五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

謀反論の講演を聞きに行き感じたこと

2011-01-31 06:08:10 | 五高の歴史

昨日は熊本近代文学館で開催された中村青史先生の徳富蘆花の「謀反論」の講演を聴きに行って来た。聴衆は文学の専門家ばかり50人ばかりであった。私など全くの素人であるし大逆事件について知っていることは官憲が明治天皇の殺害することを狙った左翼的思想の者を取り締まったと言うくらいである。ただ常識的な知識しか持ってなかった。また蘆花については兄蘇峰とのかくとう等について何回か講演会等を聞きにいったことがあるが、蘇峰に関心を持ったことは、資料館に寄付して貰った五高東光会の綱領の掛け軸は戦時中は五高の生徒はこの綱領を背負い避難したとか言うことを聴き、この綱領の執筆者こそが蘇峰その人である。

五高60年の歴史を昨日まで纏めていたが、五高の思想の変遷をここで転載してみる。大正9年には第1回のメーデーの開催等々と、五高の生徒周辺もめまぐるしい環境の変化が起こっている。1922(大11)年5月には後藤寿夫(林房雄)(大12文甲)鶴 和夫(大12文乙)松延七郎(大13文甲)等々を中心に左翼的な思想の社会科学研究会(以下社研という)が生まれ県内の左翼的運動を支援している。全国規模の運動の蔓延をおそれた政府はすぐに左翼思想の弾圧に乗り出した。しかし五高の社研は溝渕校長の命により1924(大13)年11月2日の文部大臣の全国高校社研解散命令に先立ち解散させられた。しかしその後も五高社研は非合法に活動している。

これに対し右翼的思想の台頭もあり徳富蘇峰、中野正剛等の国家主義精神を受け継ぐ五高東光会が江藤夏雄(大14文甲)納富貞雄(大正14文乙)星子敏雄(大14文甲)園佛末吉(大15文甲)等々で立田山の中腹、龍田山荘を本拠地に生まれた。五高東光会はその精神が国の政策と合致したためか当局から睨まれることもなかったので1950(昭和25)年の五高閉校まで存続している