはうまくいくかもしれないとアームストロングは思った。いや、自分が走り回ってうまく助けてみせる。
こうしてイシュヴァール人拘束ゲームが始まった。



93 夜明けからの数日間

2007-01-03 23:31:08 | 鋼の錬金術師
93 夜明けからの数日間

ノリスの町に1人の兵士が飛び込んできた夜明け前からの数日間、3箇所でそれぞれの努力が行われた。ここではそれぞれの視点で事件を追ってみる。

アームストロングのやり方

この行く先にはかってのイシュヴァールと同じ光景が待っているだろう。だが軍人は逃げることはできない。我輩はかって一度あの戦場から逃げた。それを恥として生きていた。これから行くところが戦場であるなら決して逃げることはできない。
しかし、子供は違う。
子供は傷つけない。子供は連れて行かない。それがマスタング殿と話した結論の『軍服組みだけの行動』の意味だ。アームストロングはそう考えていた。
「ラッセル」
子供はまだ少しぼんやりした目で見上げてくる。
「留守番だ」
留守番だと言ったとき、ラッセルは震えた。
(怯えている。なぜだ?)
ラッセルの過去を検索する。父親が出かけたきり帰ってこなかったことが彼の人生の転機になっていた。実際には父親はその頃殺されていたわけだが。
「ここを頼む」
怖がる子供をなだめるにはいくつかの方法がある。遠い異国の光の貴人は袖にすがる紫の子供のために出かけるのをあきらめたと聞く。   〈源氏物語のことだろう。筆者注〉
アームストロングは別の方法をとった。
子供に責任を持たせて残す。小さい子供を少し大きい子供に預けるように。
ラッセルの髪が揺れている。まだ震えている。それでも子供は返答した。
「はい、大佐が帰るまで(ここを守ります)」
出発の合図が鳴った。
寒そうな子供に青い上着をかけるとアームストロング大佐は戦場へと向かった。



92 夜明け

2007-01-03 23:30:02 | 鋼の錬金術師
92 夜明け

太陽が砂漠を暖め始めるころロイはラッセルを背負って道を歩いていた。
ロイ以上にざるのはずのラッセルはたった1杯の酒で歩けないほど酔いつぶれ、完全に眠ってしまった。
「妙齢の美女ならともかく男を背負っても楽しくないな」
車を呼ぼうにも町には車は無く、電話も通じない。置いて帰るわけにもいかず肩に担いだ。
身長こそその年頃にしては高めのラッセルだが体重は軽い。担ぐのに苦労は無かった。
ようやく宿がぽつんと見えてきたとき、ロイは宿の前に石像を見つけた。
2メートルはある大きな男の像だ。
ん?と思うまもなくドドドドドドドドと地響きを伴って像が動いた。舞い散る砂埃。ひび割れんばかりの道。
「アームストロング少・・・大佐」
背中のラッセルが何かもにょもにょとつぶやく。
地響きで目を覚ましたが、半分夢の中らしい。
(子供は気楽でいい)
ロイはずり落ちかけたラッセルをよいしょと持ち上げた。
どどどどどどどと地響きをはるか後ろに従えて(音速を超えたか?)アームストロングが吹っ飛んできた。
「マスタング准将、緊急の連絡が・・・ラッセル」
ロイの背中にまだくっついたままのラッセルはほにゃりととろけたような瞳でルイを見上げた。
「   ルイ   」
半分眠りかけの唇が声にせずに編んだ。
瞳よりもこの呼び方でアームストロングにはラッセルが正気ではないことが分かった。
彼がこの呼び方をするのは紅陽荘で2人きりのときだけだから。

「子供を酔いつぶすほど飲ませたのですか」
アームストロングの声にはあきれが混じっている。怒りの粒も混じっている。
あれからすぐにラッセルをロイの背中からそっとおろし、青い軍服の上着で包み込んで部屋に入れた。ちなみにお休みモードのラッセルはお約束の姫抱き状態であった。
たかが1杯でつぶれるはず無いんだ。とロイは言い訳のように言う。
「ラッセルは私以上にざるだったはずだ」
マスタングの言い訳を聞くと以前飲んだときには2人でボトル7本を空にし、さらに翌朝二日酔いだったのはロイだけでラッセルは顔色さえ変わらなかったという。

1時間後、
ルイの大きな手に髪を梳かれながらラッセルは体内に沈殿する滓を掃きだした。
「昨夜は聞いているうちになんだかいらいらしてきて飲まずにいられなかった。アルコール耐性がなくなってることも忘れていた」
言葉を少しずつ区切るようにしてラッセルは言う。
「正義、愛、 そんな言葉聞きたくなかった。俺は俺の大事なもののためだけに生きてるんだ」
言葉の合間に寝息が混じる。まだ相当酔いが残っている。
(連れて行きたくも無いが、これでは連れて行こうとしても無理だ)
アームストロングとロイをはじめとする軍服組は後10分で出発である。
昨夜いや今朝の早朝のことだ。ある兵士が小さな宿に飛び込んできた。
その兵士はあのイシュヴァールでアームストロングの部下であった者だ。上司がああいう形で戦場を離れた後、幾人かの上司に従い今は西のイシュヴァール人キャンプの見張り兵の1人になっていた。
そのキャンプで暴動が起きそうだからとアームストロングにこっそりと助けを求めに来たのである。兵士はもともとノリスの町に近い小さな村の出で、幼馴染は今キャンプの中にいる。彼女はイシュヴァール人の血を引いていた。もしも暴動が起きてしまえば、兵士である自分はあのあほ上司が命令すれば彼女の同胞や親族を殺さなければならない。最悪彼女すらも。
(何とかしたい。でもどうしていいか、自分は無力だ。あいつと逃げるのも無理だ)
頭を抱えた彼はキャンプからさほど離れていないノリスの町に昔の上司をいるのを漏れ聞いた。
(あの人なら何とかしてくれるかも)
希望を求めアームストロングのもとへキャンプの現状を訴えに来たのだ。
馬鹿上司(キャンプ・収容所所長)が2つに分かれたイシュヴァール人同士の対立を取り押さえるどころかあおっていたこと。それがスカー死亡のニュースをきっかけに過熱した。
今キャンプは誰かが金属音を立てればそれを銃の音と取っていつ同族同士の争いが起きてもおかしくないのだ。見張りの兵士達も神経を尖らせていて暴発しかねない。第2のイシュヴァール戦がこのキャンプから起きてもおかしくは無い。
兵士が飛び込んできて2時間後、収容所所長から今度は正式な使者が来た。
収容所の秩序維持のため暴徒どもの始末に手を貸せというのである。
すなわちすでに暴動は始まっていた。


『私がロイ・マスタング。イシュヴァールの英雄だ。私を憎め。無力な者たちよ』
ロイの言葉がイシュヴァール人拘束ゲームの始まりを告げた。

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93 夜明けからの数日間

91 守人の資格

2007-01-03 23:28:45 | 鋼の錬金術師
91 守人の資格 
額の傷跡

親和の情に欠ける夕食会は時間通りに終わった。ロイは連絡事項として軍の命令を伝える。
『戦闘練成力の維持向上のため集団模擬戦闘、個人シュミレーションを行うように。今年の査定はこの訓練で代用も可とする。』
つまり戦闘能力を見せろというのである。
おそらく第2のイシュヴァールを軍が計画している、多くの術師はそれを読み取った。
続いて具体的な訓練方法の説明がロイからされた。集団戦闘は3組に分かれての陣取り合戦。
個人戦闘は各自得意技で戦う。時間制限は1日。一人にひとつずつ金貨を配る。これを勝者が取っていく。制限時間が終わった後、一番金貨の数の多いものが優勝。なお金貨はそのまま賞金になる。
ずっしりと重いアームストロング家の紋章入りの金貨が配られた。
全員に配った後もロイの手のかごには3枚の金貨が残った。
(1枚はラッセル、1枚は連絡のあった白水・・・脱線事故とは運の無い男だ、いやあの男はここに集まった中で一番強運かもしれない・・・あの時あそこに行かずにすんだのだから。 明日には来るはずだが
後1枚は・・・あの女か)
ロイは3枚の金貨を眺めて、内心だけで舌打ちした。
あの女。大地の2つ名を持つ女。
数少ない女の国家錬金術師。ガイア
本当の名は知らない。
あの女の名など
知りたくも無い。


熱く感じるほど暖かい手が額に触れた。
その暖かい手が誰の手かラッセルは目を開けることすらなく理解した。
大きな手、優しい手、安心できる手。
ルイの手。
(准将が呼んだのか)
ラッセルはそう思ったが、事実は異なった。ロイの手に3枚の金貨が残ったのを見てアームストロングが尋ねたのだ。「まだ来ていないのは2名だけのはずですが」と。
あと一人は誰なのかと
ロイは答えなかった。
答えが無かったことで回答は分かった。
あの子を連れてきたのか。こんな危険なところに

ラッセルはわずかに身をよじった。額に触れていた暖かさが離れる。
自分から離れていながらラッセルはさっきまでの暖かさが恋しかった。
自分で離れたのに手が離れて欲しくなかった。
「具合はどうだ」
低い声 大人の声 男の声
なぜだろう?
この声を聞くとラッセルはいつも暖かいスープを飲んだ後のような気持ちになる。
できるならいつでもいつまでもこの声に浸っていたい。
でも今は
「すいません大佐 しばらく一人で休みたいので」
この人を見たい。この人に触れられたい。でも、
この人に見られたくない。
 俺はこの土地で何をしたのだろう
 わからない。思い出せない
ラッセルの手は無意識に額に触れた。
傷跡をさぐる。髪の生え際にかすかな傷跡。
もう見ても分からないほど薄くなった傷跡。
意識して手で触れてようやくわかるほどの傷跡。
「・・・そうだな。すまん、ゆっくり休め」
ルイが部屋を出る気配をラッセルは耳だけで追った。
『行かないで』
声にしないように唇を押さえる。
ドアが閉まり際にまた低い声が聞こえた。
「何も食べておらぬのだろう。30分したらスープと鎮痛剤をもって来さそう」
ラッセルが額に触れたしぐさを頭痛と誤解したらしい。


違う。これは傷跡。
守れなかった、弱かった俺の記念碑

ちょうど同じ位置に弟にも傷跡がある。
それは悪意を持って投げられた石の痕
赤い目をした名も知らない誰かが投げた石
そのとき兄はとっさに弟を抱きこんだ。誰にも何にも弟だけは傷つけさせないように
だが弟は恐怖心から却って顔を上げた
小さな、だがとがった石が弟の額に当たった
飛び散った血。
なぜ自分が憎まれるのか分からず、痛みよりもむしろ困惑に怯える小さな弟。

もう30分経ったのかドアを開く音がした。
食欲は無いが鎮痛剤はありがたい。
多少頭痛がしているのも事実である。
だが入ってきたのはマスタングだった。
「ラッセル、明日の予定だが」
マスタングは会議の席で説明したことをかいつまんで話した。
明日からは集団戦闘訓練。
個人戦闘は最終日に行う。
ロイはアームストロング家の紋章入り金貨を1枚ラッセルに渡した。
(この人は訊かない)
体調が悪いのはむしろ一緒に汽車で来たマスタングのほうが知っている。
それでもマスタングからはラッセルを気遣う言葉は出ない。
だからといってマスタングに不満があるわけではない。この人と自分はそういう関係。自分はマスタングの弟子でもなければ友でもない、部下ですらもない。同士と言う言葉が近い。
大切なたった一つの宝を、エドを守る同士。
だが、この胸に風穴を開けられたような寒さは何だろう。
(ばかばかしい。単なる風邪の初期症状だ)
ラッセルは自分でも信じていない言い訳を無理やり押し付けた。

同じ家に住んでいるのにこうして二人きりになるとロイとラッセルには共通する話題が無い。
盗聴を意識してのことでもあるが。
部屋は居心地の良くない沈黙で覆われた。
ラッセルは身動きひとつしない。
ロイは持参した錬金術書をめくっていたが、期待したほどの内容ではなかった。
少ししてから宿の女将がスープと鎮痛剤を持ってきた。
ラッセルは鎮痛剤だけ受け取り、スープはそのまま下げさせた。
宿の女将がドアを閉じると居心地の悪い沈黙が戻ってくる。
「ラッセル、さっきは何を言って追い払った?」
うっとおしい沈黙を破ろうとロイが話しかけた。
「(さっき・・・あの女か)
たいしたことではありません。塗り替えても赤目は赤目だと言っただけです」
(赤目、イシュヴァール人か)
本来赤目という言葉自体に差別要素は無い。多民族国家であるアメストリスでは黒目や青目という表現はごく普通に使われる。その中で赤目という言葉だけが侮蔑の意味を持つように成ったのはやはりあの殲滅戦が原因である。
(イシュヴァール。この子とは話した事が無い。信頼はできるが信用できない。うかつに話すこともできないが)
ラッセルはエドの味方ということでは信用できる。しかし記憶の混乱を抱えた彼は口にしていいことと悪いことの判断がつかなくなるかもしれない。ましてやラッセルは大総統のお気に入りだ。
大総統の部屋に連れこまれている間何がおきているのかロイは知らない。ラッセルはその時間のことはほとんど口にしない。噂では・・・・・にされているとなっている。
(イシュヴァール人への嫌悪感。この子がそんなものを持っていたのか)
ラッセルはエドと同じ年(外見はそうは見えないが)なのだから、考え方も似ているとロイは思っていた。しかし。
ラッセルが赤目というときの声にははっきりと侮蔑と嫌悪感そして怒りがある。
ロイは言葉をしばらく口の中で暖めた。
訊いてみたい、いやぜひ訊かなければならない。
侮蔑と嫌悪感は一般的なアメリストス人としてはあってもおかしくは無い。
だが、怒りは個人的なものだ。
自分の陣営にいる以上いずれイシュヴァール人の問題は出てくる。
「飲みに行くから付き合いなさい」
この宿の中では他の国家錬金術師に聞かれる恐れがある。
ロイの命令にラッセルはあっさりと従った。

考えてみれば分かりそうなものだが、悪質な汽車酔いに苦しんだラッセルを酒場に連れて行くのは大人の判断として正しくは無い。
しかしロイはこのとき自分の思いを優先させた。
イシュヴァール人に対してアメリストス人がした罪。そのためにたくさんの人が傷を負ったこと。今も多くのものが苦しんでいることをラッセルに伝えなければと意気込んでいた。
後にラッセルは何かのときにこうつぶやいている。
(正義を抱えている人には、自分の正義こそ一番価値があるのだろう)

飲みに行こうとは言ったがロイは酒場の場所を知らなかった。
宿を出た後、異常なほどに方向音痴なラッセルが道案内で先に立った。
裏通りを見つけるのも初めての場所でも闊歩するのもラッセルの特技だ。問題は・・・帰り道が分からないだけだ。

たまたま入った(店はほとんど廃業でそこしかなかった)酒場でラッセルは慨視感を覚えた。
(間違いなくここには来たことがある。そんなに以前じゃない)
(だとしたらここに准将を連れてきたのは、)
まずい選択をしたとラッセルは気づいた。しかしいまさら出るわけにも行かない。逆に疑惑をもたれるだけである。
ラッセルはロイにエドとの関わりや赤い石のことは話している。しかし、もぐり時代に付き合いの深かった裏の連中とのつながりまで説明してはいない。関係の無いことだし、知ることでお互いの不利益を生む可能性がある。なんといってもロイは軍人である。
あの時おそらく自分はここで裏の顔をしていたはずだ。
「注文は?」砂漠焼けで浅黒い肌のマスターが無愛想な声で聞いてくる。
「ジ
ジン・フィズとロイはオーダーしかけた。
その声にかぶせるようにラッセルが言う。
「テキーラ、ダブル」
テキーラはサボテンから造られる強い酒で農作物の少ないこの土地の数少ない名産である。
「准将、こんなところでジンはやぼですよ」
やぼとか言うよりもジンのような高価な酒はこういう店では置いていない。
ラッセルはこのとき店のマスターに〈この男は軍人だ〉と教えたいだけでロイを階級で呼んだ。
こういう店のオーナーならそれで全て分かるはずである。
「あいよ、軍人さんかい。こんな田舎に珍しい」
マスターの声が微妙に変わる。いかにももの知らずな田舎者を強調する。
方言を交えた言葉、人のよさそうな笑顔。
(お見事)
ラッセルは内心で感謝の意を示す。
もっともラッセルの意図はロイには読めていた。
准将と呼んだときのトーンが幾分高かった。
(警戒警報か)
子供は子供なりに考えるものだなと受け入れることにした。
ラッセルがエドの味方であるのは間違いない。それだけで充分だ。少なくとも今は。
それにロイとしても全てを教えるわけにはいかない。
イシュヴァールは
あまりにも多くの人にいろいろなことを押し付けた。その全てを教えるひまはないし教える気も無い。
(今夜は道徳教育だな)
それが自分に教えられえるのかについてロイは検討しなかった。
命の重さ。復讐や恨みは更なる悲劇しか生まないこと。
酒を片手に話すべき内容ではないがロイは気にしなかった。ラッセルは素直に聞いている。士官学校のカリキュラムを教えているときと同じ顔で。
ロイの言葉が途切れたときグラスを揺らめかせながらラッセルは独り言のように言った。
「俺はスカーが好きですよ。他のイシュヴァール人に比べたら。あの男は強い。それに自分の大事なものを守ろうとしていたようだし、あれがエドに手を出さなければ敵対する気は無かった。大事なものは自分で守る。それができないようなら」
ラッセルはふいにグラスを傾けた。
(生きている価値は無い)
コトンとグラスは置かれた。
そろそろ夜明け前である。

90 西の町ノリス

2007-01-03 23:27:19 | 鋼の錬金術師
90 西の町ノリス

ノリスは西の果ての町である。その先は砂漠。10年前まではノリスの向こうに3つの町があった。次第に広がる砂漠はノリスの町もじわじわと飲み込んでいる。
ロイとラッセルが汽車を降りたとき、ノリスはにわか景気でにぎわっていた。
国家錬金術師50人がそれぞれに配下や助手を連れてやってきたためだ。
高級な酒が売れる。売れるとなると商人の反応は早い。屋台を引いてくるもの。釘を打ち付けられた廃店舗を臨時利用するもの。酒と金のにおいに敏感な夜の女も町を飾っている。

駅まで車を呼んだはずだがどうも行き違ったようだ。待っているのも時間の無駄になりそうだとロイは歩くことに決めた。汽車を降りて寝ぼけ眼をこすった後、ラッセルは思っていたより元気になった。どうやらたちの悪い酔い方をしただけらしい。
「歩くぞ」
「はい」
素直な返答にエドならどう答えるかとつい思ってしまう。いつもだ。この子といるとあの子ならどうするかと思ってしまう。付き合いはエドとのほうがずっと長いのにあの子と一緒に行動したことは数えるほどしかない。
「西のはずれと聞きましたがにぎやかですね」
完全に覚えていないらしく、ラッセルの感想は表面的だった。
「そうだな」
答えるロイの声は機械的な返答だ。ロイはエドが突然現れた1年ほど前を思っていた。

兄弟は似ている。一見似ていないように見えても行動が似ている。ある事実にぶっかった時、あの兄弟は同じ人物を選択した。そう、ただ一人自分だけを。このロイ・マスタングを。
俺が死んだ後、アルを見ていてくれ。あんたになら。
僕が兄を迎えにいくまで、       金眼の猫をお願いします。
信じてもらっていたと思っていいのだろうか。
弟はないはずの命を背負い、兄はノミコンデコヨウトスル死から、弟を助けようとする。
そして、金の目の子猫はロイの手に納まった。

(准将?)
ロイの目は自分を見ているのに思いは別の誰かにいっている。珍しいことではないのでラッセルはロイの意識が現実に戻ってくるのを待った。最近は少なくなったが金髪のときはよくそうやって見られていた。
夜の女たちが上玉と見て誘ってくる。その気配でようやく現実に戻ったロイが歩き出した。軍人の足は速い。無意識に早い。後ろからついて歩くラッセルはすでに息を乱している。だが意地で待ってくれとは言わない。
駅から宿までは歩いて15分。ロイの足なら10分である。派手に明かりをつけた宿が見えた。宿の前の通りには明らかにわかる夜の女たちがたむろしている。まだ日が残っているのに商売熱心なことだ。

純情な青少年の教育上よくない光景があった。イシュヴァールで生体実験を繰り返したとうわさされているある術師が女の一人の腰を抱いて宿に連れ込んだ。ロイは思わずラッセルを振り向いた。見えていないはずはないがラッセルの反応はない。
(16歳か。やりたい盛りのはずだが、どうもこの子は女とどうこうという雰囲気がない。あの女たちとはどういう付き合いをしているのだ?)
情報収集のためにラッセルを社交界に乗り込ませている。その前にご婦人用マニュアルは叩き込んでおいたが、ベッドの中の行為までは教えていない。
(まさか、誰ともやってないということはないだろうな。まさか、な)
自分が、同じ年のときにどうだったかを考えればそれだけはないと確信できるのだが。
「黒髪のオニイサン、遊ばない」
どこか奇妙な発音の女がロイに細い腕を絡めてくる。
ロイは無言でその手を剥いだ。もう遊びは十分だ。そんなものには何の魅力も感じない。
「あら、ひどいわね。ふーん、こんなおきれいな公娼を連れてたら、あたいらは用なしか」
女の視線はラッセルをなぜた。
3秒間、反応はなかった。
それから彼はわずかに表情を変えた。
女に視線を投げかける。
すばやく移動すると女の耳元で何かを言った。
女が顔色を変えた。急に身を翻すと走って逃げた。
「ラッセル、君いったい何を?」
あの手の女が走り逃げるようなことをこの子が言ったのだろうか?
「事実を指摘しただけです」
さらりと銀の髪をかきあげる。癖のない髪ははらりともとの位置に下りた。
「准将、あの女とは遊ばないほうがいいですよ」
どうも彼は怒っているらしい。一見そうは見えないが。彼が自分で髪をいじるときは感情に大きな起伏のあるときだ。

指揮官のロイが到着したので夕食会をかねて会議になった。
正直なところ今回の『遠足』にどの術師も不信感を持っていた。
特に研究を中断させられた研究派の術師達は不満顔だ。それを隠そうともせず、ロイが説明するのを待っている。だが、実際のところロイも上の命令でやってきただけだ。ラッセルに至ってはロイが説明するまで遠足を半分本気で信じていた。
ノリスの町のうわさではこれはシン国との戦争の第1陣ということになっていた。戦争景気を当て込むもの。巻き込まれないうちに逃げるもの。
逃げる気力もなく、座り込むもの。日常に埋もれようとするもの。
「イシュヴァールの英雄が 指揮を執るんだと」
「へー。シンの連中みんな炭になっちまうな」
「飯の支度に薪をひろいにいかなくてすむねぇ」
この時代、地方には電気もガスもいきわたっていない。

元小さな宿は、いま100人がいる。夕食会に出るのはそのうちの約半数。銀時計の持ち主だけである。
50人が楽に座れるテーブルといす。これも練成品だ。ハンマーマークが付いているから作ったのはアームストロングだろう。
並べられる料理はこんな田舎としては上等だが洗練されているとは言い難い。
皆あまり食事は進まずデザートとなった。
軍の一般食堂で飲むのよりはましなコーヒーが出る。
今回集められたのは一人を除いてイシュヴァール経験者のみである。その一人は宿に入ってから部屋にこもって出てこない。
何か混乱しているようだったな。
ぬるくなったコーヒーを飲みながらロイは思った。
ラッセルは宿に入ってからしばらくぼんやり座っていたが、ふと顔を上げて不思議そうにロイを見た。
「どうした、私に見とれているのか」
自分の美形ぶりに自信を持った男にしかいえないせりふ。
これを聞くとエドはうへーと大げさに肩をすくめいつもの毒舌を吐く。
さて、この子はどういうかなと実験気分で見ていたら
「どうして准将がここにいるんですか?」
心底不思議そうに訊いてくる。
「部屋数が足りないからだ。
この部屋は宿で一番広いから私たちは同室になった」
「・・・???」
「いやならアームストロング大佐の部屋に行ってもいいが、大佐となら慣れているだろう」
紅陽荘にいる間の一時期は母猫が子猫を見るように面倒見られていたと聞く。
「いえ、そうではなくて・・・ここノリスの町ですね」
「あぁ」
どうも言いたいことがわからない。
「確か、俺は一人で汽車に乗って・・・」
「違う、西に来たのは初めてで准将と一緒に・・・」
「砂漠でアレを見つけて・・・・・・・・」
ラッセルは頭を抱えてしまった。記憶が混乱しているようだ。
こういうときの対策を聞いてこなかったのは失敗だった。
一応、建前では極秘任務だから電話で聞くわけにもいかない。第一この町には電話はない。
ここは子守が得意な男に任そうとロイは立ち上がった。
「アームストロング大佐を呼んでこよう。少し話しでもすれば落ち着くだろう」
「ダメ、いやだ。大佐には会いたくない!会えない」
トーンの高い叫び声。
「ラッセル?」
「すいません。少し気分がおかしくて」
「疲れたんだろう。汽車が長かったから。少し休みなさい」
「別に疲れては」
答える声が震える。ラッセルの手がのどにかかる。
まずいとロイはその手を引き剥がした。
「あの、」
妙な雰囲気になってしまった。ラッセルも長身だがまだロイには届かない。極端な偏食とリバウンドのために限界までやせたラッセルはその長い髪もあってよく少女に間違われた。片手の自由を奪われ、さらにソファに押し付けられる。
「俺はエドではないですよ」
この1年弱、よく見た光景。ロイに戯れるように甘えるエドの姿。
ラッセルはそれを見るたび何か引っかかるような気分を味わった。
人は自分の姿を見ることはできない。忙しい時間を割くようにエドの面倒を見るとき、あの金の髪をすくときの自分たちの姿に実弟が同じ思いを抱きしめているとはラッセルはまったく気づかない。
「当然だ」
ロイもふと妙な気分になりかけたが、自分の姿が写る銀の瞳を見下ろすうちにわれに返った。
「しばらく横になるんだ。
上官命令だからな」
ラッセルを置いて夕食会兼用の会議に向かった

89 遠足に行こう

2007-01-03 17:01:12 | 鋼の錬金術師
89 遠足に行こう

国家錬金術師、さらに准将の位を持つロイのおかげで汽車の個室は高級ホテルと見まごうばかりに豪勢である。たった1階級の差でも佐官と将官の待遇は大きく異なる。天蓋つきダブルベッド。花模様のレースで飾られている。ロイは金の薄板で繊細な透かし彫りが掘られたカウンターでコーヒータイムである。
ベッドの中には銀の髪の女があられもない姿で・・・・。いや違うようだ。
なぜ汽車の中にまでダブルベッドなのかは、マスタングは考えないことにした。確かに東方司令部時代は色事師の名で通っていたが、セントラルに来てからは女とはほとんど遊んでいない。
それはある猫好きの少年から金の目の子猫を預かったからだ。子猫の名前はエドワード。そう、あの鋼の錬金術師である。
兄弟は似ている。似てないように見える兄弟でも行動が似ている。マスタングは今手元に2人の10代の国家錬金術師を抱えている。ともに兄のほうが国家資格者である。
今、ダブルベッドの隅っこで縮こまるようにして眠っているのが、銀のラッセル。家で留守番しているのが金のエドワード。
今頃はエドもお昼寝タイムだ。あの子のことだ。きっとお腹を出して寝て、『弟』に手間をかけているだろう。
ラッセルはベッドの隅にいることが多い。時々柵を乗り越えて床に落ちている。それでも起きないのだから大した者だ。弟やブロッシュに言わせれば困った癖だが。今日は落ちる様子はない。いや、ときどき汽車が大きく揺れるたびにかすかにうめいているから眠ってはいないのだろう。

汽車の中でいろいろと話したいことがあった。西に行くとわかってからはつい先日西にいったラッセルに現地の様子を少しでも聞こうと思っていた。ところが汽車が10メートルも動いたかと否かというころにもう乗り物酔いである。
もともと血の気の薄い子だがさらに真っ青になって座り込んでしまった。とりあえず医者に預けられた薬を飲ませて見たが、効果があるのかどうか?
以来もう4時間、ベッドの中で縮こまっている。
コーヒーを運んできた給仕がベッドに散り咲く銀の髪に視線を向けていた。誤解を解く気にもなれない。髪だけを見たら女を連れ込んでいるように見えるだろう。情事の後のコーヒーというところか。
石炭の補充のため、1時間停車である。
汽車の停止を確認した後、ロイはラッセルを起こした。
かわいそうだが無理にでも何か食べさせないと身体が持たない。
昨日はエドの食事に付き合い多少は食べたようだが、その後吐いてしまったのをロイは知っていた。
やはり、エドを縮めたあの練成は負担が大きかったらしい。
それにしても自分も錬金術師だが、本当に錬金術とは何でもありだと思う。人体を縮めるなど想像もしなかった。ラッセルもまた一種の天才なのだろう。どうも紙一重という気もするが。

「准将、着いたんですか」
「いや、一時停止だ」
大きくため息をついた。かなりつらいようだ。
普段は私の前でこの手の感情を見せる子ではない。
「何か、飲み物だけでも摂りなさい」
「   はい」
返事はしたもののまた座り込んだ。

足元が定まらない。
視界が揺れる。
汽車の中だということを忘れるほど豪華な個室にはシャワールームまで付いている。
ラッセルはそちらのドアを開けた。
なるほど水分だけでも取ったほうがいい。吐瀉物を見ればかなり出血している。タンクの水を贅沢に使い洗い流した。普段なら練成で分解するがこんなに目の前が揺れていてはどうにもならない。痛みはない。裏ルートで鎮痛剤だけは大目に手に入れている。痛覚はエドにすぐ影響する。抑えられる限り抑えるべきだ。
隠しポケットの中から鎮痛剤を出す。早めに飲んだほうがいい。だが、飲もうとすると嘔吐感に襲われる。何か胃に入れてきちんと吐けば収まりがいいのだろうが。胃に入れるというのが苦痛になる。
またため息をつく。
ドアの外ではロイが聞いている。
「ラッセル、開けるぞ」
声をかけたときにはもうドアを開いている。これでは声をかける意味がない。
「エドを」
かすれた声だ。
「エドを怒れませんよ」
ドアを開けるタイミングが早すぎると言いたいらしい。

女には おんなの顔 をつくる時間が要るのよ。
国家錬金術師になった年に抱いた女が教えた。おんなが一人でいるときはのぞいてはだめよ。
彼女の本名は知らない。社交界ではマダム・ペールと呼ばれている。
なぜか彼女の言葉を思い出す。あの時すでに30代後半だったあの女は輝くような透き通るような肌をしていた。
セントラルに来て彼女を見たときその美しさがあまりにも変わりないのに驚いた。すでに50を超えているはずなのだが。

あぁ、そうかと思った。血の気の薄い彼の肌は、最初の夜のあの女の肌に似ている。ロイに女扱いの手ほどきをしてくれたあのペールに。あれからもう16年だ。

汽車はまた動き出した。ラッセルはまたベッドの中で呻いている。かろうじて水分は摂らせたがこの様子では時期に吐くだろう。汽車が動き出す前に訊いたことをロイは考えた。
ラッセルには軍人としての常識がない。当たり前だが。軍人ではないのだから。
その彼にエドの前では言えないことを教えた。常識以前のことなんだがと前置きしてから、「軍では暗号を使う。これは暗号と言うより業界用語みたいなものだが、遠足は普通に言う遠足ではなく現地の状況しだいでどうなるかわからない訓練をさす」
「つまり、これは訓練ですか」
「そうだ、私が隊長に指名されている。普通は先に現地の様子を調査するのだが今回は特殊訓練だから調査もなしだ。
ラッセル、西のことを覚えているだけでいいから教えなさい」
「え、俺、西に行ったことないですけど」
ロイの目が鋭くなる。あの夜老医師と精神科医にラッセルを預けた。記憶の封印はピンポイントのはずだった。だが、彼は西に行ったことすら覚えていないのか?
室内でも濃い色のサングラスをはずさない精神科医が言った。
『記憶の封印は確立された治療法ではありません。彼はすでにいくつも封印されていますからどういう影響が出るかはお約束できません』
専門家のくせに無責任なと思ったが、専門家だからわかったのだろう。
「そうか、エドと勘違いしたようだ」
考え込ませないように。思い出しにくくなっているだけで記憶は存在します。一度に封印が解けることにでもなったらショック死しかねません。
サングラスの精神科医が脅すように言った。
まったくこんなあぶない子供を連れて軍務など無茶だ。ブロッシュはこの坊やをどうやってお守りしていたのだろう?
『大総統をどう思った?』
さりげなくどこまで覚えているのか確かめる。
『怖い。    でも側にいると安心する』
この返事をどう考えればいいのか。ホムンクルスではないのかと疑っていると言ったことは覚えているのか?
唯一信頼できるのは彼がエドの味方であるということだ。そう、それだけは信じられる。

停車中に渡されたメンバーリストを読んだ。イシュヴァ-ル戦の生き残りばかりだ。このメンバーで単なる訓練と言うのは無理がありすぎる。西にはイシュヴァ-ル人のキャンプもある。わずかの刺激で虐殺の再現になりかねない。
たとえ、そうなったとしても軍はなんとも思わないだろうが。
噂だがキャンプの井戸は遅効性の毒が投げ込まれ、細菌兵器の実験のためさまざまな培養菌がまかれているという。
なるべくなら近づきたくない。
今の時期にトラブルを増やすわけには行かない。
まして西といえばシン国だ。アルが兄を救う可能性を求めた国。ロス少尉の隠れ住む国。
そういう個人的理由以外にもロイはあの国を敵にしたくなかった。鋭すぎる眼光を人のよさそうな笑顔に隠していたあの皇子。あれだけは敵にしてはいけない。アメストリスが生まれ変われるとして、その条件はあの皇子が権力を握ったシンを同盟者にできるか否かにかかっている。
本当は汽車の中でそのあたりについてラッセルに話す予定だった。だが、どうやら話は不可能らしい。

人間とは肉体・魂・精神でできているとされている。
いまさらだが果たして肉体の管理を他人任せになどできる事なのだろうか?
まぁ、現にやっているわけだが、果たして2つの肉体をとりおさえるなど1つの精神ができることなのか?
現にそれをしているのだが、果たしてやられている精神とやっている精神はどちらも別の個体として認識ができているのか?
ラッセルの記憶は穴だらけだ。それは精神的な負担が心臓に与える悪影響を避けるためだったが、意識に穴の開いた彼がエドとつながっている。果たしてどちらも正常といえるのだろうか?

長身なはずのラッセルだがこうして縮こまっているのをみるとずいぶん小さく見える。シーツに包まっている姿は脱皮を待つさなぎだ。果たして彼は羽化できるのだろうか。それまで生きているのだろうか。
「我ながら妙なことを考えているなあ。閉じこもっているせいかな」
あえて声に出した。
盗聴機を見つけた。予測はしていたがこうも素直につけることもなかろうに
つけ方が悪い。指示したのは大総統ではないな。あの大総統の指示なら簡単に見つかるような場所につけるようなドジはするまい。
おそらく31歳で将官の位になったロイを憎む誰かだろう。女を連れ込んでやっているところでも盗聴するつもりだったのだろうか。
悪趣味はお互い様だが、やり方が悪い。部下には恵まれていないやつのようだ。

「汽車の音ばかり聞いていてもつまらないだろう。お疲れ様」
悪趣味だなと思いつつ、盗聴機の向こうにいる誰かに声をかけた。返事はなかった。

当然だが、ロイの手の届かないところでも物事は動く。アームストロングは少し早く西についていた。とにかく先に到着していた錬金術師たちをノリスの町の唯一の宿に集めた。
薄汚れたちっぽけな宿だった。しかし国家錬金術師が数人がかりで練成しまくったのでどこのお城だ?と訊きたくなるような豪華な建物に変えられている。
ただし、趣味の様々な術師がてんでんばらばらで好きなように練成したので1階と2階で様式が異なりさらに屋根にはシン国で言う竜の像が飾られている。統一性にかける建物はどこか連れ込み宿めいて見えた。
ロイが来るまで訓練計画はわからない。到着には後数時間かかる。その間にも物事は動いた。
それはロイがセントラルを出てまもなく始まった。ずっと昏睡状態だったスカーが死亡した。一応スカー逮捕は軍の機密とされていた。しかし国軍広場の死闘は1000人近い軍人や出入り商人が見ている。各支部にも電信で即刻伝えられ、中には再現ラジオドラマ風にして大好評を呼んだ支部もある。ちなみにこの録音は基地の売店で高級土産品として売られている。
つまり皆が知っている機密だ。こういう機密はむしろ宣伝しろといっているようなものだ。週刊誌に特集が組まれアームストロングの実録インタビューと証する偽記事まで出た。
とにかくそんなわけでスカー死亡も大きなニュースになった。といっても一応報道管制がされ、大きな新聞や大手のラジオは放送しなかった。
西の砂漠の近くにある古くから砂礫の大地と呼ばれる不毛の土地に、イシュヴァール人の強制キャンプ地があった。
このキャンプ地はほかのキャンプ地と大きな違いがあった。もともと西は激戦区ではなく、当初からこのあたりに住んでいたイシュヴァール人はあまり被害を受けていなかった。人口が少ないせいか差別意識よりこの土地で生きる仲間という意識が強く、東で虐殺が行われている間もこの辺りでは住居を移すくらいですんだ。その引越しにもアメストリス人の隣人が平気で手伝い荷車を銀の瞳と赤い瞳の子供が仲良く押すような土地だった。
現に虐殺が終わり戦争終結の日にもアメストリス人の子が一人でキャンプ地に遊びに来ていたぐらいだ。
イシュヴァール人にも強烈な階級差別があった。この辺りに住み着いた赤い目の人々は民族の中で下層にされていた氏族だった。自分たちを苦しめた同属よりも、ともに乏しい資源を分かち合う隣人に親しみを感じる。むしろ当然である。
キャンプ地には一応見張り兵もいたが、どちらかといえば砂漠の野盗からキャンプ地を守る立場だった。形式的にはともかくここでは仲良く共存できていた。

それが変わったのは東で大虐殺をされた人々の生き残りが残党狩りでつかまりこのキャンプに送られてきてからだ。仲良くチェスをしていた見張り兵は減給されアメストリス人の子は遊びにこられなくなった。赴任した収容所所長は点数稼ぎのため何かといえば公開処刑を行った。そんな中地元の有力企業の大物達が所長に共同で賄賂を贈った。そして要求した。最初からこの土地にいた者たちは自由に外出させてくれと。彼らは優秀な働き手であった。夜の女も多かった。最終的に自由外出はだめだが目印に番号のついた帽子をかぶることで仕事は行っていいことになった。
外に出た人は家族や隣人に生活必需品やニュースを運んだ。
このキャンプではこの土地の者と連れてこられたもので階層が異なった。外で働けるものは豊かに暮らし、閉じ込められたものを下僕とした。所長はそれを公認した。イシュヴァール人同士の対立は大歓迎だ。
そんなマグマがエネルギーを溜め込んでいるような日々の中にスカー死亡のニュースが伝わった。
そのニュースは大きく分けて2つの反応を生んだ。自業自得。英雄の死。殺人鬼の死。希望の喪失。
もともと対立のあったキャンプに石が投げ込まれた。


汽車はようやく終点に着いた。
「ラッセル。ついたぞ。立てるか」
揺り動かしてみるが銀の髪がわずかに揺れるばかりだ。まったく反応がない。
ロイは自分のコートにラッセルをくるむと抱いて降りた。ガラスの人形でも抱いている気がした。冷たくうかつに扱うと壊れかねない。
正直なところロイはこういうタイプは扱いが苦手だった。大切に守る。そこまでは何とかなる。問題は彼のプライドの高さと体力の低さだ。その格差が苛立ちを呼びストレスの原因となる。自分にはアームストロングのようにやっかいな子供をお守りする才能はないらしい。



88,5 対価はプライド

2007-01-03 16:57:49 | 鋼の錬金術師
88 対価はプライド

駅へはゆっくり歩いても15分もかからない1本道だ。その道をラッセルはもう1時間も歩いていた。刑務所しかない小さな町は人気がまったくない。よろめきながら歩く姿は誰にも見られなかった。ようやく駅が見えた。
また吐いた。
もう10回を越している。
とっくに胃の中は空っぽだ。
わかっているのにまた吐いた。
人目がないのだけが幸いだった。
汽車の中で貸し金庫の鍵を取り出す。幸い銀行の名が入っている。セントラル駅からすぐの大きな銀行だ。
「これで    」
エドを持たせられる。自分に言い聞かせようと思った。だが、エドの名を言おうとしたとたんにのどが締め付けられた。おもわず口元を押さえた。
声は出た。幾分かすれてはいるが時期に治るだろう。    しかし。    手の中の鍵を見る。
これと引き換えに自分は何かをなくしたのだろうか。

セントラル駅はいつも込みあっている。普段の5倍の時間をかけてよれよれになってようやく外に出た。
吐き気がする。だが、もう吐けないことがわかっている。体力もだが、胃もおそらく腸もほとんど空っぽだ。消化器系の手術の前に患者の体を空にするために3日ほど絶食させてから大型浣腸をかけるが、自分の体は手術前の患者並みにきれいになっているだろう。
いつもはこの人ごみをどうやって無事に出たかな?と思う。あぁそうだ。いつもは引いてくれる手があった。彼はまだまだ帰って来られないだろう。

日が沈んだせいか冷えてきた。
ようやくコートを忘れたことに気づいた。
ちいさく肩を震わせた。
どこでなくしたかは考えたくなかった。

駅前のにぎやかな通りを過ぎて銀行の通用門に向かう。すでにしまっているが軍の命令書をかざして開けさせた。何かを犠牲にして得た鍵だ。1分でも早く石のデータがほしい。
鍵が開く。金庫の中には1冊の手帳。表紙に黒いしみがある。血のしみだ。

早く読みたい一心で適当な店に入った。コーヒーを冷めるまま放置して読みふける。石に関する記述は少なかった。だが、別の記述がラッセルの目を引いた。かなり複雑な暗号で書かれたそれは成長した人体を戻し内臓(循環器系)の負担を軽くする方法となっていた。その方法は完成されていた。
いわば若返りの術と言えた。
世に回春の練成や、回春薬は山のようにある。だがそれらが結局は麻薬や暗示、いんちきに近いことをラッセルはよく知っていた。
ラッセル自身も皮膚の美容程度や内臓特に腸の老廃物を排除しての健康法ぐらいならご婦人用によく使っている。(貴族や軍高官のご夫人と風呂場に2人きりで何時間もこもって皮膚美容を行うのが彼のやり方だ。その間にマスタングに言われた情報をさりげなく聞き出すことになる) 
だが本格的に体を若返らすのは人体のバランスを崩すため、すぐに破滅する覚悟がなければ不可能だ。
だが、ナッシュ・トリンガムの理論は完璧だった。ラッセルは知らないが、一人息子を助けようとするとき父は実力以上の能力を発揮した。ラッセルの知らない時期に施された心臓の練成陣のとき、成長後背中に打ち込まれ今も悪夢の原因となっている命の練成陣のとき。そして、この若返りあるいは成長抑制理論だった。
内臓の負担を軽くする。これは!!エドを。もう一度、外に出してやれる!
確信があった。これをエドに適用すれば落ちている抵抗力も負担が軽くなった分だけ回復するはずだ。いや、必ずさせてみせる。
ラッセルは知らない。その理論は容量の小さな心臓しか持たない息子を助けるために死ぬ前の父が必死で組み立てたもの。年齢より体格の大きい息子に父は危機感を抱いていた。
これこそは父の遺品だった。

手帳を抱きしめて緑陰荘へ走り出した。気持ちは1秒でも早く帰りたい。
だが足がもつれる。そういえばこのところ走ったこともあまりなかった。
自分の体がすっかり衰えていることを痛感する。胸が痛む。どうやら一人では帰れない。
迎えを頼む気はなかったが仕方がない。

電話の声で具合が悪いのがばれてしまったらしい。迎えの車は紅陽荘から来ていた。すでに医師が乗っている。
今日は昼前に帰る予定でその後カートン医師のところで検査の予定があった。完全に忘れていた。と言うよりこの手の予定をラッセルは記憶できなくなっていた。
お説教つきのお迎えにラッセルの足が下がる。だが、運転手に捕まった。
「乗りなさい」
穏やかな医師の声。
シカタナイカ。
紅葉荘につくまでの時間は普段より長く思えた。


対価はプライド 2

エドに使う前に安全性を確かめる必要がある。この理論が本当に有効か。一言で言えば人体実験の必要がある。それもなるべくエドに条件の近い者がいい。
年齢・性別・その他、なるべくなら錬金術師であるほうが望ましい。一番ふさわしい実験体は、・・・やはり自分だろう。そう決めた後、ラッセルは一人で笑った。
実験体になるのはいいが、それでは自分はどうやって練成をかけるのか。
だれかほかの人にさせるしかない。これだけの大掛かりな練成だと、並みの術師では陣を発動させることすらできまい。弟のことはまったく浮かばない。ラッセルは弟にだけは危険なことに手を染めさせる気はない。
国家錬金術師クラス、それも大型練成をできる術師となると、マスタングか、あるいは   (ルイ)   。
なぜか胸が騒いだ。
痛むわけではないのに。
何かやわらかくて小さいものが手に触れた。敵意はまったくない。だから気配を読めなかったのだろう。
その人の兄と同じ青い瞳が煙るような柔らかな色の金の髪に縁取られている。
「(姫)」
花のつぼみがほころぶようなとは、少女の笑みによく言う言葉だろうが、それでもその言葉を使いたい。
(かわいい人だ。大事にされて疑うことさえ知らない)
ラッセルの目にはキャスリンの背に白い翼が見えていた。
キャスリンに対するこのイメージは彼が41歳で死亡するまで変わらない。
ラッセルは知らない。20年後彼女が自分をただ一瞬怨む日があるとは。
それは彼女の兄の葬儀の日であった。

「お急ぎなのはわかりますがお休みしましょう」
言われてみれば、車の中でこそおとなしくお説教を聞いていたが着いたとたんに図書室にこもって成長抑制理論をいつでも使えるように練成陣に組み立て始めてもう5時間。さすがに疲れてきた。有機練成や生体学の資料はロイの図書室よりこちらのほうがそろっている。
時々不思議になる。どうして彼女には自分が疲れ始めているのがわかるのだろう。外はもう真っ暗だ。
「弟さんにはこちらで休むのを連絡しましたから」
かなわない。きっと彼女にはかなわない。
どうしてこの姫はどんなひどいことをした者にも優しくできるのだろう。
きっと、あの人が大切に育てたからだろう。悪いものには一切触れさせずに。
この世界に涙があることなど知る必要さえなく。
俺はきっとこの姫を見ているのが好きなのだろう。

ラッセルが自分の深層の望みに気づかせられるのは20年先になる。

「エドワードさんも電話に出られたわ」
「(エドも)」珍しいこともある。
「伝言を頼まれたの。『お土産のサフレを忘れないで』。
かわいい方ね」
にっこりとしかあらわしようのない微笑み。
きっと姫は60歳を過ぎてもかわいい人だろう。
はたと気づく。そういえば出かける前にエドにサフレを言われたような・・・。
完全に忘れていた。
「明日、持っていってあげてくださいね」
ピクニックバスケットに手製の、サフレがつめられている。
「ありがとう。

エドも喜びますと続けようとした。
だが、急に気分が悪くなった。のどが痛い。
目を開けたときはソファに横になっていた。何がおきたかわからない。
「・・・?」
キャスリンの涙顔が見える。
泣かないでほしい。この人は大事にされている人だから。涙の跡など似合わない。
「泣かないで」
彼女の涙を拭き去る。
また流れてくる。
それも受け止めた。
肌に違和感がある。心電図計の電極がつけられている。では自分は発作でも起こしたのだろうか。そんな前兆はなかったのだが。
医師がキャスリンを部屋から出した。
「何か無茶をしましたね」
「してないよ」
うそではない。重装兵相手に喧嘩を吹っかけたりしていないし、体育館を丸ごとカバーするような大型練成もしていない。
医師の許可を待たず、電極をはずす。この電極はべたつくから嫌いだ。
彼の性格はわかっているから医師はその程度のことではとがめない。
心電図に乱れは少ない。おそらくストレス性の発作だろう。
「では、何か厭な事をしましたね」
返答はない。肯定したようなものだ。
「言いたくないようなら訊きませんが、薬は飲んでください」
そういえば最後に飲んだのはいつだったか。いつもブロッシュが差し出したときに飲むだけでまったく意識に入っていない。
予測どおりの表情に医師は怒る気にもならない。セントラルに来た当初はそうでもなかったと聞くが、この子は自分ひとりでは普通の生活ができないのだ。
錬金術師も国家資格者レベルになると性格にゆがみのある者も多いが、この子の場合日常的なことが抜けている。
さて、今回は何が発作のきっかけになったのだろうか?

深夜にもかかわらずマスタングが来た。例の通路を使えば1分で来られる。
不思議にラッセルは通路を使ったことがない。毎回律儀に外を歩いてくる。彼なりのけじめのようなものだろうとロイは思っているが本当の理由は医師だけが知っている。ラッセルは違う場所から入ると紅陽荘の中で位置がつかめなくなるのだ。医師は見たことがある。通路から来たラッセルが本を読みながら歩いて見事に壁に激突するのを。その後、彼は通路を使わなくなった。
紅陽荘に来るときのロイはたいてい機嫌が悪いか悩み事を抱えているが今回は前者だった。止める老医師を押しのけるようにして寝室のドアを開ける。
考えてみれば無粋な話だ。恋人?の家に来ている若者の寝室を覘くなど。
さすがに疲労を自覚してベッドにもぐりこんだラッセルのそばにキャスリンがいた。
「お一人ではまた研究されるのでしょう。お兄様もそうですもの」
涙の後の残るほほをうっすらと染めて彼のベッドの脇で兄が昔歌ってくれたという子守唄を歌う。
さすがのロイもこの雰囲気にはお邪魔だったかなと引きかけた。だが、恋人同士の甘い時間を許す余裕はない。まったく、この子はエドよりたちが悪い。どうしてこう悪いタイミングでトラブルを起こすのだろう。
「ラッセル。まったく君は何をした!」
語気が荒くなる。
どうして、ブロッシュのいない間ぐらい家でゆっくりと体を休めることができないのか。おとなしくしていてくれれば体調不調を理由に何とかして断ってやるつもりでいたのに。もう大総統補佐官にもばれている。ということは大総統にも知られている。これでは断れない。

『国家錬金術師の遠足のお知らせ』
その書類が回ってきたとき冗談だと思った。しかし大総統は本気だった

88 対価はプライド

2007-01-03 16:56:30 | 鋼の錬金術師
88 対価はプライド

駅へはゆっくり歩いても15分もかからない1本道だ。その道をラッセルはもう1時間も歩いていた。刑務所しかない小さな町は人気がまったくない。よろめきながら歩く姿は誰にも見られなかった。ようやく駅が見えた。
また吐いた。
もう10回を越している。
とっくに胃の中は空っぽだ。
わかっているのにまた吐いた。
人目がないのだけが幸いだった。
汽車の中で貸し金庫の鍵を取り出す。幸い銀行の名が入っている。セントラル駅からすぐの大きな銀行だ。
「これで    」
エドを持たせられる。自分に言い聞かせようと思った。だが、エドの名を言おうとしたとたんにのどが締め付けられた。おもわず口元を押さえた。
声は出た。幾分かすれてはいるが時期に治るだろう。    しかし。    手の中の鍵を見る。
これと引き換えに自分は何かをなくしたのだろうか。

セントラル駅はいつも込みあっている。普段の5倍の時間をかけてよれよれになってようやく外に出た。
吐き気がする。だが、もう吐けないことがわかっている。体力もだが、胃もおそらく腸もほとんど空っぽだ。消化器系の手術の前に患者の体を空にするために3日ほど絶食させてから大型浣腸をかけるが、自分の体は手術前の患者並みにきれいになっているだろう。
いつもはこの人ごみをどうやって無事に出たかな?と思う。あぁそうだ。いつもは引いてくれる手があった。彼はまだまだ帰って来られないだろう。

日が沈んだせいか冷えてきた。
ようやくコートを忘れたことに気づいた。
ちいさく肩を震わせた。
どこでなくしたかは考えたくなかった。

駅前のにぎやかな通りを過ぎて銀行の通用門に向かう。すでにしまっているが軍の命令書をかざして開けさせた。何かを犠牲にして得た鍵だ。1分でも早く石のデータがほしい。
鍵が開く。金庫の中には1冊の手帳。表紙に黒いしみがある。血のしみだ。

早く読みたい一心で適当な店に入った。コーヒーを冷めるまま放置して読みふける。石に関する記述は少なかった。だが、別の記述がラッセルの目を引いた。かなり複雑な暗号で書かれたそれは成長した人体を戻し内臓(循環器系)の負担を軽くする方法となっていた。その方法は完成されていた。
いわば若返りの術と言えた。
世に回春の練成や、回春薬は山のようにある。だがそれらが結局は麻薬や暗示、いんちきに近いことをラッセルはよく知っていた。
ラッセル自身も皮膚の美容程度や内臓特に腸の老廃物を排除しての健康法ぐらいならご婦人用によく使っている。(貴族や軍高官のご夫人と風呂場に2人きりで何時間もこもって皮膚美容を行うのが彼のやり方だ。その間にマスタングに言われた情報をさりげなく聞き出すことになる) 
だが本格的に体を若返らすのは人体のバランスを崩すため、すぐに破滅する覚悟がなければ不可能だ。
だが、ナッシュ・トリンガムの理論は完璧だった。ラッセルは知らないが、一人息子を助けようとするとき父は実力以上の能力を発揮した。ラッセルの知らない時期に施された心臓の練成陣のとき、成長後背中に打ち込まれ今も悪夢の原因となっている命の練成陣のとき。そして、この若返りあるいは成長抑制理論だった。
内臓の負担を軽くする。これは!!エドを。もう一度、外に出してやれる!
確信があった。これをエドに適用すれば落ちている抵抗力も負担が軽くなった分だけ回復するはずだ。いや、必ずさせてみせる。
ラッセルは知らない。その理論は容量の小さな心臓しか持たない息子を助けるために死ぬ前の父が必死で組み立てたもの。年齢より体格の大きい息子に父は危機感を抱いていた。
これこそは父の遺品だった。

手帳を抱きしめて緑陰荘へ走り出した。気持ちは1秒でも早く帰りたい。
だが足がもつれる。そういえばこのところ走ったこともあまりなかった。
自分の体がすっかり衰えていることを痛感する。胸が痛む。どうやら一人では帰れない。
迎えを頼む気はなかったが仕方がない。

電話の声で具合が悪いのがばれてしまったらしい。迎えの車は紅陽荘から来ていた。すでに医師が乗っている。
今日は昼前に帰る予定でその後カートン医師のところで検査の予定があった。完全に忘れていた。と言うよりこの手の予定をラッセルは記憶できなくなっていた。
お説教つきのお迎えにラッセルの足が下がる。だが、運転手に捕まった。
「乗りなさい」
穏やかな医師の声。
シカタナイカ。
紅葉荘につくまでの時間は普段より長く思えた。


対価はプライド 2

エドに使う前に安全性を確かめる必要がある。この理論が本当に有効か。一言で言えば人体実験の必要がある。それもなるべくエドに条件の近い者がいい。
年齢・性別・その他、なるべくなら錬金術師であるほうが望ましい。一番ふさわしい実験体は、・・・やはり自分だろう。そう決めた後、ラッセルは一人で笑った。
実験体になるのはいいが、それでは自分はどうやって練成をかけるのか。
だれかほかの人にさせるしかない。これだけの大掛かりな練成だと、並みの術師では陣を発動させることすらできまい。弟のことはまったく浮かばない。ラッセルは弟にだけは危険なことに手を染めさせる気はない。
国家錬金術師クラス、それも大型練成をできる術師となると、マスタングか、あるいは   (ルイ)   。
なぜか胸が騒いだ。
痛むわけではないのに。
何かやわらかくて小さいものが手に触れた。敵意はまったくない。だから気配を読めなかったのだろう。
その人の兄と同じ青い瞳が煙るような柔らかな色の金の髪に縁取られている。
「(姫)」
花のつぼみがほころぶようなとは、少女の笑みによく言う言葉だろうが、それでもその言葉を使いたい。
(かわいい人だ。大事にされて疑うことさえ知らない)
ラッセルの目にはキャスリンの背に白い翼が見えていた。
キャスリンに対するこのイメージは彼が41歳で死亡するまで変わらない。
ラッセルは知らない。20年後彼女が自分をただ一瞬怨む日があるとは。
それは彼女の兄の葬儀の日であった。

「お急ぎなのはわかりますがお休みしましょう」
言われてみれば、車の中でこそおとなしくお説教を聞いていたが着いたとたんに図書室にこもって成長抑制理論をいつでも使えるように練成陣に組み立て始めてもう5時間。さすがに疲れてきた。有機練成や生体学の資料はロイの図書室よりこちらのほうがそろっている。
時々不思議になる。どうして彼女には自分が疲れ始めているのがわかるのだろう。外はもう真っ暗だ。
「弟さんにはこちらで休むのを連絡しましたから」
かなわない。きっと彼女にはかなわない。
どうしてこの姫はどんなひどいことをした者にも優しくできるのだろう。
きっと、あの人が大切に育てたからだろう。悪いものには一切触れさせずに。
この世界に涙があることなど知る必要さえなく。
俺はきっとこの姫を見ているのが好きなのだろう。

ラッセルが自分の深層の望みに気づかせられるのは20年先になる。

「エドワードさんも電話に出られたわ」
「(エドも)」珍しいこともある。
「伝言を頼まれたの。『お土産のサフレを忘れないで』。
かわいい方ね」
にっこりとしかあらわしようのない微笑み。
きっと姫は60歳を過ぎてもかわいい人だろう。
はたと気づく。そういえば出かける前にエドにサフレを言われたような・・・。
完全に忘れていた。
「明日、持っていってあげてくださいね」
ピクニックバスケットに手製の、サフレがつめられている。
「ありがとう。

エドも喜びますと続けようとした。
だが、急に気分が悪くなった。のどが痛い。
目を開けたときはソファに横になっていた。何がおきたかわからない。
「・・・?」
キャスリンの涙顔が見える。
泣かないでほしい。この人は大事にされている人だから。涙の跡など似合わない。
「泣かないで」
彼女の涙を拭き去る。
また流れてくる。
それも受け止めた。
肌に違和感がある。心電図計の電極がつけられている。では自分は発作でも起こしたのだろうか。そんな前兆はなかったのだが。
医師がキャスリンを部屋から出した。
「何か無茶をしましたね」
「してないよ」
うそではない。重装兵相手に喧嘩を吹っかけたりしていないし、体育館を丸ごとカバーするような大型練成もしていない。
医師の許可を待たず、電極をはずす。この電極はべたつくから嫌いだ。
彼の性格はわかっているから医師はその程度のことではとがめない。
心電図に乱れは少ない。おそらくストレス性の発作だろう。
「では、何か厭な事をしましたね」
返答はない。肯定したようなものだ。
「言いたくないようなら訊きませんが、薬は飲んでください」
そういえば最後に飲んだのはいつだったか。いつもブロッシュが差し出したときに飲むだけでまったく意識に入っていない。
予測どおりの表情に医師は怒る気にもならない。セントラルに来た当初はそうでもなかったと聞くが、この子は自分ひとりでは普通の生活ができないのだ。
錬金術師も国家資格者レベルになると性格にゆがみのある者も多いが、この子の場合日常的なことが抜けている。
さて、今回は何が発作のきっかけになったのだろうか?

深夜にもかかわらずマスタングが来た。例の通路を使えば1分で来られる。
不思議にラッセルは通路を使ったことがない。毎回律儀に外を歩いてくる。彼なりのけじめのようなものだろうとロイは思っているが本当の理由は医師だけが知っている。ラッセルは違う場所から入ると紅陽荘の中で位置がつかめなくなるのだ。医師は見たことがある。通路から来たラッセルが本を読みながら歩いて見事に壁に激突するのを。その後、彼は通路を使わなくなった。
紅陽荘に来るときのロイはたいてい機嫌が悪いか悩み事を抱えているが今回は前者だった。止める老医師を押しのけるようにして寝室のドアを開ける。
考えてみれば無粋な話だ。恋人?の家に来ている若者の寝室を覘くなど。
さすがに疲労を自覚してベッドにもぐりこんだラッセルのそばにキャスリンがいた。
「お一人ではまた研究されるのでしょう。お兄様もそうですもの」
涙の後の残るほほをうっすらと染めて彼のベッドの脇で兄が昔歌ってくれたという子守唄を歌う。
さすがのロイもこの雰囲気にはお邪魔だったかなと引きかけた。だが、恋人同士の甘い時間を許す余裕はない。まったく、この子はエドよりたちが悪い。どうしてこう悪いタイミングでトラブルを起こすのだろう。
「ラッセル。まったく君は何をした!」
語気が荒くなる。
どうして、ブロッシュのいない間ぐらい家でゆっくりと体を休めることができないのか。おとなしくしていてくれれば体調不調を理由に何とかして断ってやるつもりでいたのに。もう大総統補佐官にもばれている。ということは大総統にも知られている。これでは断れない。

『国家錬金術師の遠足のお知らせ』
その書類が回ってきたとき冗談だと思った。しかし大総統は本気だった

87 自主規制

2007-01-03 16:55:00 | 鋼の錬金術師
87 自主規制

エドのためだ。なんでもする。
冷めかけた紅茶をラッセルは一気飲みした。
これから起こるいやなことを全て飲み下そうというように。
「寝室というわけにはいきませんよ」
「ここでいい。急げ。時間がない」
「では」
ラッセルは黒のコートを脱いだ。
それを長椅子の上に敷く。このあたりはロイが教えた女のあしらい方、応用編である。
囚人のズボンはゴム製だ。もう何日シャワーすらしていなかったことかとマグワールは脱ぎかけた手を止めた。汗やほこりでパンツの中がべたついている。相手が女なら絶対触らせたくない。たとえ商売女でもだ。
だが相手はこの2年恨みつらみを持ち続けた小僧ではないか。羽振りがよいらしく着ているのは上等のシルクだ。
真っ黒い感情がうごめく。 。こいつにあのときの礼をしてやる。
(わしが悪かったわけじゃない。たった1回ひっぱたいただけだ。あんなもので死ぬなど誰が思うものか。ナッシュが悪いのだ。勝手に死んだから。あれでわしはもう戻れなくなった。わしは町を豊かにするため必死で商売をおぼえたんだ。
あいつの遺体を処分するしかなかった。
あいつが気づかないうちに写し取らせておいたあの練成陣を使った。ナッシュのせいだ。わしが悪いんじゃない。あいつがあんなものを持ち込んでいたから。
軍の研究所ならば、遺体を一瞬で処分する必要もあるのだろうな)
染めたのだろうか。銀の髪、銀の瞳のラッセルはあまりにも殺した男に似すぎている。親子なのだから当然だが、まるで若かったころのナッシュに奉仕させているような錯覚に陥る。
(見ろ、ベルシオ。えらそうなことをいいおったが勝ったのはわしだ。お前の小鳥はお前を捨て妻と子を持ち最後はわしのものになった。金だ。力だ。お前のように地面にしがみついているだけの男に、逃げられても追うこともできない男に何がわかる。勝ったのはわしだ。お前の小鳥はわしのものになった)
ラッセルが丁重にデルのズボンを脱がす。耐え難い悪臭にデルの顔がゆがむ。
だがラッセルの表情は変わらない。
准将の教育の賜物だな。
ラッセルは自分を物として外部から見ようとした。でなければとても堪えられそうにない。
『目的のため必要ならどんな女でも貴婦人として扱いなさい。たとえそれが年増の腐れた商売女でも。いっておくが病気には気をつけるんだ』
ロイはそれを心得として教えたつもりだった。彼が実践するとは思っていなかった。
エドのためだ。
もう一度自分に言い聞かす。
水分のない汚れた紙。最初に 印象はあまりにも低かった。だが、この男を満足させ知りたいことを聞き出さなければならない。
このところの味覚低下は逆にありがたかった。あまり感じなくてすむ。
「さぁ、それだけでは満足せんぞ。楽しませてもらおうか」
デルはなぶるように少しずつラッセルの知っていることから話し出した。
その間ラッセルは目的のためだと目を閉じた。
「目を開けろ」
「鏡を見ろ」
デルの命令が冷たく響く。
見たくない!
だが見ないわけにはいかない。無理やり目を開く。
ふっと視界がゆがむ。
自分の手さえもぼやけた。
以前にもあった。視力の急激な低下。ラッセルは原因を知らない。
自分の精神がオーバーヒートする前に身体にブレーキをかけていることを。
彼が鏡を見ても反応しないことにデルは逆上した。彼の瞳は淡い雲に守られた月の風情であらゆる穢れを受けないように見えた。
しわだらけの手がほほをたたく。さほど痛くはない。むしろ被害は咥えられたままのデルにあったようだ。ショックで皮がはがれた。長いこと放置されていた局所の神経は新鮮な刺激を受けた。
2年間、無反応だった神経が脳につながる。マグワールがのけぞった。
ラッセルが口の中の異物にむせた。2年分の憎しみが物体化したようなもの。
あかと雑菌だらけの異物。反射的に吐き出しかけた。
「飲め」
声が喜悦に震える。それはこの2年間、マグワールがごみ箱代わりに公衆便所代わりにさせられたこと。
同じことをこの小僧にさせてやる。
長いこと放置されていた神経は次の刺激を求めた。
銀の組みひもで結わえられた髪をつかむ。無理やり引っ張り上を向かせた。ラッセルのひざは床の上についている。デルは先ほどラッセルが引いた絹のコートの上に    座っている。テーブルに置かれたティーポットから紅茶をカップに注ぐ。ラッセルの口を開かせカップの中身を注ぎ込んだ。
悪いとは思わない。自分の時にはほかの男のしょんべんだったのだから。

体は反射的に吐き出そうとする。ラッセルはそれを無理やり抑えた。
まだ肝心な話が聞き出せていない。急がなければ。そう15分もたっている。
「このままいかせろ」マグワールは買った女に強制した時のようにふんぞり返って命じた。
紅茶がちょうどいい湿り具合になるはずだ。
それにしてもこいつの口中は温度が低い。普通もう少し熱いものではないか。
マグワ-ルの知らないことだがこれはラッセルの低体温のためだった。しかしマグワールにはそれすらも自分を冷ややかに侮蔑しているように感じられた。
そしてこの眼だ。死ぬ前のナッシュと同じ目だ。見るでなく見ないでなく。
見えているはずなのに見られている気がしない。

今になってマグワールは後悔していた。あの紙を手にしていればここから出られたのだ。この地獄から出られたのだ。だがもう遅い。
実のところ遅くはなかった。ラッセルはこの時点でもマグワールが研究資料の隠し場所を言うか必要な情報を言うかすれば弁護士とつないでやるつもりはあった。
だが、マグワールは自分がこの行為を強制されたときの感情から、交渉の可能性をあきらめてしまった。
(わしはここでじきになぶり殺しにされる。だがこの小僧は外でらくらくと暮らすのだ)
この手の刑務所では囚人同士のトラブルによる死傷さわぎはよくあった。マグワールがトラブルに巻き込まれていないのはあまりに小者過ぎて相手にされなかったためだ。
(一人も二人も同じこと)
「ナッシュの遺体は練成陣を使って赤い水にした。お前が石を作った赤い水だ。赤い石は人の遺体で作られる」
ラッセルの動きが止まった。
やはりこいつは知らなかったのだ。知っていればわざわざここにはくるまい。
「資料は貸し金庫の中だ。だがお前にだけはやらん」
ラッセルは硬直したままわずかに後ずさった。
ガチャン
テーブルの上の紅茶のセットが落ちて砕けた。
そういえばこんなうまい紅茶を飲んだのも2年ぶりだった。味わう暇もなくこぼれてしまった。いや、そうだ。茶はあった。
無理やり髪を引っ張り、小僧を引き寄せた。口を開かせすった。うまい。
昔、よく女にやらせた。女によって同じお茶でも味が違っていた。
こいつは特上のカップだ。
壊すのは惜しい。だが、どうせもう茶を飲むことができないなら、カップなど要らない。


所長は部屋でチケットを見ながらにやついていた。あの自称息子は福の神だ。
所長の手の中には将軍クラスしか利用できないような超高級リゾートホテルのフルセットチケットがある。刑務所所長レベルでは一生足を踏み入れることもできない高級ホテルである。最上等の酒、料理。もちろん女も。すべてこのチケットに含まれている。まさしくこの世の天国だ。その上ほかの部下にもさまざまなお土産があった。最下層の女子職員にすら高級化粧品セットがサンプルの名目で渡されている。
マグワールなどたいした囚人ではない。自称息子に応接室を貸すぐらいこのお土産を考えれば安いものだ。
ふと異音を聞いた。何かが派手に割れるような音。マグワ-ルは一応錬金術師だ。あの自称息子に危害を加えているとなると責任問題だ。所長は銃を手に応接室のドアを開けた。

何がおきているかは一目で分かった。面会人の自称息子の首を絞める     囚人。所長は即座に撃ち殺そうとしたが面会人にも当たりそうな角度なので拳で殴りつけた。マグワールはすぐころりとのびた。
どうやらまださほど締め上げてはいなかったようだ。銀の髪の自称息子はじきに目を開いた。
「マール殿、ご気分は」
一応書類に書かれた名で呼びかけた。マグワールはすでに地下牢に移してある。
そこはいつでも処刑できるようになっている。
若者の唇が動く。だが、声が出ない。無理もない。先ほど殺されかけたのだ。
「あの囚人はいつでも処分できます。よろしければご覧になりますか」
服装や物腰からして若者が上流階級の者なのはわかっている。納得のいくようにしてやったほうがいい。
処分?
所長は唇の動きを読み取る。
若者の手がのどに触れた。声が出ないことに気づいたようだ。
「無理にお話にならなくとも口の動きでわかりますので」
ラッセルの目が瞬いた。
「軍人ですから」
所長はにっこり笑った。本当の名は知らないが出世の可能性はどんな糸でもつかんでみるものだ。
<処分とは?>
「ここの施設には再犯罪の懸念がある場合処分できる権限があります。いつでも処刑できます」
所長は愛想笑いを浮かべた。
若者の手が激しく動いた。答えはノーだ。
<今回のことはなかったことにしていただきたい>
(こんなことになっても生かしておくほどあの囚人は価値があるのか。とてもそうは思えないが)
<あの囚人の所持品を渡していただきたい>
要求はすぐ受け入れられた。その中に一見壊れたキーホルダーとしか見えないものがあった。ラッセルはすぐわかった。貸し金庫の鍵が金属部分にうまく埋め込まれている。
<これをあの囚人が使えるように手配してやってください>
高額紙幣が20枚テーブルに置かれた。
唖然とする所長を残して若者は去った。もっていったのは壊れたキーホルダー1個である。いったいどういうことなのか疑問だらけだ。だが所長は無用の好奇心が失脚につながることをよく知っていた。数ヵ月後、このときの自称息子と思しき人物が、アメストリスの一番新しい英雄として軍報のトップを飾ったときも沈黙を守った。『銀は沈黙』の心がけのおかげで彼は生涯平穏に豊かに過ごせた。


この後ラッセルは×××に対し嫌悪に近い感情を抱くことになる。ことに男にそういう感情を示すものに対しては異常に厳しくなった。彼が軍属のまま出世し部下を持つようになったとき、どんな部下にも基本的に温情をかけたが、その手の罪を犯した兵にだけは顔色ひとつ変えず銃殺それも公開銃殺を命じた。結局時期的に士気にかかわるとロイが処刑を停止させたが彼の普段とあまりに違いすぎる処分はその後の憶測やうわさの原因となった。

86 マグワール

2007-01-03 16:53:47 | 鋼の錬金術師
86 児童福祉法の無い国

マグワールはたいした腕ではないが錬金術師である。そのためセントラルにある錬金術師専用の軍の刑務所に入れられた。
模範囚ではないが、元来が欲深いだけの小悪党に過ぎない彼はここではおとなしくしていた。何しろ周りは依頼人の金持ち女の美容と若返りのため二十人の少女を犠牲にしようとしたドリスをはじめとてつもない悪人がそろっている。しょせん小心者のマグワールはここでは他の囚人の下働きにされていた。
昨夜は懐かしい夢を見た。まだゼノタイムにいたころだ。浪費家の古女房を追い出し自由を満喫していたころ。ナッシュの遺体を処分し終えて酒瓶を空にした。それから少したったころエドワードと名乗る少年がやってきた。
国家錬金術師と少年は自称した。確かに相当の腕だ。マグワールはその言葉を信じたわけではない。身分証明の銀時計も見せられずに信用するほどマグワールは甘い男ではない。実のところ偽者でもかまわなかった。
石さえできればいいのだ。
そして彼は石の結晶化に成功した。最初それは針の頭ほどのサイズでしかなかった。しかし、今までどの研究者も赤い水を無駄にするばかりであったのに、固体化した。しかも金の合成に成功した。わずかな量ではあったが成功した。
その夜エドワード(ラッセル)を館の奥の院に呼んだ。
飲んだことがないという彼にむりやり酒を勧める。
マグワールが最初に彼を館に引き込んだのは別の目的だった。
今夜それを実現し彼をしっかりと取り込もうとたくらんでいた。
術師としての腕もいい。子飼いにできれば理想的だ。
しかも・・・上玉だ。さらさらの金髪。女にもめったにいない透けるような肌。
天性のものらしい品格。この子を社交界に連れて行けば羨望の的だろう。
それならいっそ偽者のほうがいい。本物を子飼いにはできない。
『ところで、エドワード殿』
さりげなく手をとる。
無意識に小さく震える手。おそらくこの手のことの経験はないのだろう。

胸が苦しいと訴える彼のタイをはずす。
香を焚き染めた隣の部屋に誘導する。使用人達はあらかじめ追い出している。
血の気を失った額に金の髪が張り付く。少し温度を上げすぎた。これから熱くなることをする予定なのだから。

『金を産出せるようになったら、学校を再開しよう』
『そのときにはアルフォンス君が楽しめるようなカリキュラムを組もう』
なにげなく弟の名をちらつかせる。一番いい牽制になる。だがもうそんな小細工も必要ない。
やっと薬が効いてきたらしい。いつもの涼やかな瞳にうすく紗のカーテンがかかる。
返事をしようというように彼の唇が動く。だが言葉にならないようだ。どうやら薬が多すぎたらしい。どうせなら声も聞かせてもらえたほうが楽しいのだが。

もはや抵抗はない。彼の唇を・・・。

惜しかった。あの時も惜しかったが夢でも惜しかった。後一歩のところで目が覚めた。
また今日もこき使われる惨めな一日が始まる。
曲がった腰を伸ばす気力もない。たった2年だ。その間に顔はしわだらけになり、目は光を失いでっぷり太って脂ぎっていたマグワ-ルは、今はしわくちゃの老人だった。
あんな夢を見たせいか、今日はよりつらい一日になりそうだ。
恨みつらみは山のようにある。あのエドワード・エルリックさえこなければ。
いや、倒せたはずだった。さんざん面倒を見てやったのに手のひらを返したあの銀の目のラッセルさえいなければ。そうすれば今でも自分はあの街で有力者として暮らしていたはずだった。

つらい一日になるとの予感は半分当たっていた。
午前中いっぱいマグワールは尊大な老人デルの部屋の掃除に始まりあらゆる下働きを押し付けられた。尊大な老人は自分が後一歩でセントラルを炎上させるはずだったと自慢した。
弟子の腕が悪くて、うまくいかなかった。
その弟子とやらの名を聞いたとき、マグワールの腰が伸びた。
ラッセル。
あの恩知らずの小僧はいつの間にかセントラルに来ていたのだ。

午後になって息子が面会に来たと呼び出された。この2年間一度も音信のなかった息子だ。あんな夢を見たのはそのせいだろうか。あの日、使用人の制止を振り切って息子は奥の院に入ってきた。
おかげでせっかくの薬が切れてしまい、丁重な挨拶とともにラッセルに逃げられた。ラッセルは慣れない酒で気分が悪くなったと信じていた。そういう点はまだ子供だ。その後チャンスをつかめないまま本物のエドワードが現れた。

あの時ものにしておけば、ラッセルが裏切ることはなかったはずだ。
其れを思うと2年ぶりに会う息子を罵倒したくなる。だいたい何をしに来たのだろう。金をせびるならお門違いだ。
まぁ、午後の作業をサボれるだけましだと言われた部屋に入る。所長室の隣の応接室。豪勢な調度品が並ぶ。普通はこんな部屋は面会室に使ったりしないのだが。
「よい息子さんですね。どうぞごゆっくり」
警備兵がにっこり愛想笑いをしてドアを開けた。いったいどうなっているのだ。
普通は見張りがつくはずなのに部屋には二人しかいない。
奥のソファに黒いシルクのコートを着た息子・・・いや、違う。2年たって多少は変わったとしても息子を見間違うはずがない。
腰まで届く銀の髪。さらさらでまったく癖がない。淡い色のサングラスがはずされた。
忘れようのない銀の瞳。何度思い出して呪詛の言葉を吐いたことか。
「ラッセル」
「覚えていてくださいましたか。あの節はいろいろお世話になりました。    お父さん」
その言い方にぎょっとした。ドアが開く。女子職員がお茶を持ってきた。なんとお茶菓子まで載っている。
こいつはドアの気配に気づいていたのだ。息子を名乗ったのはどういうつもりなのか。そういえば家族以外の面会は禁止だった。
お茶を置こうとする女子職員からお茶のカップを受け取るふりで彼女の手を握る。どこで覚えたのやら、女たらしの手だ。
「1時間ほど父とゆっくり話したいのですが」
ラッセルは100パーセントの自信を持っていた。何しろこの瞳も声もあの東方の色事師の太鼓判つきだ。
彼女は警備に言っておくと約束した。
夢でも見ているような顔で出て行った。

「マグワール殿はダイエットに成功されたようですね」
にっこり微笑む。一瞬、こいつはあのことを知らないのかと疑ったほどだ。私がナッシュに引導を渡したことを。
知らないはずはない。
軽くいすを勧められて自分が立ったままだったことに気づく。
「長いことご連絡も取れないままでしたが、ご不自由はありませんか」
紅茶のカップに昔と同じだけの数の砂糖を落とし軽く混ぜてからマグワールの前に押しやった。
マグワールのしわだらけのどす黒く汚れた手が白磁のカップを握る。
「何が目的だ」
どす黒い声。恨みつらみ。欲望。粘りつく感情が固形化したような声。
「さすが、マグワール殿。お話が早い」
揶揄しているようには聞こえない。純粋な賛辞と取れる。。これが芝居だとすれば
(こいつは、間違いなく天性の嘘つきだ)
「そうですね、いまさら世間話をする間柄でもないですから」
知らないものが聞くと、ずいぶん親しい仲のように聞こえるだろう。
「赤い水についてご存知のことを全部教えていただきたい」
ラッセルがさりげなくテーブルに置いた書類が某弁護士の雇用契約書であるのが見えた。
「お互いに*等価交換*に従う者ですから」
情報によってはこれを使ってやるということだろう。
そいつは「100人を打ち殺しても私に依頼すれば無実にしてやる」。
そういう宣伝をしている弁護士だ。マグワール程度の罪なら10日とかからず無実にできるだろう。
昔とは逆転した立場。劣等感。
それがマグワ-ルの中に暗い火をつけた。
ここまで来たということは、こいつはすべてを知っているわけではない。
わしだけが知っているのだ。優越感。2年間、彼はそれに飢えていた。
「そんなものはいらん」
弁護士の契約書を破り捨てる。
ラッセルの表情がわずかに変わる。予測された計算と違ったのだろう。
こいつはまだ子供だ。人には計算よりも情動や妄念が強いときもあるのがわかっていない。
「あの時の続きをしてもらおうか。無粋な邪魔が入ったが今日はそうはいかんぞ」
「どういうことです」
釈放や金の要求なら理解できるし、それなりの用意もしている。だが、あのときの続きとは何だろう?
「16にもなってわからんとは、今の上司は不能らしいな」
そういう単語を言われてようやくラッセルはわかった。
要するにそういうことらしい

85 お子様の定義

2007-01-03 16:51:24 | 鋼の錬金術師
85 お子様の定義

ラッセルがエドよりお子様であることをマスタングは良く忘れる。いや、マスタングだけではない。まずたいていの人が忘れている。きちんとわかっているのはアームストロングとホークアイ、ブロッシュぐらいである。
そしてお子様の中には頭ごなしに『ダメ!!!』と言われると余計に反発するものもいる。

ラッセルを置いてきたことをブロッシュは別れてすぐ後悔した。どう考えても何も起こさないわけはない。
だが、あの状況で否と言えない。それに補佐官はむしろ好意的に自分を派遣することを決めた。故郷が気になるのも事実だ。こういうとき、ど田舎出身者はつらい。手紙が村に届くのに1ヶ月かかる。憲兵と郵便屋と税金徴収係を兼ねる年寄りがのんびり届けるので村についてからさらに10日もかかる。目の弱いばあさんがようやく読んで返事を書こうとするころには次の手紙が村に着く。というわけでブロッシュは祖母の手紙を読んだことがない。ばーちゃんにとっては書けない字を書くよりも孫の手紙を読むほうが楽しいからだ。
電話は村長が付ける予定だったが、電話の本線が100キロ先までしか来ていなくて自分で本線を引く工事までする必要があるため馬鹿らしくてやめたそうだ。

途中の駅から派遣される士官が乗ってきた。
「シラキ中将」
なんと、思っていたよりはるかに大物が来た。名門貴族の中将ならコネも多いし無理も効く。災害対策には理想的な指揮官である。
敬礼するブロッシュに軽く礼を返したシラキはブロッシュの側に銀の髪がないことに気づいた。
「トリンガム中佐はおられないようだが」
今回は通訳と案内をかねて私だけですと返答する。
「心配だね」
はい、あそこは軍にとっても穀倉地帯ですから。
真面目に答えるブロッシュをシラキはまっすぐに見た。
「心配なのは行き先よりも彼のことだろう」
ずばりと言われた。
汽車はもう動き出している。

うかつな返事をするわけにはいかない。あいては軍曹から准尉をわずかの期間、経由して少尉になったばかりのブロッシュにとっては雲の上の人だ。と言っても上司がラッセルになってから雲の上の人の顔をいやおうなく身近に見ているが。
あまり個性のない「はっ」と言う返答のみ返す。
適応性の高い自分にあきれるばかりだ。昔ならこういうときはロス少尉がいてくれたなぁ。そう思ってはっとする。自分は彼女と同じ階級になっていたのだと。
少尉早く帰ってこないと階級抜きますよ。
同時に思う。階級はどれくらい変わっても自分は彼女にだけは頭が上がらないだろうなぁと。
早く彼女が帰れるように、今は目の前の中将の出方を読まなければならない。
それにしても自分はいつからマスタング同盟軍に分類されているのだろう。あの強烈な金色に出会った日からか。それとも手のかかる迷子を保護した日からか。

グレート・プレーンズはあほらしくなるほど広大なぺったんこの大地である。公式登記には1500ヘクタールとなっているがそれは税金対策のための記載に過ぎない。
火山性の土地は長い時間をかけて耕され続けた。その結果『種をまかなくても麦畑ができる』(昔の種が幾層にも重なり合って堆積している)広大な畑作地帯ができた。住んでいる住人も土地にあわせたかのように大柄で男は平均198センチある。女は幾分小柄だがそれでも身長は高い。そんな土地でブロッシュは記録的なちびであった。こんなおちびさんでは畑も作れないといわれ学校長の知り合いに預けられた。そこがセントラルの軍人の家だったためごく自然に軍に入った。セントラルに暮らして初めて彼は自分がちびだったわけでなく、周りがでかすぎたと知った。その後普通人の感覚になりエドと会ったときには思わず『このちっこいのが』と言ってしまった。
このときブロッシュは自分が*生まれた土地から開放された*のを知った。

自分が村でどういう扱いを受けていたかを除いて、中将に村のことを説明する。
と言ってもいじめられていたわけでもない。むしろ村中にかわいがられていた。
それでも、グレートプレーンズ中に大池村の「ちびちゃん」で通じてしまうことだけは言いたくない。
自分ほどエドワード君の気持ちがわかるものはいないだろうと思う。

いくどか汽車を乗り換えるたびに気持ちが割れる。早く行って無事を確かめたい気持ちとセントラルでまた騒動を起こしているだろう彼のところへ速攻で戻りたい気持ちと。
幾度めかの乗り換えの後、中将は一応の目的地である軍基地に電話をかけた。
そこで村の被害はつかめた。不幸中の幸いと言えよう。ハリケーンは畑をなぎ払い荒らしまくったが、ちょうど大池の底さらいの日であったため人的被害がゼロだった。
「ブロッシュ少尉」
「はい、閣下」
無事と聞いて生気を取り戻した青年に、中将は階級章のついた上着を脱いでから話しかけた。
「さて、ブロッシュ君。少し内緒話があるが・・・」
祖父としての話だよ。軽く笑うと中将は孫がかわいくてねと続けた。
その話とは。
幼年学校の卒業行事に模擬戦闘がある。本物の演習場で模擬段を使い紅白戦を行う。錬金術を重視する軍の方針に合わせ錬金術師1名を雇うことになっている。それにラッセルを貸せと言うのだ。
 「調べたよ。彼は軍に関することは君の言うとおり行動するようだね。
考えてくれ。彼にも君にも孫にも損は無い。」
確かにそのとおりだ。しかし、これでは自分は彼のマネージャーではないか。
その一面も否定はできないが。
中将は老獪だった。村の無事を知ったら次は帰りたい気持ちが強いことを読んでいた。
「村まで仮の電線を張らして電話が通じるようにさせた。君が電話で村人を私に協力するように説得してくれたら、君はセントラルにすぐ返そう。必要物資の調達と、小麦の新品種の種子の開発担当者をさがすためにね。」
(さすが、名門の年寄りともなると大狸だ)
結局、中将の手に乗った。乗せられた気もするが、この取引はマスタングにとってもアームストロングにとっても損にはならない。シラキ家は名門だ。配下がシラキ家と組むのは宣伝になる。
それに、ラッセルにとって自分と年齢の近い子供達に触れてみるのもいいことかもしれない。何しろ回りはヒネタ、たちの悪い大人ばかりだ。言われて初めて気がつく。あのトーマスは13歳。年齢差からいえば自分よりラッセルに近いのだ。
セントラルまであと6時間。

ブロッシュが大狸を相手に上司をレンタル予約されるより少し前、ラッセルはロイに頭ごなしに石づくりを止められた。
ロイに悪意はない。このところまた食欲をなくした(寒いのも暑いのも苦手のようだ)彼を心配しての言葉だ。
それに、報告によるとあのデルが一時期保釈されさらにラッセルともかかわっていたらしい。ラッセルは石つくりの1過程にデルの手を利用していた。今デルは刑務所に戻っている。もしもう一度石を造るなら一人でするしかない。それが心臓にどれほどの負担をかけるか、彼は考えたことがあるのだろうか。
おそらくはそれを説いても無駄だろう。
『大丈夫です。自分のことぐらい自分でわかります』
ロイが女を解かすのに瞳と並び役立つと太鼓判を押したあの涼やかな笑みでさらりとかわされるだけだろう。
だから頭ごなしに止め、なおかつ工場の警備体制を強化させ憲兵の見張りまで大量に付けた。

『おとなしくしているよ』の約束の範囲内でやれることをしようと、ラッセルはある深夜こっそりと車を走らせた。車と運転手は裏ルートで調達した。
さんざん車酔いした後ようやくたどり着いた工場の近くで検問に引っかかる。運転手に金を握らせひとりで逃げた。近づくことはできたが異常なほど警備が厳しい。以前の自分ならともかく今の体力ではもぐりこむのは不可能だ。
「ちっ、あの中年か」
シルバー時代に戻ったかのようにはき捨てた。この異常な警備体制の理由がマスタングであることぐらいすぐわかった。文句を言うわけにもいかない。もぐりこもうとしたことがばれてしまう。
だがこの異常な警備はラッセルに疑問を与えた。石とは何なのか。マスタングはなぜ作れないと言い切るのか。そういえばあのゼノタイムで分析したときどうしてもわからなかった微量物質。あれは何だろう?

彼が刑務所に服役中のマグワ-ルの名を思い出すのにさほど時間はかからなかった。