五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

熊本城の案内の復習

2012-06-04 06:00:23 | 熊本城を散策する

 

 

    

        

     

   

      

   

約一年ぶりに熊本城の案内を依頼されたので写真を並べて検討してみた。コースは櫨方門から入場したいということになっているので多分案内の説明は以下のようなことになるかと思われる。予定時間は一時間三〇分ということであるが折角熊本城へおいでになるのであるのでなにか印象に残るような案内をしたいが・・・・・・・。

下馬橋跡 御幸橋から坪井川の上流を覗き込むと昔の熊本城の南正面入口であった下馬橋が架けられていた跡がある。下馬橋の名はこの橋が正面の登城口であったので此処から先は馬から降りていかねばならなかった。現在の御幸橋は明治35年の行幸の時急坂の南坂を改修して車が通行できるようにしたのが御幸坂である。

 南坂跡 南坂は下馬橋から備前掘りの中ほどまではなだらかな平地で其処から急坂になり坂上の南大手門に達していた。御幸坂半ばの国立病院方面への分岐点から上には、御幸坂と奉行丸石垣の間に南坂の一部がその名残をとどめ、西出丸の南大手門に続いている
備前掘 熊本城本丸は空壕を主とする城である。坪井川や井芹川を水濠として利用しているが、堀と言えるものは本丸東側の備前堀だけで、あとは二の丸から三の丸にかけての城下町の境へ伸びていた。加藤清正の家臣佐々備前の屋敷が近くにあったとする説と細川の代に小笠原備前の屋敷が近くにあったと云う説がある。平成元年、堀の浚渫と護岸工事が行われ竹の丸の井戸からも水が加えられ常時きれいな水をたたえている。

櫨方門 備前掘りを左に見て、昭和41年に再建された馬具櫓の下を鍵形に曲って入ると竹の丸で入場料徴収所が櫨方門である。櫨方門は現在の加藤神社の正面鳥居付近にあったものだが、昭和29年崩壊したので昭和31年竹の丸西桝形の内側の現在地に移築されたものである。寛延2年細川重賢は藩政改革で櫨蝋の生産と販売を藩の専売事業として行うため櫨方役所を宇土櫓の北、現在の加藤神社の場所に設置した。西南戦争でもこの櫨方門だけが焼失を免れた。その後は櫨方跡に設置された陸軍法務部の正門として、また戦後は県立図書館の正門として使われたこともあった。中央に門扉、両側に番人が居る長屋門である。

肥後名花園 櫨方門を通って竹の丸入った所が肥後名花園である。肥後朝顔、肥後椿、肥後芍薬、肥後、花菖蒲、肥後山茶花、肥後菊の肥後六花である。その花の特徴を示すように植栽され、2月から3月の椿、5月上旬の芍薬、6月中旬の菖蒲、8月の朝顔、11月中旬からの菊、そして11月から12月に架けての山茶花が見られる。現在はまだ苗木の時代で何もなかった

長塀 竹の丸に入って右手に見える長い塀が、国の重要文化財に指定されている長塀の裏側である。東の平御櫓下から西の馬具櫓下までの260メートル続く長い塀で坪井川越に眺める長塀は白と黒のコントラストは背景の緑や石垣に映え、熊本城の一つの顔である。竹の丸からは塀を支える石の支柱と塀が貫で固定され構造が解かる。

 石垣 熊本城の特徴は石垣である。その雄大さが基礎になっている。観光客は二の丸駐車場から西大手門を通り頬当門からの入城し、宇土櫓二階櫓下を通って天守閣に行くのが普通であるが、この道順では真の熊本城を見たことにはならないのである。熊本城の雄大さは見事な石垣の構成を一歩づつ確かめて登ってこそ理解できるものだからである。竹の丸から天主閣方面を眺めると加藤清正が築いた武者返しの美しいカーブを描き豪壮優美な石垣が幾重にも重なった向うに天守閣が高く聳えている

竹の丸からの登り口の左側石垣のように石垣が二重になっている所がある。これは加藤時代の石垣に細川時代の石垣が付け加えられたものであるが、両者を較べてみると石の組み方の違いが見えてくる。また石を割った時のくさびの痕が見つかるし中には刻印のある石や茶臼山板碑なども見られ興味深い。竹の丸から飯田丸へ 最初の虎口は元札櫓門のあったところで、ここから正面の石段に出る。石段を登って左に折れ、次に右に折れ、再度右に折れて五階櫓の石垣を廻って行く、札櫓門の礎石を過ぎて左に折れ一直線に石段を登ると飯田丸広場である。加藤清正の重臣、飯田覚衛門が守備を担当した曲輪で、西南角に飯田丸五階櫓がある。しかしここで一番目立つのは城内最大の巨樹クスノキで樹齢800年と推定され飯田丸の北よりには人質部屋跡の井戸がある。

 排水溝 竹の丸から飯田丸へのルートに沿って立派な排水溝が作られている。観光客のほとんどの人が興味を示さず見過ごしている。熊本のように強い雨の降る地域では排水を確実にして於かなければ急峻な地形や石垣の構造物の維持をすることは出来ない。足元の排水まで考慮した目立たない排水溝にも詳細・綿密な計画が立てられて入る。雨の日の特に雨の強い日の入城ででは現在も充分に機能を果たしていることを理解することが出来る。西櫓門 飯田丸の梅園の西にある。飯田丸と御幸坂に改修されている南坂を結ぶ道路に開いた城門である。上部を透かしにした頑丈な二枚門扉の楼門で旧軍時代には櫓は撤去されたが、門の上の横木に西南戦争の砲弾の痕が残っているため屋根をかけて保存してある。東竹の丸 竹の丸から登ってきた道を挟んで東側が東竹の丸である。月見台・午砲台の一段下を取囲む曲輪で市街地を見下ろす眺望もよい。ここには西南戦争で焼け残った櫓群が並んで、田子櫓・七間櫓・十四間櫓・四間櫓・源之進櫓の重要文化財の櫓が続いている。北には平櫓・不開門・五間櫓・北十八間櫓・東十八間櫓があり、城内の十三の重要文化財のうち10がこの曲輪に並んでいる。

地蔵櫓門跡 飯田丸から天守閣へは武者返しの月見台の西側石垣下から北に行き左折して数寄屋丸に向う。そこには桝形に柱穴を持つ礎石があり、三階櫓の地蔵門があった位置を示している。その横に旧礎石の一つが保存されており、門名の由来となった阿弥陀如来の立像が線刻されている。大永2年《一五二四》の記念銘が見える。石段 地蔵門跡から右折して天守閣に向う石段は、幅の長い広い城内屈指の高石段である。一段一段は高さの割りに奥行きが深く登り降りにはリズムが狂って歩き難い。立派な石段ではあるが、こんな不便な階段にしたのか駕籠で通るため、馬の歩幅に合わせたとか、人が歩く時の歩幅に合わせたとか推理が色々あり話題を呼ぶ。最近はその横にきれいな石段が作られハイヒールでも十分に通行することが出来る。

地図石 何時も上から眺めて説明するのであるが今日は石段を登ってきたのでここから数奇屋丸に上った。この地蔵門跡から数奇屋丸に入る箱型の石組を、古くから地図石と呼んでいる。この石組は切り石の組み合わせが美しく構成されており、日本地図だ、熊本城平面図だ、熊本城下町図だと話題を呼んでいる。 

宇土櫓 石段を登り切った正面左に三層五階宇土櫓がある。西南戦争で焼け残った唯一の多層櫓で熊本城の重要文化財の筆頭である。伝承では小西行長の居城であった宇土城を清正が解体移築したと云う説から宇土櫓と言う名があるが研究によれば本本から熊本城に建立されたと言うことになっている。炎上の時の火熱の跡 闇門付近の石垣の石に、丸い凹みが数多く見られる。これは本丸御殿が焼けた時の火が石を熱して出来た傷で熊本城炎上の時の火熱の強さが忍ばれる。本丸御殿の範囲は全部このようになっている。また此処から不開門に通じる両側の石垣にも同様の傷が見られる。尚天守閣への通路付近は6師団当時の軍が補修しているので火災痕は失われている暗がり通路 天守閣の下を通って右に折れ、更に左に折れる桝形の石垣の上に本丸御殿が建設され、闇がり御門が本丸御殿への正式な入り口で「暗がり通路」へは堅牢な石垣に囲まれた薄くらい通路の途中には大広間への入り口「式台之間」に続く階段が設けられ、ここが玄関だったと、そのまま通り抜けると中庭にでられるようになっている。

 本丸御殿

○大御台所 火を使うため小屋裏には煙出しのある。吹き抜けになっている。天井は2尺1寸の丸太を使った梁組を始め、綿密な小屋組みを見ることが出来る。

 ○縁側 大広間の南側に配置された縁側には見学の途中での休息の場として広縁、落ち縁、濡れ縁の三段で構成されている。幅5,4メーター、長さ31,5メーターもある。縁側に坐って見下ろす景色は熊本の城下の町家が眺められ気持ちがよかったことだろう。

 ○数奇屋「昭君之間」の裏手には、清正が作ったといわれる、古田織部の好みの茶室を復元竹格子越に見るだけであるが茶室の使用が望まれる。畳の縁のこだわり25室に分かれた本丸御殿の部屋に敷き詰められた畳の総数は580畳、「昭君の間」と「若松の間」には八代産の「ひのさらさ」が使用され小紋柄に縫った緑の模様に合わせてもぴったりと合致して職人のこだわりが見える。

 ○釘隠し 大広間に使われる菊(天皇)桔梗(豊臣家)桐(加藤家)の紋が入った「六葉釘隠し」「昭君の間」「若松の間」の釘隠しは一つ一つが職人の手作りで昭君の間には文様が際立たせる墨刺しといった技術が施されている

 ○昭君之間 由来は中国の故事に出てくる王昭君の障壁が飾られていたことから来ている。一説にはしょうくん・・・しょうぐんを差し、豊臣家の有事の際には秀頼を匿うと言う役目をになっていたとか。暗がり御門を通って暗がり通路入れば梁は赤松の木材、柱は欅の樹木でこれを見ることも一興はあるといえる。今回の復原事業は昔の部屋数53、畳数1570の約三分の一で、畳数は580畳で総工費54億円といわれる豪華な建物である。この本丸御殿を見学することがメインでここだけは見学して貰いたい、またこのために見学に来る観光客も多い。

 ○天守閣前の広場に入って目につくのが銀杏城の名の由来になった大銀杏の大樹である。加藤清正のお手植えといわれこの銀杏が天守閣と同じ高さに為った時この城には異変が起きるという言い伝えがあった。それが西南戦争である。地上部は枯死したが根は生きており130年を経てまた今日の大きさになった。枯死した古株は130年を経た今日でも風雪に耐えて今も幹の横に立っている。

 ○月見台 天守閣を隔てて本丸御殿の南側に月見櫓があった、そのため月見台の名がある。この月見櫓は日・月の出入りを計って時を報ずる施設でいわゆる時報台であった。陸軍6師団が常駐している間は正午に空砲を撃ち時報を知らせていた。そのため昭和年代の熊本の人々までには午報台の名で親しまれたが、今日の若い世代ではここでドンがなっていたと云うことなどを知った人も全くいなく為ってしまった此処に残っている井戸は本丸御殿の台所用井戸の名残で、水面までの深さが43メートルもあったが長い年月を経て現在では30メートル位か、横手の五郎の首かけ石は手水鉢の台石である。

 天守閣 現在の大天守・小天守は昭和35年に再建された鉄筋コンクリートの現代建築である。木造の建築と違い石垣に乗せたらその重量で石垣が崩れてしまう。そのため、数多くのパイルが坪井川の川床岩盤まで打ち込まれ、その上に新しい天守閣を乗せて、重量が石垣にかからないようにしてある。このことは天守閣に入ってすぐ、石垣と建物の間を覗いて確認できる。天守閣博物館には興味深い資料が多数展示されているが、展示物以外にも興味深いものが多々存在する。 ○熊本城模型図 天守閣内には熊本城下を含めた5百分の一の模型が展示されている。これによって細川時代の熊本城を中心とした藩の地域を立体的に理解することが出来る。今までどこを通って来たかそれを確かめるだけでも色々の新しい発見がある。石垣の上に聳える昔日の姿を想像しただけでもより大きな喜びが引き出される 天守は昭和三十五年熊本市の篤志家による寄付金を中心に熊本市により建築されたこと。熊本市博物館分館として一階部分が加藤時代の史料、二階部分は細川の史料を、三階は西南戦争関係を各中心に展示してあることを説明した。 ○入城口では谷村計介の像の説明その後に掲げてある一口城主の説明、台所用として使用した井戸、その上に飾ってあるかっては暗がり通路を照らしていた提灯を説明し階段を登る。 ○重要文化財になっている波奈之丸の説明、細川藩の参勤交代は豊後街道を大分県の鶴崎まで行っていたこと。ここから瀬戸内海を大阪までの海路に御座舟として使用したこと説明する。ここでは細川藩の展開平面図により現在の熊本城の範囲とを比較してもらう。細川藩の時習館の関する資料は近頃展示換えされたのか、余り記憶にないが初代教授は秋山玉山から八代藩主重賢によって創設されたこと文武両道を奨励し若者の教育に励んだこと。日本の藩校のモデルであったこと等を説明する。   熊本城を科学するからを参考

 

全く久しぶりの観光案内であるので10時30分には二の丸駐車場に出向き団体さんの観光客の具合を眺める.俺の担当の岐西旅行社の糸島観光の「講の旅行「の添乗員に連絡し様子を聞く、「今さっき市内に入りましたお世話になります、11時までには到着します」と返事があった。それを予定し久しぶりの熊本城であるので案内ボランテイアの様子を眺める。俺が余程珍しかったのか、「元気ですか」とか、「この間は五高記念館に行きました」とか、「体の方はもう良いんですか?」と言う人があったが、「俺は熊本城の案内には関係ないのは?」}という具合であまり関係ないようにしていた。先週の「五高記念館でも案内ボランテイアは来られるが、一辺もここには案内して連れて来ないですね」と事務室の方では笑っておられた。とか何とか返事しておいた。11時20分頃講の旅行は到着した。打ち合わせもそこそこに旅行者9名に対し自己紹介した。ガイド申込書の中には櫨方門が解散場所としてある。これは「城見櫓」で昼食する計画のようであるのでここを指定してある。手持ちの資料として上記の説明分を9部作って持って行っていたので、各人に何か参考にするものがあるかもしれませんと配布した。9名に渡したので多分1名位は読む人もあると思われる。案内したところは二の丸公園から上記の写真を説明し頬当て門から首かけ石、地図石を説明し天守閣の2階部分まで説明し本丸御殿へ、西南戦争時に本丸、天守閣等が燃え、その温度が高かったので石垣の石が弾きその様子を説明し暗がり通路を通り御殿へ入る、大御台所を見て藩主の接見の大広間を説明し縁側を説明し、釘隠し、畳等の説明は俺の資料を読んで下さいと頼む。所要時間1時間半が制限時間であるので急がねばならない。どうも添乗員始め客も大分草臥れていたようで名古屋行きの飛行機は18時40分だったと思うが、皆が早く帰ろうと決まったようで観光案内など二の次と言わんばかりに思われた。