一顆明珠~住職の記録~

尽十方世界一顆明珠。日々これ修行です。いち住職の気ままなブログ。ときどき真面目です。

「私はこのために出てきたのだから」―イエスの言葉 1

2007年02月01日 | 哲学・思想・宗教
夕暮れになり日が沈むと、民衆は病人や悪霊に憑かれた者をみな、イエスの所に連れてきた。
それで、町中の人間が戸口に集まった。
イエスは、いろいろな病に悩んでいる多くの民衆を治療し、また多くの悪霊たちがものをいうことを許さなかった。彼らが、〔信=まごころなしに、知識としてだけ〕イエスを知っていたからである。
 朝早く、夜の明けるかなり前に、イエスは起きて静寂なところへ出ていき、そこで祈っていた。
すると、シモンとその仲間とが、あとを追ってきた。
イエスを見つけて、「みんなが、あなたをさがしています」といった。
イエスは彼らにいった、「ほかの、付近の町々にも、みんなで行って、教えを語ろう。私はこのために出てきたのだから」。
それから、ガリラヤ全地を巡り歩き、〔ユダヤ教の〕諸会堂で教えを語り、また悪霊を追い出した。(『マルコが書いたすがすがしいメッセージの書(マルコ福音書1-32~39)岡野守也訳』)

マルコ福音書を読むと、これまでイエスに抱いていたイメージが一変する(もっとも、ほかの福音書と読み比べたわけではないが)。
それまでは、どちらかと言えば外見は線が細くて華奢、内面から漂う雰囲気は穏やかで柔和。そんな勝手なイメージをイエスに対して持っていた。
だが、マルコの描くイエス像は、極めてパワフルで熱く、時に激しい。
下世話なことだが、マッチョとまではいかないまでも、そこそこ、逞しかったのかもしれない。
また弱者への溢れる愛も、時としてまるで雷(いかずち)が迸(ほとばし)るようである。
どちらかと言えば、静より動、陰より陽の性質と言えるかもしれない。
つまり、アクティブなのだ。

さて、マルコに描かれるイエスはとにかく忙しい・・・。
行く先々で群らがる大衆に揉まれながら、病人を癒したり、悪霊を追い出したり、教えを垂れたり、まったく息つく暇もないくらいだ。
イエスがどんなに偉丈夫でも、さすがに疲労困憊したに違いない。
そして、そんな時にイエスは、多くの偉大な宗教者と同様、折りをみて静寂な地に赴き、瞑想し自己の内的エナジーを充実させて、身心の消耗を回復していたと思われる。

「朝早く、夜の明けるかなり前に、イエスは起きて静寂なところへ出ていき、そこで祈っていた。」

イエスにとって瞑想は、神を全身心に充満させる貴重な時間であったことだろう。

しかし、それでも、弱っている者の求めがあれば、大事な瞑想をすっぽかしてでも、どんなに疲れていても、彼らの元に飛んで行くのがイエスなのである。

「みんなが、あなたをさがしています」

と言われれば、「さあ!」とすぐに立ち上がって彼らの求めに応じていく。

そこに、この上なく美しいイエスの菩薩としての姿がある。

では何が、そこまでイエスを突き動かしたのだろうか。

それは、すなわち「私はこのために出てきたのだから」という力である。

イエスは、この世界で自分が果たす役割を全身心で把握していた。
神とひとつであるイエスは、絶えず自己の命の目的の自覚のうちにあった。
言い方を替えれば、「このため」という、神(大いなるもの)・コスモス(全宇宙)の使命が、つねにイエスの全存在を貫いていた、とも言えよう。

では、イエスにとっての「このため」とは何か。

一言で言えば、それは、私たち(世界)が、いま・ここ、一瞬一瞬のうちに、神とともにあるということを、伝えることにあったのではなかろうか。

当時イスラエルでは、辺境の地とされ貶められていたガリラヤ地域の人々を初め、とりわけ病人や貧乏人、取税人や売春婦たちは、ユダヤの律法を遵守できない、言わば神から見放された人、時には罪人として、社会的にも宗教的にも差別されていた。

しかし、イエスにとって人間はすべて神の子であり、兄弟、姉妹であり、また母であった(マルコ3-34、35)。
だからこそ、イエスは何よりも先に、罪人として虐げられてきた人々に、すべての人間が等しく神とともにあるという福音を伝えたのだ(マルコ2-17)。
また、当時の日常のあらゆる場面で支配的だった律法でさえも、神が人間を縛り付けるためにあるのではなく、人間が神とともにあるためのものとしてイエスは捉えている。つまり、人間を無意味に縛りつけ硬直させる律法だったら、そんなものいらない・・・というのがイエスの立場である。
では、なぜ、そう言えるのか、その権利があるのか。
それは、イエス自身が神とともにあることに透徹、浸透していたからに他ならない。


ともあれ、「このために出てきた」と言い切れる人生は美しい。

「私はこのために出てきたのだから」。

イエスのこの言葉に、激しく胸を揺すぶられてならない。


はたして私はなんのために出てきたのだろうか・・・。

問い続けながら生きよう。

大いなるものの存在を伝えられるような生き方をしたい。

現実と理想との果てしない乖離を感じる。

だが今は自分に失望しない。

自分にできるだけの精進あるのみ。


神は一切処に在り、その各々の処において神は全体として在る。かくのごとく神は分割されてない故に、一切のもの、一切の場所は神の唯一の場所である。それ故に、万物はその神的本質によって間断なく神に満たされているのである。
(引用:「神の慰めの書」 M・エックハルト 相原信作 訳 講談社学術文庫)


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