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一顆明珠~住職の記録~

尽十方世界一顆明珠。日々これ修行です。いち住職の気ままなブログ。ときどき真面目です。

喜んでいいものだろうか・・・ちょい複雑

2006年06月08日 | 思い・お寺の活動
今夜はお通夜だった。

お通夜の法話はだいたい15分~20分。

苦手な法話だが、今回は自分の中ではまあまあのできだった。

だがお通夜が終わって、会葬者の方からは法話のことよりも、声がいいと褒められる・・・。

ん~声なんて表面的なものだし、なんだか複雑だ・・・法話で褒められるようになりたいものだよ。

ま、タバコをやめていっそう声が通るようになったのは事実。

これは素直に喜んでよかろう。

法話も、読経も頑張りたい。

でも、とりあえず(いちお)禅僧だから坐禅せねば、いや、坐禅しようぜ!

ベイベー!

なんてね・・・


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応援ありがとうございました!




事務仕事の峠越えか?

2006年05月26日 | 思い・お寺の活動
五月末は、法人税の申告期日。

今日は幼稚園の決算を出すために、会計士さんが来て、二人で一日中帳面とにらめっこしていた。

一応、幼稚園関係に強い会計センター(指吸会計センター)所属の会計士さんと契約しているのだが、普段から帳面をしっかりつけてないと、大変な目にあうのだ・・・。

当然、今日は大変な目にあった

会計士さん(好青年)は、さすがに帳簿のプロだ

私の、(っていうか姉の担当だった)欠陥だらけでボロボロの会計処理に容赦のないツッコミが入る。

「これはどうして、この額になるんでしょうか?」

「で、これの内訳は?」

「これは、どういう意味でしょうか?」

「こういう記載の仕方はマズイですね・・・」

そんな質問、指摘のひとつひとつに答えるために、あらゆる資料をひっくり返す

んなこと言われたって、俺だって分かんないっす・・・ってのが本音・・・。

ハァ・・・しんどい・・・胃がキュるキュるする。

適当にやってくれればいいのにと思うのはO型だからか、たんに私がズボラだからか

結局どうしても、数字が合わなくていわゆる強引に帳尻あわせをしてもらう。

朝から昼ごはんもそこそこに夕方までかかってなんとか終了。

今年度幼稚園会計は、頼りにならない姉(この人もかなり適当)が留学でいないため、私が一人で会計を担当することになる。

こうなったら、気合を入れて、完璧な帳簿を作ってやろう

下手に人に頼らない分、責任も感じるし気合も入る。

明日は、お寺の会計士さんが決算に来る。

ま、とりあえず幼稚園の決算が終わって、事務仕事の峠は越えた。

ささやかだが、お祝いにバスペールエール(写真)で一人乾杯した

さらに薩摩白波(芋焼酎)、二階堂(麦焼酎)をロックにして、いい感じに杯を重ねた(二銘柄ともコテコテだな)。

ん~メチャうまっ!


それにしてもさ。。。

あぁ~早く嫁さん来てくれよ~

一緒に仕事やりませんか~

お給料もちゃんとあげるからさ・・・

無茶苦茶大事にしますから・・・

ハァ・・・トホホですな自業自得っす


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応援ありがとうございました

葬儀のお手伝い

2006年05月07日 | 思い・お寺の活動
昨日は、日頃からとてもお世話になっているご住職に依頼されて、葬儀のお手伝い(伴僧)に行ってきた。

何度か他寺の葬儀で、導師のお供をさせていただく機会があったが、住職によって作法が微妙に異なるのが興味深い。

本来ならば、自分の師匠の作法を綿密に引き継ぐのが習いであるのかもしれないが、私は、他寺のご住職の葬儀作法であっても、それが、美しく洗練されたものであったり、教化活動につながったりするものであれば、どんどん取り入れたいと思っている。

○○寺のご住職は、まことに敬愛すべき方だ。

発想力、行動力、法話力、調整力・・・が卓越している。

ご住職と私は、親子ほどの歳の差があるものの、大先輩が優れた方だと大後輩は心強い。

師からいろんなことを学べるからだ。

今回の葬儀のお供でも、何かにつけてさすがだなと感じた。

作法といい、檀家さんへの気配りといい、とても学ばせていただいた。

自分などまだまだほんのヒヨッコである。

優れた人のいい所を、謙虚になってどんどん吸収していきたいと思う。

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応援ありがとうございました

葬儀について思う

2006年02月28日 | 思い・お寺の活動
ここのところ、葬儀が立て続けである。

僧侶としてあるまじき物言いかもしれないが、弱音を吐けば、正直、葬儀の導師を勤めると、精神的エネルギーを激しく消耗する。

葬儀は、ほかの勤めとは明らかに違う。

私もまた「死」という厳然とした事実に対峙せざるを得ないからだ。

「死」とは終わりではなく、新たな旅立ちであると信じているものの、遺族にとって愛しい者の死は愛別離苦を伴う。

私もまた遺族の悲しみの念を引き受けざるを得ない。

しかし、共感はしても、その感情に飲まれてはいけない。

その時点で導師とは言えないのだ。

これから臨むのは、自ら命を絶った青年の葬儀である。

うつ病で苦しんでいたと聞く。

以前、母親に、悩んだら彼に電話させるように、話したいことがあったら寺に来させるようにと言っていたものの、なんら連絡はなく最悪の結果になってしまった。

自責の念と無力感を覚える。

住職になって、時折自殺者の葬儀に立ち会ってきた。

二度と自殺者が出ないよう、今後の方策を考えること。

いのちの意味を伝えられる僧侶になりたい。

そのためには、自分のいのちの意味を明らめること。

頭で理解するだけでなく、全身心で腑に落ちるほどの体得をしてゆきたい。


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ありがとうございました

総代さん

2006年01月01日 | 思い・お寺の活動
11時頃、若手(50代半ば)の総代さん(檀家さんの代表)4人が、恒例の新年のご挨拶にいらっしゃいました。
いつものように寄っていただいて、ささやかなおせちと、お酒を召し上がっていただきました。
たわいもない冗談も頻発する中、
今年は、○○寺(当寺)に新風を巻き起こそう!
いつになく、みんなやる気です。
私のいつにない気概が伝わったのかなと思いました。
私も彼ら四天王には期待しています。
よい総代に支えられて、私は恵まれています。

余談ですが、この時期ウコンは手放せません・・・

※追 記
 上記の文章中、うっかり当寺の実名を載せて掲載してしまいました・・・
 伏字にして訂正します。
 隠し事は嫌いですが、個人情報を明らかにしてしまうと、やはり表現上に支障があると思いますので・・・。
すでに読んでしまった方、忘れてください(笑)
MIBのカシャッ!はい、みなさん忘れました~

 



尽未来際・・・永劫に!寺標建立!

2005年12月27日 | 思い・お寺の活動
昨日、当寺に念願の寺標が建立されました。

寺標とは、お寺の表札のようなものです。

先代は、素晴らしい伽藍を整備して他界しましたが、なぜか今まで寺標だけはなかったのです。

先代としたら、本意ではないかもしれませんが、私はどうにも落ち着かなくて、ずっと建立したいと願っていました。

山門の前に、高さ3メートルはある、
曹洞宗○○山 ○○寺 と楷書体で揮毫された、御影石の寺標が鎮座しています。

裏には、33代目住職、私の僧侶としての名前と、本年の成道会にて建立した旨を銘記しました。

2500年前、釈尊の成道(覚り)からはじまった仏の教えが、未来永劫伝わって、智慧と慈悲をもって、多くの苦悩する人々を救って欲しい。
当寺から、抜苦与楽の無量光を放て!!!

そんな願いを寺標に込めました。

私が死んだら、この願いは後代の住職方に託します。

今は私の番です。

今生でどこまでできるか。

やれるだけやってみます。

即今、精進!(肩の力抜きつつ)



全く関係のない余談ですが、

何故か、太田裕美の「木綿のハンカチーフ♪」が頭のなかでエンドレスです。

恋人はいませんけど・・・

いい歌です。

恋人よ~僕は旅立つ~ひがしへと向かう列車で~♪

懐メロっていいですねぇ♪



新年に向けて!近況と将来の展望、そして野望!

2005年12月25日 | 思い・お寺の活動
<近況>

ここ2ヶ月間、法事の後には、「つながり・かさなりコスモロジー」に基づいて、ご先祖様をさかのぼるワークを元に、「縁起」の法話を続けている。

人間一人ひとりの命の重さ・かけがえのない尊さを、ビッグバンまでさかのぼり力説する。
さらには、分別知に基づく無明の話、無明をなくした仏の智慧と慈悲の話にまで言及する。半ば強引だが・・・。
時間は30分あまり。
われながら、けっこう熱弁である。

檀信徒の手ごたえも感じている。
反応がいい。
数々の有り難いお褒めの言葉もいただいた。
「仏教の「縁起」と現代宇宙論のつながりに驚いた」
「私はこういう話を聴きたかった」
「こういうご縁の話が、今の社会で一番必要なんですね」
「仏教がこういう教えだとは知らなかった」等々。

実は私自身が最近の自分の姿にいささか驚いている。
私が法話に熱くなるなんてことは、いまだかつてなかったのだ。


<これまでの経緯>

「法話」、できれば、以前は逃げたかったのが本音である。
というのは、まず人前で話すのが不得手なこともある。
だがなによりも、駒澤大学で学んできた仏教哲学と、実際の檀信徒への教化活動が、私のなかで、納得の行く形で結びつかなかったからである。
正直、檀信徒に仏教の核心「縁起」や「空」といった内容を語る自信がなかったのだ。
どうせ話しても伝わらないだろうし、自分にうまく伝える力はないだろうと半ばあきらめていた。
だから、それまでは、いわゆる仏教神話的コスモロジーを語ることで、お茶を濁していたようなところがあったと思う(現在は仏教における神話的コスモロジーの重要性も認識している)。
それなりにお寺の行事をこなしながら、補償行為(罪滅ぼし)として、幼稚園の子どもらに惜しみなく愛情を注ぐことで、寺の住職としての不全感の穴埋めをするような所があった。
だが、自分はごまかせない。
自分の内面に大きなディレンマを抱えていたのが本当のところだ。

もちろん私もそれなりに大学で仏教学を修め、仏教の核心、哲学が普遍的真理であることは確信していた。
だが、それを檀信徒にいかに伝えていけばいいのかが分からなかったのだ。
私の中では、先祖供養と仏教哲学(禅学も含めて)が根本的に乖離しているように感じられたからである。自分に嘘がつけない性格の私は、僧侶であるということのアイデンティティーを失いかけていたのかもしれない。
告白すれば、それに伴って、向上心も失われ、仏教書を読むことも次第に少なくなってきていた。つまり、僧侶の命とも言うべき、道心と呼ばれるものが消えかかってきていたのだ。加えて私の怠惰な性向もその方向に拍車をかけたといえよう。


<出会い>

また同時に、私は数ヶ月前より一身上の悩みを抱えていた(今は解消した)。

そんな、精神的にどうしようもない状態のときに大きな出会いがあったのだ。

題名に惹かれ、書店で何気なく手に取った「生きる自信の心理学 岡野守也著 PHP新書」という一冊の本。

本書で「つながり・重なりコスモロジー」という、まさに現代版の縁起説法と出会う。
私の目はようやく開かれた。
出会うべくして出会ったのだ。

そして目下、本書との出会いをきっかけに、岡野先生のワークショップに参加(当ログ開設のきっかけ)し、さらにコスモロジーについて、また仏教、心理学をはじめ、さまざまな分野の著書から総合的に学びと実践を深めているところである。

特筆すべきは、岡野先生の主宰するワークショップはもとより、定期的に行われる講義にも、若い人が多く出席しているということだ。もちろん私含めて(笑)

岡野先生は、大乗仏教(禅・唯識)、コスモロジー、論理療法、K・ウィルバーのトランスパーソナル心理学、アドラー心理学、フランクル心理学、・・・etc、といった、列挙すればきりがないほどの人類の叡智を、統合的(インテグラル)に把握することを目指している。
そして、私が岡野先生に対して、敬服と感嘆の念を禁じ得ないのは、岡野先生が、これらの叡智を学び、実践し、個々の自己変容を促すことで、「エゴイズム・ニヒリズム・快楽主義」に陥った混迷した現代社会をベターな方向性に向かわせてゆくという、明確なビジョンと強い信念・誓願を抱いているということである。
直接聴いたわけではないが、そうした強い思いが、著書からも、人格、言動からもにじみ出ているように感じられるのだ。私の周囲には素晴らしい僧侶の先輩もたくさんいるのだが、実際これほど利他の念が強い方と出会ったのは、初めてであった。
そこに私は一筋の光明を見た。
赦されるならば、先生の後に従いながら一緒に道を歩んで行きたい。
この人と一緒であれば、絶対に道を踏み外すことはないのだ(もちろんMUST化は注意だが…笑)。


<既成仏教寺院批判と今後の自己の展望>

さて、私はここではっきりさせたい!
今の既成仏教は死に体である。
総合的に判断し、そう断言できよう。
このままいけば、ますます淘汰に拍車がかかる・・・。
既成仏教、つまり日本の仏教寺院にできることが無くなったのであれば、私はこのまま寺院は滅んでもいいとさえ思う。仏の教え、仏道さえ残れば、寺院が無くなってもよい。
人に求められない寺院であれば、滅び行くのが自然の道理である。

しかし私は、まだ寺院は、果たすべき役割があると信じている。
人々の交流、癒しの場、覚りと救いの道場、地域開放の場、文化・芸術の発信地として・・・寺院はさまざまな可能性を秘めていると思うのである。

要は、大乗仏教の本質、智慧と慈悲に基づき、自利利他一如を自己の行動規範とすること。さすれば、自ずから道は開けよう。

なにも派手なことをする必要はない。
ささやかであってもいい。
願わくは、社会の一隅を照らすともし火となりたい、ただ、この一念を大事にしたい。

でかいことを言うのは簡単なのだ。

とにもかくにも、
私も、お寺も、幼稚園も、これからである。
まだ何も具体的に実践していないのだ。

私が願って止まないのは、いかなる形であれ、真剣にこれからの寺院のあり方を考える若者が集って、刺激しあい、真に建設的な意見交換をし、そして、一致協力して社会貢献できるネットワークが全国的に組織されてゆくことである。

日本仏教界で、少しづつそうした動きが見られるものの、一般にはほとんど認知されていないのが現状である。宗門内でもいろんな組織・団体があるが、玉石混交、いや石ばかりというのが事実ではないか。また、そうした団体は概して自己満足に陥いっているものが多い。宗門・本庁批判をしたところでしょうがない。

もちろん私など人のことをとやかく言える立場ではない・・・ここは、あえて自己批判(前向きな)をかねて主張しているのだ。

長くなってしまった。

繰り返すが、でかいことを言うのは簡単なのだ。
いま、ここ、一日一日を、地道に丁寧に。

とにかく自利利他である!

自己成長は、宇宙の成長。

限りなくベターな方向に向かって。

強く!優しく!美しく!

軽やかに、朗らかに、

智慧と慈悲をもって!

私は歩いていく!!!



はい・・・かなり自分に酔ってます(笑)