五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

習学寮記事から

2015-04-30 03:50:13 | 五高の歴史
熊本大学になって既に70年も過ぎたと思われるが、寮についても五高時代のような風情はないようである。熊大の学生寮になってからも歴史のかってのような歩きはない。それは大学になってから男女同権になりも男子寮、女子寮と建設され五高時代のように落第して置くという考えはなくなってしまった。要するに卒業するためには単位を取っておくと言う事で全く風変りになってしまった。熊本大学の宿舎についてその成立のことなどは知らない方ばかりあろうが、5~60年も経つと全くの新人になってしまう。

ここでは五高時代の習学寮記事の中から総代杉山友吉氏が書かれている習学寮記事を転載して想い出に浸ると言う事にしたい。

龍南一万の諸先輩が一度想い出を人生の華学生生活に致される時先ず第一にピンと頭の中に浮かび上がってくるものは剛毅朴訥精神の養成所、自由開放の楽天地、五高龍南生活であろうと思う。龍田山の散策、江津湖の名月、ボートレース、武夫原頭、それから次々と走馬灯の如き連想は馳せることであろう。そして最も明るく照らし出されて来るものは、勝利の美酒に酔いしれて、無我夢中で過ごされた学生時代と思う。就中丁度我々が故郷の山川思い出し、懐かしの住み家を思い出して懐古の情に溺れて、思わずホロリとなる様に、習学寮を思い出しては夢にも似た心良き感じに打たれた。暫し現実を離れ恍惚たる状態になられることであろう。それは如何につらい、苦しい、思い出であろうと猶懐かしい心地よい思い出として工が画きだされる事であろう。最も印象深く頭の中に織り込まれた同じ釜の中で炊かれた飯を今尚食って生きておる。兄達がかってやったであろう褌一つに下駄の音もやかましくストームも猶色あせはしない。『月があるのに雨が降る』夜突如として起きる、木刀、竹刀、下駄、武夫原乱舞、の大粉乱大ストーム今尚寮では行われている、

武夫原の夕暮れ、松風のどよめきを自然の声と聞き天に向かい大の地に寝そべり遠く星の輝きを仰ぎ見ては未来の大望を夢見る若人もまた今尚兄等がかっては寝た大地の上に寝て居るのだ深夜になった濁世の波の押し寄せるところとなり、先輩の跡付し散策道、立田山も次第にアスファルトの散策道に取り変わらんとしている。四月八日は忘れることの出来ない誕生日だしかも我々兄弟は不思議なことに皆と同じく生まれ出るのである。四月八日の我々五高生の共通なる誕生の祝日だ、入学式、始業式、十時校長の訓示に始まり総代挨拶に終わる。真面目そうな寮への帰りではその元気の始めであるところ一大ストームとなり寮が崩壊せんとする。五月十日新入生の歓迎晩餐会、中央廊下には風刺的な諧謔的な峻烈が張り巡らされた。校長先生をはじめ、諸兄を迎え晩餐会は始まる。会場は万国旗に飾られテーブル上には勿論、山海の珍味が山積み、食し終わって武夫原ダンス、万歳三唱の後閉会、夜は集会所に於いて寮生よりなる余興を行い、興のつきる処もしらない。そして深夜まで寝には付かない。夢中になって翌日の武夫原における教練は左を向いてあわてて回れ右をするものもやはり絶えないようだ。十七日に阿蘇荒牧泊で登山、それで面白いのは旅館との交渉である。雨が一滴でも降ったら泊められぬという。外出が出来ず旅館内で踊られては家が壊れるそうである。二~三年前にも床板をへし折ったらしいそこで今年は河原に電灯を取りつけて茶話会を催し背後に一瀑布掛かり前面には大阿蘇の連山重然見し、左方には数品尺の頂壁天に聳え流れのせせらぎを聞きつつ、十六夜の月にくまなん照らされ大自然の懐にしかと抱かれながら詩を吟じるものあり。手手は余興で一夜をどっと笑わせるあり。若き日の一夜を深夜まで楽しんだ。武夫原乱舞に至っては廿二回も踊り抜いた。旅客唯唖然として欄干に係り意気に呑まれ天下の5高生に浴びせるのみであった。習相恋気益々盛んにして大に小生の言にしては及ばない。列車中のストーム、列車の転覆を気遣った。更に第二学期三学期に於いては球磨川下り、雲仙岳の山が控えている。習学寮は常に過去五十年の間意気に燃え上がっている。その光はひろく、全日本に輝き浸っていくのも近い将来のことだ。習学寮よ燃えろ、燃えろ、阿蘇の噴煙の尽きざる限り、人類が生存する限り、火鉢の火が赤々としてみるほかは木枯らしが吹き荒んでいる。大きさ鉄の火鉢を取り囲みながら談話はつきなしともしない夜の永い冬の一夜の語らいも愉快なる思い出に残るであろう。