それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

「三里塚に生きる」が映し出したもの

2016-04-25 06:40:37 | テレビとラジオ
 今更ながらドキュメンタリー「三里塚に生きる」が非常に面白かった。

 当事者たちの認識によれば、この事件で普通に暮らしていた農民は突如政治化し、国家と闘争したのだった。

 三里塚は戦後、開拓によって造られた共同体だった。そこに来た人々は身寄りのないまま疎開先から出てきた人や、旧植民地から帰国した人だったという。

 その開拓はあらゆる開拓がそうであるように大変なものだった。

 その土地を急に国家が接収すると一方的に決めたものだから、一部の農民たちは激高したのだという。



 一部の農民、というところがポイントでもある。

 インタビューは、運動内部のピア・プレッシャーの深刻さも映し出してしまう。

 結局、何のために闘争しているのか明確に言える人がとても少なく、運動の動機がことごとく「村八分になるから・・・」という気味悪さもあった。

 それは大江健三郎が色々な作品で描く、運動や集団の暴力を思わせる。



 彼らは運動は民主主義を守ると言うが、結局、多数派が彼らの運動を支持しなくなれば、それは民主主義の原理によって正当化されなくなってしまう。

 また、運動は当初革命をある種の最終目標にしていた、という発言も出てくる。

 革命は民主主義ではない。

 (一応)民主主義の国を選挙ではなく、他の手段で革命するということは、一体どういうことなのか。

 「絶対この闘争は勝利する」と彼らが発言するときの「勝利」が謎のままだし、それが謎であることを彼ら自身が気づいている。



 さて、話はまったく変わるが、ある場所で選挙があった。

 選挙はやはり現政権と野党の対決という文脈で見られるし、実際そうだ。

 だが、立候補者の資質も当然ポイントになる。

 ところが、一部の政治学者の口から、そこがまるでスルーされるような発言ばかり。

 いや、それが必ずしも悪いんじゃないだけど。

 でも、もし自分がどっちの候補者と働きたいかその研究者に尋ねたら、おそらくまったく違う答えになると思うんだよね。

 何が言いたいかというと、結局、分析が勝手なんだよね。

 勝手というのは、つまり、語り手の頭の中の大きな構図が都合の悪い部分を消去しているんじゃないのかってことなんだよね。

 選挙での闘争は「市民」の側だろうけど、勝ったら「権力」の側だからね。

 それに見合うのかどうかが、非常に大事なはずなんだけど。