金属中毒

心体お金の健康を中心に。
あなたはあなたの専門家、私は私の専門家。

79.5 祭

2007-01-03 16:32:45 | 鋼の錬金術師
その夜ラッセルはまずブロッシュの運転する車でデートの相手であるはずのキャスリンを紅陽荘に送り届けた。すぐ車に戻る。
今夜は緑陰に戻るつもりだったがどうも雲行きが変わったようだ。今夜中に研究所であれを造りたい。
「あの博士はどうしていた?」
「デル博士はスタッフをこき使って実験中です。人工血液を強化血液に転用すると言っていました」
「・・・不愉快な年寄りだけど、研究は使えるか」
「まぁ、紙一重ですからね」
ラッセル・トリンガムについて後世の評価は辛口だった。理由のひとつとして彼が独自の研究ではなくて他者の研究を受け継いだことがよくあげられる。研究成果を盗んだとさえ言われる。しかし、彼はそれを自分の功績としたわけではない。現に人工血液の利益は会社が100%とっているし、学会に発表された論文も研究所員の連名でありトリンガムの名は入っていない。
彼は基本研究屋でなく応用屋だった。錬金術研究の成果を工業生産に結びつける実用屋だった。生まれたのがドラクマであれば当初から高い評価を受けていたはずだとは友好条約締結後のドラクマの歴史家の言である。
生前の彼は自分の欲しい物を造り興味あることを次々と手がけただけで、人々の評判など気にしなかった。31歳で社会的な死を迎えた彼には評判を気にする暇などなかったのだろう。
 
 研究所に着いてまずしたことはデル博士以外の所員を返すことだった。
「こういう話は博士のような優秀な術師以外には聞かせられませんから」
さりげなくデルをおだてた後、ラッセルは話を切り出した。人口血液の実験用タンクには1トンの血液が入っている。それを強化血液に転用する。もちろん工場の所員には秘密である。
「強化血液は博士のような天才型の才能がなければ不可能な研究です」
自分を天才と思っている不遇な者はおだてに弱い。特にデル博士は賞賛に飢えていた。
研究所の外で小型の盗聴器を通して会話を聞いていたブロッシュは思わず舌を出した。
「天性の嘘つきだよ。あの坊やは」
しかもあきれたことに当人は嘘をついている気はないのだ。以前ふと漏らしたことがあった。
「俺はずっと生きるために嘘を重ねてきた。あいつらに会って、まっすぐに生きるのがどんなことか見せてもらった。だからあれからは嘘はやめたんだ」
しかし、どう見ても彼は嘘を大量に利用している。彼に聞くとこう答えた。
「生きるのには工夫も要るだろ」
彼の基準に従うと世の中には嘘つきは一人もいなくなるだろう。

ラッセルの目的は強化血液ではない。赤い石だ。しかしこの博士にそれを知られるわけにはいかない。だが人工血液を強化血液に変えるのは計り知れないほどのメリットがあった。人工血液は鉄原子を中心にポリクロール化合体を化合したいわば化学薬品である。生体への適合性に問題はないし一見血液に見えるが結局は化合物に過ぎない。
だが強化血液は当初が生きた血液からスタートしただけに生き物としての面が強い。
ゼノタイムの赤い石の材料については今でも分析しきっているわけではないが、化学薬品なのに生きている気配を感じた。特に満月の夜など。一人でじっと赤い水を見ていると背中がぞくぞくするような悪寒を覚えた。巨大な肉食獣に睨まれたような感触。といっても中途半端な田舎ばかりで育ったラッセルは犬と猫とネズミくらいしか見たことがなかったが。
ラッセルは逆方向からあれを再現するつもりだった。このデル博士が強化血液の段階まで持っていってくれれば後はゼノタイムの手法を応用できる。できるのは不完全な石に過ぎないがそれでもエドの時間はかなり延びるはずだ。
その後は・・・。
後のことは後で考えるしかない。

少し戻ってその日の昼間である。
ワン
庭でデンが吠えた。
デンはハボックがつれて帰ってくれた。今は抵抗値が落ちているから触れないがエドはガラス戸の脇にデンが座ってくれているだけでうれしかった。ガラス戸を開けようとして手を伸ばしかけてはフレッチャーに睨まれる。
「余計なことを考えているなら縛り上げますよ」
にっこり笑顔でいう言葉ではない。
後世の一部歴史家には誤解があるがこの時点でフレッチャーがエドをいじめていたわけではない。後にマスタング政権の闘犬と呼ばれ、さらに獅子の腹を破る狼と呼ばれた彼もこのころはかわいい弟だった。エドが考え無しな行動にでると支え手の兄の負担が増える。エドをお利口にさせておくのが兄を助ける最大の方法だ。いささか情けない気もするが。
「あいつ腹減ってないかな」
「さっきハボック少尉が鶏肉の煮込みを食べさせていましたよ」
「デンも年取ったんだな」
昔は硬い骨を平気でかじっていたデンも今は歯が弱くなっている。犬の寿命は人より短い。
「外出たいなぁ」
陽だまりの中幸せそうにごろついているデンがうらやましくなる。
「ご希望なら首輪もつけましょうか」かわいいえくぼがさりげなく皮ひもを手にしている。すばやい練成である。
「遠慮する」
こういうとき、こいつは間違いなくあいつの弟だとエドは実感する。
その兄のほうが誰のために何をしようとして気に入らない年寄りをおだてているかなどとは、エドは一生知ることはない。

祭りは深夜に終わる。アームストロング財団現当主は車のテールランプを見送った。
一度帰ってきた息子は大総統のじきじきの命令で軍に行ってしまった。娘は大総統のさりげない言葉の下、いつの間にか婚約者と呼ばれるようになった若者の車で紅陽荘に行ってしまった。父親以上にキャスリンを溺愛している息子がよく許可したと思うが、息子の言葉を聴いているとむしろキャスリンに彼を守るように言っているように聞こえた。まぁキャスリンの実力からすればそれも当然という気もするのだが。
「あなた。もう休みましょう」
はとこで幼馴染で妻である女が呼んだ。
いつ見てもいい女だ。この女と一緒に成れたのは人生最大の幸福だった。できるなら息子にもこういう女と出会ってほしかったがどうもうまくいかないようだ。だが、その分息子は世代を超えてよい友人に恵まれた。息子の人生はまだこれからだが収支決算が合うように祈るばかりだ。
嵐の予感があった。経済界からの報告は大きな戦争の予定を告げていた。イシュヴァールどころではない大きな戦だ。
「まだこれからだな」
「はい。あなた」
妻がさりげなくガウンをかけた。古傷が痛み出すころと彼女は知っている。

ラッセルがアームストロング家のガーデンパーティでキャスリンの手を握っていたころハボックは午前中に新しいリハビリセンターでのリハビリを終えて何気ない顔で第7研究所の食堂でランチを食べていた。相変わらずでかいカメラを抱えている。
「なんせさー、あそこの飯まずいんだぜ」
大声で新しいリハビリセンターの食堂をこき下ろす。あまりに堂々とした態度に部外者立ち入り禁止のはずの第7研究所のスタッフもつい彼の出入りを認めていた。ここにいるのは例の右腕部隊である。彼らは自分たちが機密であることは知っている。だからもしハボックがそのことを聞いたら即追い出すしかないと知っていた。だがハボックは相変わらず飄々とした雰囲気で彼らに話題を提供した。彼らは今のところ外に出られない。ハボックは女の子のスカートが短くなっただのオレンジ色は色が薄めで下が透けて見えるだの、リハビリセンターで看護婦がスカートの下に黒をはいてただのと彼らが喜びそうな話題を提供した。一方でセントラルではあまり見かけない渡り鳥を見つけたからと写真を撮ってパネルにして見せてやったり、季節の花が咲いたと庭の花をちぎって食堂のパン焼きバァサンに贈ってやったりした。ほんの数日の間にランチタイムにハボックがいるのは当たり前になっていた。
無論そこで拾った情報はマスタングの手元に届けられている。


すっかりいい気分になったデル博士の指示でラッセルはいくつもの練成陣を書いた。刑務所にいる間に博士は片足に壊疽を起こしていた。彼は自分自身のためにも強化血液が欲しかった。
「今度のは完璧じゃ。絶対暴走なぞ起こさんぞ」
ラッセルはデルの言う暴走がどんなことだったか知らない。知っていたら目的のためには道を選ばない彼でも考え直しただろう。彼は保釈される程度の罪なら大したことではないと思っていた。2代目社長がどの程度裏金を使ったかまでは考えが及ばなかった。
博士は助手が書いたレポートを検分する教授よろしくラッセルの書いた練成陣を調べた。
「よし。ここから先はわしでないとできん」
ラッセルは期待と賞賛の瞳で博士を見上げた。デルはいたく満足しているようだ。賞賛は作り事だが期待はラッセルの本音だった。デルが成功しなければ一から自分でしなくてはならない。おそらく体力が続かないだろう。
ラッセルは部屋を出された。やがて見慣れた青い練成光が研究所を満たした。
とっさにブロッシュはラッセルを抱いた。爆発の危険を感じた。1秒2秒3秒
20を数えたところで寝息に気づいた。上司は眠っていた。
わずかに汗をかいている。研究所は静かだった。ブロッシュは脱皮する虫のように上着を脱いだ。胸元をラッセルの手が握り締めている。彼には握り癖がある。抱いてくれている相手を逃がしたくないと手だけが言っているようだ。
なるべくそっと床に下ろす。以前そのまま倒れたがまったく目を覚まさなかったので気を使う必要はないのだが。
研究室に声をかける。
「デル博士。ご無事ですか?」
静かだった。
思い切って中をのぞく。
デルは床にのびていた。
「あれだけの材料を相手にするのは初めてだから年寄りにはつらいかも」とラッセルが言っていたように体力が尽きたのだろう。ともかくデルを車椅子に乗せ部屋の隅に片付けた。
赤い液体の入ったタンクは一見変化がなかった。だがラッセルを迎えにいこうと背中を向けたときブロッシュは妙な気配を感じた。見られている気がする。デルはのびているしこの部屋には誰もいないのに。本能的な恐怖に胃をきしませながら彼は部屋を出た。
「いける」
部屋に入るなりラッセルは目を輝かせた。
「デル博士は間違いなく天才だ」
おだてではない。
(これでうまくいく)
そう思うとデルに手を合わせたくなるほどだ。
時間が惜しい。すぐ始めよう。
まずは。
ブロッシュにデルを部屋に戻すように頼んだ。
ブロッシュはのどにとげの刺さったような顔をした。
「大丈夫。危ないことはしないから」
ラッセルは嘘を言っていない。問題はこれからしようとしていることを危ないと思っていない彼の感覚だった。14歳のときにもやったことの応用だから大丈夫と彼は思っているが、そのときの量はせいぜいフラスコサイズ。タンク1トンを相手にするのにどういう危険があるのかのデータはない。
(大丈夫。何かあっても背中の陣を使ってねじ切ってみせる)
言葉の後半は無意識に省略した。
ブロッシュを見送った後、まず強化血液のサンプルを取る。さして興味はないがデルには大事なものだろう。
「では、やるか」
両手を打ち鳴らす。とたんに練成反応が、   起こるわけではない。
単なる勢いである。レースで飾られた絹の上着を脱ぐ。髪を結んでいた銀の糸をはずす。
さらり。まったく癖のない髪が背中に遊ぶ。
タンクのカバーをはずす。
両手を付く。14歳のときと異なり練成陣は描かない。今は肩のおしろい彫りが代わりを務める。
一気に力を解放した。体力を考えれば長続きはしない。一度に済ますしかない。
ブロッシュはデルの部屋の重いドアを開けた。
グラリ
不意に足元が揺らいだ。
地震?
セントラルは安定した地盤の上に立っているので、地震は少なかった。しかし今年になってから微震が幾度かあった。
違う。これは!
まさか、いや、やっぱり。デルを室内に押し込むと鍵をかけた。
「これだから、あの坊やは信用できないんだ」
走り戻りながら思わず悪態をつく。言いたくもなる。自分にまで嘘をつくこともないだろうに。
足元が大きく揺れた。何かが割れる音がする。角を曲がると紫の光が床も壁を天井も染め上げている。それが次の瞬間に消えた。練成そのものは終わったのだ。変わりに生臭い熱風が吹き付けてくる。ガラスのひび割れる音。何か大きなものが倒れる音。
息を大きく吸って部屋に飛び込む。ラッセルはタンクの前にいた。両手をついたままなにかつぶやいている。
「なぜ?」
爆発音が響く。黒い煙が吹き荒れた。薬品に火がついたのだ。
ブロッシュが腕を引くがラッセルは動かない。
見上げるとタンクは空っぽだ。床には幾種類もの薬品がこぼれている。だがあの1トンもの人工血液はどこに行ったのだ?どこにも痕跡がない。びしり。ガラスにひびの入る音。とっさにラッセルの腕を強く引く。硬直したままの腕は硬い手触りだ。人の腕というより細い木の枝でもつかんでいるような。無理やり部屋の外に引きずり出す。備え付けの消火器をつかむ。だが薬品系の火に小型消火器では文字通り焼け石に水である。使い尽くしても火勢は収まらない。
(まずい)
スプリンクラーがようやく作動した。しかし相手が化学薬品、しかも正体がわからないところに水をかけてどうなるか。急激に上がる温度。
「逃げろ!」
外を指さす。だがラッセルはブロッシュが置いた位置のまま動こうとしない。
ラッセルの中では化学式が飛びまわっている。何が間違っていたのか。記憶を幾度も反芻する。途中までは14歳の時と変わらなかった。狂い始めたのはさすがに量の多さに参りかけて、背中の練成陣を使った瞬間から。
本能が教える。この陣の力は人にとっては無尽と言っていい。力だけを引き出すつもりでいた。それが狂った。逆に飲み込まれた。かろうじて覚えているのは赤い色。それがタンクの中身の色なのか暴走し始めた陣の影響なのかすらわからない。立っている位置はタンクの前だったはずなのに実感がなくなる。手に触れているはずのガラスの感覚が無い。足が粘った液体に入っているようだ。
「これは嫌だ」
声として聞いたのではない。拒絶された気がした。誰かに腕をつかまれた。引きずり出される。何か叫んだ気がした。声にはならなかった。
『父さんはいない』
そう言ったと思う。なぜ今さら父のことなど考えなければならないのか。
吹っ切ったとは正直なところとても言えないが、エドのことが落ち着くまで考えないつもりでいたのに。
どこかに引き込まれかけ、たたき出された気がした。14歳の時にすらしなかった失敗だ。ましてもう後が無いこの時になって。
ラッセルは知らない。自分が何を背負っているかを。真理の門、生命の樹を身に帯びることにより彼は真理に最も近づける人になった。同時に永遠に真理を見ることの無い者になった。そして彼が意識をあまりにも強く繋いでしまったエドは生身の人間としては最も多くの真理を得ていた。彼らこそ永遠に出会ってはならない存在だった。
ブロッシュはラッセルを無理やり背負うと研究棟を離れた。50メートル先に工場の分厚い壁がある。
(まさか爆発はしないと思うけど)
研究棟からはまだ黒煙が出ている。
工場の手すりの柱に手錠を掛けた。ラッセルの足に繋ぐ。彼はまだほうけたままだ。この状態でふらふらされたらどこに行くかわからない。正気の時でさえどこにいくかわからない人なのだから。
「いいですか。ここで待っていてくださいよ」
手錠の鍵を押し付けた。自力で鍵を開けられるなら正気に戻ったといえるはずだ。
ブロッシュは研究棟に駆け戻った。中にはまだデルがいる。ほうっておくわけにはいかない。本音のところあの不愉快な老人がもしも爆発に巻き込まれて亡くなったとしても「気の毒には思えないな」。ではなぜ戻るのか。相手が人間だからか?
ブロッシュが戻る動機はヒューマニズムとも生命至上主義ともかけ離れていた。盲愛。この言葉が一番近かった。
自分の為に誰かが犠牲になったと知ったら、手のかかる上司坊やがまた落ち込む。もうあんな姿は見たくない。
ちっとも崇高でない思いを抱えてブロッシュは研究棟に飛び込んだ。

ブロッシュがデルを抱えて研究棟を出たとき入れ代わりに消防隊が入ってきた。黒煙が見えているから誰かが通報したのだろう。

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