それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

さよなら、平成(5):チャットモンチーの完結

2017-11-29 07:58:25 | コラム的な何か
 チャットモンチーの完結が発表された。来年だっていう。

 僕と同い年のふたり。

 僕は「ガールズ・ロック・バンド」というフレーズがすごく嫌いだ。

 「ボーイズ・ロック・バンド」なんてのも聞いたことがないし、あっても珍妙なフレーズだ。

 だから「ガールズ」も変だ。

 チャットモンチーは、そのフレーズが意味不明であることを日本に知らしめたバンドだと思う。



 僕が中学校で吹奏楽部に入ったとき、大半のメンバーは女性だった。

 僕はそのことに少し戸惑ったけど、安心もした。マッチョなものがすごく苦手で、そういうものを強制されるのがとても嫌だったから。

 で、吹奏楽部でかっこいいのって、実際、パーカッションだったりする。

 もちろん、花形はクラリネット、サックス、トランペットだけど、でも、やっぱり上手い団体になればなるほど、パーカッションがかっこいい。

 たぶん、吹奏楽のレベルってめちゃくちゃ高い。高くなってしまった。

 だって、義務教育で部活をやるときって、文化系は吹奏楽が最初の候補になるわけで、

 実際、全国で音楽的な知識も何もない人たちが一気に大量に楽器を無料で学べてしまうのだから。



 その結果、日本社会の女性の平均的な楽器演奏能力が爆発的に高くなっているのである。

 だから、ロックバンド的なものについて、「ガールズ」っていうのは、ますますおかしいのだ。

 吹奏楽は女子学生が多数派だったのだから、当然、楽器を演奏するロックバンドも女性が多数派であっても不思議じゃない。

 そんなことをぐちゃぐちゃ言っている間に、日本のメジャーシーンでは、ドラムもベースも女性が沢山になった。



 そして、チャットモンチーが完結する。

 少し暗い切ない歌詞に、ポップでグルービーな曲の、チャットモンチーが。

 試行錯誤に次ぐ試行錯誤。新しいものを生み出そうとする創意工夫と胆力。そして、何より誠実さ。

 チャットモンチーの格好よさ。いさぎよさ。

 

 僕は書く仕事を三本ほどこなして、今このブログを書いている。

 ものを書くためのエネルギーをすべて仕事につぎ込んで、

 それでもチャットモンチーのことが書きたくて、このブログを書いている。



 30歳を過ぎた自分のことがよく分からない。

 その自分のこともよく分からないおっさんが、ゼミ生の自己分析に付き合ったりしている。

 就活のことなんかも話し合ったりして、卒論やら何やら諸々のことも。

 で、家に帰ってきて、自分ってどういう人ですかって、自分に問いかけてみると、

 なんだ、学生と同じでよく分からない。

 ただ、社会的に自分がどういう立場で、仕事上、何が求められているのか、それが少し分かっているだけ。



 で、やっぱりチャットモンチーなのだ。

 等身大の歌詞を発信していたことが、それを言葉にしていたことが、本当にすごくて、尊敬してしまう。

 一流のアーティストなのだ。


さよなら、平成(4):日本のヒップホップ

2017-09-20 12:47:34 | コラム的な何か
 1995年、EAST END×YURIのDA.YO.NEの大ヒットで、僕は初めて「ラップ」というものを聴いた。

 当時、実家にはソウルミュージックのCDやレコードはほんのわずかで、ヒップホップなどというものの存在を知らなかった。

 小学生の僕はラジオから流れてくるDA.YO.NE.を何度も耳にしていたので、ラジオで流れる一番のヴァースは、すぐに覚えて口ずさめるようになっていた。

 おそらく、ほとんどの小学生がそうだった。



 キングギドラを知ったのは、そのちょっとあとで、「ラップは恐いもの」というイメージが徐々に世間に浸透しはじめた。

 その後、ミクスチャーロックの凄まじい流れが来て、ヒップホップそのものよりも、それが混ざった音楽が大量にラジオで流れるようになった。

 そこからほとんど同じか、ちょっと遅れたくらいで、日本のR&Bブームが来て、ヒップホップもまた一緒に盛り上がっているように感じた。

 ヒップホップとして括るべきなのかよく分からなかったが、なかでも爆発したのがM-floだった。

 高校生になったばかりの僕は、周囲がM-floを聴きまくっていることに狼狽えた。

 M-floのメンバーたちは、僕の10歳ほど上で、彼らの育った環境や価値観は、僕がその後、大学に入って以降に触れていく何かの前触れのようだった。

 正直言って、VERBALのラップは意味不明だった。

 ただ、フロウの面白さは衝撃的で中毒性があった。

 同じ括りにするわけではないのだけど、そこに続いたのがRIP SLYMEだった。

 まだその当時、僕のなかに言葉はなかったけど、周りのませた高校生たちが背伸びして「パーティ・ピーポー」のなかに入っていく様子を、僕は不思議な顔をしながら見ていた。



 おそらく、自分のなかでヒップホップが大事になってくるのは、大学生になってR&Bについて勉強し始めてからだった。

 2000年代の(アメリカの)R&Bはヒップホップと結合し、混ざり合い、分かちがたくなっていたため、否が応でも少しずつ聴かざるを得なくなっていた。

 日本のホップホップとして自分が面白いと初めて思ったのは、「ウワサの真相」の頃のライムスターだった。

 ライム、つまり複雑なリズムで韻を踏む行為が独特のグルーブを起こすとともに、内容としても中身があることに非常に驚いた。



 1998年を頂点としたCDの売上は、その後、急速に落ち込んでいく。

 大学に入って数年すると、よく分からない方法で音源を入手する人々が、僕の周囲に登場しはじめた。

 それがインターネットを通じたものだということに、僕はなかなか気が付かなかった。

 CD売り上げの低下と反比例するかたちで、2000年代前半、インターネットの普及率が急速に伸びた。

 音楽をパソコンで作る人は、僕が中学生の頃から周囲にいたのだけど、その量も質もやはりこの時期に目立って上がっているように感じた。

 2000年代半ば、YOU TUBEが登場し、2000年代の終わり頃には、誰でもそこでライブ映像などを楽しむようになった。

 アマチュアや売れないプロの音楽家が、YOU TUBEやニコニコ動画で音楽を提供するようになったのもこの頃で、

 音楽制作や配信におけるコストの低下は、誰の目にも明らかになっていた。



 ところで、アメリカの西海岸でヒップホップが爆発的に広がった背景には、

 1980年代の深刻な麻薬の蔓延と犯罪率の上昇、さらに人種間の対立の激化、ロサンゼルス暴動への流れ、というものがあったのだが(乱暴な要約)、

 日本でもそこまでではないものの、ヒップホップの草の根の普及とともに、徐々に今まで光が当たっていなかった社会に光が当たるようになっていった。

 特に都市部の周辺に存在する郊外や工場地帯で、大人は知っていても口にしないような世界があることをヒップホップが周知していった。

 僕がイギリスに留学すると、高校生ラップ選手権などをきっかけに、僕のようなヒップホップ弱者でも

 社会の表舞台で言葉を持たなかった人々がヒップホップを通じて言葉を持つようになったことを知った。

 日本でも、まがいなりにも多様性に対する意識が高まったのは、そうした流れと無縁ではなかったかもしれない。

 そして、フリースタイルダンジョンが始まった時、ヒップホップや社会認識の変化が大きな流れになっていることを実感した。

 社会科学の研究者にとって、ヒップホップはサブカル的な趣味ではなく、もはや教養になりつつあることと、私の世代の人間は考えはじめた。

さよなら、平成(3):新しい昭和

2017-06-19 10:08:59 | コラム的な何か
 椎名林檎が独特の感覚で、センセーショナリズムに基づくパフォーマンスを展開した時、新しい時代が始まった。

 当時、自分は高校生になったばかりで、男子・女子に関わらず、敏感な子ども達は皆、椎名林檎の奇妙さの虜になっていった。

 私は椎名のセンセーショナリズムにすぐには乗れなかったが、女友達がカラオケで歌う「歌舞伎町の女王」には心奪われた。

 椎名の楽曲の歌詞は、私の高校の倫理の先生が解説するほど、良く出来たものだった。



 今思えばだが、とりわけ注目すべきなのは、椎名が意図して「昭和」という時代のエッセンスを利用したことだ。

 昭和的な文体、服装、世界観。「アングラ」っぽい楽曲。

 昭和っぽさがセンセーショナリズムと相性が良かったのは、昭和が過去になったからだった。

 問題は、その昭和が「戦前」でも「戦後」でもあった、ということだ。



 昭和の面白いところは、それが第一次世界大戦の後に始まったこと、そして、第二次世界大戦を間に挟んでいることだ。

 椎名林檎は、意図して戦前と戦後を混ぜ合わせている。

 暴力的で性的で、華やかで汚くて、自由かつ全体主義的な世界。

 しかし、椎名林檎自身には、特筆すべき思想はない。

 もちろん、彼女が個人的に思うところは色々あるだろうが、作品のなかの世界観はすべてフェイクだ。

 本気の人は、あんなに突き放した世界観など描けない。

 フェイク昭和。昭和のパロディ。

 椎名林檎の面白さは、そこにある。

 むしろ、それを本気にしてしまうオジさんやオバさんの存在こそが、時代精神なのだ。



 「東京事変」というグループを結成した時、ますます、椎名によるパロディは速度を増した。

 「事変」という言葉づかいの妙は、否が応でも関心してしまう。

 日本では、まるで彼女の後を追うように、昭和礼賛ならびに日本の伝統礼賛番組が雨後の竹の子のように出現した。

 フェイクと本気、パロディと再現、戦前と戦後。

 気味の悪い組み合わせで、日本はネオ昭和への準備を整えていった。



 東京事変が解散した年、第二次安倍内閣が登場した。

 準備はもう済んだのだ。

 後は平成を終わらせるだけだ。

 世俗を支えるアイドル政の頂点であったSMAPが解散し、天皇が退位へ向かっていった。

 いよいよパロディは終わる。

 そんななか、気づいたらテロ等準備罪が成立していた。



 後は何が必要だろう?

 あえて言うなら、国民の生活の窮状を戦後憲法に結び付け、革命を起こそうとする青年集団くらいか。

 貧富の格差が拡大していることは、ネオ昭和の時代を迎えるうえでは好都合なのである。

 それがなければ、革命など誰も口にしない。

 まるでその時を待ちわびるように、物価が上昇し、国民の平均賃金が下降しているのだった。

 つづく

さよなら、平成(2):2週目の青春

2017-06-03 20:47:49 | コラム的な何か
 僕が大学の教員として働くようになって少し経つと、奇妙なことが起き始めた。

 自分のなかの大学の記憶が何度も蘇ってくるようになったのだ。

 大学生に向かって教鞭をとる自分の前に、そのどこかの席に、あの日の自分らしき影がいる。

 授業でも課外活動でも、なんとなく自分らしき影がいるのである。



 映画「桐島、部活やめるってよ」が公開された時、僕も僕の同世代の友人も、

 自分が閉じ込めてきた記憶をこじ開けられる体験をした。

 大学教員としての生活は、それをすごく引き延ばしたような何かだった。



 SMAPが解散して、確かに青春の背景をなしていた時代が終わるのが分かった。

 2周目に入っている。

 僕はそう感じ始めた。



 永遠の日常は確かに永遠だが、生きている僕は確かに成長し、老いに向かっている。

 僕は学生から労働者に変わり、青春は終わりを迎えた。

 だが、それは次の段階に行くというよりは、2周目に入ったという方が正確だった。



 BASE BALL BEARのアルバム『光源』がそんなタイミングで出たのは偶然ではなかった。

 彼らの音楽のテーマは、確かに「2周目の青春」だった。

 奇しくも、小沢健二が新曲を発表し、そのテーマが「パラレルワールド」だったのも象徴的だ。

 すなわち、1週目の世界の色々な可能性を想像すること。

 僕たちの日常は、良くあり、悪くもある。

 1984年に始まった、曖昧で感傷的で現実的で空想的な世界が、もしかしたら一段落したのかもしれない。



つづく

さよなら、平成(1):永遠の日常

2017-06-03 19:46:22 | コラム的な何か
 映画「うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」が公開されたのは、僕が生まれてから、すぐのことだった。

 僕はどういうわけか、うる星やつらの枕カバーを使って、毎晩眠っていた。

 アニメもマンガも一度も見たことはなかった。



 いつかは僕も高校受験を経て、大学受験を経るのだろう、と何故だかよく考えていた小学生の頃。

 時間が過ぎるのは遅く、まるで永遠に日常が続いていくような日々だった。

 ビューティフルドリーマーでは、永遠に学校祭の前日が繰り返される。物語はそこから始まる。

 ある意味で、僕の日常もそうだった。

 毎日が永遠に学校祭の前日のようだった。けれど、僕は学校祭にはかかわっておらず、友人もまったくいなかった。



 世界にいつか何かが起きて、そして、僕が特別な存在になったらいいな、と何となく考えていた。

 阪神淡路大震災が起きて、新聞もテレビもその話題になった。

 でも、僕の日常はまるで変わらなかった。

 オウム真理教のサリン事件が起きて、そして、新聞もテレビもその話題になった。

 でも、僕の日常はまるで変わらなかった。



 ところが、現実の凄まじい事件とは真反対に、アニメ「エヴァンゲリオン」が始まって、僕は夢中になって、周りの子どもたちも夢中になっていった。

 エヴァは僕らの奇妙な退屈と願望と性的衝動をくすぐり、日本の社会を覆った。

 僕たちのなかの一部は、現実の世界に興味を持ってもなおエヴァの世界から抜け出せず、

 自分のコンプレックスと世界の問題がまるで癒着しているかのような勘違いをしたまま、成長していった。



 日本経済は右肩下がりが顕著になり、それが僕らの前提になった。

 世界は良くならない。

 破たんもしなければ、改善もしない。ゆっくりと衰退していく。



 1997年、少年Aが殺人事件を起こした。

 僕たちは、みんな、少年Aだった。


 
 自分が誰なのか不明確なまま、不明確な恐怖と戦いながら、日常を変える方途を探していた。

 2001年、世界を変えるテロが起きた時、僕らは何も変わらない日常のなかにいた。

 ゆっくりと衰退していく小さな世界のなかで、僕はそこから脱出する方法を探していた。



 唯一見つけた方法が社会科学の研究で、僕はそれにのめり込んだ。

 それまで見てきた世界がすごく狭くて、馬鹿げていて、勘違いに満ちていたことに初めて気が付いたのは、社会科学のおかげだった。



 日本社会が徐々に終わらない日常に慣れ、衰退していく世界にも諦め、そこをスタート地点にし始めたことに、僕の世代は皆、気が付きはじめた。

 『希望の国エクソダス』は、僕らの世界観に寄り添っていた。



 僕がイギリスに住み始めた頃、日本は311を迎え、まるで革命のような変化に直面した、と誰もが思った。

 日本は悲しみに満ちていて、日常のすべてが張りぼてだと気づかされた。

 そして驚くべきスピードで、また永遠の日常を造り直し、沢山の亀裂に何かを塗りたくって行くのを黙ってみていた。



 アイドルブームはまるで翳りを見せることなく、日本社会を支え続けた。

 アイドルが頑張って搾取されている様子が、疲れ切った人々を勇気づけるという、奇妙な構造がつくられた。



 僕が東京に引っ越した時、日本ではひっそりとアニメ「おそ松さん」のブームが来ていた。

 そっくりな兄弟が沢山登場するアニメ。

 まるでうだつの上がらない男子が、子どもの妄想のようなストーリーを展開する。

 初見では、はっきりと区別できないキャラクター。

 市場に疲れ果てた人々は、その区別できないキャラクターに僅かな差異を見つけて、「自分らしさ」を生み出すことに成功した。



 「ヲタク」が当たり前の言葉になって、誰もがヲタクになることを許される社会になって、そして誰もヲタクではなくなった。

 ゆっくりと衰退していく社会で、311でも何も変わらず、僅かな差異を見つける、それぞれの物語が誰にとっても救済につながる細い糸となった。



 つづく