(社)日本仏教保育協会が編集している「ほとけの子」という雑誌に、花まつりにちなんだ心に響く素敵な仏教詩が掲載されていたので紹介します。
新潟県寺院副住職、絵本作家の諸橋精光さんの作です。
花まつり おめでとう
人はだれでも自分の奥に
大きな光り輝く海があるのです。
それは宇宙に広がる生命の海であり、
さとりそのものである大海です。
その、自分の奥にある海から
私たちは生まれてきました。
この海はすべてを生み出す
偉大なお母さんといってもいい。
私たちはみんな大いなる母の
子どもなのです。
お釈迦さまが出家をし、
さとりを求められたのも、
生命の源であり、
さとりの海である
この大いなる母を
求めてのことでした。
花まつりのお釈迦さま、
赤ちゃんの姿のお釈迦さまは
そんな母を求める姿を
あらわしています。
人はだれでもみんな
大いなる母を求めている
赤ん坊なのです。
上記の詩が、氏の可愛らしい挿絵とともに掲載されており、美しいイメージにとても感じるところがありました。
こうした詩を仏教哲学的に、やれ仏性内在論だ、本覚思想的だ、如来蔵思想的だと揶揄、批判するのは愚の骨頂です。
仏教者の仮面をかぶったニヒリストです。
社会学的、宗教学的な分析をすすめて、価値相対化してしたり顔。
代案を提言したかと思えば、本人以外は理解不能な抽象的概念(本人も果たしてわかっているのか怪しいが…)を振り回す。
まごころの詩が分からなければ、仏教を説くに値いしましょうか。
と、尊大に批判しつつ、仏教はつねにぎりぎりの綱渡りを強いられているのは確かです。
言語と非言語の世界を同時に開示する必要が迫られています。
パラドクスぎりぎりの試み。
とは言え、私は「物語(コスモロジー)」の効用を信じます。
言語で顕されたものは、すべて「物語(コスモロジー)」と言ってもいい。
あなたは、どのような「物語(コスモロジー)」を信頼するだろうか。
コスモロジーを持つということは、大地に私の根を生やすということ。
自己を含みつつも超えている、大いなるものへの回帰。
わたしは諸橋氏の仏教物語(コスモロジー)に共感します。
※私がコスモロジーについて学んでいる岡野守也氏のブログです。
→岡野守也の公開授業
※↓よかったらワンクリックして応援してください!
ありがとうございました!
<追記>
明日から教区研修旅行に静岡に行って参ります。
旅先での更新は難しいので、20日の予定稿として、記事を投函しました。ご了承ください。
新潟県寺院副住職、絵本作家の諸橋精光さんの作です。
花まつり おめでとう
人はだれでも自分の奥に
大きな光り輝く海があるのです。
それは宇宙に広がる生命の海であり、
さとりそのものである大海です。
その、自分の奥にある海から
私たちは生まれてきました。
この海はすべてを生み出す
偉大なお母さんといってもいい。
私たちはみんな大いなる母の
子どもなのです。
お釈迦さまが出家をし、
さとりを求められたのも、
生命の源であり、
さとりの海である
この大いなる母を
求めてのことでした。
花まつりのお釈迦さま、
赤ちゃんの姿のお釈迦さまは
そんな母を求める姿を
あらわしています。
人はだれでもみんな
大いなる母を求めている
赤ん坊なのです。
上記の詩が、氏の可愛らしい挿絵とともに掲載されており、美しいイメージにとても感じるところがありました。
こうした詩を仏教哲学的に、やれ仏性内在論だ、本覚思想的だ、如来蔵思想的だと揶揄、批判するのは愚の骨頂です。
仏教者の仮面をかぶったニヒリストです。
社会学的、宗教学的な分析をすすめて、価値相対化してしたり顔。
代案を提言したかと思えば、本人以外は理解不能な抽象的概念(本人も果たしてわかっているのか怪しいが…)を振り回す。
まごころの詩が分からなければ、仏教を説くに値いしましょうか。
と、尊大に批判しつつ、仏教はつねにぎりぎりの綱渡りを強いられているのは確かです。
言語と非言語の世界を同時に開示する必要が迫られています。
パラドクスぎりぎりの試み。
とは言え、私は「物語(コスモロジー)」の効用を信じます。
言語で顕されたものは、すべて「物語(コスモロジー)」と言ってもいい。
あなたは、どのような「物語(コスモロジー)」を信頼するだろうか。
コスモロジーを持つということは、大地に私の根を生やすということ。
自己を含みつつも超えている、大いなるものへの回帰。
わたしは諸橋氏の仏教物語(コスモロジー)に共感します。
※私がコスモロジーについて学んでいる岡野守也氏のブログです。
→岡野守也の公開授業
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ありがとうございました!
<追記>
明日から教区研修旅行に静岡に行って参ります。
旅先での更新は難しいので、20日の予定稿として、記事を投函しました。ご了承ください。
これはスゴイ!
自分としては驚きです!
わが人生史上三番目に長い禁煙期間。
まだ吸いたくなることはあります。
特に飲酒時に。
でも、そうした衝動がだいぶコントロールできるようになりました。
つねに禁煙したことによるメリットに目を向けていこうと思います。
まだまだ油断は大敵です。
しょっちゅうタバコを吸ってしまう夢をみます。
これはショック。
悪夢そのものです。
<禁煙してからのメリット>
最近は声が通るようになりました。
味覚、嗅覚が敏感になりました。
寝起きがとても良くなりました。
行動的になりました。
仕事がより以上、処理できるようになりました。
口臭が気にならなくなりました。
肌スベになりました。
表情が明るくなりました。
気持ちが前向きになりました。
これからも頑張ります!
※↓みなさんのおかげで1位になりました!これからも1日ワンクリックして応援してください!
ありがとうございました!
自分としては驚きです!
わが人生史上三番目に長い禁煙期間。
まだ吸いたくなることはあります。
特に飲酒時に。
でも、そうした衝動がだいぶコントロールできるようになりました。
つねに禁煙したことによるメリットに目を向けていこうと思います。
まだまだ油断は大敵です。
しょっちゅうタバコを吸ってしまう夢をみます。
これはショック。
悪夢そのものです。
<禁煙してからのメリット>
最近は声が通るようになりました。
味覚、嗅覚が敏感になりました。
寝起きがとても良くなりました。
行動的になりました。
仕事がより以上、処理できるようになりました。
口臭が気にならなくなりました。
肌スベになりました。
表情が明るくなりました。
気持ちが前向きになりました。
これからも頑張ります!
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ありがとうございました!
ダイエットに最適なブログ作成サイト『SeeSaa』の存在を知りました
そこでさっそく開設。
このブログには、体重、体脂肪を打ち込めば、自動的にグラフを作ってくれる機能が付いています。
しかも食事内容が打ち込めるフォームまである。
これは素晴らしい
ちと恥ずかしいのですが、ダイエットの進行状況をこちらのブログで公表します。
→全人的ダイエットへの道
当ブログのブックマークにもリンクを張っておきます。
応援してくださる方、または覗き見趣味のある方は、ご覧ください。
ちなみに私が好んで使う「全人」という言葉には、玉川大学の通信生(幼児教育科中退)だったこともあり深い思い入れがあります。
玉大卒の人は洗脳されていると思います
創始者、小原國芳先生の建学の理念、すなわち『全人教育』。
つまり「全人格的教育」ということ。
全人格のバランスの取れた成長。
はたして現在の玉川大学が全人教育をなし得ているかどうかはともかく、現代社会は、この高らかな理念こそ、目指していくべきではないでしょうか。
あ、ダイエットから話が飛躍しすぎ・・・かも
※↓どうしてもこのブログに「哲学」を感じることができない方は、ワンクリックして応援してください!(って意味わかんない)
ありがとうございました!
そこでさっそく開設。
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しかも食事内容が打ち込めるフォームまである。
これは素晴らしい
ちと恥ずかしいのですが、ダイエットの進行状況をこちらのブログで公表します。
→全人的ダイエットへの道
当ブログのブックマークにもリンクを張っておきます。
応援してくださる方、または覗き見趣味のある方は、ご覧ください。
ちなみに私が好んで使う「全人」という言葉には、玉川大学の通信生(幼児教育科中退)だったこともあり深い思い入れがあります。
玉大卒の人は洗脳されていると思います
創始者、小原國芳先生の建学の理念、すなわち『全人教育』。
つまり「全人格的教育」ということ。
全人格のバランスの取れた成長。
はたして現在の玉川大学が全人教育をなし得ているかどうかはともかく、現代社会は、この高らかな理念こそ、目指していくべきではないでしょうか。
あ、ダイエットから話が飛躍しすぎ・・・かも
※↓どうしてもこのブログに「哲学」を感じることができない方は、ワンクリックして応援してください!(って意味わかんない)
ありがとうございました!
毎朝の朝課(朝のお経)の回向文(お経の功徳を回らし向ける文章)のある箇所がずっと気になっていた。
その回向文は「祠堂回向」と言って、各寺の開基様(寺院開創にあたっての資金提供者、つまりスポンサー)など、寺と縁の深い方の戒名を読み上げたりする。
たぶん当寺の回向文も、江戸時代くらいから代々読み継がれてきたものだろう。
当寺は、関東屈指の戦国時代の名城のひとつ、○○城の城主(戦国武将○○氏)の菩提寺として栄えた寺(これは思いっきり自慢)。
(ほぼ?)毎朝、その○○城の歴代城主の戒名を読み上げる。
だが、そのほかに一つ、正体不明なとっ~ても長い戒名が回向文に記されており、ずっとなんとなく気になりながら読み上げていたのだ。
まぁ、大方、当寺に関係ある武将の戒名のひとつかな、ぐらいに思っていた。
逝去した先代に、聞くこともできない。
その戒名は、「安国院殿一品徳蓮社崇譽道和大居士」というもの。
そこで、一か八かGooでネット検索。
ひっかかった!
やってみるもんだ!
なんとそれは「徳川家康」の戒名だった。
多くは「東照大権現安国院殿徳蓮社崇譽道和大居士」と表記されていたが、間違いなく家康の戒名であろう。
戒名中の「譽」という字は、浄土宗の特有の「譽号」というもの。いわゆる敬称。
また、当寺の回向に記載された戒名に含まれる「一品」という文字は、親王の位階の第1位を顕したものだろう。
さて、当寺と家康公の間にはどんな関係があったか。
当時の歴史を遡ろう。
堅固な城で名を馳せた、当寺開基様の○○城も、ついに秀吉の某地征伐に際して、徳川家康に攻められ惜しくも降伏開城。
それ以後は、次第に衰退・・・。
降伏をした城主(開基の一人)は家康に一万石を移封される。
それ以後も、当寺はかろうじて本多氏、松平氏等の庇護を受けたようだ。
ま、彼らのバックには大ボスの家康公がいるわけだから、お世話になっていないというわけではない。
また、開基様は家康公に負けてしまったわけだが、降伏後の処遇は寛容である。
さらに、もし家康公が「おい、あの寺、気に入らんから即刻つぶせ!」なんて言い出したら当寺は跡形もないわけだ。
だから、そういう意味ではとっても有り難いとも言える。
そう考えると、多少(生理的)アレルギーがあった、「歴代天皇各々尊儀」という言葉にも、それなりの意義が見出せるかもしれない。
つまり、なんだかんだ言っても、歴史上そうした体制が、国家維持としての機能を果たしていたからこそ、当寺が存続でき、ひいては「今」があるのである。
言わば「おかげさま」の縦の座標軸。
これを無視することはできない。
さて、どうなんだろ・・・。
こういうのって、代々、お上を語ることによってお寺の権威付けを狙ってきたところもあるのかな・・・。
よそのお寺でも、家康公の戒名を読んでいたりするんだろうか・・・。
それでも、最近は「権威」とか、「権力」とか言うものに無闇にアレルギー反応を起こすことはなくなった・・・。
それらが、うまく機能しているうちは、むしろ利用すべきであろう。
「安国院殿一品徳蓮社崇譽道和大居士」。
「家康公、ありがとうございます」。
これからは、感謝の思いを込めて回向が読めると思う。
今まで意味も分からず読んでいた自分が恥ずかしい・・・
それにしてもネットの力ってすごい・・・。
<追 記>
偉そうに書きましたが、当寺は宗門内のいわゆる名刹ではありません。
念のため。
※↓家康公ファンも、アンチ家康公の人も、ワンクリックして応援してください!
ありがとうございました!
その回向文は「祠堂回向」と言って、各寺の開基様(寺院開創にあたっての資金提供者、つまりスポンサー)など、寺と縁の深い方の戒名を読み上げたりする。
たぶん当寺の回向文も、江戸時代くらいから代々読み継がれてきたものだろう。
当寺は、関東屈指の戦国時代の名城のひとつ、○○城の城主(戦国武将○○氏)の菩提寺として栄えた寺(これは思いっきり自慢)。
(ほぼ?)毎朝、その○○城の歴代城主の戒名を読み上げる。
だが、そのほかに一つ、正体不明なとっ~ても長い戒名が回向文に記されており、ずっとなんとなく気になりながら読み上げていたのだ。
まぁ、大方、当寺に関係ある武将の戒名のひとつかな、ぐらいに思っていた。
逝去した先代に、聞くこともできない。
その戒名は、「安国院殿一品徳蓮社崇譽道和大居士」というもの。
そこで、一か八かGooでネット検索。
ひっかかった!
やってみるもんだ!
なんとそれは「徳川家康」の戒名だった。
多くは「東照大権現安国院殿徳蓮社崇譽道和大居士」と表記されていたが、間違いなく家康の戒名であろう。
戒名中の「譽」という字は、浄土宗の特有の「譽号」というもの。いわゆる敬称。
また、当寺の回向に記載された戒名に含まれる「一品」という文字は、親王の位階の第1位を顕したものだろう。
さて、当寺と家康公の間にはどんな関係があったか。
当時の歴史を遡ろう。
堅固な城で名を馳せた、当寺開基様の○○城も、ついに秀吉の某地征伐に際して、徳川家康に攻められ惜しくも降伏開城。
それ以後は、次第に衰退・・・。
降伏をした城主(開基の一人)は家康に一万石を移封される。
それ以後も、当寺はかろうじて本多氏、松平氏等の庇護を受けたようだ。
ま、彼らのバックには大ボスの家康公がいるわけだから、お世話になっていないというわけではない。
また、開基様は家康公に負けてしまったわけだが、降伏後の処遇は寛容である。
さらに、もし家康公が「おい、あの寺、気に入らんから即刻つぶせ!」なんて言い出したら当寺は跡形もないわけだ。
だから、そういう意味ではとっても有り難いとも言える。
そう考えると、多少(生理的)アレルギーがあった、「歴代天皇各々尊儀」という言葉にも、それなりの意義が見出せるかもしれない。
つまり、なんだかんだ言っても、歴史上そうした体制が、国家維持としての機能を果たしていたからこそ、当寺が存続でき、ひいては「今」があるのである。
言わば「おかげさま」の縦の座標軸。
これを無視することはできない。
さて、どうなんだろ・・・。
こういうのって、代々、お上を語ることによってお寺の権威付けを狙ってきたところもあるのかな・・・。
よそのお寺でも、家康公の戒名を読んでいたりするんだろうか・・・。
それでも、最近は「権威」とか、「権力」とか言うものに無闇にアレルギー反応を起こすことはなくなった・・・。
それらが、うまく機能しているうちは、むしろ利用すべきであろう。
「安国院殿一品徳蓮社崇譽道和大居士」。
「家康公、ありがとうございます」。
これからは、感謝の思いを込めて回向が読めると思う。
今まで意味も分からず読んでいた自分が恥ずかしい・・・
それにしてもネットの力ってすごい・・・。
<追 記>
偉そうに書きましたが、当寺は宗門内のいわゆる名刹ではありません。
念のため。
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ありがとうございました!