五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

年度末三月を迎えるにあたって

2015-02-28 06:27:50 | 五高の歴史
二月も今日で終わりである。明日からは三月例の如く年度末で官公庁では大変だろう。大学も独立行政法人になって何年になるだろうか?大学の経理事務を30年間から担当させられて来たがただ忙しかったという記憶しかない。特に本省から出て来ている連中は検査院の会計実施監査でもあればびくびくしておおごとしたことが思い出される。我々下っ端ははい、はいというだけで宮使いを腹一っパイ味合された経験がある。

ある時の検査では学生部の課長が学生の奨学資金を貸し付けるに、これは俺が一番知っていると言わんばかりにして貸し付けていたのか?それが丁度検査対象となり結局学生部の仕事が会計まで飛び火して調べられた。それこそ午後五時でで終わるべきところが八時~九時までも続いた。

その課長、常に自分が一番偉いとでも思っていたのか他の部署の担当者の迷惑など全く顧みないものであった。検査院への対応としても如何にもこうしていると言わんばかりで回答、説明していたので、検査官は面白がってあらゆることに対して検査したようであった。既に四十年も経過すると詳しい内容は忘れてしまったが、結局言わないことで済むことを言ったので、我々会計屋が腹一杯迷惑させられた記憶だけは鮮明に残っている。

大学も独立法人になり部局幹部の人事も改善されているが、俺の時代では本省の飯を2~3年食わないとまたは他大学の飯を4~5年食わないと上にはなれない不文律があり俺など結局万年平社員と言う事であった。そのため偉くなろうと考える奴は、部長、課長におべっかを使い本省の飯を、または他大学の飯を、と言う事で早く言えば如何にすれば推薦してもらえるか?それに汲々していたようであった。そのため馬鹿でもちょんでも本省の飯でも食ったものは、大学へ帰るとすぐ課長、部長になりやがては局長までもなっていた。それも採用時には縁故縁引きで採用されているものばかりで、これが国家公務員の採用資格試験に合格していなくてもなっていたので全く頭に来たものであった。俺も若い時は出世もしたいと言う事で他大学へ希望しても結局上司は推薦しなかったのでこのときは頭に来た。昭和37年に中級職に合格したときなど上司からは「本省に行くとは言わんどなあ」と言われたことは忘れない。

知った人が居る。退職してから既に30余年にもなろうと言う今の時期でさえその時代の気分が消えない人のようである。当時の部下の連中は未だもって課長さん、課長さん、部長さん、部長さんと相変わらず呼んでいるようであるが、未だ以て本人はその時代の気分が抜け消えないようで、俺などの対しては時には頭から命令的になってしまう事さえ見え、そのために俺の方から絶対に挨拶でもしないことにしている。そのためあの人馬鹿じゃなかろうかと思う事しばしばであり、その昔の在職中であれば黙って辛抱をしたが世の中に出ればすべての人が共通で、平等であり、それも30年を経た今日そんな人とも付き合っていかねばならないので世の中は大変なところであると思っている。