五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

龍南同窓会の芽生えについて

2010-01-12 03:13:44 | 五高の歴史

五高同窓会の創設については既に紹介しているように開校して四十年目の昭和五年のことであった。この時までの卒業生は約八千名、既に日本社会の柱石となり日本の指導的立場になったものが数多く見られた。創設時の溝渕校長の挨拶の中に、設立の理由として卒業生の間で連絡機関がなく席を同じにしても、互いに五高卒業生であることを知らなかったりすることが起こりがちだったということであり、先輩が後進を引き立て、後進の者が先輩の指導を受けることも充分に行うことも出来なかったので之を設立するというようなことが語られてある。 しかし東京に在住している者の間においては明治二十九年には既にその芽生えが見られ同窓会が開催されている。その様子を龍南会雑誌六十一号雑報を参照し掲載する。明治二十九年五月九日、第一回を駒込吉祥時で開き三十年九月まで六回開かれた。三十年に会報第一号を、二号を三十年十二月出した。会は回毎に盛大、会報は毎号段々にすっかりよくなった。次に第二号に所載されている第四回大会の状況を記すことにした。明治三十年二月十三日同窓会を兼ねた大会を開く、逓信技師三根正亮の帰朝歓迎会を吉祥寺で開いた、しかし大会の定期は一月に一回行う規則がある。しかし英国の皇太后陛下の崩御に伴い謹慎の意を表したので大会は今日になったのである。集った者は二十九名で特に嘉納先生、三根氏、藤本氏の出席があった。六時に開会して先ず委員が立って開会宣言し、続いて三根君の帰朝と藤本君の内務省栄転を祝した。三根君が立って謝辞を述べ旅行中の話を行い、日本人の状態、米国社会の有様など見聴きしたことを話された。次に藤本君は名古屋土産なりといって、同地方かその昔織田信長、豊臣秀吉を始め幾多の人傑を生んだところであるが、現在はその墳墓廟社さへも荒廃傾腐している事を嘆き話された。終わって幹事の隈本氏が本会の報告を行ない、例規によって幹事は山川君に交代すべき筈であるが、改選は満場に任せられ幹事に一任ということになった。この後献杯に移りまだ酔っていないものが、『円陣作れ』の号令のもとに三根、藤本の二人を囲み三根君の得意談、藤本君の得意な弁舌が加わった。嘉納先生もこの円陣の中に加われ欧州滞在中の失敗談、社会上の事件に話が及んだ、杯の交換は矢のようであった。数多の酒瓶も凡て寝てしまった。散会は十二時、その他の出席者は鶴田、牧山、田中、岩倉、家入、原口であった。第七回の会合は今一月の制規であるが爽快な『勇士』の『瓶族』討伐の武勇の話を聴くことは楽しいかなと理由に記した。同窓会は五高卒業者、龍南に学んだ同窓生、関係者は会員となろうではないか。以上は同窓会の経過の様子を記してあるものから要約したものである。

ここで議決されている綱領、細則を下記に掲げる、

龍南同窓会綱領

第一条 本会は龍南同窓会と称す

第二条 本会は事務所を東京に置く

第三条 本会会員は龍南会出身大学々生学士及び同会に縁故あるものを以て組織する

第四条 毎年二回春秋に総会を開く

第五条 本会は毎年二回宛て報告書を出し会員の異動を報告する機関に供す

第六条 学士及び独立の生計を営むものは会費として毎年五拾戦其の他の会員は毎年弐拾銭を納めるべし

第七条 本会に幹事三名を置き本会に関する一切の事務を掌らしめる

第八条 幹事の任期は一ヶ年半として総会の都度一名宛を改選する

第九条 会費は報告書調整及び逓送に当て残金は郵便貯金局に預け入れるべし

第十条 預金は総会の決議を経るにあらざれば消費することを得ず。但し在京会員二分の一の出席を要す

第十一条 会費の出納は幹事の名を以って報告者に詳細に提出すべし

第十二条 本綱領は総会在京会員の二分の一の出席で決議したものでなければ之を変更する事を得ず

同窓会細則

一、 龍南同窓会は隔月一回之を開く但し九月及び一月の両会を総会とし他を例会とす

二、 本会に委員五名を置き其の任期は本会開会を周旋すること一回にて終わる

三、 幹事は委員を指揮監督し会の秩序を維持し其の他本会規則の実行を監視する

四、 幹事には例会及び総会の会費を免除す五、 本会に於いては臨時討論演説をなすこともあるべし六、 本会会員は異動ある毎にその旨幹事に報告すべし                                              (明治廿九年四月廿四日議決)