五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

五高創立当初の修業年限

2011-11-30 05:45:10 | 五高の歴史

五高創立当初の修業年限創立当初(明治20年)に規定された修業年限は予科三年、本科二年、計五年の年限であり翌年(明治21)よりその下に更に補充科二年を加えて七年となり中学卒業は、予科三級に入学させる規定であった。

 

而して帽子の徴章は今と同じく柏と檄覧の葉を交互に出し、中央円型に五高の字を表わし、本科は白線三条、予科は二条、補充科は一条であった。その後度々学制改革があって、補充科は廃せられ、終には予科・本科を合わせて現在の通り三年制度になった。

 

今之を表示すれば下記の通り、

    七年   六年       五年  四年 三年      二年    一年

    一級   二級       一級  二級 三級      一級    二級                        

 

本    科二年       予   科 三年       補  充 科二年

 

 

 

 創立当初の明治20年には予科三級のみの募集であったから。順調に進んだ人は、それより五年後の明治257月、第1回の卒業生となって出ているが、翌21年度に補充科二級に入学した人は、七年目の明治28年に第4回卒業となったわけである。尚、これは少し後の話になるが補充科二級から入学した中で道草を取り途中念の入り過ぎた人には、八年以上も竜南生活を送ったということを、一種の誇りとした豪傑もあったそうな・・。

 

明治21年第五高等中学校一覧第6章入学在学退学規定

第二条 入学を許すべき者の年齢は予科第3級に於ては満14年以上とし同第2級に於ては満15年以上とす其他之に準す

 

第三条 本科第一学年級に入学せんと欲する者には尋常中学校第五年級以下予科第   3級に入学せんと欲する者には尋常中学校第2級以下の学科及び其の程度に依り学力試業に及核検査を受けしむ

 

第四条 本科第2年級若くは予科第2級以上に入学せんと欲する者あるときは先ず本科第1級若しくは予科第3急に入るべき学力試業及体格検査を経尋て其の入らんと欲する級に合格すべき諸課目の試業を受けしむ

 

 

武藤虎太・第1回入学者、ありし日の思い出より

 

自分が五高に入ったのは明治二十年十月創立の際であった。当時は旧城内の西端古城の家屋を借用して授業を開始されたその頃は予科三年本科二年其の後補充科が設けられてこれが二年通算七年で、中学校卒業者は予科三級に入学するのが掟であった。帽子の徽章は柏と橄欖の葉を交互に出し中央円型に高の字を表し、本科は白線三条予科二条補充は一条であったと思う.其の後度々学制の改正があって補充科を廃し予科本科を合して三年となり帽子も白線も二条となった。

 

 

創立の頃までは高等官蓄馬の名残で校長も教頭も皆馬を飼ったものだ。其の際学校で乗馬三頭馬丁一人を置きてそれに校長の馬と教官として聘せる警部の馬と合計五頭を素鞍のまま山崎練兵場に牽きだし、各組五人宛交互に乗馬生を筒抜し頗る硬教育法では教官は馬の後脚一此肢を曲げて乗馬生をして後方から走りがかりに馬のさんずに飛乗らしむるので時には馬の臀部に頭を打ちつけ少なからず馬を驚かした事もある≪中略≫さるにても乗馬馬丁の経費は如何にして支弁されたものか後にて聞けば、図書費の大部を振向けられたものだそうな。初代野村校長の面目躍如たるものがある。

 

 

明治二十年頃は中学でもベースボールが創められて居たので、五高にも野球の一団があった。併し器具といえばバットとボールとシートだけでマスクもミットも脛当ても胴もない皆徒手空拳で打つ掴むので、随分危険であった、而も鉛を包んだ皮張りの球で捕捉も容易でなかった。殊に規則とても詳細の規定はない。フワウルは何度やっても三打の外で時間の懸かること夥しい。デットボールだからとて一塁を取るのは利得もなく結局打たれ損である。バントだの犠牲だなどという小悧巧な方法も知らぬ随分未熟なものであった自分は一度古城内の球場で二塁手となった。折しも真向から日光直射して打者の球を受け損じて鼻下に中り其の場に卒倒し上顎の歯二本歯艱部から折れた。以下《略》  

 

 

龍南懐古捨遺 友枝高彦の中から、龍南200号

 

初期の五中といえば自分等は直ちに有進校を連想する。有進校は五中の予備校であって坪井の菓子屋の二階が教場となっていた。校主は余田司馬人先生で五中に入学しようとするものは先ず有進校の門をくぐらなければならなかった。教師としては余田先生が英語を教えられ五中の上級者も教鞭を執っていた。予は二ヶ月計りここで準備して補充二級というに入学することが出来た。