五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

龍南物語29(対七高野球戦)

2009-07-31 04:19:21 | 五高の歴史
五高の野球部は明治二十年の創立とともに活動を始めていることは第一回入学生武藤校長の「ありし日の思い出の記」に見出される。その後は生徒たちは遊びで野球を行う程度ではなかったろうか、記録等は見られない。しかし明治三十八年の師走、鹿児島の七高から野球試合の申込みがあり、、翌三十九年正月に武夫原で試合が行なわれた、然し十四対四の大差で敗れている。これが七高との野球戦の始まりといわれその後五高・七高戦として数年間続いている。大正二年二月の真冬に習学寮内で発生したチブスでは寮生十人が死亡してしまったこと。四月には習学寮の伝染病は収まったかに見えたので慰霊祭を実施した。しかし習学寮では十月には再びパラチブス患者、赤痢患者が続出したので、学校側は臨時休校を行い寮生の外出禁止、寮を閉鎖してしまった。その後学校側は習学寮の解体処分を行い習学寮の存続さえ危ぶまれたが、大正四年~五年にかけて新習学寮を建設し面目を一新した。学校がこのような事態であったので対抗野球戦等を行なう余裕は生徒側も学校側もなかった。ようやくに落ち着いてきた大正八年に七高との野球戦も復活した。しかし大正15年の対抗戦で寮歌武夫原頭の歌をめぐって、鹿児島七高応援団が「武夫原頭に糞たれて、花岡山に駆け上り枯れ草取っておし拭い・・・・」と囃したことで、両応援団同士の乱闘事件にまで発展し、その結果は以後の大会は中止になってしまった。しかしこの年の五高野球部は黄金時代で全国高専野球大会においてエース高橋一(後の輸出銀行総裁)や主将廣岡知男(後の朝日新聞社社長)等の活躍で、延長十九回の末一対〇で明大専門部を破り優勝を飾っている。スポーツの盛んな五高は昭和十年にはボート部が翌十一年には水泳部が全国制覇を成している。以下の対七高野球戦は上田沙丹氏の原作にはなく大正十三年にこの龍南物語を宮島慎一先生が再販された時編集されたものの一編である。

対 七 高 野 球 戦
先ず選手推戴式が済美館で行われる頃から今まで、ひそひそとその機の至るのを待っていた若人達の血は、熱は、ストームとなり、示威運動となって団長を乗せた大太鼓を引張って熊本市中を練り歩く。時は夏、市中の特志家の振舞う氷のぶつかきをポケットに突っ込んでかじり、歌い、汗は文字通りの滝のよう。
 大正九年春、武夫原は蹂躙せられ、冬、鶴丸城下に殺到した龍南軍は惜しくも返り討ちの悲運に逢い・・・・
 こんな悲愴な物語を聞かさせた私等寮生の感激し易い情は学校そっち除けで応援に咽喉をからす。
 時の古見主将は推戴式の席上登壇最初既に涙。言々句々肺肝を貫く必勝の言葉。済美館粛として声なく。髭の男の児は嗚咽に咽ぶ、駆け登った一人、登りには登ったが、声が出ない、出来るだけの、あらん限りの声を絞って、只
「キット、キット勝ちます」。
を連呼するのみ。
式後武夫原の応援は物凄かった。
   健児一千血は赤し、
   勝たずば生きて武夫原の
   土地を踏まじと誓いけむ
   熱き情はあだならず
   南途四〇里薩南の
   驄蹻屠らん時至る。
武夫原の黄昏、一千の健児は必死に歌い、決死に応援する。
試験も終わった。選手首途式が行われた。
武夫原に置かれた机上には白旗画二本柏葉を抱いていた。式半ばにして風に吹き倒された旗には見る人々の肝を寒からしめた。
 西総務の悲痛なる必勝を祈るの言に再び三度選手の眉字に決死の覚悟が表れた。市中を横断して熊本駅頭の告別式。
   橄欖の花香り
   渾身の血の沸くところ
   意気店を衝く龍南の
   勇敢絶比の野球団
   来たらば来たれ身の程も
   知らで刃向かう敵あらば
   鎧の袖の一振りに
   馬前の座と打ち払え
力ある野球部歌の声援に。・・・
  「勝ってくれ、キット」
  「ウン、キット勝つぞ」
 希望に満ちた十二人の選手を乗せて汽車は粛々と南鎖して軌り去った。
 ワーッワーッ
     
 
夜も明けた。
 上熊本駅発の朝の汽車には時ならぬストームが起こった。手荷物棚の棒に太鼓をブラ下げて叩くのに合わせて歌う歌は「武夫原頭・・・・」に非ざれば南下軍の歌。
 歌い疲れた頃矢岳も越えた。
「愈々敵地に乗り込みました。飽くまでも五高の面目を保たれて、充分自重あらんことを」
井上副団長の注意と共に新しい真白い旗は配られた。各自窓から出した。もう敵を呑み込んでしまった様な気概。その時修繕していた線路工夫、窓から出ている白旗を見て
「ヤーィ、降参旗立てて又負けに来た」と
皆は切歯扼腕、敵概心は弥が上にも燃えに燃えた。
 鹿児島駅に着いてあの大太鼓を先頭に
 「武夫原頭に草萌えて」
を高唱して七高の校庭に乗り込んだ。
七高生の拍手に迎えられて敵の団長、督務の歓迎の辞。我が下村団長の「諸君に再び鶴嶺城下に見ゆるは非常に喜びし同時に非常に残念に思うのであります。」
言々句々、全五高を代表して堂々たる言葉であった。

何時になく目を早く覚ました。
柏葉の白旗は未だ立っていない、鶴丸の赤旗は時を得顔に朝風に翻っていた。
戦いの前の沈黙!
オヽ尊き七月十四日
戦いの幕は切って落された。渡邉館長の始球式、古見主将との握手。五高選手のダイヤモンド巡り。活動写真の様に進んだ。その間。
 若き生命を稱えつつ
 銀の鈴大空に
 響けばひたにとも鳴りて
 黒金の胸一すじに
 忍ぶとすれど血は燃えて
 永久に進めと躍るかなァー
三百に余る龍南健児の口から迸り出づる応援歌には熱があった。
澄み切った鶴丸城下の空気には時ならぬ低気圧が起こった。
戦いは終わった。
六対一の大スコアーで我が五高軍は大勝利を博していた。両軍鳴りを秘め、負けた津田応援団長は進み出て
 「敗軍の将兵を語らず、来年こそは、あの武夫原でキット敵を討って見せるッ」
下村団長は答えた。
「前二回の敗戦により、諸君の胸中察するに余りあり。陣容を整えられて来年は再び武夫原に見えん」
白旗を擁してメガホンで敵陣に慰労の辞を送る団長の姿は勇ましかった。サアこれで引き上げる許り。両軍粛として声なき中に我が五高軍堂々と大太鼓の車を軋らして引き上げた。大道に出てから団長の
 「武夫原頭」
の命令は何時になくすみ切った痛快な響きであった。
「みんなの御蔭で・・・」
涙ながらの主将の感謝に泣かぬものとてない。本当に勝って泣き負けても泣く高等学校生活は感激の生活である。
その翌年、大正十一年、「武夫原は先輩蹂躙の地である」
と豪語して乗り込んだ薩南軍。
 筒井主将の悪戦苦闘も遂にその甲斐なく、無残、遂に敵の団長の豪語をとりひしぐことは出来なかった。
  白旗は低く地に垂れて
  嗚咽の声の漏れし日を
  星は移りて春来たれど
  屈辱の野に花は無し
 臥薪嘗胆、実に屈辱の武夫原に春は来なかった。南下軍は再び敗れた。
 人あり。
 「五高は大体二度負けんば、勝ち切りまっせんなァー」
 と。嗚呼われ、なんの顔あってこれに答えむ。


 
大正十三年三月十七日  入学試験の前夜、擱筆
宮島大道   識