【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

本を書く

2012-08-31 18:26:18 | Weblog

 「人は誰でも、自分の人生を材料に、一冊の本を書くことができる」という、ものを書きたい人にとっては勇気をくれる言葉があります。だけど「小説は誰にでも書けます。傑作が書けないだけ」という矢野徹さんの厳しい言葉も私は知っています。困ったものです。

【ただいま読書中】『1976年のアントニオ猪木』柳澤健 著、 文藝春秋、2007年、1800円(税別)

 プロレスは一種の演劇です。観客を満足させることが一番重要です。しかし総合格闘技はリアルファイトで、ルールを守り観客を満足させることは重要ですが、それよりも勝利が最大の目標となっています。ところが日本では、プロレスと総合格闘技の境界はなぜかあいまいです。プロレスラーであるアントニオ猪木は、総合格闘技でも一種の「アイコン」として機能していました。それは、アントニオ猪木が1976年に4つの「リアルファイト」を戦ったからです。それは、アントニオ猪木だけではなくて「日本のプロレス」を大きく変えてしまいました。本書はその1976年の物語です。
 アントニオ猪木とジャイアント馬場は同期入門でしたが、力道山は二人に明確な差別をしました。馬場はエリートコース、猪木はじっくりと下積みから鍛える、と。馬場はアメリカ遠征で大成功します。しかし、1963年、ケネディ大統領暗殺直後、日本では力道山が殺されました。帰国した馬場は力道山の跡継ぎとして進み続けます。身体能力は高いものの、プロレスラーとして芽がでない猪木は、名レスラーカール・ゴッチのトレーニングを受け力を伸ばします。美しい必殺技や汚い裏技も伝授されます。こうして猪木はストロングスタイルのレスラーになりました。
 プロレスは大ブームとなり、馬場は全日本プロレスを設立、アメリカとの強固なコネを生かして魅力的な対戦カードを次々組みます。対して猪木の新日本プロレスは外国人レスラーもテレビ中継もなしで苦闘していましたが、日本プロレスの坂口征二の移籍で息を吹き返します。さらに、悪役のタイガー・ジェット・シンとの抗争を演出。会場の客は興奮し、テレビ中継後にはテレビ局にはシンの悪行に抗議する電話が殺到します。ところが猪木がシンの右腕を折る演出で観客は息を呑みます。これまでの「善玉(日本人)vs悪玉(外国人)」の図式が目の前で崩れていくのを目撃したのです。
 馬場は猪木の台頭に危機感を覚えます。プロレスはリアルファイトではありませんが、興行はリアルファイトです。向こうに人気が出たらこちらの人気が下がるのです。興行主として馬場は着々と手を打ちます。動きが取れなくなった猪木が選んだのが、異種格闘技戦でした。
 猪木はモハメド・アリに挑戦状を叩きつけますが、無視されます。しかしそのニュースに興味を持ったのが、柔道で二つの金メダルを持つルスカでした。猪木には“猪木の物語”がありますが、ルスカにも“ルスカの物語”があります。読んでいてため息が出るようなつらい物語が。ルスカは本当に強い格闘家でした。しかし、プロレスラーではありませんでした。プロレスラーになろうとも思っていませんでした。だから、せっかく猪木との対決で目の前に“道”が開けたのに、アメリカで自らそれを閉ざしてしまいます。
 そして、モハメド・アリ。彼はまだカシアス・クレイのときに「ビッグ・マウス」をプロレスラーによってコーチされました。“銀髪の吸血鬼”フレッド・ブラッシーですが、アリはなぜかずっと「ゴージャス・ジョージ」と呼び続けていました。(ゴージャス・ジョージは実在のレスラーで、入場時のテーマ・ミュージック、ファンを愚弄、激しく人を食ったような反則、など現在のアメリカ・プロレス(特にWWE)のベースを作ったようなレスラーです。レスリングがエンターテインメントであることのアイコンと言えるでしょう。プロレスがショーであることを日本では秘密にしたかった力道山は当然ゴージャス・ジョージを日本に招聘しませんでした) フレッド・ブラッシーはゴージャス・ジョージのスタイルにマシンガン・トークを加えました。それを直伝されたアリは、「ヒールのレスラー」として行動することになったのです。ボクサーとして一時代を築いたアリは猪木との対戦が決まると、アメリカでプロレスのトレーニングを受け、お試しで何試合かを行ないます。アリは「最高のショー」を見せるつもりでした。最初の台本では猪木の勝利。ところが猪木はリアルファイトを要求します。アリは驚愕し、そこで「公正なルール」がにわかにクローズアップされることになります。猪木は、タックルと足払いは許されましたが、キック・頭突き・肘打ちは禁止。アリはあらゆる状況でパンチが打てますが、グラウンド(寝技状態)ではレスラーの方が明らかに有利ですからスタンドで戦うしかありません。最終的にルールは良いものができましたが、マスコミは混乱します。これはリアルなのか?ショーなのか? 試合は、誤解と混乱と無理解の中で開始されます。
 この時の試合の記憶が私には残っています。ロープ際のアリが「立って戦え」と手招きし、リング中央に寝っ転がった猪木が「お前こそこっちへ来い」とお互いに上下から蹴り合うという「世紀の凡戦」の光景が脳裡に蘇ってきましたが、その“裏側”にこんなにリアルで恐ろしい話が潜んでいたとは。しかしその直後、猪木に蹴られ続けたアリの左足がひどい内出血を起こし血栓症となり、最悪の場合左足の壊死、という状態になっていたことは知りませんでした。
 たしかに「凡戦」でした。ショーとしては。リアルファイトとしても(本来だったら素晴らしいリアルファイトになるはずでしたが、両者はまだ手探りで戦う段階だったのです)。そして「酷評」と「(裏のルールとかブラック・ムスリムの恐怖とかの)陰謀説」がはびこります。アリは体をこわし、猪木は大借金を背負います。
 韓国でのパク・ソンナン戦もプロレスから突然リアルファイトになってしまい、猪木はパクの目に指を入れて戦闘力を奪いぼこぼこにします。「韓国の英雄」の敗北で韓国プロレスは衰亡の道をたどることになりました。そしてパキスタンのアクラム・ペールワン戦。こちらでは猪木が戦法からリアルファイトを仕掛けられます。
 こういった一連のリアルファイトの結果、猪木は「ショーとしての日本プロレス」からはみ出した存在になってしまいました。そこで生き残りのために始めたのが「異種格闘技戦」です。ただしこれは「リアルファイト」ではありませんでした。リハーサルのあるプロレスの一種です。アメリカのWWWF(現在のWWE)との提携にも成功し、それまでの外国人レスラー不足は解消します。さらに言葉による援軍も(リングアナウンサー古舘伊知郎や『私、プロレスの味方です』の村松友視)。しかし、対戦相手とファン心理を巧みに操作していた優れたアスリート猪木にも、落日の時が迫っていました。
 新日本プロレスの崩壊・日本での総合格闘技ブーム・日本のプロレスファンの成熟(あるいは変容)……それは「1976年のリアルファイト」によって猪木が我々にもたらしたものです。私はただのプロレス好きですが、やはり自分が猪木によって変えられたことは意識できます。そして、これから先の日本のプロレス界に、新しい「猪木」が現われるのだろうか、とちょっと不安も感じています。いつまでも今のままでよい、ということはないでしょうから。



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