昨日はお寺の涅槃会(お釈迦さまのお亡くなりに供養する法要)でした。
法話のなかで紹介した詩です。
琴線に触れたのでシェアしたいと思います。
「電車の窓の外は」高見順
電車の窓の外は
光にみち
喜びにみち
いきいきといきずいている
この世ともうお別れかと思うと
見なれた景色が
急に新鮮に見えてきた
この世が
人間も自然も
幸福にみちみちている
だのに私は死ななければならぬ
だのにこの世は幸せそうだ
それが私の心を悲しませないで
かえって私の悲しみを慰めてくれる
私の胸に感動があふれ
胸が詰まって涙が出そうになる
『死の淵より』
自分の死としっかりと向き合い、
自分の死を受け入れることができたとき、
世界は輝き、真実、生かされていることの喜びを知る。
そして、本当の生き方に眼差しが向けられる。
それが「無常を観ずべし(死を想え)」と説く、仏教のねらいである。
法話のなかで紹介した詩です。
琴線に触れたのでシェアしたいと思います。
「電車の窓の外は」高見順
電車の窓の外は
光にみち
喜びにみち
いきいきといきずいている
この世ともうお別れかと思うと
見なれた景色が
急に新鮮に見えてきた
この世が
人間も自然も
幸福にみちみちている
だのに私は死ななければならぬ
だのにこの世は幸せそうだ
それが私の心を悲しませないで
かえって私の悲しみを慰めてくれる
私の胸に感動があふれ
胸が詰まって涙が出そうになる
『死の淵より』
自分の死としっかりと向き合い、
自分の死を受け入れることができたとき、
世界は輝き、真実、生かされていることの喜びを知る。
そして、本当の生き方に眼差しが向けられる。
それが「無常を観ずべし(死を想え)」と説く、仏教のねらいである。
なにかの本で読んだ遠い記憶がありますけれど、
人生は、その瞬間までわからないものですよね。
父の安らかな顔が、それを確信させてくれた気がする。
かく、ありたしと。
涅槃会、お疲れさま
私は死による別れが悲しいほど「先に行っていてくれて(私は)安心だ」と感じるようになってきました。当然救いは如来や法でありますけれど、そんな一見仲間に会いに行く感覚もダメじゃないかなと。
「私が行っても一人じゃない」と。
それは死に対して下向きに黙々と突き進むというネガティブな意識ではなく、いつか来る日を積極的に喜ぶといった心持ちでしょうか。
いや、当然死はコワいですけどネ♪
う~ん。文才が無さすぎるのでうまく表せている気がしませんです。。
でも感想です。失礼いたしました(*^_^*)
実際、檀家さんに「和尚さんのお経を読んでもらったら、途端に安らかな顔になった」なんてことを言っていただいたりします。
やはり人間にとって死ぬときは総決算だからね。私も「終わりよければすべてよし」の人生を目指したいと思います。
仰っていることに共感しますね。
私もあの世に行けば先に逝かれた方たちと会えると思っています。
むしろ肉体という制約がない分、自由に会えるかもしれませんよね。
死ぬのは怖い半分、どこか楽しみのような気もしております。
もしあの世というものがなかったとしても「なかった」とガッカリする自分もいないわけだから損することもない。
どうせなら「ある」と信じて亡くなった方が得ですね^^