五高の歴史で一番のイベントは昭和十二年に開催されている開校五十周年記念式ではなかろうか、この時はまだ満州、関東州、朝鮮、台湾等々の海外で五高卒業生が活躍していたことは蒐集された色紙でもそのことは確認できた。ここでは六十周年記念式が行われた昭和二十二年十月十日までの十年間の主なる事件等をおってみた。
昭和十三年
四月二十九日
天長節、渡鹿練兵場における観兵式に参加し元気旺盛にしてよしと批評される。長髪者 数名列外に出される。
五月九日~十三日
連夜のストームで生徒課より取り締まるように通達される。
五月二十日
徐州陥落につき提灯行列行われる。
五月二十五日
臨時試験中にかかわらずストーム乱発される。
六月七日
生徒課より「風紀取締り厳重に且つ積極的に出る」旨達しある。
六月八日~十日
七日の反動でストーム又連発する。
十月二十七日
漢口陥落
十月二十九日
ヒットラー・ユーゲント来熊する
昭和十四年
一月二十二日
兎狩り行われる
二月
便所の壁に戦争論紛々、相当に反戦空気強い。
二月十六日
寮歌原稿中二編時事問題に触れていると言うことで削除される。
七月三日
阿蘇道場の立案成立する。
七月九日
寮総代強制髪刈の処置に出る。
十一月十一日
新市街で所謂学生狩り突如行われる。
昭和十五年
一月三十日
十時校長の後任添野校長新任する
二月九日
山形教授逝去する
五月五日
ボートレースされる、街頭ストーム事件起きる
九月
この頃内務省、文部省からの種々の禁令出される。
十月七日
長髪の廉で寮生十三名警察へ召喚される。
十月十七日
剛健旅行と変名変形して球磨川下り行なわれる。
十一月十日~十一日
二千六百奉祝日、トリンケン許可、大暴れする
十二月十六日
寮歌発表「興亡の民雄叫びて」
昭和十六年
二月
先輩連の新体制に対する寮についての関心高い。
二月十日
送別晩餐会での武夫原乱舞取り止めになる。
四月五日
新寮生誓詞掲額式 毎朝食堂にて綱領唱和始まる。
九月十七日
龍南学徒報国隊結成される。
九月三十日
寮歌発表される「流星い逝き人去りて」
十月二十二日
現二年生は明年九月卒業と決定される。徴兵延期短縮される。
十一月十七日
幹事会に於いて寮の建て増し決議される。
十一月十八日
全校の校外勤労作業始まる。
十二月八日
大東亜戦争勃発する。
昭和十七年
一月十八日
全国一律主義大日本学生団員来る懇談する。
四月十八日
第一回本土空襲に見舞われる。
七月十一日
酷暑に付きホック、ボタン二個を外して歩くこと許可される。
十月十日
開校記念日の記念講演、大川周明氏の「大東亜共栄圏の歴史的基礎」
十月二十三日
所謂無法なる「学生狩り」が行われ数名の検挙者を見る。
十二月四日
文部省より村田大佐来寮し寮に宿泊する。寮の陸士・海兵化を主張する。
昭和十八年
一月十八日
来るべき新学期からの学制改革発表される。高校二年二十四時間教育
全寮制、文部省修練要綱発表される
寮生大会行なわれ禁煙・・煙草梵捨てを行なう〈午後十二時〉
四月一日
高校の新課程による要項に転換される
四月三日
寮母採用される
六月四日~~~十日
終夜灯の設置を自習室に要望するも容れらない。
六月十九日
野球追放になる野球の対抗戦は禁止される。
六月二十八日
教練査閲、散々に貶される
九月二十二日
学徒出陣決す。
昭和十九年
四月十一日
報国隊防空補給隊を編成
五月一日
四寮新館落成式挙行、三年生の動員決定する
五月二日
生徒課独断により次期寮総代を総務兼任と発表する。
五月四日
総代、総務兼任の不可を生徒課へ通達する。
五月十二日
文科、理科生三年動員に出発する。
五月十七日
特別防護隊編成される。
五月二十五日
楠木正成公祭を開催する。
六月十五日
米空軍B29第一回の本土空襲を行う。
七月十四日
文科二年生も出勤させられる。
七月二十日
電力節約のため寮の日課の変更、東條内閣総辞職する。
七月二十七日
十八年度寮歌発表「皇みくにの鐘鳴りて」
八月
夏休み十日間名前も変更される。
九月五日
陸軍航空本部の工員二百五十体育館に宿泊する。
九月六日
理科二年生に動員命令出る。
九月十六日
幹事任命の掲示剥ぎ取られる
九月二十七日
添野校長後任、新校長に本島一郎氏就任する。
十月十八日
兵役法改正により満十七歳より第二国民兵として防衛召集される。
十一月三日
非常点集がはじめて行なわれこの後しばしば行なわれる。
昭和二十年
一月十日
ついに文科一年生の動員出勤始まる。
四月十九日
全校出勤
七月一日
新入生入寮、夜半熊本市焼夷弾攻撃を受け焼失する。
七月八日
義勇隊結成式
八月十五日
日本無条件降伏により終戦
九月~
高校三年生への復活、頭髪、禁煙、その他の禁示ゆるむ。報国隊その他
戦時団体解散、生徒課の機構変革、生活課、厚生課設置される
昭和二二年
十月十日
開校六十周年記念祭挙行される。
以下は六十周年記念式の模様を七十年史から転載した。、
昭和二十二年十月十日開催、
混沌たる世情と窮迫せる生徒との中に時の白駒は瞬時も其歩を止めることなく、碧落高い肥州の秋深く十月十日五高創立六十周年記念祭は訪れた、
第五高等学校の終焉を包む美しいベールと共に、かねてより此準備ををさをさ怠りなかった学校記念祭委員会(委員長 長野吉章、総務委員長)寮祭準備委員会(委員長 富田優総代、深沢立太郎総代)の手により記念祭の幕は切って落とされた
十日午前九時より講堂で記念式典、全校職員生徒十有余の参列あり、本島一郎第十二代学校長の祝辞を読まれる声も喜びにふるう。ついで職員代表として安達龍三教授の祝辞、生徒代表長野吉章総務委員長の祝辞、更に来賓先輩代表、福田虎亀熊本市長の祝辞、祝電披露あり。これらの間各新聞写真班のフラッシュが飛ぶ。
終って記念文化講演として、東北大教授、松隈健彦博士の「現在の宇宙観」と題する講演と熊日社長・参議院議員・佐々弘雄氏の『祖国の再建』と題する「延々4時間に亘る熱弁あり。此の間に午後一時より寮から富田総代の指揮で三十名程の有志JOGKより寮歌『武夫原頭』が放送の為録音、・・・・(以下略)
平成二十二年も明日は三月三十一日、今日を以てこの「五高の歴史・落穂拾い」もこのあたりで約二年間に渉った掲載を休止することにした、拙い文章を読んでくださった方々有難うございました。・・今後は気が向いたときには時々歴史の落穂を拾って見たいと思う、
昭和十三年
四月二十九日
天長節、渡鹿練兵場における観兵式に参加し元気旺盛にしてよしと批評される。長髪者 数名列外に出される。
五月九日~十三日
連夜のストームで生徒課より取り締まるように通達される。
五月二十日
徐州陥落につき提灯行列行われる。
五月二十五日
臨時試験中にかかわらずストーム乱発される。
六月七日
生徒課より「風紀取締り厳重に且つ積極的に出る」旨達しある。
六月八日~十日
七日の反動でストーム又連発する。
十月二十七日
漢口陥落
十月二十九日
ヒットラー・ユーゲント来熊する
昭和十四年
一月二十二日
兎狩り行われる
二月
便所の壁に戦争論紛々、相当に反戦空気強い。
二月十六日
寮歌原稿中二編時事問題に触れていると言うことで削除される。
七月三日
阿蘇道場の立案成立する。
七月九日
寮総代強制髪刈の処置に出る。
十一月十一日
新市街で所謂学生狩り突如行われる。
昭和十五年
一月三十日
十時校長の後任添野校長新任する
二月九日
山形教授逝去する
五月五日
ボートレースされる、街頭ストーム事件起きる
九月
この頃内務省、文部省からの種々の禁令出される。
十月七日
長髪の廉で寮生十三名警察へ召喚される。
十月十七日
剛健旅行と変名変形して球磨川下り行なわれる。
十一月十日~十一日
二千六百奉祝日、トリンケン許可、大暴れする
十二月十六日
寮歌発表「興亡の民雄叫びて」
昭和十六年
二月
先輩連の新体制に対する寮についての関心高い。
二月十日
送別晩餐会での武夫原乱舞取り止めになる。
四月五日
新寮生誓詞掲額式 毎朝食堂にて綱領唱和始まる。
九月十七日
龍南学徒報国隊結成される。
九月三十日
寮歌発表される「流星い逝き人去りて」
十月二十二日
現二年生は明年九月卒業と決定される。徴兵延期短縮される。
十一月十七日
幹事会に於いて寮の建て増し決議される。
十一月十八日
全校の校外勤労作業始まる。
十二月八日
大東亜戦争勃発する。
昭和十七年
一月十八日
全国一律主義大日本学生団員来る懇談する。
四月十八日
第一回本土空襲に見舞われる。
七月十一日
酷暑に付きホック、ボタン二個を外して歩くこと許可される。
十月十日
開校記念日の記念講演、大川周明氏の「大東亜共栄圏の歴史的基礎」
十月二十三日
所謂無法なる「学生狩り」が行われ数名の検挙者を見る。
十二月四日
文部省より村田大佐来寮し寮に宿泊する。寮の陸士・海兵化を主張する。
昭和十八年
一月十八日
来るべき新学期からの学制改革発表される。高校二年二十四時間教育
全寮制、文部省修練要綱発表される
寮生大会行なわれ禁煙・・煙草梵捨てを行なう〈午後十二時〉
四月一日
高校の新課程による要項に転換される
四月三日
寮母採用される
六月四日~~~十日
終夜灯の設置を自習室に要望するも容れらない。
六月十九日
野球追放になる野球の対抗戦は禁止される。
六月二十八日
教練査閲、散々に貶される
九月二十二日
学徒出陣決す。
昭和十九年
四月十一日
報国隊防空補給隊を編成
五月一日
四寮新館落成式挙行、三年生の動員決定する
五月二日
生徒課独断により次期寮総代を総務兼任と発表する。
五月四日
総代、総務兼任の不可を生徒課へ通達する。
五月十二日
文科、理科生三年動員に出発する。
五月十七日
特別防護隊編成される。
五月二十五日
楠木正成公祭を開催する。
六月十五日
米空軍B29第一回の本土空襲を行う。
七月十四日
文科二年生も出勤させられる。
七月二十日
電力節約のため寮の日課の変更、東條内閣総辞職する。
七月二十七日
十八年度寮歌発表「皇みくにの鐘鳴りて」
八月
夏休み十日間名前も変更される。
九月五日
陸軍航空本部の工員二百五十体育館に宿泊する。
九月六日
理科二年生に動員命令出る。
九月十六日
幹事任命の掲示剥ぎ取られる
九月二十七日
添野校長後任、新校長に本島一郎氏就任する。
十月十八日
兵役法改正により満十七歳より第二国民兵として防衛召集される。
十一月三日
非常点集がはじめて行なわれこの後しばしば行なわれる。
昭和二十年
一月十日
ついに文科一年生の動員出勤始まる。
四月十九日
全校出勤
七月一日
新入生入寮、夜半熊本市焼夷弾攻撃を受け焼失する。
七月八日
義勇隊結成式
八月十五日
日本無条件降伏により終戦
九月~
高校三年生への復活、頭髪、禁煙、その他の禁示ゆるむ。報国隊その他
戦時団体解散、生徒課の機構変革、生活課、厚生課設置される
昭和二二年
十月十日
開校六十周年記念祭挙行される。
以下は六十周年記念式の模様を七十年史から転載した。、
昭和二十二年十月十日開催、
混沌たる世情と窮迫せる生徒との中に時の白駒は瞬時も其歩を止めることなく、碧落高い肥州の秋深く十月十日五高創立六十周年記念祭は訪れた、
第五高等学校の終焉を包む美しいベールと共に、かねてより此準備ををさをさ怠りなかった学校記念祭委員会(委員長 長野吉章、総務委員長)寮祭準備委員会(委員長 富田優総代、深沢立太郎総代)の手により記念祭の幕は切って落とされた
十日午前九時より講堂で記念式典、全校職員生徒十有余の参列あり、本島一郎第十二代学校長の祝辞を読まれる声も喜びにふるう。ついで職員代表として安達龍三教授の祝辞、生徒代表長野吉章総務委員長の祝辞、更に来賓先輩代表、福田虎亀熊本市長の祝辞、祝電披露あり。これらの間各新聞写真班のフラッシュが飛ぶ。
終って記念文化講演として、東北大教授、松隈健彦博士の「現在の宇宙観」と題する講演と熊日社長・参議院議員・佐々弘雄氏の『祖国の再建』と題する「延々4時間に亘る熱弁あり。此の間に午後一時より寮から富田総代の指揮で三十名程の有志JOGKより寮歌『武夫原頭』が放送の為録音、・・・・(以下略)
平成二十二年も明日は三月三十一日、今日を以てこの「五高の歴史・落穂拾い」もこのあたりで約二年間に渉った掲載を休止することにした、拙い文章を読んでくださった方々有難うございました。・・今後は気が向いたときには時々歴史の落穂を拾って見たいと思う、