ゲーテの言葉 3 2007年02月04日 | 詩 かの一は、永遠に一であろう。 多に分かれても、一。永遠に唯一のもの。 一の中に多を見いだせ。多を一のように感ぜよ。 そうすれば、芸術の初めと終わりが得られる。 『ゲーテ格言集 岩波文庫』 ゲーテの思想や文学は、主にスピノザの汎神論から大きな影響を受けています。 世界の一切処、一切の現象において、唯一永遠の神を見る。 そこに、ある種の、東洋思想との親和性を感じます。 ※↓よかったら一日ワンクリックして応援してください! みなさんのワンクリックがランキングに反映されて励みになります! 応援ありがとうございました! « イエスでいっぱい | トップ | インディ »
2 コメント コメント日が 古い順 | 新しい順 あたってますか (ゆが) 2007-02-06 02:03:21 何か空海さんの「色即是空」みたいな感じですねえ。しかしこちらの方が私にはなじみやすいかも。一をきいて充を知れ。とおじいちゃんがうるさかった・・・私はどんくさいからわからない事だらけだったから。でも今でもこの言葉、胸に染みます。あたってますか?あと疑問なのは、芸術に終わりなんてあるんでしょうか?完成とは未完成の部分があって、完とするという・・どこかの彫刻の先生が言ってた。この場合の芸術の解釈がわからないんです。砂絵の曼荼羅のようなもの、という事なのかしらん。諸行は無常である事・・・ 返信する 勘がいいですね (りょう) 2007-02-06 21:23:20 >「色即是空」みたいな感じですねえ。一側面においては、同質な部分もあると思います。ただし、仏教の空は、裏付けとして縁起・無自性・無常という洞察があります。仏教ではその洞察をもとにして、「世界は部分としての現れはあっても本質的に永遠なる一体である」、ということを理論上からも明言していると言えるでしょう。また、「一の中に多を見いだせ。多を一のように感ぜよ。」というゲーテの言葉は、表面上ではありますが、マクロ世界とミクロ世界の同時観を説く華厳経の「一即多・多即一」の立場と極めて類似していると思われます。非常に興味深いですね。この、「一なるもの」に永遠なる全宇宙の根源を見るという思想は、西洋哲学においてもしばしば散見されるもので、古くは古代ギリシャのプロティノスにおいて提唱されました。プロティノスによると、万物の起源は「一なるもの(ト・ヘーン)」であり、それが流出して精神(ヌース)、ついで霊魂(プシュケー)になると言います。ただし、この一なるものは数列の起点としての一ではなく、すべてを含んだ全体としての「一なるもの」と考えられています。そして、こうした哲学は新プラトン主義と言われ、教父アウグスティヌスなども大きな影響を与えていますし、しばしば禅との親密性を指摘されるM・エックハルトなどのキリスト教神秘主義の系譜にも受け継がれています。西洋哲学においては、ライプニッツ、スピノザ、シェリングなども、この系譜でしょう。こと宗教ということを内的体験に求めたときには、こうした観想に至ることはむしろ必然であると考えます。そして、おそらくそれはどの宗教においても共通しています。おじい様の口癖の「一を聞いて十を知れ」・・・非常に含蓄がありますね♪あと芸術の話題ですが、私もどちらかと言えばゆがさんの考えに同感です。芸術においても完成と言うには、人間はまだ未熟だと思います。修行においてもそうでしょう・・・永遠に完成ということはない。きっと、ゲーテは完結した世界観で、芸術について語ったのでしょうね。長々と失礼しました。問題提起をしてくださったおかげで、ある程度深く掘り下げることができました。 返信する 規約違反等の連絡 コメントを投稿 goo blogにログインしてコメントを投稿すると、コメントに対する返信があった場合に通知が届きます。 ※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます 名前 タイトル URL ※名前とURLを記憶する コメント ※絵文字はJavaScriptが有効な環境でのみご利用いただけます。 ▼ 絵文字を表示 携帯絵文字 リスト1 リスト2 リスト3 リスト4 リスト5 ユーザー作品 ▲ 閉じる コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。 コメント利用規約に同意する 数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。 コメントを投稿する
しかしこちらの方が私にはなじみやすいかも。
一をきいて充を知れ。とおじいちゃんがうるさかった・・・
私はどんくさいからわからない事だらけだったから。でも今でもこの言葉、胸に染みます。
あたってますか?
あと
疑問なのは、芸術に終わりなんてあるんでしょうか?
完成とは未完成の部分があって、完とするという・・どこかの彫刻の先生が言ってた。
この場合の芸術の解釈がわからないんです。
砂絵の曼荼羅のようなもの、という事なのかしらん。諸行は無常である事・・・
一側面においては、同質な部分もあると思います。
ただし、仏教の空は、裏付けとして縁起・無自性・無常という洞察があります。仏教ではその洞察をもとにして、「世界は部分としての現れはあっても本質的に永遠なる一体である」、ということを理論上からも明言していると言えるでしょう。
また、「一の中に多を見いだせ。多を一のように感ぜよ。」というゲーテの言葉は、表面上ではありますが、マクロ世界とミクロ世界の同時観を説く華厳経の「一即多・多即一」の立場と極めて類似していると思われます。非常に興味深いですね。
この、「一なるもの」に永遠なる全宇宙の根源を見るという思想は、西洋哲学においてもしばしば散見されるもので、古くは古代ギリシャのプロティノスにおいて提唱されました。プロティノスによると、万物の起源は「一なるもの(ト・ヘーン)」であり、それが流出して精神(ヌース)、ついで霊魂(プシュケー)になると言います。ただし、この一なるものは数列の起点としての一ではなく、すべてを含んだ全体としての「一なるもの」と考えられています。
そして、こうした哲学は新プラトン主義と言われ、教父アウグスティヌスなども大きな影響を与えていますし、しばしば禅との親密性を指摘されるM・エックハルトなどのキリスト教神秘主義の系譜にも受け継がれています。
西洋哲学においては、ライプニッツ、スピノザ、シェリングなども、この系譜でしょう。
こと宗教ということを内的体験に求めたときには、こうした観想に至ることはむしろ必然であると考えます。
そして、おそらくそれはどの宗教においても共通しています。
おじい様の口癖の「一を聞いて十を知れ」・・・非常に含蓄がありますね♪
あと芸術の話題ですが、私もどちらかと言えばゆがさんの考えに同感です。
芸術においても完成と言うには、人間はまだ未熟だと思います。修行においてもそうでしょう・・・永遠に完成ということはない。
きっと、ゲーテは完結した世界観で、芸術について語ったのでしょうね。
長々と失礼しました。
問題提起をしてくださったおかげで、ある程度深く掘り下げることができました。