【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

野菜の再利用

2021-12-20 06:49:00 | Weblog

 最近我が家の冷蔵庫に、野菜クズが詰め込まれたポリエチレン袋があるのに気づきました。これ、本来は生ごみだよなあ、と思っていると、しばらくしてとんでもなく美味しい野菜スープが登場。はい、野菜クズなんて言ったらいけませんね。「ベジブロス」です。
 なんだか環境保護にも良さそうだし、お財布にも優しい。ただ、“出し殻"の野菜は残りますね。これ、乾かして油で揚げたら美味しい「ベジチップ」にならないかしら。

【ただいま読書中】『明暦の大火 ──「都市改造」という神話』岩本馨 著、 吉川弘文館、2021年、1900円(税別)

 「明暦の大火」と言えば別名の「振り袖火事」は思い出しますが、それ以上の記憶を私は持っていません。ローマ大火・ロンドン大火とならぶ世界三大大火とも言われ、その後幕府は防災を念頭に江戸改造を行った、と言われています。ところが著者は「本当に江戸改造があったのか?」と疑問を持ち、その確認を行いました。
 こんなとき信頼できる古地図があれば良いのですが、大火前のものは地図と言うより絵図で、大火後の地図との比較が難しいそうです。
 そもそも明暦って、いつでしたっけ? ときの将軍は四代の家綱。家光が亡くなったことで11歳で将軍となり、明暦三年(1657)には17歳でした。幼君による権力の不安定さを狙ったかのように、七月には松平定正遁世事件と由井正雪の幕府転覆計画事件が続けて起きます。ただ幕府も、若手の老中を登用し、さらに名君と呼ばれる会津藩主保科正之が将軍後見役としてでんと構えていました。
 明暦三年正月十八日(西暦1657年3月2日)、激しい北西風が吹く中、本郷の本妙寺から出火(「日記」(幕府の公式記録))。火は翌日朝までかけて本郷から深川一帯を焼き尽くします。その十九日昼前にこんどは小石川で出火。代官町の大名屋敷が次々火に呑まれ、ついに江戸城の天守も炎上しました。同十九日夕方、こんどは麹町から出火。愛宕下から芝あたりまで焼けたそうです。
 火に追われて逃げていたら川にぶつかって橋も焼け落ちていて逃げ場を失って焼け死ぬ人もたくさんいましたが、十九日には、逃げているうちに前日の火事で生じた広大な焼け跡に出くわして、それで命が助かった人もいました。このときの体験談が残されていて本書で紹介されていますが、その記述の生々しさには圧倒されます。というか、こちらの想像力が追いつきません。
 実際の被害がどうだったのか、そもそも焼けた範囲さえ怪しげな史料が出回っていて確定が困難です。それでも著者は信頼できそうな史料を選択して詳しく検討し、大名の上屋敷が160軒は焼けたと推定しています。死者の数も一応「焼死者3万7千」という数字が伝えられています。ちなみに当時の江戸の人口は推定ですが50万人くらい。ただ、きちんとカウントされてはいませんし、水死者や行方不明者も入っていませんから、実際にはもっと多かったかもしれません。ただ、著者は「武家の史料での、死者の存在の希薄さ」に驚いています。屋敷が焼けたことは記録されていますが、それで誰が死んだか、は無視されているのです。まだ戦国時代の気風が残っていて「人命の価値」は軽かったのかもしれません。あるいは「外の人(身内ではない人)には興味を持たない」という日本人の基本態度によるものかも(焼死体がごろごろしている環境でも平気で歩いていた人が、到着した屋敷で身内が一人行方不明と聞くと血相を変えて心配をしていますから)。
 「復興」に関して、幕府は早め早めの対応をしました。まずは全国に飛脚を出し「正しい情報」を知らせます。同時に「参勤交代の猶予」「将来の割替えの可能性を考え、小屋や屋敷は簡素なものを作るように御触れを出す」などの処置をします。そして、市中の応急的な復興が始まってから、江戸城の再建が始まります。これは「市中を優先」と言うよりは、大規模な工事なので手配に時間がかかっただけかもしれません。ただ、天守は、一度は再建計画が立てられましたが、結局計画は中止されました。「もうそんな時代ではない」だったのかもしれません。
 「火消し」の増強が必要です。明暦の大火の前には、江戸の火消しは「大名火消し」(六万石以下の大名から16家が担当、1万石ごとに30人の人足を提供し、交代で防火を担う制度)だけでした。そこで「定火消し(火消し役)」が幕府に新設され、少しずつ人員が増強されていきました(「町火消し」は八代将軍吉宗以降です)。延焼防止のために火除け地も設定されました。江戸時代の「火消し手段」は「破壊消防(火の行く手を壊してそれ以上延焼しないようにする)」でしたが、それを平時からあらかじめ組織的に用意しておくわけです。そう言えば第二次世界大戦でも、空襲対策として大規模な「火除け地(建物疎開をして空き地を作っておく)」があちこちの都市で作られました。江戸時代と違うのは、火が平面的に燃え広がるだけではなくて空から新たな火種が降ってくることで、だから空襲に対して火除け地はほとんど役に立ちませんでした(戦後各都市の「100m道路」としては役立っています)。江戸の火除け地では狙われたのは町人地ばかり。対象となった町人は新開地に強制的に移動させられていきました。
 拝領屋敷を失った大名も多く、失わなかった大名たちも含めて「いざという時の避難所としても機能する別宅(中屋敷や下屋敷)」の必要性を強く感じる人が増え、結果として郊外(浅草、麻布、白金、高輪など)に数多くの大名屋敷が新設されました(大名が希望の土地を申請し、幕府が調整して土地を給賜する、という手続きがふまれました)。
 焼失した寺には移転命令が出され、駒込が「寺町」になりました。浅草にも寺が集められます。ただしこれは、以前から寺が少しずつ移転してきていた地域で、「寺町の新設」ではなくて「寺町の拡張」でした。
 「築地(海岸や低湿地の埋め立て地)」も次々造成され、「江戸」はスプロール化していきました。
 たしかに「大火前」と「大火後」とでは江戸はその姿を変えています。しかしそこに明確な「都市計画」は無かったようです。大名たちは勝手に「この土地を拝領したい」と希望を次々出し、幕府はその調整におわれていました。町人は勝手に小屋がけをします。延焼防止のために瓦屋根が義務づけられましたが、すぐに逆に瓦は禁止、とのお達しが出ます。その後の大火で火除け地はやすやすと炎を通過させてしまい、そのせいか火除け地に家を建てることを幕府は許可します。
 「人口密集の大都市」を目指すのか「防災都市」を目指すのか、「都市計画」のグランドデザインは完全に不在です。そもそも江戸に「絵図」はありましたが「地図」はありませんでした。絵図で都市計画は作れません。また、不安定な世情の中、強権的な政策も採りにくい。いやあ、為政者は大変ですね。