五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

大正期には五高文壇の黄金時代を迎える

2013-03-02 04:23:59 | 五高の歴史
大正十四年当時の寮生は自治ということに一大関心を持っていた。そのため大改革を断行した。

それは寮生の意見発表、各種の事業発表の場として寮報の発行、病室の大改装,理髪所の修繕、浴場の大改造、水道の設置、洗面所の大改善等や委員制の確率,総代委員事務室の新設、寮生専用のテニスコートの新設等々である。

熊本市内には電車、水道等が完成しその記念事業のため共進会が開かれ熊本市は大発展を遂げた。このため五高生の中には享楽派も生まれた。

大正13、14、15年は竜南文壇の黄金時代で文芸熱が高まり、同人雑誌が相次いで発行された。

校友誌「竜南」短歌「山上」詩「翼」創作で「三四郎」「まな」等で市内ではかなり活躍している。十五年には熊本全市を圧倒していた七高との野球戦が衝突で中止となった。しかし五高野球部は高専全国大会において優勝し黄金時代を現出している。

その後七高との野球戦は裏面に潜むいろいろの情弊の問題が癌となって断固として開催は拒否された。生徒側はあくまで復活を望んだが学校側は復活を許さないので生徒側は野球戦に代わるものとしてボートレースを開催することに全力を傾けた。

文科・理科の対抗レースは街頭デモをふまえて昭和三年より盛大に開催されることになったのである。

以下熊日教養講座「五高と近代日本」小山先生の話で纏めているところを掲載する


大正11年から昭和初期にかけて、五高では生徒たちの文学熱が高まった。文学界は武者小路実篤らの「白樺」の影響が薄れて芥川龍之介の全盛時代になってきた。短文学世界へ
学生の秀才組は東大法科の高級官僚への道を捨て文学者、小説家を志したのもこの頃でありS2,7,24には「ただぼんやりした不安」と書き残して芥川は自殺した。世情は不況の激しさを増し重苦しい時代の到来を予期させるとともに「大学は出たけれど職はなし」の時代に入って行った。転換期を迎えていた。ここではこの時代に龍南会雑誌を舞台に活躍した文学青年にスポットを当ててみたい。森本忠八「僕の代石庭、日本談義、小さな文学史」を表す。その他幸徳秋水とあってすべて実名で書いている。自分たちで話す言葉で文学論を書いている。しかし自分にたいしても厳しい。

〇噴煙の見える町で青春の日々を送った犬養孝一について「万葉12ヶ月」
 犬養孝一 大正14年文科乙入学し昭和4年卒業する
 東京生まれ 東大文学部卒、大阪大学名誉教授、甲南女子大学名誉教授、
 万葉の故地を歩き、歴史と風土の中に息ずく万葉歌人の歌心を現代に伝える独自の万葉学の世界を創り出し注目された。
 熊本の地に憧れて五高に入学した。漱石の二百十日や啄木の一握の砂を読んで噴煙の見える熊本にやってきた。昭和四年一月十二日は阿蘇に十一回めの登山を強行していたがこの日は阿蘇は 大爆発を起こしていた。

 これが万葉学者としての出発点であり五高時代の上田英夫先生の教えが大きかった。そのも後も阿蘇の噴煙と上田英夫教授の存在は大きく万葉集の講義は青春の日に変わらず燃えつづけ東大 の卒論に万葉集の論文を表し上田先生が「最初に種をまいてくれた」と感激している。 昭和54年の歌会始では召人になり「大王の国見立てしこの丘に愛なしきかもよ早蕨の萌ゆ」を表し ている。この時上田先生の顔が頭に去来し感激を抑えることが出来なかったと感想を述べている。

〇五高文壇の黄金期に文学への関心を呼び起こした教師たちを掲げる。
 ▼高木市之助教授(t四~同九年)
  明治21年名古屋に生まれる。帝大卒業後五高へ文部省図書監修官、浦和高校教授
  京城帝大、九州帝大、日大教授、愛知県立女子短大学長、日本学術会議委員、上代文学会長、万葉集を中心に研究し文学論の確立に努める。
  五高在学時代には八年~九年まで雑誌部部長を努め龍南短歌会の隆盛に貢献する
 「吉野の鮎」の著書あり
 ▼沢潟久孝教授(t8年~11年 国文学教授)
  万葉集の研究家で著作に評釈万葉集がある。高木教授の後を受けて雑誌部長を務める
  30年記念号に巻頭言を書く
 ▼八並則吉教授(t9~s15年国文学教授)
 ▼藤森秀夫教授(t14~15年 ドイツ語教授)
  明治27年に長野県豊科新田生まれ松本中学、一高、東大文学部ドイツ文学科卒業、
  慶応、明治、五高、富山、四高で教え早稲田、明治でも教壇に立つ。
  五高では雑誌部長を務める。ドイツ文学者、ゲーテやハイネの権威者、民謡詩人と言われ「めえめえ子山羊」などの民謡,童謡等の作詞を手掛けている。
 ▼上田英夫教授(t10~s25)
  明治27年生まれ兵庫県出身、中学時代に前田夕暮の白日社に入り六高在学中に「水がめ」の同人になる。五高教授から熊大教授同名誉教授、歌集「早春」代表論文「万葉集訓点の研究」
  万葉皇室歌人の権威森本健吉の想い出は
  我々に万葉集を講ぜられた詩人肌の上田先生のお態度は今も私の脳裏に染み込んでいて忘れがたい・・私の現在の境遇に至る素因は五高在学中に既に存在していた。
 ▼田中辰二教授(s2~25年 国文学)
  龍南204号に「川柳を通じてみたる江戸」を発表、熊大名誉教授

〇校友会雑誌「龍南」は文学青年の発表の舞台であった
 編集委員の主なるメンバー
 大正10年度(177~180号)森本治吉ら 11年(181~184号)後藤寿夫藤村次郎, 12年度(185~188号)永松定、徳弘巌城(上林暁)ら 15年度(197~200 号)松尾勝敏、井上縫三郎(京大新聞で活躍する )昭和2年犬養孝ら

〇短文学での文学活動は短歌雑誌の「白路」であった大正8年11月高木、秋田教授を中心に龍南短歌会五高生20余名参加、名付けは高木一之助教授であった。大正9年3月に発足高木から 沢潟教授が跡を継ぎ熊本花壇の中心になり社友も九州一円に広がる ☆活躍の中心は森本治吉、藤田徳太郎、中島光風であった 
 
 森本治吉(大正12年文甲卒)明治33年熊本市生まれ在学中に「白路」の創刊に参加する
  t12東大に進学佐々木信綱、久松潜一、高木市之助助教授に学ぶ、二松学舎教授、日大、駒沢、中央、国士舘等の各大学で教壇に立つ,s27年上代文学会を創設、理事長、沢潟と「作  者類別年代順万葉集」を発行「万葉集の芸術性」「人麻呂の世界」等の万葉研究を数多くを出版した。熱血ぶりは文学だけでなく文科、理科の対抗ボートレースの応援団長、七高野球戦で  応援副団長を務めた。

  藤田徳太郎(t11文甲卒)m34,11下関生まれ、東大在学中日本歌謡を研究する。戦時下で愛国百人一首の選定にあたる。浦和高校教授、下関空襲で死去する。
  非歌人の雑誌がある。

  中島光風(t13文甲卒)m33年福岡生まれ、東大国文卒、広島高校教授、短歌会
  万葉研究会を開き戦時下の若者たちの心を支えた。s13「出で往きし教え子どもの誰彼が心にのりて朝に夕に」と詠んだ広島原爆で被爆した中島の遺歌集に収められている。八城先生の  モデルである。五高在学中の夏日称で一等賞,詩の三つの足跡で3等入選

  大正15年2月短歌雑誌「山上」が誕生する。白路の後を受けて上田英夫教授指導により森都歌壇の重鎮の役割を果たした。続いて詩の同人雑誌「翼」も創刊される。翼は山上頃に誕生し  た。藤森秀夫教授が中心となり、松尾勝敏、(候御葛稔)遠藤嘉基、頼晴男、松尾勝敏は・・改造社懸賞で当選、京大では同人誌「花泥棒」を出す。

〇創作部門の小説や戯曲
  林房雄、森本忠八、秋沢三郎、上林暁、永松定、深川経二・・上海毎日記者成都事件で虐殺される・・皆小説家を志していた。石原文雄、田代文久らが地域の文化人と一緒に創作活動を展  開した。文芸雑誌「三四郎」もt15年2月に創刊され松田武夫、宮島真一、犬養孝らが活躍し指導は田中辰二があたった。
〇創作部門で注目されたのは林房雄のほか上林暁、森本忠八、永松定らであった。
  徳弘巌城(上林暁)m35.10 高知県生まれ、芥川龍之介に傾倒する。小説家の道を目指して、t11年度の雑誌部員 東大文英文科卒、改造社に入社上林暁のペンネームで執筆活動を続け  るs7「薔薇盗人」、s13「安住家」 で注目されるs14妻繁子が精神病を発病s21年死ぬまで「聖ヨハネ病院にて」などの病妻物を書いた。脳出血で半身不随となってからも妹睦  子の献身的な介護と口述筆記で「白い屋形船」などを発表した。戦後を代表する私小説作家となった。
   
  森本忠八(森本忠)t12文甲卒 熊本市出身 濟々黌から五高 東大文英文学科をs2年卒業、作家、評論活動して中学教師をする。朝日新聞社に入社し大日本言論報告会実践局長を務  める。戦後追放、熊商大、音短大教授を努め「日本談義」などに執筆した。五高時代は濟々黌を鬼塚と二人で四年修了で9年9月の入学で12年3月までの2年半、小説家としてまた戯曲  「左義長(どんどや)の日」を龍南会雑誌182号に発表している。また小説「懐中時計」は懸賞小説一等になっている。二等は中村政雄の戯曲「天へ通じる道」が入っている。

  永松定t14文甲卒 東大文英文科卒 s5年に伊藤整、辻野久憲とともに「ユリシーズ」を初めて翻訳し出版する。阿佐ヶ谷文士の一人熊女大、福岡大教授を務める。
  同人雑誌「詩と真 実」会員

  書かざる作家として注目された秋沢三郎(t13文甲卒)がある
  M36年11月広島県呉市生まれ、父東宮侍従武官 東大文英文科卒 長野県矢代中学校教師(藤村の故郷)を3年務める孤独な寡作主義の文学活動、産経新聞文化部長

〇文芸雑誌「風車」の誕生・・東大英文科の五高生たち
  森本忠八は田辺英亮、渋田静雄、深川経二と一緒に英文科に進学して作家の道を目指した。しかし大学では卒論が間に合わず一年遅れ徳弘巌城、秋沢三郎と一緒に卒業した。
  森本らの卒業前から五高卒業で英文科の10人が文芸雑誌「風車」の発行計画をしs2年5月創刊した。創刊号の巻頭で一幕物「十字街」を出した。「風車」のメンバーの特色は
  当時関心が高かったプロレタリア文学には関心を寄せず同人誌の左翼化を目指していた「帝大同人雑誌連盟」には参加しなかった。プロレタリア作家連とは一線を画していた。

  その後風車は伊藤整らが発行していた「文芸レビュウー」と合同してt5年には「新作家」となり東大文学部の新作家は「新文芸時代」になった。これは金星堂発行所である

  五高時代に文学に情熱を燃やした生徒達のその後は時代は深刻さをまして行ったが五高時代の交友関係や教師への思慕は変わらなく続いて行くのである。

  五高は当時の文学青年にとって飛翔の時代で忘れなれない青春という「るつぼ」の置き場所だった。卒業生たちは五高文壇の黄金時代と位置付けている。


 



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1 コメント

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ありがとうございます (M)
2016-02-02 21:11:34
森本忠八の孫です。
私の知らぬ祖父の話は大変面白く、また興味深く、こちらの記事を何度も何度も読み返させていただきました。

大学卒業に人様よりも時間がかかってしまったことや、昼夜を惜しんで同人小説を執筆しているあたり、私はやはりこの祖父の孫なのだなと実感しております。

作家に憧れ、しかし終に名を馳すことのなかった祖父は、晩年は孫煩悩な老人でした。
取り上げてくださって、どうもありがとうございます。
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