今日は半日、寒空の中、教区の後輩H君とミニツーリングに行ってきた。
途中、鎌倉鶴岡八幡宮駐車場の向かいに、ひっそりとたたずむ道元禅師鎌倉行化顕彰碑に立ち寄ってきた。
写真の石碑は、道元禅師が時の執権北条時頼に要請されて説法に赴いたという史実、いわゆる道元禅師の鎌倉行化を顕彰するために近年建立されたものである。
生涯、仏道修行の妨げとなるとして、権力に近づき名利の念を起こすことを厳しく戒めた道元禅師も、苦悩する時頼の要請に一度だけ応じ、半年間鎌倉の地に滞在し説法をされたと伝えられている。
説法の内容は不明な点も多いが、道元禅師は、三浦氏を殲滅したことによって罪悪感を抱えていた時頼に対して、出家することを強く勧めたと言われる。
また、道元禅師は時頼に対して「修善の者は昇り、造悪のものは堕つ、修因感果、抛搏引玉爾己なり」と説いた。
つまり、悪を行えば闇の世界に落ちる。悪を投げ捨てて、よいことを引き寄せる決意が必要である。それが発心というものであろう、ということである(参照:「図解雑学道元」ナツメ社、中野東禅著)。
ここで、道元禅師が言われている善悪は、私たちが考える世俗的な善悪を超えた、仏の世界の善悪であると私は考えるが、私の力ではここでうまく言葉にすることができない。みなさんはどのように考えるだろうか。
いずれにしても、わたしたちの日常における行動や習慣、思考といったものは、必ず、私たちの心に蓄えられて、私たちの心身の形成に必ず影響すると私は思うのである。
人間は、どういうわけか、自覚的にならないと、マイナスの想念を働かせる傾向に陥りやすい。だからこそ、よい行動、よい習慣、プラスの思考を、自らにどんどん蓄えて行く必要がある。そうした地道な作業、自覚的な生き方をすることが、必然的に心身の形成によい影響を及ぼすことになるのである。
実はこれは唯識(心理学的に「悟り」を探求した教え)の発想である。(なお、唯識については、唯識の現代的な意義を明らかにした岡野守也氏の著作をお勧めする)
<近ごろの少年犯罪について思う>
善悪の問題、特に「命」をめぐる問題について、善悪を説くことは難しい。
究極の問題だからである。
ここ数日間、青少年による、痛ましい殺人事件が2件起きた。
「なぜ人を殺してはいけないのか」
果たして、わたしたち、大人が筋道立てて、理論的にこの問いに応えることができるだろうか。
岡野守也氏が言うように、教育界やマスメディア等で「若い人たちに命の尊さを伝えることが急務である」ということが久しく叫ばれてきた。しかし、どう伝えるかについての議論は真剣になされてこなかったのではないか。それはわたしたち大人が自信を持って答えることができない。大人たちも分からないからである。
人生に意味なんてないと答える若者が大多数を占める、ニヒリズム化した現代において、岡野守也氏は、若者に生きる勇気と力を与える上で大変有効な、「コスモロジー教育」、「コスモス・セラピー」という、新たな提言をしている。
日本人は警戒心が強いためか、こうした聞きなれない言葉を耳にすると、怪しい、うさんくさい、まゆつば、となってしまうわけだが・・・。そういう方には「コスモロジー」が教育機関の一部(都内私立高校4校)に導入されて、大きな効果を上げている事実があることを知ってほしい。
コスモロジーについて、関心を持たれた方は岡野守也氏のブログ(ここをクリック)
をご覧いただきたい。そうした疑念は必ず晴れると断言する。
今回、氏のブログで「なぜ人を殺してはいけないのか」ということが取り上げられている。
追記:石碑の文字は道元禅師の言葉「只管打坐(しかんたざ)」ただひたすらに坐禅に打ち込むという意である。揮毫は永平寺の貫主、宮崎禅師が102歳の時(現在106歳)に書かれたもの。
途中、鎌倉鶴岡八幡宮駐車場の向かいに、ひっそりとたたずむ道元禅師鎌倉行化顕彰碑に立ち寄ってきた。
写真の石碑は、道元禅師が時の執権北条時頼に要請されて説法に赴いたという史実、いわゆる道元禅師の鎌倉行化を顕彰するために近年建立されたものである。
生涯、仏道修行の妨げとなるとして、権力に近づき名利の念を起こすことを厳しく戒めた道元禅師も、苦悩する時頼の要請に一度だけ応じ、半年間鎌倉の地に滞在し説法をされたと伝えられている。
説法の内容は不明な点も多いが、道元禅師は、三浦氏を殲滅したことによって罪悪感を抱えていた時頼に対して、出家することを強く勧めたと言われる。
また、道元禅師は時頼に対して「修善の者は昇り、造悪のものは堕つ、修因感果、抛搏引玉爾己なり」と説いた。
つまり、悪を行えば闇の世界に落ちる。悪を投げ捨てて、よいことを引き寄せる決意が必要である。それが発心というものであろう、ということである(参照:「図解雑学道元」ナツメ社、中野東禅著)。
ここで、道元禅師が言われている善悪は、私たちが考える世俗的な善悪を超えた、仏の世界の善悪であると私は考えるが、私の力ではここでうまく言葉にすることができない。みなさんはどのように考えるだろうか。
いずれにしても、わたしたちの日常における行動や習慣、思考といったものは、必ず、私たちの心に蓄えられて、私たちの心身の形成に必ず影響すると私は思うのである。
人間は、どういうわけか、自覚的にならないと、マイナスの想念を働かせる傾向に陥りやすい。だからこそ、よい行動、よい習慣、プラスの思考を、自らにどんどん蓄えて行く必要がある。そうした地道な作業、自覚的な生き方をすることが、必然的に心身の形成によい影響を及ぼすことになるのである。
実はこれは唯識(心理学的に「悟り」を探求した教え)の発想である。(なお、唯識については、唯識の現代的な意義を明らかにした岡野守也氏の著作をお勧めする)
<近ごろの少年犯罪について思う>
善悪の問題、特に「命」をめぐる問題について、善悪を説くことは難しい。
究極の問題だからである。
ここ数日間、青少年による、痛ましい殺人事件が2件起きた。
「なぜ人を殺してはいけないのか」
果たして、わたしたち、大人が筋道立てて、理論的にこの問いに応えることができるだろうか。
岡野守也氏が言うように、教育界やマスメディア等で「若い人たちに命の尊さを伝えることが急務である」ということが久しく叫ばれてきた。しかし、どう伝えるかについての議論は真剣になされてこなかったのではないか。それはわたしたち大人が自信を持って答えることができない。大人たちも分からないからである。
人生に意味なんてないと答える若者が大多数を占める、ニヒリズム化した現代において、岡野守也氏は、若者に生きる勇気と力を与える上で大変有効な、「コスモロジー教育」、「コスモス・セラピー」という、新たな提言をしている。
日本人は警戒心が強いためか、こうした聞きなれない言葉を耳にすると、怪しい、うさんくさい、まゆつば、となってしまうわけだが・・・。そういう方には「コスモロジー」が教育機関の一部(都内私立高校4校)に導入されて、大きな効果を上げている事実があることを知ってほしい。
コスモロジーについて、関心を持たれた方は岡野守也氏のブログ(ここをクリック)
をご覧いただきたい。そうした疑念は必ず晴れると断言する。
今回、氏のブログで「なぜ人を殺してはいけないのか」ということが取り上げられている。
追記:石碑の文字は道元禅師の言葉「只管打坐(しかんたざ)」ただひたすらに坐禅に打ち込むという意である。揮毫は永平寺の貫主、宮崎禅師が102歳の時(現在106歳)に書かれたもの。
そうですね。道元禅師は鎌倉に半年滞在されたんですよね。
親にもかなりの責任があると思います。目先のやさしさではなく、20年30年後に立派になるように育てるべきではないでしょうか。
ちょっとぐらい泣いたって放っておけばいいんです(もちろん時と場合によるが)。そこで手を差し伸べるのは、やさしいようでぜ~んぜんやさしくなんかない。「20年30年後つまずいた時に自分ではい上がれよ。だから頑張れ。」と心の中で叫んで、見守ってやりましょう。
まだまだ少年犯罪について書き足りませんが、今日はこの辺で失礼します。
より良い日本になることを願っています。
そうなんです。ホント目立たないところにあります。穴場スポットですね。
ただ、たまたま、入手できた土地に宗門の有志が建立したものなので、禅師が実際に教化活動をした場所との関連性はありません。
ですが、道元禅師も、このあたりにいらしたことがあると思うと、感慨深いものがあります。
英文で紹介された銅版プレートがあって、道元禅師が「Zen Master Dogen」と訳されていたのが、なんだかかっこいいなと思いました(笑)
巨人~さん>
名前が長すぎるので省略します(笑)
そうだね。過保護、過干渉と愛情の区別はしっかりと、見極めなければいけないと思います。
栄西禅師は、鹿が境内の中に入ってきたのを見て、大声をあげて厳しく叱って追い払ったという逸話があります。
禅師は、鹿が人里に降りてきて、人に殺められることがないよう、あえて鬼になったんですね。確か「随聞記」にこの話があったような・・・。あやふやなので、また調べときます。真の慈悲心は、融通無碍に対応できるものと私も思います。
コスモロジーには大いに共感します。
子どものことも心配です。
家庭教育の崩壊を憂いている一人です。
勝手ながら、「人生の意味」についてTBします。
コメント、TBありがとうございます!
そうですか!
宗門(たぶん…ですよね、笑)の方に岡野守也ファンが私のほかにもいらっしゃったとは…感激です。
岡野先生は、著書もさることながら、お人柄もとても魅力的な方でした。
先月、岡野先生主催のワークショップに行ってきました。
穏やかな語り口の中にも、深い慈愛の念と、ニヒリズムに苦しんでる人々、現代の病んだ心を救済したいというメラメラとした熱い思いを感じました。
真剣に仏道を、悟りを求めていらっしゃいますし…。
こりゃ、やられた~って感じで私は完全に参ってしまいました・・・。
諸富先生の本も、数冊持ってます。
「いのちのはたらき」、「いのちがわたししてる」っていう表現いいですね!考え方に共感します。
あたり
あたり
岡野先生の本を何冊か読み、ファンの一人です。
地元の講演に来ていただくよう、運動?もしました。
来年2月にも、講演が聴けそうです。
楽しみにしています。
↑は間違ってenterを押してしまいました。ひとつ削除してください。
一応看板しょってますし…。
宗門にしてもこのままじゃマズイですよね。
特に都市部では地方に比べて、いわゆるお布施の相場が高い反面、仏教離れというか、お寺離れが急速に進んでるように思います。
何とかして法灯を守っていかなければいけませんよね。現実問題としてお寺に食べさせてもらっているし…(笑)
頑張ります!
岡野先生はそうですか!
岡山にいる宗門の友達から聞いたところによると、岡野先生は中国地方でも道心のある若手に注目されているらしいとの事。
私は在家、出家の別にこだわって、真に道心のある人の思想や実践の受容を拒否するような、意味のないプライドは捨て去るべきだと考えます。いいものは迷わず受け入れる。ぜんさまはとっても柔軟ですね!
いいお話が聞けるといいですね!
>‥‥よい行動、よい習慣、プラスの思考を、自らにどんどん蓄えて行く必要がある。そうした地道な作業、自覚的な生き方をすることが、必然的に心身の形成によい影響を及ぼすことになるのである。
仰ることが分るような気がします。「自覚的な生き方」を出来るだけ実行して行こうと思いました。
以前「ミスター「絶好調!」が来たっ!!」(1/14の記事)でコメントを返して頂いた『「縁起」を端的に言えば、「すべての存在は関係性(縁)によって生起している」、ということです。』は、何となく理解できました(上記コメント欄の「人生の意味と目的」等を拝読し)。ですが、そのまま受け入れられない所があり・・・それは又の機会にしたいと思います。
失礼致しました。。。
追記:「分別地」という言葉をよく遣われていらっしゃいますが、意味を確認したいのですが。宜しくお願い致します。
こんにちは!返事遅くなってすみません。
さて、行動や習慣、思考が心(深層意識)に蓄えられるという考え方は、私がこれまで何度か触れている「唯識」という仏教基礎学の「薫習」という言葉に表されます。
ご存知のJ・マーフィーとかも似た様なことを言ってますが、「唯識」と、その深さは比べようもありません。「唯識」は今から1500年前に、現代の成功哲学の内容を含んでさらに大きく超えてしまっています。
さて、次に「分別知(ふんべつち)」についてですが。
CONDORUさん、大変鋭いご着眼ですね!
実はここに気付くかどうかが、仏教の大きなポイントなんです。
一言で言うのは難しいのですが・・・。
簡潔に言えば、「分別知」とは、私たち人間が普通に頭を使って理解する知恵(知識)のことを言います。
頭を使って理解するとは、「言葉を使って理解する」ということにもつながります。なぜなら、人間は、基本的に言葉を使って世界を認識する生き物だからです。
ですが、仏教ではこの「言葉を使う認識の方法=分別知」が、人間の根源的愚かさ「無明(むみょう)」の表れであり、そこからさまざまな煩悩が生じ、人生でさまざまに苦悩するのだと説きます。
ここで考えていただきたいのは言葉のはたらきです。
人間は言葉を習得していく中で、自己と他者の間に無数の(目に見えない)境界線をひいてしまいます。
そして、そこから自己と他者はそれぞれに独自の力で成立している固有の実体であり、そうしたバラバラな存在の集合が世界であるというふうに錯覚してしまう。
つまり、自ら作った自己と他者の境界線という壁をいつのまにか自明のものと錯覚してしまうわけですね。
そして、そうした錯覚がどんどんエスカレートすると、「この人生自分さえ良ければいいんだ」というエゴイズムの強化や、「死んだらすべては無意味」、「だから結局は人生なんて無意味、せいぜい生きてるうちに好き勝ってやって快楽に浸ればいい」なんていうニヒリズムや、快楽主義に陥ってしまう。
こういう生き方に幸福と安らぎを見出せる人には、仏教は必要ないのかもしれませんが、この無明の生き方に安住できない人にとっては、仏教はまさに救いの光明なのです。
仏教では修行の実践によって、「分別知」を超えることを目指します。
つまり、もともと宇宙も世界も分断されておらず、私を含む全宇宙はひとつにつながっているということを、言葉による理解ではなく、修行による全身心を通した直の体験をしようとするのです。
ですが、なかなか修行というのは一般の人にはピンと来ないし、近づきがたいイメージがある。
だから仏教を、はじめは文字(分別知)の上でもいいから、学ぶことがとても大切なことであると思います。
分別知ではあっても、何度も繰り返し学ぶことで、「悟り」の種子(しゅうじ)が深層意識に「薫習」されていくからです。
分別知は、言葉による理解・認識であり、ここに人間の無明があり、そこから煩悩・苦悩も生じる。
だけど、この分別知なしには、人間はまともに生活できないのも確かです。
大乗仏教は分別知を超える無分別智、さらには、無分別智からまた戻ってくる「無分別後得智」によって、分別知を用いながらも、それを仏の智慧に転化したあり方を目指します。
分かりにくくてすみません・・・
仏教は楽しいですよ~!
心が晴れやかになる明るい教えです。
よかったらこれからも一緒に学んでいきましょう!