五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

「龍南会の名称の起こりのエピソード

2010-01-30 04:35:30 | 五高の歴史
龍南会三〇年の想い出の記から 梅野實氏談 第二回 工科 卒「龍南会」と言う名称の起こりに絡る面白いエピソードがある。以下龍南会雑誌から転載する。

嘉納先生の発議で愈々校友会が成立すると、先ずその名称を如何にするかが問題になった。「五高校友会」等と云うありふれた名称では面白くない,如何にも天下の五高の面目に適はしい、独自の名称にしなければ、と云うので色々意見が出て来た。龍田山の「龍」をとるのは一般に異議がない所だが、さてその次に何を持って来るかで、又意見が分かれた。所が確かに当時一高に「向陽会」とか云うのがので、五高も之に倣って「龍陽会」としたらどうだろうかと云う意見が力を得て、大勢之に決していた「陽」と云う字には本来南と云う意があり、又活気があって派手だという訳だ。所が或る日突然、この意見を出した生徒数名が秋月先生に呼びつけられてコッピドク叱られたことがある。「貴公等龍陽会がよからうなど怪しからん。一対龍陽とは何か心得て居るのか?五高を潰すも甚だしい。」とプンプン憤って居られたとの事。よく御話を承ると先生が色を作して怒られたのも御尤も「龍陽」と云うのは、当時学生間で盛んに行われて居た○○の事だったので、一同甚だ恐縮して、早速今の「龍南会」と称する事に決定したのである。然し今になって考えると、龍陽等と云う妙な名より、今の「龍南会」と称する方がどれ丈いいか知れない。実際全国の校友会の名称で、この母校の「りゅうなんかい」ほど立派なのはないだろう。之も葦軒先生の陰徳の一つかね。私は二部の工科だったが、漢文の時間に秋月先生が、工科の我々を目の前にしながら、士は治国平天下を以て本分となすべきであリ、大工,左官の真似をするが如きは心得違いと遠慮会釈なく力説されるので,痛し痒し、唯苦笑するい他はなかった。すると一方には、理科の桜井先生が之からの時代は空理空論では駄目だ、日本の将来の発展は一に科学産業の開発に俟つと激励されるので、我々も以て私かに案じた次第だ。然しそんな事hじゃあっても、葦軒先生の高風を敬慕する念は、我々理科生と雖もごうも変るところはなかった。葦軒先生について未だ忘れ得ぬことがあるが、私たちが五高を出て大学へ進む際の事だ。卒業の直前の休暇中の事だったと覚えて居る。秋月先生があの古希の御老体ながら、草鞋がけで生徒の家庭を訪ねられ、こんな才能があるからこの方面に進ませては如何だろうと、父兄と親しく膝を交えて生徒の将来について色々懇談された事がある。兎に角自動車は勿論汽車さえも碌々通じないで、せいぜい馬車位が唯一の交通機関だった時代のはなしだよ。私の家は久留米だが何時もこの事を想起して、感銘を新たにして居る次第だ。全くあれでこそ、真実の生きた教育が出来た訳だと思う