五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

龍南会のマンネリ化

2010-01-06 04:05:21 | 五高の歴史

五高の歴史を紐解いて来たが、エピソードは五高創建から十年位の時期が一番面白く、今だから云えるのだろうが、後の世の世界的なブランドと言えるハーン・漱石の両教授が在職して居たことも理由かもしれない。全国的ブランドとなれば嘉納治五郎・秋月胤永等々枚挙に暇がない。

 

明治二十四年に設立された龍南会も三十年代になるとその運営に教官・生徒共々にマンネリ化し関心を持たなくなった。しかしハーンが二十七年には五高を去ったがその後任と言える漱石の赴任があったことに加えて、龍南会雑誌もその 沈滞期を破って、活動、躍動の時期が訪れている。その第一の表れは風雲録欄の新設にある。これ校風刷新の大旆の下に、時事論掲載の企画であって第七十六号に於いては紫洋逸人の「学寮五分論」がでて、賛否の論が喧しく起り、遂には当時の習学寮では各部人員の配置で法科・文科・二部・三部・工学部の五分論が実現されることになった。これまで年に六回発行されていた雑誌も四回の発行に縮小され、龍南会は会長・校長の下で継続されていったのである。