五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

熊大赤門と五高記念館を訪ねる

2015-08-31 05:47:46 | 五高の歴史
「熊大赤門と五高記念館を訪ねる」久しぶりに五高記念館を復習してみたい。明日は記念館に出る予定であるのでその前準備と思い、記載してみた。

正門
通称「赤門」と呼ばれ親しまれている五高正門は、設計図と共に国の重要文化財に指定されている。設計図と実物を照らし合わせて見ると幾つかの相違点があることに気が付く、設計図には門扉があるようになっているが、創建当時の写真からして、門扉がある記載があるものはない。しかし現在も門扉を取り付けるための金具だけは残っており、どういう理由で門扉が存在しないのか明らかでない。また設計図ではくぐり戸が存在するようになっているがこれまたなく、創建当時に予算的に窮屈であり門扉やくぐり戸は作らなかったのか?ナンバースクールの設計・施工は文部省の直轄工事として行われているので,五高だけに門扉やくぐり戸がないことは不可解な事といわざるを得ない。創建当時の写真には「第五高等中学校」の門札が写っており,当初から門札がなかった訳ではない。何時の間にか門札は行方不明になり数回架け替えられたけれども、その度に持ち去られ、時には中学校を女学校と書き換えたりする等の悪戯が絶えなかったのでそのままにしていたようだ。当時の第五高等中学は九州の最高学府として、人は知らないものはいなく修学旅行のコースに入っていたくらいであるので、学校側、生徒たち共々表札等の看板を掲げる必要を感じなかったようである。

本館
明治政府は明治19年全国を5区に分けて1区に1校の高等中学校を設ける中学校令を公布した。この第5区の学校が熊本に置かれたそれが第五高等中学校である。この建物は当時の文部省の直轄工事として、明治21年(1888)2月に着工し,1年半の月日を要して22年8月に完成した。昭和44年本館と化学教室、正門の三つが国の重要文化財に指定されている。この熊本で最も古い英国式の建物は既に百十数年の風雪に耐えながら、なお優美な面影をとどめているのは,建築当時の入念な設計と基礎工事にあると言われている。基礎工事は約9尺の深さに栗石が隙間無く,埋め込まれており,その石は白川から採取したものでそのためその後白川はしばらくは水が澄まなかったと言われている。石材は石神山から運び、煉瓦は立田山下の旧藩主細川家の菩提寺泰勝寺近くに窯を設置して焼かれた。1階2階とも天井板には全てに一定間隔の隙間が有り,夏は涼しく,冬は暖かいようにと空調の役割をするように工夫されている。記録によれば明治22年7月28日早朝、熊本地区は震度5強の地震に見舞われたが,本館は些かの損傷も無かったためこの建物の評価は一段と高まり九州における最高学府のシンボルとして,職員・生徒はもちろん熊本の誇りとなった。この学校の設立に要した費用は10万円,そのうちの8万円は県の地方交付金であとは1万円を旧藩主細川家からの寄贈,残り1万円は地元篤志家からの寄付で賄われた。建物の建築費は20,504円22銭2厘,これからも当時の地元の熱意が如何ばかりであったか想像できる。

正面玄関
五高時代は閉められたままであったので「開かずの扉」と呼ばれ五高七不思議の一つに数えられていた。ここを開くと災難が起きるといわれ閉められていた。理由としては本館の北側に寮、東側に化学・物理等の実験室があり、西側に職員室、事務棟が建てられ寮生は北から出入りすれば迷惑なく,通学生は東西の出入口から出入りすれば不便を感じなかった。正面玄関の石段と東西と北の入口の石段の減り具合からその事は推測できる。正面玄関は平成5年の一般公開に伴い開放するようにしたものである。

階段
階段は全体が現在では考えられない贅沢な欅材で作られている。この堅い欅材の減り具合からも、この建物の歴史が刻まれている。遣われている欅材は、球磨郡皆越村(現在上村)の国有林で盗伐にあったものを払い下げられて26本を競売によって入手したもので、価格は31円65銭5厘であったが、熊本までの運搬費は、途中の難路に道を作る費用が30円を含めて268円25銭2厘であった。


窓は「上げ下げ窓」で窓の大きさは南側より北側が大きくなっている。これは夏場の日射しを嫌って教室を北側に配置し、北からの安定した光をより多く採ろうとした設計である。窓枠の上と下には石材が用いられている。これは装飾というよりも、煉瓦を積み上げる建物の壁に窓の空間を確保するために必要な構造で、それらの石材の配置がうまくデザインされて美しい外観を呈している。窓の高さは現在の若者なら楽に手が届くと思われるが、明治時代の人間にとっては高すぎる。そのため窓の開閉には少し手間がかかったと思われる。これだけ天井の高い建物にすれば窓の高さだけを低くするわけにもいかず、デザインが優先したものと思われる。古い窓ガラスは現在のもののように表面が完全な平面に仕上がっていない。そのため外の景色を斜めに透かして見ると歪を生じその中にも時代の移り変りが見える。窓ガラスは割れる度に修理してきたので明治・大正・昭和・平成の各時代のガラスがはめられている、手作りのような温かみを感じさせる創建当時のガラスも相当数残っている。


北側の入口や、東西の入口には庇が取り付けられている。これは西洋の建物には少ない造りで日本の雨の多いことに適応するように考えた形態である。先端の「鼻隠し」と呼ばれる部分には幾何学文様が施されている。化学教室の庇にも「鼻隠し」があるが本館とは少々違ったデザインである。庇を支える「持ち送り」には植物の文様の透かし彫りが見え建物によりデザインに差がある。

煙突
五高の建物を外から見ると煙突がついていることがわかるが、屋内に入ると見当たらないので不思議に思う人も多いのではなかろうか。しかし、教室の壁には柱のように膨れた構造が煉瓦を積上げた煙突で、屋上まで続いたストーブの排気装置になっていることがわかる。教室内では上部にストーブの煙突を通す穴(ストーブを使用しないときはブリキの蓋がしてある)下部には煤受けの引き出しがついている。引出しを開けると今尚明治・大正・昭和の煤が時々落ちてくることがある。

この解説は折曲っていた資料を延ばして清書し以下の参考文献を参考にして転載したものである。     参考 五高五十年史 五高70年史 習学寮史 続習学寮史