それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

戸惑いの冬

2018-01-19 12:21:06 | 日記
 大学の教員として、最も戸惑うことがある。

 それがゼミの学生が自分を慕ってくるという現象である。

 私はそれをどう理解してよいのか分からず、いつも困惑する。

 たぶん、これを読んでいる人は、私がなぜ困惑するのか奇妙に思っていると思う。

 それは私も同じなのだ。なぜ困惑しているのか分からず、ますます困惑している。

 そこで私は自分のために、なぜ困惑しているのか書く。



 今まで誰かに慕われた経験がまったくなかったわけではない。

 たとえば、研究者としてある程度のキャリアになってくれば、後輩も沢山できて、ひとつのグループになったりする。

 私も思いがけないことから、母校でもない場所でそういうことが起きて、凄まじくかわいがる後輩が何人かできた。

 彼らとの関係はきわめて強靭で、私の転出で涙が出てしまうくらいに強固なものだった。



 しかし、私はひとつも戸惑わなかった。

 それは私と後輩たちが同じ目標を共有し、同じような苦労を共にし、お互いがお互いを尊敬し、厳しく批判しあってきたからだ。

 突き詰めれば、研究という営為のなかで生まれた関係である以上、関係の強さは研究によって担保されている。

 彼らとの関係は、相互の研究を勉強しあうことで再生産される。



 ところが、ゼミ生というのは、これとは全く違う。

 ゼミ生は私の研究をよく知らないし、私がどういう努力を普段しているのかも知らない。

 一方、私はゼミ生と個別の面談をする限りにおいて、彼らを知っている。

 だが、それも限定的だ。

 要するに、お互いのことをあまりよく知らないのである。



 にもかかわらず、一群のゼミ生が私をやたら慕うという現象が起きる。

 なぜ彼らは慕うのか。

 それは大学という制度が私を「先生」という立場にしたからだ。

 その立場は、元をたどれば、研究業績や教育業績によって基礎づけられているものだが、学生はそれを知らない。

 つまり、彼らの「学生」というアイデンティティに不可欠の「先生」だから、とりあえず慕うのである。



 恐ろしいのは、4年生ともなると就職先も決めて余裕があるので、私に何か恩返し的なことをしてやろうと画策する輩が登場することだ。

 たとえば、3・4年生全体を集めたコンパを開いてきたりする。4年生は流石に賢いので、出席率を上げる工夫をするので、参加人数も多い。

 そこで私にサプライズのプレゼント的なものを仕掛けてくるのである。

 アカデミアのルールとして学生からのプレゼントは拒絶するのが常だが、こういう場を設定されると私も拒絶できない。



 しかし、その恩返しというのが不合理なのである。

 彼らは試験を受けて入学し、ちゃんと授業料を払っているので、私は一生懸命、授業をするのである。

 もちろん、各自の要望に応えるために、カリキュラム以上のゼミをしたり、長時間の面談も行ったりするが、それもすべて仕事なのである。

 だから、そもそも恩など生じないのである。



 私を人間として尊敬するなら、恩師という言葉も当てはまるだろうが、私は人間としてクズ野郎だし、彼らに尊敬されたくもないので、恩師ではないのである。

 私の恩師は人間として凄い人で、大学の研究者じゃなくても尊敬せざるを得ない人たちだから、当然彼らは恩師なのであるが、私は違う。

 

 そこでクズ野郎の私はこう考えてしまうのである。

 彼らは私を恩師としたい、そういう欲望があるのだ、と。

 つまり、自分がよい大学生活を送った、という確証を得るために私を「恩師」に仕立て上げざるを得ないのだ。

 よい先生に当たったから、よい就職ができて、そして、よい卒業論文が書けたはずである。

 ならば、私はよい先生でなければいけない。

 ならば、感謝しなければいけない。

 みんなで感謝すれば、よい先生だったことになる。

 めでたし、めでたし。



 偽善的であれ、なんであれ、少しでもまともな人間は、そこでよい先生の振りをする。

 私もそうすべきだと思うのだが、如何せんクズ野郎なので、

 ひどくモジモジして、言い訳をしながらプレゼントを受け取って、誰よりも早くコンパを去るのである。



 そもそも私は先生を祭り上げるという権威主義の萌芽を常日頃から否定、批判してきた。

 その態度や姿勢がゼミ生に伝わっていない時点で、もう何かが失敗しているのである。

 そういう意味で、そういう感謝の場は、私への罰であり、私はそれを甘んじて受けなければならない。



 以上のことは何一つ冗談ではなく、来年こそもっとドライでプラクティカルなゼミにする工夫をする。

 そして、ゼミという制度そのものを疑うような、おかしくも真っ当なゼミにするのだ。

 ゼミに青春を持ち込むことができないよう、全力で制度設計してやる。