五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

戊辰戦争時の会津藩士秋月胤永の立場

2012-01-31 05:08:26 | 五高の歴史

秋月の不在中の京都では時勢は大きく変わっていく
幕府・・長州藩に第一次出兵の責任を求め領地の削減を提案、高杉晋作・桂小五郎等の台頭、・・・藩は討幕に変わる・・薩摩藩、薩英戦争の敗北・・・攘夷運動が不可能な事を悟る。西郷隆盛、大久保利通等の下級武士の革新派の武士に実権が移り、英国に接近し開明政策に転じた。

1865年幕府は第2次長州征伐を宣する。翌1866年坂本竜馬、中岡慎太郎の仲介で薩長同盟が結ばれる。長州藩は高杉晋作・大村益次郎の活躍で勝利する。7月家茂の死去、8月征長中止の建白書,勅命により休戦成立

この時(1866年)秋月に帰還命令が出され1867年3月京都に帰る。高崎は京都の留守居役、会津藩は武力討伐に反対、西郷隆盛等と対立する。

時局の変遷・・
大政奉還・討幕の勅命下る・・王政復古の大号令が小御所会議で決定される。・
鳥羽伏見の戦いで戊辰戦争の勃発・・北白川能久親王奥羽越藩同盟の盟主に、
長岡攻防・・40日間の籠城の上会津城落城・・函館戦争により戊辰戦争終結する
・・・ここに於いて薩摩・長州・土佐・肥前中心に中央集権制の道が開かれる

秋月は軍事奉行添役として奔走する、

長岡の激戦(5月から7月)に参加する。飯盛山8月23日会津若松城1ヶ月に及ぶ籠城、白虎隊19名の自刃・・・家老の西郷頼母は城内には入らず一族21名と共に自刃する。

降伏の使者として降伏式を取り仕切る
家老手代木直右衛門と城を抜け出し、板垣退助に会い、降伏嘆願書を提出、9月22日正午、追手門前甲賀通り、赤い毛氈と薄べり、毛氈に官軍、薄べりに会津藩座る、官軍・軍監中村半次郎、軍曹山形小太郎、松平容保23日まで妙国寺ヘ、家臣は猪苗代で謹慎、傷病兵は青木村へ
この猪苗代時代に奥平謙輔と再会し松平容保の心を伝え寛大な処分を求め、山川健次郎、小川伝三郎の教育を託す・・東松峠で北越潜行の詩生まれる。

秋月にも終身禁固の刑がおりて東京市の獄に・・・家老菅野権兵衛に切腹・・ついて秋月胤永の終身禁固の重罪・・熊本江戸屋敷半年・美濃高須藩2年・名古屋明治4年・青森県下北郡の斗南藩(野辺地)・・会津藩の跡・・に幽閉される   長州藩は秋月を官賊、敵としていた

一ヶ月後明治5年正月恩赦・・それは戊辰戦争から3年4ヶ月経っていた。そして
郷里会津、若松県に帰ったのである。

以後教育者の道へ明治5年3月上京、東大予備門,一高で教鞭・・五高教授へ
国体の本義・忠君愛国、国民道徳の大切さ・・君は何藩の者かを名乗らせ・・
「国家の将たる器」「国家有為の人材たれ」を強調した。

陸軍第6師団で講義、師団長北白川能久に随伴した高崎正風と再会する