五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

五高の教練査閲トラブル

2013-01-31 04:15:29 | 五高の歴史

先に学校査閲の問題を取り上げたのは、昭和十八年度の査閲で五高生が査閲官とトラブって軍部と対立していたということで、当時の在校生であった方々に話を聞いてみるとその話では生徒は若気の至りで対立したのが実像であった。

この査閲の時には査閲官が五高生の教練態度が頭に来たのか、査閲官は、則ち学校の態度自体が反社会的であるとしたようで、そのため当時の配属将校深草大佐はすぐに前線に転属させられている。

また配属将校を五高から引揚げ査閲官は今後の五高生は幹部候補生の試験は受けさせないと公言したとか、

配属将校を配置しなければ勿論幹部候補生の試験は受けることが出来ないが、そのため五高に於いては校長を始めとする関係教官の心痛ははかり知れないものがあったそうである。

いかに軍部の天下ではあったろうが、学校行政まで口を挟んでいたとは・・・・世の中は変わっても七十年後の今日でさえ、対象こそ変わってもが世情は大変わりしている感じがしないのは全ての人が感じる事ではあるまいか。

この昭和十七年の査閲が行われたのは六月二十八日で査閲官は中島兵務部長であり、五高の配属将校深草大佐は昭和十八年の査閲が終わった直後の十八年七月二十日には罷免されている。

昭和十九年六月の配属将校は、この年四月一日発令された杉本一雄大佐であり、添野校長の辞任はこの年八月三十一日であるのでまだ在任して居た。

昭和十八年の査閲官山口少将は五高から配属将校を引揚げると公言していたそうである。

深草大佐の後任は九月二十五日発令の江口庸太郎中佐であり一ヶ月間以上五高には配属将校は配置されていなく其の任命者は通常は熊本師団参謀長である。

しかしこのときの任命者は服務命課であることも併せて山口少将が五高から配属将校を引揚げると五高を脅かしていたことの証拠ではあるまいか?

そのため昭和十八年度の査閲ではこの汚名を?晴らそうと学校側も努力したことを高森先生の執筆から転載する。続習学寮史P136から・・・
 学校長や、配属将校は何と考えたか、今年の査閲には、私に、総指揮官の役目を果たしてくれ、との懇願である。とんでもないことだ、陸軍大佐でもやりにくいことが、どうして、半教育補充兵の私如き者に出来よう、固より私は言下に断った。けれども添野校長と深草大佐の懇望は、いよいよ切実である。私は已むを得ず生徒一同を武夫原に集め、哀情を披瀝した後遂にわれを折って受託した。決して自慢ではないが帯剣抜刀して小部隊ながら指揮した経験がないでもない。中学時代は、中・小隊長にもなった。五高時代も小隊長となり、時には中隊を指揮したり、当時、全龍南人から心服されて居た。吉弘《寛徳》大佐指揮の下で、全校一部と二部三部からなる二箇大隊の旗手を命ぜられて、旗の位置を心に留めたことも幾度かある。けれども、三十年近くも以前のことである。大学院時代に受けた徴兵検査の時は、固より甲種合格と信じて居たのに、体格検査では誉められながら、以外にも、鼻疾の為とかで第二乙種に落とされてしまった。勉学にも差し支えないのに、と思わぬでもなかったが、それも時勢の然らしめる所とでも云おうか、但し、私はそれが気になって、ある人から添書を貰って九大の久保博士の診察を受けた。”大したこともないが折角来たから“、とのことで即日入院して、鼻柱核の手術を受けたものである。ともかくも、かかる閲歴の私が、無謀にも、引受けたことに就いては、定めし、いろいろと批判されたことだろう。私は考えた。ただ一生懸命に自分で出来る限りのことを、やるだけだ。私の足りない所は、必ずや全部隊の生徒たちが、適時補ってくれるに相違ないと予行演習も、必要でないと申したが、一度だけは是非との大佐の希望で、已むなく、それに従うこととし、一千の健児に向って、端的に徴哀を吐露した後、壇上に立って査閲官の真似事もした。かくて、一未教育補充兵総指揮の下に行われた査閲の結果は、幸いにも前年の不評をとりもどして、好評は、良。学校長も、配属将校も、ようやく安堵した。而してそれは又、青年学徒の、特に伝統に輝く竜南学徒の、真面目でもあったのである。(以上の年度ははっきりしたものではありません)