五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

吉岡郷甫校長の時代

2012-10-31 05:26:07 | 五高の歴史

熊日主催の小山先生による教養講座「大正デモクラシーと武夫原人脈」が月に2回のペースで開催されている。 先生のレジメを参考に自分の意見を入れ纏めたものを掲げる

五高では疫病事件のため改装中であった習学寮の3個の寮が大正四年から五年にかけて落成し一年生のほとんどが,旧寮のまま残っていた「新寮」とともに寮生活を始めた。旧寮においては「寝室八人、自習室十六人」から「二人一室」にかわった。」 集団主義化?個人主義か?・・

 この時代の校長は第7代吉岡郷甫の時代で吉岡校長はまだ30代の若手校長で学校の各施設の建築を手がけ教頭には修猷館から小松倍一を招聘し自分の分身として学校管理を行わせた。

生徒監には国漢の堀重里教授を起用し・・堀は第7代の七高校長、第2代の福高校長歴任している。・・・堀は自炊記念祭をはじめ旧寮時代の行事を一切中止し、寮生を厳しく指導したが、これは五高伝統の質実剛健を確立し自治を実現し真の高校生活を送らせたい考えであった。大正八年寮生誓詞・・三綱領が作られ習学寮の玄関に掲げられた。

こ時期は寮の復活最盛期で、大正政変の勃発、第一次憲政擁護運動・以降の第一次世界大戦の期間に当たる。国内では中央公論大正五年一月号に掲載された吉野作造東大教授の「民本主義」論文がきっかけとなり旧秩序から解放された「文化享楽の時代」に進み,大正デモクラシーと呼ばれる民主的な風潮が広がった。市民文化繁栄の時代になり世人は貧富の差に目覚めた。国民はどんな精神を送っていたか?大正2年から8年頃の期間の時代を俯瞰し旧制高校生が時代と向き合いどんな青春を送ったかを探りたい。

 ○大正政変以降の時代状況

国内の政治は西園寺内閣の崩壊後、あとは桂太郎内閣が成立した。戦争の実状を国民に秘匿していたため、賠償金は取れず、割譲されて得た領土が樺太 南部だけという結果に、民衆が不満を持っていた。講和条約の内容に関する 鬱積に端を発する日比谷焼き打ち事件も、起こっている。尾崎行雄は不信任の演説を行い、国民不審で50数日の短命内閣そのあとの山本権兵衛内閣はシーメンス事件等に関与し大隈内閣に譲っている。

シーメンス事件は、ドイツのシーメンスによる日本海軍軍高官への贈賄事件である。ビーカースの巡洋戦艦「金剛」発注にまつわる贈賄も絡んで、当時の政界を巻き込む一大疑獄事件に発展した。1914年(大正3年)1月に発覚し同年3月には海軍長老の山本権兵衛内閣を総辞職にまで追い込まれた。

 

○当時の熊本の政界はどう動いていたか

大正四年五月に国権党同志会熊本支部を結成五年十二月には憲政会熊本支部を結成し中央政党の県支部を代行していた

国権党とは頭山満を党首とあおぎ,熊本県で結成された政治団体。明治22年佐々友房が中心となって組織し,国権の拡張を標榜。熊本の政界はどうであったか国権党の安達謙三が出て力を発揮した。国権党安達謙蔵は大隈内閣の時の選挙で力を発揮し立憲同志会、憲政会へ・・・政友会に大勝、熊本の政界はどうであったか国権党の安達謙三が出て力を発揮した。国権党安達謙蔵は大隈内閣の時の選挙で力を発揮し立憲同志会、憲政会へ・・・政友会に大勝し選挙の神様と言われるようになった。

○第一次世界大戦の勃発は(大正三年八月から大正七年十一月頃)

吉野作造の民本主義発表とデクラシー論争は吉野作造は中央公論大正5年一月号で「憲政の根本を説いて其有終の美を済すの途を論ず」を発表した。デモクラシーを民本主義と訳したもので、明治憲法に抵触しない民本主義の波は言論界はじめ知識人たちに大きな衝撃を与えた美濃部達吉は「天皇機関説」を発表したがともに大正デモクラシーの理論的な根拠になっていた。なお中央公論5月号においては上杉新吉が民本主義を批判している

○この当時旧制高等学校の学生は大正時代をどう迎えたのか 一高のケースを通じて生徒たちの状況を考えてみよう。

新渡戸稲造校長の離別式。大正2年4月26日に生徒1000人を前に離別演説、5月1日新旧校長の歓送会、公認は瀬戸虎記であった。、その後生徒500人が新渡戸校長を囲んで雨中の泥道を小石川の自宅まで見送っている。翌年にはアザリア会ができる

新渡戸校長の在任期間は明治39年9月から大正2年4月までであるが、常に西洋かぶれとか排斥運動は続いていた。新渡戸校長が強調した人格や教養の大切さ、社会性の必要は、校風として標榜されていた籠城主義、伝統の剛健主義(ばーバラズム)に対する「挑戦」とみられ新渡戸校長には、しばしば排斥運動が起きている。旧制高校には新しい像が生まれている。久米正雄の中堅会、鉄拳制裁、寮生同士,寮の生活の批判が行われている。新渡戸校長の離別式、新旧校長の歓送迎会の状況は時代の波の中で一高の象徴である「寮自治・・籠城主義の自治皆寄宿生度、、すなはち集団主義、精神主義が揺らいでいることを表している。

口内政治は西園寺内閣倒壊後は特に桂太郎内閣の3次では立憲政治打倒、桂内閣には尾崎行雄等が不信任案を提出して演説した、桂内閣は宮中にいたので玉座を内閣の要にした

○大正3年になりシーメンス事件が明るみに出て山本内閣も潰れ、大隈内閣になった。

 

高まる文学熱

大正時代の前期は自然主義作家を始め夏目漱石、森鴎外ら明治の文豪の代表作が発表されるとともに、耽美と享楽を標榜とする永井荷風や谷材潤一郎が時代の寵児になり、しかし自然主義にこうじ自我の尊重、人間の可能性を信じる理想主義、人道主義を掲げた武者小路実篤、滋賀直哉、有島武郎ら白樺派が大正文壇界の中心的存在になった。

 一高では新渡戸校長が就任してから7年間では前田多門・鶴見雄輔。森戸辰夫、高木八尺河合英次郎,矢内原忠雄等の多くの知識人を輩出、文芸部との交流が深く校友会雑誌への投稿を踏み台に谷崎潤一郎、和辻哲郎、小山内薫が創刊した「新思潮へと繋がっていく

明治43年入学で、芥川、菊池。久米、松岡。倉田、成瀬正一、佐野文雄、落第しているが山本、土屋文明等があるが、逸材揃いである。

山本、芥川、菊池、久米、松岡、成瀬、豊嶋与四郎等は第3次新思潮を創刊大正文壇に新風を吹き込んだ

国はロシア革命で大正六年日本はシベリアに出兵しドイツと単独講和を結んだ。これこそが日本の野心的領土拡張で不幸の始まりであった、ロシア、中国との尖閣諸島、等の問題は未だ解決していない。