地湧の菩薩とは、妙法蓮華経(法華経)の従地湧出品に現れる菩薩です。
経典中に以下のように地湧の菩薩は登場します。
釈尊が法華経を説いているとき、この世(娑婆世界)以外のあらゆる世界から無数の菩薩が参集し、釈尊の御前において、「この苦悩に満ちた娑婆世界において、法華経を説いていくことをどうぞ私どもにお命じください」と志願しました。
しかし、そのとき釈尊は「その必要はないのです。なぜなら私の娑婆世界には、無量無辺の菩薩がおり、彼らが私の滅後に法華経を護持し読誦して宣教します。」とその申し出を辞退されました。
そのとき地面が振動し大地が割れ、無量千万億の菩薩が同時に湧き出してきました。<中略>
私(久遠実成の釈尊)は、永遠の過去から現在まで、この菩薩たちを教化してきたのです。(以上意訳)
前回も話しましたが、まず前提として理解すべきは、法華経中の釈尊は約2500年前に生まれた歴史上の釈尊を超えて、無限の過去から永遠に法を説き続ける釈尊(永遠の仏)であるということです。
ここで、永遠の仏は、この娑婆世界以外からやってきた菩薩の、「法華経を宣教する」という申し出を断り、娑婆世界の大地から湧き出した地湧の菩薩に、その役目のすべてを託されたのです。
ではここに登場する地湧の菩薩とはいったい誰のことでしょうか?
それはわたしたち自身にほかありません。
わたしたちはそれぞれが地湧の菩薩になることを願って、この本質的に苦悩に満ちた娑婆世界にあえて自ら選択して生まれてきたのです。
しかしわたしたちは足ることを知らない欲望と、尽きることのない煩悩の闇に覆われて、そのことを忘却してしまっています。
言い方を替えればわたしたちは「永遠の真理」を本来的に体得しているはずなのに、そのことをなかなか思い出せないでいるのだといえるのではないでしょうか。
法華経に触れたことのある人の中には従地湧出品もさることながら、法華経全般にわたる(SF的な)内容について、荒唐無稽な作り話に聞こえてしまう向きもあるでしょう。
たしかに法華経の中で起こる壮大で不可思議な、さまざまな現象に関する記述は極めて文学的でさえあります。
しかし、純真な心をもって真心から法華経を読めば、言葉を超えた経の真意が少ずつ、自らに伝わってくるような感じがします。
そして、法華経がなぜこうした、とんでもなく飛躍した文学的、神話的な表現を用いるのかも次第に分かってきます。
法華経は「諸経の王」でありそこには、「永遠の真理」があるのです。
諸経の王と感じるかどうかは、人それぞれとしても、わたしは法華経には人間(仏)が求める果てしないロマンがあると思うのです。
果てしないロマンとは何か?
それは、わたしたちは仏になることを誓って、自ら願ってこの世(娑婆世界)に地湧の菩薩として生まれてきたということ。
そして、わたしたちのすべてがいつか必ず仏になることができるということに集約されているのではないでしょうか。
具体的に経典としての「法華経」を宣教することも地湧の菩薩の行に違いありませんが、そうした行も自らの生き方と乖離したものになっては、むなしい物となります。
私は、さらに進んで考えたい。
それは法華経が言語を超えた仏の世界を説いているのであれば、経典としての法華経を超えて、「仏の道」、「この世の生きとし、生けるものが幸福になる道」を説き、実践する人もまた「地湧の菩薩」と呼ぶにふさわしいのではないかと思うのです。
もちろん、わたしはここで、経典としての法華経を護持する人を批判しているわけではありません。
わたしがここで言いたいのは、何よりも法華経で説かれていることを、意識、無意識に関わらず「体現している人」を仏教者の立場から「地湧の菩薩」と呼びたいと思うのです。
異なる宗教を信仰する人であっても、あるいは特定の宗教を信仰していない人であっても、法華経を体現している人は「地湧の菩薩」と言えるのではないでしょうか。
排他的にならずに、真心の目でその人を見ましょう。
全人類の幸せ、未来の地球のためには、信仰や思想の垣根を乗り越えることが求められています。
それが「仏の道」、ひいては「仏国土への道」につながると私は考えます。
余談ですが、お釈迦様が、この世以外からやって来た菩薩に対して、お前たちは必要ないんだよと言われるところが、痛快に感じます。俗っぽく(族っぽく…)言えば「この世のことはこいつらがやってくれるぜ!」「あんたらの手助けは必要ないぜ」って感じで(笑)
あと無数の地湧の菩薩たちが、雨後のタケノコのように、にょきにょきと割れた大地から湧き出るさまは、壮大でありながら愉快な感じがしますね(笑)
追記:この文章は、過去に寺の掲示板に掲載した文章「地湧の菩薩」を、大幅に加筆訂正したものです。
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ありがとうございました!
経典中に以下のように地湧の菩薩は登場します。
釈尊が法華経を説いているとき、この世(娑婆世界)以外のあらゆる世界から無数の菩薩が参集し、釈尊の御前において、「この苦悩に満ちた娑婆世界において、法華経を説いていくことをどうぞ私どもにお命じください」と志願しました。
しかし、そのとき釈尊は「その必要はないのです。なぜなら私の娑婆世界には、無量無辺の菩薩がおり、彼らが私の滅後に法華経を護持し読誦して宣教します。」とその申し出を辞退されました。
そのとき地面が振動し大地が割れ、無量千万億の菩薩が同時に湧き出してきました。<中略>
私(久遠実成の釈尊)は、永遠の過去から現在まで、この菩薩たちを教化してきたのです。(以上意訳)
前回も話しましたが、まず前提として理解すべきは、法華経中の釈尊は約2500年前に生まれた歴史上の釈尊を超えて、無限の過去から永遠に法を説き続ける釈尊(永遠の仏)であるということです。
ここで、永遠の仏は、この娑婆世界以外からやってきた菩薩の、「法華経を宣教する」という申し出を断り、娑婆世界の大地から湧き出した地湧の菩薩に、その役目のすべてを託されたのです。
ではここに登場する地湧の菩薩とはいったい誰のことでしょうか?
それはわたしたち自身にほかありません。
わたしたちはそれぞれが地湧の菩薩になることを願って、この本質的に苦悩に満ちた娑婆世界にあえて自ら選択して生まれてきたのです。
しかしわたしたちは足ることを知らない欲望と、尽きることのない煩悩の闇に覆われて、そのことを忘却してしまっています。
言い方を替えればわたしたちは「永遠の真理」を本来的に体得しているはずなのに、そのことをなかなか思い出せないでいるのだといえるのではないでしょうか。
法華経に触れたことのある人の中には従地湧出品もさることながら、法華経全般にわたる(SF的な)内容について、荒唐無稽な作り話に聞こえてしまう向きもあるでしょう。
たしかに法華経の中で起こる壮大で不可思議な、さまざまな現象に関する記述は極めて文学的でさえあります。
しかし、純真な心をもって真心から法華経を読めば、言葉を超えた経の真意が少ずつ、自らに伝わってくるような感じがします。
そして、法華経がなぜこうした、とんでもなく飛躍した文学的、神話的な表現を用いるのかも次第に分かってきます。
法華経は「諸経の王」でありそこには、「永遠の真理」があるのです。
諸経の王と感じるかどうかは、人それぞれとしても、わたしは法華経には人間(仏)が求める果てしないロマンがあると思うのです。
果てしないロマンとは何か?
それは、わたしたちは仏になることを誓って、自ら願ってこの世(娑婆世界)に地湧の菩薩として生まれてきたということ。
そして、わたしたちのすべてがいつか必ず仏になることができるということに集約されているのではないでしょうか。
具体的に経典としての「法華経」を宣教することも地湧の菩薩の行に違いありませんが、そうした行も自らの生き方と乖離したものになっては、むなしい物となります。
私は、さらに進んで考えたい。
それは法華経が言語を超えた仏の世界を説いているのであれば、経典としての法華経を超えて、「仏の道」、「この世の生きとし、生けるものが幸福になる道」を説き、実践する人もまた「地湧の菩薩」と呼ぶにふさわしいのではないかと思うのです。
もちろん、わたしはここで、経典としての法華経を護持する人を批判しているわけではありません。
わたしがここで言いたいのは、何よりも法華経で説かれていることを、意識、無意識に関わらず「体現している人」を仏教者の立場から「地湧の菩薩」と呼びたいと思うのです。
異なる宗教を信仰する人であっても、あるいは特定の宗教を信仰していない人であっても、法華経を体現している人は「地湧の菩薩」と言えるのではないでしょうか。
排他的にならずに、真心の目でその人を見ましょう。
全人類の幸せ、未来の地球のためには、信仰や思想の垣根を乗り越えることが求められています。
それが「仏の道」、ひいては「仏国土への道」につながると私は考えます。
余談ですが、お釈迦様が、この世以外からやって来た菩薩に対して、お前たちは必要ないんだよと言われるところが、痛快に感じます。俗っぽく(族っぽく…)言えば「この世のことはこいつらがやってくれるぜ!」「あんたらの手助けは必要ないぜ」って感じで(笑)
あと無数の地湧の菩薩たちが、雨後のタケノコのように、にょきにょきと割れた大地から湧き出るさまは、壮大でありながら愉快な感じがしますね(笑)
追記:この文章は、過去に寺の掲示板に掲載した文章「地湧の菩薩」を、大幅に加筆訂正したものです。
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ありがとうございました!
頑張るよ!
地湧の菩薩の話し、とても痛快ですね。
私もお釈迦様に賛成です。こう書くと ちょっと
偉そうですね。失礼いたしました。
はじめまして、こんにちは。
コメントとても嬉しいです。
共感ありがとうございます。
「地湧の菩薩」、かっこいいですよね~。
ぜひ、また、のぞいて下さいね。
法華経を体現する・・・
難しいことですが、私見を述べますと、
法華経を体現するとは、自己が仏となるような生き方をするということだと思います。
道元禅師は、(私たちの)この命は仏のおん命であると説かれました。
一日一日、一瞬一瞬、今ここに生かされている、かけがえのない仏の命に息づくこと、気付くこと。
それは我欲を離れたものでなくてはなりません。
そうすると、私がしたいから、やりたいからという目先の欲望に左右されず、仏の命に突き動かされる生き方になってくる・・・
そういう人のことを「法華経を体現している」というのではないかと私は思っています。