入浴中との言葉を裏付けるかのように 水音と子供の笑い声が聞こえた。
「さぁ、10こ数えてあがるぞ」
聞きなれたギルの声。
どうやら、声は男の声に戻ったようだ。法王庁にいた頃は愛らしい少女の声をしていた。あれはあれでとてもかわいくて良かったが、やはりギルの声は今の声だ。
ベルリンの家に帰ったのは正解だったらしい。弟のドイツに「兄さん」と呼ばれる事で自分がどういう存在なのかを取り戻している。これはぜひロシアにも教えてやろう。フランシスはそう思った。ギルがベルリンに戻れたのはロシアのおかげなのだから。
ドイツに訊くとこの数日ギルはずいぶん良くなっている。医者も後は食事が摂れれば回復は早いと言っている。問題は少しでも匂いにあるものがまったくダメな事だ。それは徹底していて、パンもダメ、もちろんビールもダメ。かろうじて水は飲めるがそれもわずかでも炭酸が入っているとダメ。ところでヨーロッパの飲み水はほとんどが炭酸性のミネラルウォーターである。ドイツは兄の帰宅と同時に日本に懇願して大量の水を送ってもらった。
大変な過保護ぶりだが、そこまでしてもギルの回復は遅かった。
ギルが法王庁にいたころは、世界中から集められた名医がチームを組んで聖母子を診ていた。だが世界の英知を集めたはずの医療チームは、男のしかも国の出産という特殊な事態に対応しかねていた。時とともに弱っていく兄の姿を諜報組織から報告されたドイツは無言で銃を手にした。世界の国で一番冷静なはずのこの隣国は単身法王庁に乗り込んだ。(あの時は、怖かった。)冗談では無くて、ドイツと法王庁の戦争が始まりはしないかとフランスは青くなった。結局ドイツがしたことは、医者をどやしつけ医療従事者の務めを果たさせた事だけで流血沙汰にはならなかった。
フランシスはしばらく経ってから知ったのだが、流血沙汰にならなかったのはロマーノが警備のスイス人衛兵を意図的に配置換えしてドイツの進入ルートを作ってやったからだった。
フランシスはこの事をドイツにもロマーノにも言ったことはない。ドイツに言えば借りを作ったことを気にするだろうし、ロマーノに言えば「ちぎー!」と叫ぶだろうから。なにもかもむき出しにすれば良いわけではない。本人だけが知っていれば良いこともある。
ドイツの切れ方に若者の忍耐の限度を感じたフランシスは法王庁に内密の対話を求めた。この時、どこから聞きつけたのかロシアが極秘のはずの対話に加えろと要求してきた。最終的にロシアの存在が法王庁を揺らがせ、ギルベルトはドイツに返還された。
ドイツは医師チームもドイツに呼び寄せようとしたが、これにギルが「絶対やだ」と完全拒否した。どうやら法王庁にいる間こねくりまわされたのが不快だったらしい。フランシスにはギルをいじりたおした医者の動機は理解できた。まず普通の医者は国体を診ることなど無い。国体を診るのは政府に特別に指定された医師だけだ。そういう医者は国の化身と言う存在をちゃんと理解しているからトラブルは生じない。しかし、どこの国の政府も産婦人科や産後障害の専門医など用意していない。国の化身が子供を産むなど過去にも想像にも無かった。
普通の医者にとって国の化身は好奇心と探求心の対象になる。それが医学的な正義感に裏打ちされているからしまつに悪い。さらに言えばギルは国の化身の中でも特にイレギュラーな成分の多い存在だ。土地(拠り所)を持たずに生まれてきた化身はたった3人しかいない。エルサレム(アッコンなどを含めて)で生まれた3兄弟。世に言う3大騎士団である。しかも3人の中で今生きているのはギルだけである。
ギルは何度も存在を変えた。ドイツ騎士団がプロイセンになった。その衝撃は存在の根本を揺るがされ、消滅もあり得るレベルであったはずだ。続いてドイツ帝国成立である。ここで消滅していてもおかしくない。極めつけは連合軍によるプロイセン解体。いやその後に東西統一があった。
ギルには世界で唯一の亡国の化身というキーワードが付いている。医者にとってはギルがなぜ生きているのかを調べるのは、生命の神秘を解明するような魅惑の領域である。
それでこねくりまわされるほうはたまったものではない。
拒絶はしても弱ったギルには医者の手は必要で、ドイツは自分の主治医を頼り、同僚の医師から産後障害の専門医を小児科の医師を紹介してもらった。やってきた医者達にドイツはいきなり自分の正体を説明した。政府の許可なく正体を明かすのは国の化身としては厳罰ものだが、上司はこの若い国をとがめなかった。「大事な家族のためにできるだけのことをしている子を罰する法など、ドイツにはありません」首相の言葉である。いきなりイレギュラーの固まりである奇跡の聖母子を診ることになった医者も大変だったが、それ以上にドイツが大変だった。初めての子育てと兄の看護を同時にこなした。しかもどうしても抜けられない公務をきちんとはたしている。そういう点このむきむきぼうやはとっても偉い子である。
ふとフランシスは手を伸ばした。珍しくドイツの自然におろされた髪をくしゃりとなぜる。
「な、」
何をするんだとどなりかけたドイツの声が止まる。
いとしの兄さんの声がする。
「ヴェスト、ヨハネを受け取ってくれ」
ドイツ人にとって一番大切なのは家族、ドイツにとって一番大切なのは家族。
その大切な家族が呼んでいる。ドイツはフランシスをリビングにほったらかして大事な家族のところに跳んで行った。