五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

大正時代は五高生に思想的対立が勃興した時代

2013-02-28 04:12:23 | 五高の歴史
社会思想研究が勃興すると相伴って一般生徒の間に自我への確立、個性の開放を叫ぶ声が非常に起って来た。こうした人々は試験中を除いた普段は学校の勉強は余りせず各自自分の課題を研究して行った。この様な状態で昔の様に高校生活をあらゆる方面における豊かな人間的教養の時代、そうしてのんびり暮らそうという浪漫的な夢は破壊され高校生活は何等かのイデオロギーに立脚した思想生活であるという風潮が生じた。

この時代に読まれた書物は哲学、文芸のものが多く倉田百三の「出家とその弟子」西田幾太郎の著書、村岡尚五郎の「知識の問題」阿部次郎の著作、外国のニイテエ、ツルゲーネーフ、トルストイ等の著書であった。寮に於いては賀川豊彦一の「死線を超えて」永井潜の「生命論」河上肇の「近世政治思想発展史」島田清次郎の「地上」や有島武郎や石川啄木も喜ばれた。

社会思想の研究は寮外では活発であったが、寮内ではあまりその影響は受けなかったと言って良いだろう。残寮を許可される上級生は思想堅実で真面目な成績優秀なるもののみであった。多くのものは長者の風を備えていたので生徒たちは互いに提携して寮の発展に努めていた。

この時代寮監と生徒の一部が集まって会食したのは思想善導の道もあったようである。
昭和十二年正月RF会は解散し、社会思想研究会が創設された。蓋し研究会は純学究的に社会思想の批判及び研究に従った。そうして実際の運動に立ち入らないようにとの趣旨で公認されていた。

この時期習学寮も着々と進歩改善して十一年五月までに食堂は改築され十二年の五〇周年記念には炊事積立金によって知命堂が新築された

十三年は龍南史上思想的対立の最も激しい時で非常に混乱して混迷した時期であった.就中社会科学研究会の活動は最も盛んで弁論大会等に於いては会員が独占するという有様であった。

 これに対しこれより先学寮を母体として江藤夏雄、只松哲雄、吉川溶一、納富貞雄等が「光は東方より」を標榜し「東洋文化の真精神を体得し、以て社会人として其の自然の生活に生きる」を目的として五高東光会が設立された。大川周明、安岡正篤等を招聘して講演や指導を受けていた。満州事変に先立つこと十数年前、既に東亜に於ける今後の問題は支那にあると盛んに支那研究に没頭していた江藤夏雄等後の満州事変、支那事変を考慮に入れていた東光会の動きは大きな意義を残していたと言わざるを得ない。
この様な事情で理論の研究を離れて実践的な傾きが多分にあったので取締法規も俄かに厳重になり12月2日には社会科学研究会の解散命令が文相名で出され、この喧しい情勢の只中にあって、寮は健実平静を保つことを得た。