【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

ゲーム

2010-12-19 15:43:17 | Weblog
ヴァーチャルリアリティとか体感ゲームとかありますが、「ヘレン・ケラー」が楽しめるゲームってたくさん出ています? それこそが本当に「体感」できるゲームってことになりそうな気もするのですが。

【ただいま読書中】『海水浴と日本人』畔柳昭雄 著、 中央公論新社、2010年、2200円(税別)

「因幡の白兎」で、だまされた兎は潮を浴び風に吹かれて苦しむことになります。しかしそれは逆に、昔の日本では「海水浴」には医療的効果がある、と信じられていたことを示しています。中世には「潮(汐)湯治」「潮湯」「潮浴(しおあみ)」などということばがありました。温泉につかるように海水につかる健康法または宗教的な儀式です。
西洋でも18世紀中頃から、産業革命で進行する環境汚染に対して「新鮮な海風や海水を浴びるのは健康に良い」という考えが広がり、1740年に英国初の海水浴場がイングランド北東部のスカーバラに開設、54年には医師R・ラッセルがブライトンに海水浴場を開設します。ラッセルは「Sea Bathing」という概念を提唱し、潮風に吹かれたり海水に体をつけたり海水を飲むことに医療的効果がある、と主張しました。1794年にはドイツ初の海水浴場が誕生しました。1797年ドイツ2番目の海水浴場には、世界初めての海浜療養施設(サナトリウム)が併設されました。
お雇い外国人によって西洋的な「湯治」としての海水浴が日本に持ち込まれましたが(その代表がヘボンやモース)、スポーツ(またはリクリエーション)としての海水浴(海で泳ぐ)も船乗りによって日本に持ち込まれました。慶応年間に横浜にいた英国人ワツソンが海水浴を毎年楽しんだのが、横浜富岡海水浴場の起こりだそうです。
明治中期に軍国的な風潮が盛んとなり、廃れかけていた(川での)水練が復活します。しかし、隅田川の水練場は水質悪化のため海へ移っていきました。それによって、まずは学生レベルで「海水浴場」と「水泳」がしっかりと結合することになります(「臨海学校」のご先祖様?)。明治39年には、大阪毎日新聞社は南海鉄道と組んで浜寺海水浴場を解説し、合わせて浜寺水練場を日本体育会とともに開設しています。こうして、一般人レベルでの「(運動としての)海水浴」が日本に定着していきます。
湯治場としての側面も発展します。海水浴場に隣接して旅籠や旅館が増え、さらに「海水温泉旅館」という海水をくみ上げて湧かす潮風呂を備えた旅館も登場しました。これだと冬場でも稼働できるので効率的です。鉄道会社も沿線の海水浴場にこぞって海の家を建設したり新たに海水浴場を開設しました。新聞社も、購買者サービスの一環として、海水浴場や海の家を開設します。大阪毎日新聞には「海国日本の思想を普及するため」という崇高な意図がありましたが、「ブーム」ってあまり崇高なものには乗らないんですよね。人々は娯楽として「海水浴」に押しかけ、「立錐の余地もない」「芋の子を洗うよう」の状況となります。
ブームの前の海水浴は要するに湯治ですから、裸(あるいは、褌や腰巻き姿)で水に浸かるのがふつうでした。しかしブームで女性(特に上流階級の人)が来るようになると「風紀」が問題となります。彼女らは、当時のヨーロッパでの海水着にどことなく似た、全身を覆う海水着を着用しました。さらには「男女混浴禁止」の海水浴場も各地で登場します(明治21年の神奈川で始まり、大正年間まで継続したそうです)。水着のファッションは変遷しますが、写真を見ていると頭がくらくらします。ここは本当に日本か?と。いやあ、レトロですわ。
西洋からの(健康療法としての)「海水浴」、日本に古来からある民間療法としての「潮湯治」、これらに注目する医者もいました。有名どころとして、松本順や後藤新平などが紹介されています。
大正時代には各地に現在のような形の海の家などが附属する海水浴場が普及し、昭和になると臨海学校が各地で行なわれるようになります。これは日本の都市化とも関係があります。都市の子供は、水質汚染などによって、わざわざ課外授業の形でないと海水浴がやりにくくなってきていたのでした。
こうして、国民の娯楽として定着した海水浴ですが、1985年をピークに海水浴客は減少傾向だそうです。著者は建築学の立場から海の家を研究していて“この道”に踏み込んでしまったのだそうですが、私としてはまったく知らなかった分野の話をまとめてもらって、興味深く読みました。先達はありがたいものです。



人気ブログランキングに参加中です。よろしかったら応援クリックをお願いします。




コメントを投稿