【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

読書三昧

2010-03-28 17:40:52 | Weblog
 久しぶりに完全休日が得られたので、朝から晩まで本を読んで過ごしました。普段は細切れ読書(ちょっと読んでは別のことをやり、それが一段落したらまたちょっと読書)、ながら読書(何かをしながらの読書)や平行読書(何冊かを平行して読む)ばかりで落ち着いて読めた、という満足感が少ないため、携帯電話のスイッチを切って本を数冊脇に積んで、本の最初から最後までの一気読みです。
 これはいいや。至福の一日。久しぶりにきっちり「読書」をしたという満足感が得られました。
 問題は、何冊も読んでしまったために、この読書日記の原稿が数日分在庫になってしまったこと。ま、これからしばらく仕事が忙しいので本を読む時間も減るから、たぶん順調に“消化”できるでしょうけれど。

【ただいま読書中】『江戸参府旅行日記』エンゲルベルト・ケンペル 著、 斎藤信 訳、 平凡社(東洋文庫303)、1977年、2800円(税別)

 大名小名が参勤交代をするように、オランダ東インド会社の代表も将軍に参勤して臣従の礼を表す必要がありました。著者は1691年(元禄四年)とその翌年の2回この旅行に参加しました。
 馬が蹄鉄ではなくて藁靴を履いていること/荷物は振り分けで馬にも鞍にも固定しないこと/駕籠での上等なものは「乗物(Norimons)」と呼ばれるが下々が使う粗末なものは「駕籠(Cangos)」と呼ばれる、など、著者は細かく興味深いことを記述しています。
 長崎から小倉までは陸路5日(荷物は船で別送)、小倉から大阪までは海路で大体1週間(風による)、そして主に東海道を陸路江戸まで2週間。
 街道には多くの人がいます。旅行者、客引き、飛脚、草鞋や菅笠などを売りつけようとする子どもたち、物乞い(ここでは驚くほど多くの種類の物乞いが紹介されています)、それから売春婦。これまた数が多い。当時の中国では売春は禁止されていたので、“それ”を求める中国人は日本まで銭を握ってやって来た、なんてことが書いてありますが、本当? 
 東海道を通る大名行列で大規模なものは2万人。全員が通過するのに3日もかかる、と聞くと、その経費の膨大さに私は頭がくらくらします。このオランダ人の一行はさすがに小規模ですが、それでも東海道は150人規模です。荷運びが50人以上、他に馬丁や護衛、通詞、通詞の助手、権力者の縁故関係……放置すると人数はどんどん膨らんでしまいます。肝心のオランダ人は数人なのですが。1回の参府旅行に会社が要するコストは2万ライヒスターラー(別のところに「500ライヒスターラーが300両」とありましたので、つまりは総計1万2千両! どんな使いっぷりかはぜひ本文をお読み下さい。小判がぽんぽん飛んでいってオランダ人が気の毒になってきます。彼らはそれ以上の利益を対日貿易で上げてはいるのですが)。
 食事は1日3回。間食もあります。旅程はけっこうハードで、1日に10~13里進みます。夜明け前に出発して日が暮れても歩くなんてことも稀ではありません(前触れでどこに泊まるかは決めていますから「もうこの辺で休もう」は許されないのです)。『奥の細道』でも初老の芭蕉が平気で10里以上歩いていましたが、当時はこれが“ふつう”だったんですね。
 著者は「日本人の礼儀正しさ」「行き届いた掃除」「清潔でたとえ質素でも様々な飾り付けがされた住居」を絶賛しています。このへんの描写で私は“異国情緒”と“わが国の伝統”の二種類の感情を味わいます。
 「ここには写真が欲しい」と言いたくなるところには、著者のスケッチが挟まれています。細密に描き込まれた旅行地図もありますが、京都の市街図はこれはたぶん何かからの丸写しでしょうね。路地が全部載っているのですが、著者がそのすべてを歩いて見たとは思えませんので。ただし、街道沿いの刑場のスケッチはありません。(腐りかけた人間の死体を野犬やカラスが食べている図、はあまり見たいとも思いませんが)
 江戸では将軍(綱吉)に拝謁します。そのための手続きの繁雑なことと言ったら。ところが謁見そのものはカピタンが呼ばれて進み出て平伏してそれでお終い。なんともあっけないものです。
 『蘭学事始』では、日本橋の旅館「長崎屋」に止宿したオランダ人一行を物見高い文人たちなどが見物(ないしは会話の試み)にどっと押しかけるシーンが書いてありましたが、こちらではまだオランダ人は“隔離”されていて、定められた日本人以外には会ってはならないようです。窮屈です。将軍や大奥の女性は“変わった見せ物”として一行を扱い、ケンペルなど皆の前でドイツ語の歌を歌ったり踊りをさせられています。この謁見の広場での踊りのシーンも著者はスケッチにしています。
 大通詞と著者たちはよく衝突をしています。本書では「憎悪」とか「悪意」と表現されますが、大通詞としては「異国の言葉を喋る」ということだけで同胞からは胡散臭く思われてしまうのをおそれてことさらケンペルたちに辛く当たっていたのかもしれません。ただ、そんな態度だと、語学力は向上しませんよねえ、なんて思って注を見たら、なんと楢林鎮山ではありませんか。『蘭学事始』の最初に登場する楢林流外科の祖(さらに、フランスの外科医パレの本のオランダ語訳を日本語に抄訳した『紅夷外科宗伝』を出した人)です。こんなところに「蘭方」の根っこが。
 道中の話も面白いのですが、日記で触れられる普段の生活も興味深いものです。江戸ではしょっちゅう火事が起きています。長崎ではしょっちゅう密輸の罪で人が捕えられ処刑されています。鎖国をしているはずなのに、中国のジャンクはけっこうな頻度でやって来て港はにぎわっています。日本では七夕の前夜は夫婦が睦まじく過ごす風習があるそうです(バブルの時期の「ホテルでのクリスマスイブ」の先取り?)。犬は大事にされ、飼い犬が死んだら役人に届け出る義務があります。何をするにも贈り物が非常に重要な役割を果たしています。
 本書の「異国人が見た日本」には、見る側にも見られる側にも「時代」のフィルターがかかっています。「日本」というレッテルを貼ることは可能ですが、まるで今の日本とは違う国で、でも明らかに同じ国です。個人的には、蘭学事始の時代のオランダ人が書いた日本見聞録を読みたくなってきました。




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