「シン・ゴジラ」を見に行った。社会科学関係の学者の間、爆発的に人気になっていたからだ。
「シン・ゴジラ」は日本の政治がどういう仕組みで行われているのか、非常によく描けている。
細かい話はすでに霞が関関係者のツイッターやブログでなされているので、それは避ける。
大ざっぱに言えば、法律および制度が政治的意思決定をどのように規定しているのか、それが見事に描けていた。
「法の支配」という言葉がある。これは最高権力であっても法に従わねばならず、それゆえ最高権力はその運用を法によって制限され、暴走しないようしている、という意味だ。
どんな緊急事態が起きても、政治家が意思決定をして政策を実行するには法律的根拠が必要だ。
そして、その法律を作るには、内閣での決定や議会での決議が必要になる。
意思決定には時間がかかる。それゆえ、緊急事態は事前にある程度想定され、そうなった場合に備えて法律が作られる。
ところが、想定していない問題、というのがこの世界ではよく起きてしまう。
「ゴジラ」もそのひとつだ。
いや、ゴジラは虚構だ。だが、もし実際に誕生してしまえば、それは想定外だ。
では、その想定外が起きるとどうなるか。
映画は、その虚構を見事に現実につなげている。
会議や交渉、参加者のディテールが非常に精巧に描かれている。
そもそも我々観客が「ゴジラ」だと思っている生物は、映画の世界では知られていない謎の生物だ。
そいつを確認し、名前を決めなければならないわけだが、その過程も上手にシナリオになっていた。
ゴジラは生物で、科学者を必要とする。科学者は大学をはじめとする研究機関にいる。
科学者と官僚と政治家。
三者の奇妙で不器用な関係はコメディ的だ。
しかし、そのブラック・コメディを私たちは311の時に目の当たりにしてしまった。
だから、笑える。だから、泣けてくる。
同時に、この映画は専門家、官僚、政治家が構成している組織のなかでの「多様性」がいかに重要かも示唆する。
あまりにも想定外のゴジラの出現に際して、政府はこれまで白眼視、あるいは単に除け者扱いされてきた人たちを集め、彼らに対応を任せざるを得なくなる。
ゴジラはもちろん虚構だから、ゴジラに関連する知識を持った研究者や官僚は、この世界には存在しない。
だが、想定外のことは実際起きるし、そういう時にしか役に立たない、はっきり言って50年に一度しか役に立たない人材というのは存在する。
けれど、もしそういう人たちがいなければ、問題は解決できないのだ。
日本の強さは、そうした普段役に立たない人たちを組織のなかに蓄えていること、そういう「余裕」なのだ、とこの映画は示す。
実際そうなのだ。
突然、誰も注目しなかった「虫」が社会問題になることがある。
あるいは、誰も研究していなかった「地域」が国際問題の中心になることがある。
その時、いかに人材をプールしているのかが問われる。
それが「国力」なのだ。
そして、問題は国境を越える。
ゴジラは日本にとどまるのか?(いや、とどまるはずはない。)
ゴジラという存在を各国はどのように見ているのか。どのような「利権」が生まれるのか。
それをめぐって、どういう国際政治が生まれるのか。
そこが映画後半の見どころにつながる。
アメリカと日本の関係。これがとても泣けてくる。アメリカにすがる日本。そして、無理難題を押し付けてくるアメリカ。
強硬な政策を進めてくる中・露。
原子力問題として関心のあるフランス。
あーー、これは私たちがずっと見てきた国際関係。
途中、日本の無力さにマジで泣けくる。
しかし、この映画ではそこから日本の底力が描かれる。
この映画は、日本がずーーーっと悩まされてきた左右の空虚な対立がどれほど的外れなのかを無意識的に描いている。
今そこにある問題の解決と、過去を無暗に引きずったイデオロギーとの劇的な格差。
最終的にゴジラはどうなるか。
そこがこの映画の見どころであり、結末のあの「怖さ」こそ、映画の見事さである。
「シン・ゴジラ」は日本の政治がどういう仕組みで行われているのか、非常によく描けている。
細かい話はすでに霞が関関係者のツイッターやブログでなされているので、それは避ける。
大ざっぱに言えば、法律および制度が政治的意思決定をどのように規定しているのか、それが見事に描けていた。
「法の支配」という言葉がある。これは最高権力であっても法に従わねばならず、それゆえ最高権力はその運用を法によって制限され、暴走しないようしている、という意味だ。
どんな緊急事態が起きても、政治家が意思決定をして政策を実行するには法律的根拠が必要だ。
そして、その法律を作るには、内閣での決定や議会での決議が必要になる。
意思決定には時間がかかる。それゆえ、緊急事態は事前にある程度想定され、そうなった場合に備えて法律が作られる。
ところが、想定していない問題、というのがこの世界ではよく起きてしまう。
「ゴジラ」もそのひとつだ。
いや、ゴジラは虚構だ。だが、もし実際に誕生してしまえば、それは想定外だ。
では、その想定外が起きるとどうなるか。
映画は、その虚構を見事に現実につなげている。
会議や交渉、参加者のディテールが非常に精巧に描かれている。
そもそも我々観客が「ゴジラ」だと思っている生物は、映画の世界では知られていない謎の生物だ。
そいつを確認し、名前を決めなければならないわけだが、その過程も上手にシナリオになっていた。
ゴジラは生物で、科学者を必要とする。科学者は大学をはじめとする研究機関にいる。
科学者と官僚と政治家。
三者の奇妙で不器用な関係はコメディ的だ。
しかし、そのブラック・コメディを私たちは311の時に目の当たりにしてしまった。
だから、笑える。だから、泣けてくる。
同時に、この映画は専門家、官僚、政治家が構成している組織のなかでの「多様性」がいかに重要かも示唆する。
あまりにも想定外のゴジラの出現に際して、政府はこれまで白眼視、あるいは単に除け者扱いされてきた人たちを集め、彼らに対応を任せざるを得なくなる。
ゴジラはもちろん虚構だから、ゴジラに関連する知識を持った研究者や官僚は、この世界には存在しない。
だが、想定外のことは実際起きるし、そういう時にしか役に立たない、はっきり言って50年に一度しか役に立たない人材というのは存在する。
けれど、もしそういう人たちがいなければ、問題は解決できないのだ。
日本の強さは、そうした普段役に立たない人たちを組織のなかに蓄えていること、そういう「余裕」なのだ、とこの映画は示す。
実際そうなのだ。
突然、誰も注目しなかった「虫」が社会問題になることがある。
あるいは、誰も研究していなかった「地域」が国際問題の中心になることがある。
その時、いかに人材をプールしているのかが問われる。
それが「国力」なのだ。
そして、問題は国境を越える。
ゴジラは日本にとどまるのか?(いや、とどまるはずはない。)
ゴジラという存在を各国はどのように見ているのか。どのような「利権」が生まれるのか。
それをめぐって、どういう国際政治が生まれるのか。
そこが映画後半の見どころにつながる。
アメリカと日本の関係。これがとても泣けてくる。アメリカにすがる日本。そして、無理難題を押し付けてくるアメリカ。
強硬な政策を進めてくる中・露。
原子力問題として関心のあるフランス。
あーー、これは私たちがずっと見てきた国際関係。
途中、日本の無力さにマジで泣けくる。
しかし、この映画ではそこから日本の底力が描かれる。
この映画は、日本がずーーーっと悩まされてきた左右の空虚な対立がどれほど的外れなのかを無意識的に描いている。
今そこにある問題の解決と、過去を無暗に引きずったイデオロギーとの劇的な格差。
最終的にゴジラはどうなるか。
そこがこの映画の見どころであり、結末のあの「怖さ」こそ、映画の見事さである。